⑫ 旧大聖廟と宴
「やっと。・・・やっと、ハユに会えるんだ。」
そこに期待しかしていない青年の明るい表情に風読みはバツの悪さを感じずにはいられなかった。
「それでも相手は軍事施設です。心して掛かりましょう。」
住宅街が終わり、背の高い木々に区切られて続く小高い丘の上にそれはそびえていた。
飾り気のない漆喰で塗り固められた建物を手奥に控え、重厚な門扉は来訪者を値踏みするように見下ろしている。
「ん、あれ? あの紋章どこかで・・・」
両開きの門扉には、八つの菱を花びらのように並べた黒いマークが掲げられていた。
「あれは『スケイデュ遊団』の旗印です。兵団の正規兵との区別に用いられているとか。中心の菱を足して[
そうしてこちらへ向かってくる姿が見えたのだろう、そこでもカーチモネ邸の時と同じように礼節をわきまえながらも毅然とした態度で門衛が風読みとキペに呼びかけてくる。
「おお、風読み様がいらっしゃるとは縁起の良い。何かご用件でも?」
受付も兼ねているためか兵は四人もいた。
この分だと中に入っても幾人もの兵を相手にしなければならなそうだ。
「ええ。尋ねたいことがありましてね。できれば上官の方に直接取り継いでいただきたいのですが。」
一足飛びに無理を言う。自分の存在意義を試すように。
「え、いや、はは。風読み様もご冗談が過ぎる。・・・・・・本気で、らっしゃるのですか?」
普段と違って全く笑わない風読み。
厳粛な面持ちになると神官としての威厳がみなぎってくるのはさすがと言うしかない。
「私は風。やましい事がないのなら拒む理由もまたないはず。」
軍事施設に秘密は付きものなのだがそんなことは意に介さぬまま迫り寄る。
誰かが法で定めたわけではないものの、やはり多くのヒトたちに教え伝えられた慣習には勝てないようで他の三人も言葉を続けられずにいた。
「あの。ヘンな事とか、秘密が知りたくて来たんじゃないんです。僕の弟のことが聞きたいだけなんです。」
とそんな威圧的な態度の風読みの横からひょこっと脇役が助け舟。なあーんだそんなことならどーぞどーぞ、というのが二人の描いた青写真だ。
「軍事機密の危機」から一転、「ヒト探し」へとハードルを下げれば「兵の個別情報の開示」もそんな名目を持たなくなる。駆け引きの基本は商売の値段交渉に通じているのかもしれない。
「あ、あは、そうでしたかぁ。あっはっは、いや、はは。そうでしたかあ。
では担当の者を呼びに遣りますので。」
といっても最後は権力なのかもしれない。何かの権限があろうとなかろうと、ヒトが仰ぎ見る存在ならば右に倣って頭を垂れるのが普通なのだ。
「・・・なるほど。道端で待て、と?」
もう名簿を持ってくる、と言ってるのに高圧的な態度を崩さない。
演技とはいえキペはやさしい風読みを知っているぶん胸が痛んだ。
「も、申し訳ありませんが・・・・施設内は、申し訳ありませんが・・・・」
門衛たちが卑屈にならないことをキペはただ切望するだけだ。
「そうですか。あまり長く立っていると倒れるかもしれませんが、その時は―――」
「急がせますっ! 申し訳ありません急がせますっ!」
そんな漫談のようなやりとりをしていると間もなく大急ぎで用意したのだろう情報を管理する兵が門扉脇の戸から走り寄り、息を整えながら風読みに頭を下げた。
なんだか下人をこき使っているようでハユに会えるという高揚感も薄れてしまう。
「えっと、さっそくですがお名前と所属は?」
教皇直轄の独立組織が『スケイデュ遊団』となるのだが、統府指揮下にある陸上兵団の傘下にある、という建前で存在している。「教皇お抱えの秘密兵隊を勝手に組織した」などといった批判を避けるためだろう。
そのため管轄が異なりはするものの、「教皇の手飼い」を払拭するため同師団下で同規模の旅団とも必要最低限の連携や情報交換はなされていた。度の越えた高位の者の命令であれば厳重に保管されている陸上兵団すべての名簿も検索できないわけではないようだ。
「名はハユといいます。えと、所属は・・・『スケイデュ遊団』、だと思います。」
ただ、そんな大掛かりな機密に興味はないので名前を告げると兵は必死になって探してくれる。
とはいえ他の兵も風読みたちもさすがに帳簿を覗くわけにはいかないため、簡単な作業だろうと思ってやってきたその一人に全てがのしかかる結果になってしまう。
「あ、あの、『スケイデュ遊団』の所属でいいんですよね?
