第6話§明星遥斗①§



雪はそのよそおいを激しくさせたり、ゆるやかにさせたり、その都度つど、まるで気まぐれな誰かの表情みたいに変わっていく。



僕はその足でマーケットに寄り、自動ドアをくぐり、出入口先の右側にある男子トイレへと駆け込んだ。



マーケットの中はとても温かく、一気に身体中が寒気かんきから解放され、僕は男子トイレに入り、手洗い場の鏡で僕の顔を確かめた。



どうやら目立ったあざはなさそうだ。



フッと安心する。



叔母さんや暦に心配はかけたくない。



だから、気づかれてはいけない。



頭の横に手で触れると痛む。カサブタが触った感じだとあり、そこの周辺の部位が大きくれて、盛上もりあがる山を作っている。タンコブだ。




ブレザーのボタンを外し、白いシャツと肌着はだぎめくると青紫色の大きな痣が右の脇腹に浮かび上がっていて、様々な蹴られた部位もまた青紫色に点々と身体中をまるで覆っているかのように、何かの呪いのしるしみたいに色をびている。



もう軋むような痛みはないが、やはり指で押すとかなり痛い。



僕は確認を終えると身なりを整え、男子トイレから出て、マーケットの中へと入った。


薬局コーナーに陳列ちんれつされている様々な物の中から湿布しっぷを選び、レジで会計を済ませて購入した。



そして、また男子トイレへと向かい、特に痛む右の脇腹に湿布を二枚分貼る。そして、残りの湿布も身体中の痣の部位に貼り、男子トイレのゴミ箱に湿布の空になった紙箱を捨てた。



スマホをポケットから取り出し、時刻を見ると2時59分。



僕は学校の終わる時刻まで暇を持て余そうと考えた。



でも、ここら辺りには暇を持て余す場所はない。たとえ、ゲームセンターがあっても、バイトをしていない僕のお財布事情から言えば行かないだろう。




僕はマーケットの外へ出て、空を見た。



空はどうやら泣くのをやめることにしたみたいで、やや積もった雪景色を眺めて、なぜか僕の頭の中に神明神社が浮かび、心に浮かんだのは出雲詞葉という1つ年上の女子の姿。



なぜだろう。僕は急にまた詞葉と話したくなり、まだこの寒い空の下で神明神社に居てほしいと強く願った。


まだ数回しか会話をしていないのに、それなのに僕の心は詞葉の姿や仕草や声を思い浮かべ、足は心に突き動かされたみたいに、あの神社へと足取りを強くして向かった。



瞳の奥底で詞葉の姿がまるでこの寒さをしのぐ象徴の灯火みたいに明るい温もりを僕に与えてくれる。



でも、その感覚はなぜ起きるのか僕にはわからないでいた。




神社までの道中がもどかしく感じる。僅か数分足らずの道のりに何を僕は焦っているのだろう。



神明神社の鳥居が見えてくると僕の足はイキイキとして少し弾むみたいに足取りを早くさせた。



鳥居の向こうに視線を向けると、半ばガッカリしたように鳥居に手をついて、その実態を見つめた。




詞葉はいなかった。それは当然と言えば当然だ。



あれから時間が経過している。



僕の都合で詞葉がいるわけがないのだ。



そんなに現実とは上手くいかないことを僕はよく知っているのにも関わらず、詞葉はいると勝手に思い込んだ。



なんだか、そんな自分が恥ずかしくもある。



鳥居の先の神社で年配の男性がこの寒い中にも関わらず手を合わせて祈っている。


その年配男性は瞼を閉じたまま、深く祈りを捧げているみたいに思えた。



正月ならまだしも、まだ12月でわずばかり早い。



なぜか、不可思議な光景に思えた。その光景を僕はずっと見ている。



10分は経っただろうか。



それくらい長い祈りを、いや、願いかもしれない。その年配男性は神社に捧げて、よくよく見てみると年配男性は脇に一輪いちりんの花を挟んでいて、瞼を開けたと同時に手をその一輪の花に向け、くきを労るように持ち、こちらへと向かってくる。



僕は僕の方へ向かってくる年配男性を見つめたままでいた。




年配男性は僕の前に立ち、僕の姿を見ると微笑み、「天野あまの高等学校の生徒なんだね、キミは」と懐かしそうな表情を浮かべた。



僕は「はい」と小さく返事を返し、年配男性が大切そうに持っている一輪の花を見た。



その花は紫色に咲く小さな花。見ているとはかなく、なぜかその花を見ると見るだけで、触れただけで散って、姿形を無くしてしまいそうな、そう、そんな取り返しのつかないあやうさやもろさをふくんだみたいな哀しそうな装いをしている一輪いちりん