・・・どうやらその、連隊以下の者も探してみたのですが、その、見当りませんでした。」
見当って欲しかったのはキペもだがその兵も同じだった。汗がぼたぼたと地面に落ちて辺りを黒く染めている。
「それでは困りますね。やはり上の者をよこしていただかないと。」
確かに「はいそうですか」で引き下がれはしない。たとえ新団員名簿の更新遅滞や手違いがあったとしても連れ戻すためだけにここまで来たのだから。
「しかし、その・・・内密にお願いしますね。その、幹部の多くがいま出払っているのです。残った者は雑務もあって手が離せませんし、団長もある襲撃された村へ向かわれてしまって・・・
残念ながら権限を持ち裁量する立場の者がいつ戻るか知らされてないもので。後日またご足労願えれば速やかに対応いたします。」
今日のこの日に全てが片付く、そう思っていた心は今にも崩れそうだった。
それをなんとか「幾日先になるかわからない約束」だけで繋ぎ止めているようなものだ。
今度はきっと責任者にハユのことを尋ねられる、今のキペにはそうなだめるしかなかった。苦しいところではあるが、途絶えたわけではないのだから。
「そ、そう、ですか。・・・あの、きっと、きっと、偉い方に会わせてくださいね。あの、時間は取らせませんから。・・・あの、あの・・・きっと、です、よ。」
まるで口を伝うたびに希望までがこぼれてしまうようにガクンと力が抜けると、もうハユに会えなくなるんじゃないか、何か事件に巻き込まれたんじゃないかと悪い方向に頭がいってしまう。
『スケイデュ』の中だったらまだ危険は少ないかもしれない。
しかしそうじゃなかったら、根本的なところで間違っていたら、もう手掛かりが無くなってしまうから。
「あの、どうか、・・・どうか、お願いします。」
何かの形で村へ戻ったのならその方がありがたい。
しかし今のキペにそれを想像する気力は残っていなかった。
「それでは頼みましたよ。いいですね? では、失礼します。」
へたれこむキペの背に手を載せ、風読みは歩くよう促す。
そんなうなだれるキペを見たからか、兵たちも顔を見合わせてその背中を見送った。
「・・・キペ、大丈夫です。しっかりなさい。お兄さんなのですから。」
風読みの慰めに、もう何度救われただろう。
「・・・は、い。」
輝く展望に目を見開けはしなかったが聖都までの道を進ませる支えにはなっていたのだ。
そのあたたかさに、胸は熱く鼓動を打った。
そうして夕間暮れも近づく頃合となり、寂しくなる光景と対照的に都の賑やかな活気にふれると幾分、楽になった。
「キペ、いっぺんに色々な事が頭をいっぱいにしてしまうことは誰にだって起こります。
そんな時にはこうして歩くのが一番だと、私は思うのです。」
都のほぼ中央に位置する旧大聖廟公園前まで、あとちょっとの所まで二人は来ていた。
「見慣れた空、感じ慣れた疲れ、覚え慣れた空腹や喉の渇き、そして歩の拍子。体が心が懐かしみ安堵する自分の時間をきっと思い出すことでしょう。
それに歩くたび景色や匂いも変わります。
そちらへ目が鼻が頭がいってしまうのは、なにもあなたが浮気な性分だからではありません。全ては、いつもの自分へ続く道の布石として現れるのです。
キペ、今は耳目を研ぎ澄ますのではなく、戻りなさい。いつもの朗らかなあなたに。」
比喩は苦手ながらも云わんとしたことはわかった。
「風読みさまは、では、いつも歩いてらっしゃるから落ち着いているのでしょうか。僕はすぐにごちゃごちゃになってしまって、風読みさまやアヒオさんのように冷静になれないことが多いように感じます。
・・・あの、風読みさま。明日もう一度だけ付き合ってください。
それでハユに会えなければ僕は、《六星巡り》に同行させていただきます。」
キペのワガママにずっと付き合い、手を幾たびも差し伸べてくれた風読みが急かすことはなかったが、急いでいるのが本音だろう。キペを焦らせないよう落ち着き払っていながらも共に来てくれるかだって心配だっただろう。
そんな「落ち着かない」ということが今、自分に降りかかってようやく解った。それが決意のひとつで晴れてゆくことも。
「村に戻っていた場合を勘案して教会へは手を配ってはおきます。ただしばらくは会えなくなるでしょう。・・・その言葉、ありがたく受け取らせてもらいますよキペ。」
風読みがそう喜んでくれたことが、その決意の対価だった。
「はい。ハユは、・・・ハユは僕より心が強いんです。どこかできっと、しっかりやっているはずです。・・・今は、そう信じられる気がするんです。」
気がつけば、そこには立ち並ぶ生垣と美しいレリーフに飾られた乳白色の旧大聖廟を讃えた長閑な公園がある。
博物館のように貴重品が並んでいるでもない旧大聖廟は、今やお祭りとなった〈神霊祭〉の最後の儀式で神像が祀られるだけの建物となっていた。
内部地下にあるといわれる祭壇の間は立ち入り禁止になっているものの、遺跡調査が遥か昔に済んで以降はあまり畏まらずに入れる施設になっている。
ただ十円前にあたる前回の〈神霊祭〉のあとボヤ騒ぎがあったためしばらく封鎖していた時期があったのだが、今は柵も守衛もないそこは開かれた公園の一部として大切に守られながら、しかしあまり興味も持たれずに佇むだけだった。
そこへ。
「しっかし目立つなー、風読みサンは。」
びくっ、となって振り返ると目を血走らせた悪魔がいた。
「どおっつ。ちょ、びっくりさせないでくださいよアヒオさん。ナニ殺しが現れたのかと思うじゃないですか。」
それに、ふ、と口角を上げて歩き出す。店はどうやら決めていたようだ。
「・・・ふふ。。今夜のアヒオに付き合えるのはあなただけのようですね、キペ。」
アヒオのすこし鼻に掛かった声の意味が風読みには理解できていたのだろう。
元来、感情で涙を流す身体機能を発達させ適応できたのはホニウのほんの限られた部族だけだったという。しかし《緋の木伝説》以降、気の遠くなる歳月をかけヒトの多くがその表現手段を手に入れていったのだ。
ある部族では排出する塩分の濃度が高すぎて多く流すと眼球や網膜、粘膜に支障が出て機能が正常に働くまで時間を要する、などといった弊害を伴いながらも、器質上の構造から発達させられなかったユクジモ人やシム人のように涙を手放すことはなかった。
己にとって相手にとって大切なそれを、誰ひとりとして疎んではいなかったのだ。
「はい。でも風読みさまもいなければ僕らはきっと泣き明かすだけになってしまいます。
ふふ。さ、行きましょう。」
自分の前を微笑みながら歩いて導くまだ若いヌイの男に、その成長していくやわらかな心に、風読みは素直な畏敬を覚える。
有史以来、なんぴとたりともその全容に触れたことさえない「心」というものに、それを持つ「ヒト」というものに、世界を司る自然と等しく畏怖してしまう。
がぎょ。
それから三人はヘンな音のするドア代わりの衝立を押して、カウンター近くの丸テーブルに腰を下ろした。荒ぶれ者たちばかりが集う陰気な酒場ではなく、音楽こそなかったが町の働き手が仕事終わりに憂さを晴らせるような活気のある店だ。
「お。ねえさんよー、ササを三つ頼むよ。強えーの弱えーの各々で計六つにすっか。」
マク族のお姉さんを呼び止めるアヒオが慣れた調子で注文する。
本当はお腹がぺたんこになっているキペだったが、それでもアヒオにペースを合わせてあげたいので我慢することにした。空腹へのアルコール注入がどれほど危険なことか、たしなみもしたことのないキペには知る由もない。