寂しそうな一輪。




年配男性は低く落ち着いた声音で、「ちょっとそこを退いてもらえるかな。すまないね」と僕に言い、下に視線を向ける。



僕はその年配男性が言う通りに鳥居から手を離して退いた。そして、男性がその場でかがむのを見て、視線を鳥居の下に向けてやっと気づいた。



僕が手をついた鳥居の石柱せきちゅうの下に小さな透明とうめいなガラスの花瓶かびんがあり、そこにはすでに枯れ果てた一輪の花がある。


年配男性は枯れ果てた花から手に持つ、紫色のその小さな花に入れ替えた。




年配男性はそこに誰かいるみたいに囁いた。




「寒い中で待っただろ?



大丈夫。私は今も忘れていないよ。



そして、今も謝ることしか出来ない。



すまない。本当にすまない───」




僕は一連のこの白髪に染まった年老いている年配男性が何を抱えているのか、何に向けて懺悔ざんげをしているのか、気になった。



でも僕はそれを聞くことはしない。




僕が毎日を記憶と現実で苦しみを背負う中で僕と同じできっと重い記憶に目の前の年配男性は祈り、願い、その誰かに届いているみたいに懺悔をしているのだろう。


そして、この年配男性もまた忘れられない当時の記憶を何度も幾度となくループしているんだろう。



かすかに老いた背中が震えている。



それは寒いからじゃないとすぐにわかった。




男性は立ち上がると僕に向けて微笑み、無言に去って行く。



僕は男性に聞きたいことがあった。




だから───


「あのー!」と呼び止め、男性は足を止めた。



僕は聞いた。


このすぐにでも消えてしまいそうな小さく紫色のこの花の名を───




僕は「この花の名は──」と男性の背に問いかけた。




男性は振り返り、また微笑み、僕の問いかけに労るような、大切そうな、そんな声音で答えた。




紫苑しおん。紫苑の花だよ。



キミの行く先の未来に幸せがありますように──────」




そう言うと男性は振り返るのをやめて、街々の先へと姿を消した。




僕は今にも消えてしまいそうな、そんな気持ちにさせる紫苑に視線を向けて、初めて花に想いをせた。



それは過ぎ去った年配男性の一連の流れがなぜだか僕の日々の嘲笑と暴力に、過ぎ去りし記憶に蝕まれた心に何かを伝えるみたいに、そんな痛みを伴った───


大切で儚く、尊い、いずれ散って枯れ果てていく───


またたきの次の瞬間には消えてしまうような姿形のない記憶みたいな何かを思い起こさせる。



そう、今の僕に送られる何かのメッセージのように思えたからだった。




§






真白は校舎の前で徐々に勢いを強くする雪が降る中で立ち尽くした。



静かな息遣いが多少乱れてしまい、1人の生徒の苦しんでいる姿を目にしても、その手を掴み、呼び止めることも出来ない自分に、本当はその手を掴み、呼び止めることも出来た自分に、その行動が出来なかった自分自身に、教師としての力の無さを感じた。



遥斗くんの無言で過ぎ去る背中に1年A組ではイジメが行われているのではないか──と思えた。



私には何が出来るのだろう。



真白は教室で行われているであろうイジメの実態を1年A組を受け持つ教諭達に聞こうと考えた。そして、具体的な解決案を立てたいと─────



毎日、遥斗くんが何かに悩んでいたことは知っていた。




でも───




遥斗くんにどう言葉をかければいいのかわからないでいた。



最初は家庭環境の悩みだと考えていたが、今日、保健室まで聞こえる遥斗くんの苦しそうな泣き声が聞こえて、私は居ても立ってもいられずに保健室の扉を開けて、後を追いかけた。



私は遥斗くんに聞こうとした。




けど、遥斗くんは何も打ち明けてくれないまま、まるで私の声が聞こえていないみたいに歩を進めて降りゆく雪の先へと消えて行った。



私は【過ちの記憶】を遥斗くんにかさねてしまった。



遥斗くんが日々、苦しんでいたのは【家族を自殺で亡くした】からだと思い込んでいた。


けど、今日ではっきりした。




原因は教室の環境にあると───




過ちの記憶が一気によみがえり、私は一瞬、息が出来なくなり、心臓が不安と警告けいこくを知らせるみたいに早く、とても激しく高鳴り、息遣いを整えようとしても、息を吸い込むのがやっと。