「おや、私もやはりお供させられるようですねえ。ふふ、今夜は存分にやることにしましょう。アヒオの財布にはここで充分飲み明かせるほど路銀がありますからね。」
風読みが善人なのか、いよいよキペにはわからなくなる。
「そうだな。・・・あ、ども。ねえさんキレイだねー、っと。じゃ、ほら、キペも持て。」
すこしハジけたいのか、ガラにもなくお世辞を添えてアヒオが音頭を取る。
ただ、強い原酒の小さい洋杯と発砲する醸造酒の大きい洋杯二つを右手に左手に持ち上げているものだからひたすらに恰好悪かった。
それが愉快に映ったのだろう、物珍しげにこちらを見遣る客も当事者三人も、恥ずかしさや下らなさに顔がほどけて噴き出してしまう。
「ぷふっ、じゃ、もう飲むかっ! それ、かんぱーいっ!」
そして、かっしゃーん、と洋杯を鳴らす。
まだ弟の安否のわからない世間知らずと、過去を語ろうとしない物知りな親ばか候補と、辛苦の果てに慶びを燈す風となった神官がひとつの区切りに音を重ねる。
未来を見る者、まだ過去を望む者はあれど、両者共に今は一時の安息を求めていた。
「ぷはーっ、うまいなぁ、やっぱ。どうだキペ? 初めてじゃないだろうが。」
カーチモネ邸でも出ていたが飲まなかった。子ども時分にまずいと感じて以降口にしたことはなかったからか、幸か不幸かうまいと感じてしまう自分に成長を見てしまう。
「はーっ。おいしいです。・・・弱ったな、あんまり飲むものじゃないって村のみんなも言ってたんですけどね。はぁ、おいしいものなんですね、ササって。」
アルコールの突き抜ける感じが特におもしろかったらしく、飲み込んではそれを確かめていた。言うまでもなく強いの弱いのすでに空っぽだ。
「キペ・・・あなた意外にイケる口なのですね。とはいえガブ飲みもなんですから何かお腹に入れ・・・」
お腹に入れて欲しかったのは固形物だったがキペは迷うことなくアヒオのササにも手を伸ばしている。風読みとアヒオは、キペにキラリと光る真正ササ飲みの原石を見てとったとか。
「――――じゃ、ねえさん頼むよっと。」
そうしてひと通りつまめるものを頼みテーブルに舞い戻ってきたおかわりのササが佇むと、そこに「オトナ」と呼ばれる者たちだけの世界があることに気付いてしまう。
気兼ねなくササも飲めて、卑猥な話だってできる。
だのに、だから、アヒオは気付いてしまう。
いくつもの季節、その気配を、そのぬくもりをずっと感じ続けてきた小さな温度がないことに、騒がしい店のまん真ん中で。
「ふう。言いたくなきゃそれでいい。・・・キペ、ココに来るはずの弟さんはどうなった?」
そう。友達ではないのだ。
それぞれの目的のために重なった道を歩いた「仲間」なのだから水臭い気配りなどすべきではない。そう思うと、他人事のように少し距離を置いて自分の事が話せそうだった。
「弟は、えっと、ハユって言うんですけど、わかりませんでした。
少なくとも登録者名簿にはないみたいだったし、見かけた様子もなかったので・・・管轄する責任者のかたも出払っていたから八方塞がりですね。
諦めたわけじゃないけど、ここにいない可能性だってあるわけですから。だから明日、確認にもう一度だけ訪ねたら風読みさまについていこうと思っています。
村にハユが戻っていればそれでいいし、僕ひとり戻っても大した仕事はまだできないし。・・・ごきゅ。・・・ぷふあー、ほんと、ササ、おいしいですね。」
惨めな青年を憐れむようにではなく、おろおろしていた青年の背筋を伸ばした姿にアヒオさえも目を細める。
「アヒオ、ここまでこうして早く来られたのもあなたたちのおかげですが、それ以上のことを私もキペも得られたと思っています。ありがとうございますね、アヒオ。さ、どうぞ。」
そう言って頼んでおいた陶瓶のササをアヒオに注ぐ。
のどかだなぁとは思うものの、風読みたちのように決してキレイではない路銀を使えそうもないキペだった。
「はは、こりゃどうも。・・・なぁキペ、そんじゃ前に言った「弟さん探してやる」ってヤツ、忘れてもらっていいか? いや、色々これからどっか行ったりするだろうから、そん時にはちゃんと情報は収集するつもりだけどよ。
はは、おれ、『フロラ』の使いっぱになることにしたんだ。元々ちっとばかり縁があってな。大きな声じゃ言えないが。・・・・・とりあえず、それが条件だった。
別れてきたよ。・・・あの子と。」
口だけが上ずるように笑っていた。自嘲だったのかもしれない。
それでも、キペにはつらかった。
アヒオがそんな呼び方をするなんて一度も無かったから。口癖のように、寝言ですら囁いていた名前を遠ざけたことが、それを笑おうとする横顔が、つらかった。
「それがヒトを強くする、などといった説教は今宵はしまっておきましょうか。ふふ、あなたがたが飲まないのなら私が頂いてしまいましょうかね。ふふふ、ご存じないでしょうが、私けっこう酒豪ですから。」
重たい陶瓶を両手で持ち上げようとする風読みに、そういう気配りに応えようとキペもアヒオも手を伸ばして手伝って注いであげた。大きい洋杯の縁のところまで。
がぎょ。
「今日はみんなずいぶん早くに帰るみたいですね。聖都のヒトは夜更かししないのかな。」
宵の口に入った時は満たされていた席も数刻としないうちに四半分が空けられていた。
「なっはっは、そりゃ〈神霊祭〉の準備だもんさ。あんたたち観光だったら的外れだったねー。まだ時期はしばらく先だから、街の店もちょっとゴミゴミしてるもの。
さてと。はい、オマケ。おにーさんも笑ったらカワイイ顔してんのにねー。」
小皿を持ってきてくれた先の店員にからかわれる。数日を共にしてきて、初めてアヒオの照れ笑いを見る。
「へえー、アヒオさんカワイイんですって。よかったですね、甘そうな・・・」
煎ったクルミをカラメルミルクで包んだ、それは子どもに人気のあるお菓子だった。
「・・・ふふ。ああ。まだまだカワイイひよっこ、ってこったろ。こ、こんなもん、食ったことないからな、はは。アテになるかなぁ、ササのよ。」
まだ傍らにいたのならすべて分け与えてしまいたい甘いお菓子を前にして、今夜だけでも忘れろと言うのは酷だった。
キペと違うのは、別れがもう、決まってしまったことだったから。
それでも時間をかけ知恵を絞り辿り着いた最良の答えだったはずだ。だからこそ、それをアヒオが自分の手で覆すわけにはいかなかった。そうしたい衝動をぎゅっと抑えなければならなかった。
「はは。辛気臭い顔すんなよキペ。風読みサンも、飲もうぜ。・・・いいんだよ。これでよ。・・・・
ああ。いーんだ。
はっはっは、せーせーした。これであのねえさんも口説きたい放題よ! けけけ。ま、今日はキペも風読みサンもいるから見逃してやるけどなっ! あっはっはっは。」
無理な笑いに、でも、無理なくついていけそうだった。リドミコと別れたのはキペも同じだったから。
「ね、じゃ、仕切り直しましょ。えっと、じゃ、みんな持って。あ、風読みさまも。」
ときどき敬意を軽んじるキペ。風読みは小さなことに拘泥しないので言われたとおりにする。老いては子に従え、ということだろうか。
「僕が言うのもなんだけどっ! アヒオさんとかとみんなの願いを込めてっ! リドミコにっ!」
ぱっきゃーん、と本日二回目の乾杯。
振り切れないくせに振り切ったようアヒオは笑って、それに合わせてキペも笑う。
二人の空気が和らぐのを感じながら、風読みも笑って洋杯を傾ける。
「はっはっは、そうだ。これでいーんだ! ・・いいよな、キペ。
さ、この甘い菓子食ってみよーぜ。三つあるから丁度いい。」
ほら、と小皿を手渡してそれぞれにまた新たなササを注いだ。