雪の中で私はたった今、遥斗くんがいた場所に【あの子】を見た。




私の瞳孔どうこうは開き、目の前にいるあの子を見つめる。


過ちの記憶を私は見ているのだろうか。それとも現実にあの子は目の前にいるのだろうか。



私は歩を一歩一歩ゆっくりと進め、あの子に近づく。



私の心はがたい哀しみに包まれていて、あの子を見つめる両目は容赦のない涙のしずくほおを何度もつたい、この冷たいアスファルトにそそがれた。




あの子は私を見て、「真白先生、助けて─」と小さく囁き、あの子の目はうるみ、次第しだいあふれてゆく涙はまたたきと同時にその雫は流れ落ちる。




私はあの子のそばまで歩を進めると、手を伸ばして、その繊細せんさいな黒い髪を撫でようとした。



すると、あの子は消えていた。




その瞬間、私の胸は穴がいたみたいに途方とほうもない絶望感を味わっていた。



伸ばした手は時が止まったみたいに、あるいは過ちの記憶の中を手探てさぐりであの子を探すみたいに、私は伸ばした手を戻すことを忘れていた。



遥斗くんとあの子。



同じ過ちを私はおかしたくない。



私は今日、遥斗くんの姿を見て確かに感じた。



イジメという実態に、そして、私はそれを2度と見てみぬふりなんてしたくないと────





§



玄関扉を開けると僕はスニーカーを脱ぎ、丁寧に並べて、リビングにいる叔母さんに「ただいま」と言い、叔母さんは微笑み、僕を迎えるようにして「おかえりなさい」と明るい口調で答えてくれた。



叔母さんはテレビのモニターに夢中といった様子で僕に言う、「遥斗くん、皆既日食かいきにっしょくがクリスマスに起きるんですってね。それと年明けくらいに皆既月食かいきげっしょくが起きるみたいよ」と言い、僕は少し疲れたみたいで曖昧あいまいに「そうなんだ…」と言い、そのまま自室へと向かい、自室の扉を締めると静かに吐息をこぼして、白いベッドへと向かい、そのまま崩れて寝そべり、天井を見つめた。



制服を脱ぐのも面倒に感じて、微かな眠気に襲われ、フッと気になったことがあり、ポケットをまさぐりスマホを取り出して検索した。




紫苑の花言葉を───




検索のトップに詳しく説明欄の文章が綴られていて、紫苑のその花言葉は「」と「」と「」────





あの年配男性は遠い記憶の誰かに懺悔して、遠い記憶の何かを悔いているのだろうか。



それはあの男性にとって忘れてはいけない心に刻まれた傷跡ぎずあとなんだと思う。




僕は瞼を閉じた。スマホが力を無くした手からベッドのシーツへ流れ落ちる。



眠気が僕を包んだ時、なぜだか僕は僕の唇からは微かな囁きで「詞葉─」と呼び、次には小さな息遣いで寝息を立てて眠った。




§







記憶の断片だんぺんを夢で見る。今度の夢はなぜだろうか【ループ】していない。



7歳の僕があの木造の家にいた。冬の季節だと思う。家族で過ごす一間ひとまかどのスペースにクリスマスツリーが小さく装飾品を付けて、その装いで、クリスマスが近いのだろうと思わせた。



7歳の僕は寝転がりながらVチューバーのゲーム実況を見ている。



そのVチューバーはというチャンネル名で視聴者も多くいたし、チャンネル登録者数も69万人と多く感じる。




その当時の僕はイチゴちゃんのアバターと声とゲーム実況の流れが好きで見ていて、僕は好きな人にちょっかいを出すようなコメントを毎回、顔も見えないイチゴちゃんに送っていた。


それは幼さゆえの残酷さも含まれているコメントもあったと思う。



でも、それはイチゴちゃんのキャラクター性がスゴく好きだったから。


だから所謂いわゆるアンチコメントのような、からかうような、それでいて背伸びしてるみたいな、大人のふりをした幼稚ようちな否定的で、それでいて肯定的こうていてきなコメントも含まれていて、7歳の僕はそんなコメントをイチゴちゃんに送り続けていた。




小さな僕の初恋はアニメーションのアバターの甘く澄んだ声のイチゴちゃんだった。



だから、ちょっかいを出したくなる。




僕は7歳の僕を立ち尽くして見下ろしていた。




幸せそうな顔。初恋の決して叶うことのないアニメーションの姿形とその声に、そのゲーム実況に見とれている。




「遥斗」とキッチンから声が聞こえた。僕の母さんだ。




母さんはキッチンから湯気が立つおおかゆをおぼんにのせて、僕をすり抜けて、当時の僕に少し叱るように、「微熱でも熱は熱なんだから、スマホを見るのはやめなさい。お粥を食べたら寝るの」と当時の僕に言うが僕は返事はするものの、スマホの画面の向こうのイチゴちゃんに夢中だ。



母さんは「まったく」と吐息をつくと、そんな当時の僕を見て愛おしそうな母性的な優しい微笑みを浮かべて、「とりあえず食事をしなさい、遥斗」と嗜めて、僕はイチゴちゃんの実況を停止して、ようやく母さんの言う通りに母さんの横に座り、お粥と向き合う。



そして何気なく不満を漏らす当時の僕。



「ママ、僕、猫舌だよ」



母さんは幸せそうに顔を綻ばせて、クスッと笑うと、「じゃあ、ママがふーふーして食べさせてあげる」と言うと僕は嬉しそうに頷いた。



僕はなぜ【記憶のループから解放】されたのだろう。



ただ、確かに幸せだった記憶の断片の中にいる。でも、あの6歳の誕生日から時が進んだ記憶を夢の中で見ている。




懐かしい気持ちと戻れるなら戻りたい気持ちは変わらない。だけど、今は涙に濡れることはない。



この光景を残酷な現実から覚めるまで見ていたい。



母さんの吐く息で熱いお粥を冷まして、スプーンで当時の小さな僕の唇を大切に労るように食べさせてくれる。



涙は流れない。だけど、僕の心はまた激しく痛みを伴い、また絶え間ない悲壮感ひそうかんに、そして、取り返しのつかない喪失感そうしつかんに覆われて、また傷を広げ、膿み、黒ずんでいき、僕の表情にまた影を落とす。



「母さん……僕は…」



囁いた言葉が母さんに届くわけはないけど、僕は唇を震わせて言った。




「母さんが大好きだったよ───」




その言葉を口にするとギュッと唇を結び、目の前の光景にまた目を背けるみたいにうつむいて、僕の顔に深い陰影いんえいが形成された。






すると───「遥斗くん」と僕を呼ぶ声が聞こえてきた。



それは暦の声で、どうやら現実が僕を呼んでるみたいに思えた。




§





瞼をゆっくり開けると目の前に心配そうな顔をした暦が必死に僕を呼びかける姿が瞳に映る。





暦は僕が目を覚ますと「良かった…」と泣きそうな声音を漏らす。




僕は呆然ぼうぜんとしていた。暦が僕を心配する理由が見つからない。



すると、暦は僕の髪を撫でて、「遥斗くん、いつも夕食の時は制服を脱いで普段着で元気な姿を見せてくれる。



だけど、今日は私が帰って来ても夕食の時間に現れなくて。


私、不安になっちゃって…だから扉をノックしたの。



ずっと……



でも、反応がなくてさ、私、遥斗くんには悪いけど中に入らせてもらったの。


そしたら遥斗くん、胸をおさえて苦しそうにうなされてたから心配で…すごく心配で……


だから私遥斗くんを助けたくて起こそうとしたの。


でもなかなか目を覚まさなくて。



だから……目を覚ましてくれて良かった…本当に良かった…」




暦は僕の親戚だ。だから、本当の姉ではない。けど、こんな僕の些細ささい異変いへんに気づいて心配してくれている。



僕はあれから一時ひとときの休息のつもりがどうやら長い時間、眠りについてうなされていたようだった。



窓の向こうの景色は墨を落としたように暗くなり、暦が不安になるくらい、心配するくらいに眠りについていたのだろう。




叔母さんは今頃、自身が経営するスナックのママさんをして働いている時間帯だ。




だからいつも暦と2人で夕食をする。



だからいつも通りに現れない僕に暦は不安をつのらせた。




目の前の暦はずっと僕の頭を撫でてくれていた。



そして、あの縞模様しまもようの黒と灰色のスーツから寝間着ねまぎへと着替え直している。




暦はえて何も聞かずにいるのだと思う。暦が優しげな眼差しを向けて、まるで僕を安心させるように、そんな手つきで頭を傷つけないように、壊れないように撫でていた。



暦は僕の頭の横にあるタンコブに気づいているみたいで、そこだけを避けてその繊細な白い手で撫でている。




「遥斗くんが落ち着いたら、夕食を食べよう」



その言葉は僕に小さな安心感を与えてくれた。



多分、暦は僕が打ち明けてくれるのを待っているのだと、そう感じさせてくれた。



下手な言葉は心の痛みをさらに与えることをきっと、暦は知っているのだろう。



今はそんな暦の気遣いと、その手の温もりに、泣き出しそうな気持ちの中で、暦に心から「ありがとう」の言葉を囁いた。









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