一組、また一組と帰る客に倣って店はトーンを落としたが、アルコールのせいにして浮かれていたかった。
だから。
がぎょ。
だけど。
「へ?」
木切れのような衝立が鳴り
「おや?」
ふわふわと葉を広げたような髪が入り口に覗いたときには
「・・・っ!」
ハチウの男は風になって
小さなその胸を目指して飛び込んでいた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・くっ!」
細切れになったその一瞬の中に、飛び散る料理やこぼれるササ、跳ね上がる椅子と倒されるテーブルが、光と温度を宿した美しい風の道となって拓かれていく。
「・・・リ、」
突き飛ばされたキペにも見えた、その入り口で息を切らせて誰かを探す少女へと一直線に風になる男は飛んでゆく。
「・・・・・・リ、」
なんの迷いもなく、なんの隔たりもなく、なんの障害もない道が、ハチウの男とその少女を結んでいた。
「・・・・リドっ!」
翻るマントにその小さな姿が隠されても、キペにも風読みにも、それが誰かは明白だった。
「リド。・・・リド。」
強く抱きしめ過ぎないようにしたかったが、止まらなかった。
震えも、想いも、喜びも幸せも何もかもすべてが。
それは、ただ、すべてだった。
「・・・リドっ!」
アヒオの心のすべてだった。
「おぉ、いてて、うふぅ・・・あ、・・・ふふふ。」
今しがたできた瓦礫の山からキペが見遣ると、そこには大きな細い背中に抱かれたリドミコがいた。
困ったように、でも、うれしそうに楽しそうに、アヒオの濡れた頬を拭っていた。
とても、とても、うれしそうに。
そして思い出したようにくしゃくしゃっと肩提げ袋から紙と炭練り棒を取り出すと、不思議そうに力を緩めるアヒオに書いて見せた。
名前に使われる人種共通の上代文字で、
それは大きく力強く、
書かれていた。
「
伺うように、
お願いするように、
アヒオの顔へとその瞑られた目を向ける。顔を向ける。
「・・・っく!」
読み終えたアヒオは指先まで震わせ、そのふわふわの髪を撫でて、そして、抱きしめる。
またどうしようもなくて、ただ、ただ抱きしめる。
どうしたらいいかわからなくて、押さえ切れなくて、ただ、ただリドミコを抱きしめる。
強く、強く。
確かに。
「リドっ! もう置いてったりしないからなっ!
・・・すまな・・く、・・リド、ずっと一緒だから。
・・・・ごめんな、リド。」
悲しかったはずのリドミコはうれしそうに、幸せそうに髪を揺らしてアヒオの腕の中にいっそう深くもぐり込む。
そうしてあたたかい布団に包まれるように、それが当たり前の幸せであるように、アヒオの顔をペタペタとさわっては頭を撫でた。
確かめるように。
離れてしまわないように。
そうされるアヒオはといえばクスっと笑ってみるものの、上手に笑えないまま顔をくしゃくしゃにしてリドミコの背中に手を回す。うれしくて。ただうれしくて。
だからだろう、巻き上げられた料理にまみれた老夫婦からひっくり返された客まで、そのすべてを理解した。
離れてはいけない存在があるということに。
事情を何ひとつ飲み込めない中にあってなお、ただ一つの確信がそこにはあった。
にっこりと微笑むユクジモの少女を抱きしめた、冷血漢のムシマの涙がすべての答えだったから。
「お、アシナ――――」
「仕切り直しだあっ!」
誰かが呼び止めたような気もしただがそれにはまったく目もくれず再びリドミコを手に入れたアヒオは無敵の咆哮を高くない天井に吠え上げる。
そして雄叫びを上げたついでにリドミコも持ち上げる。もはや肩車は恒例だが場にそぐわぬドラマが展開されたからだろう、なぜかその場にいたお客さんすべてが満場一致で拍手と賛辞を送り始める。無駄な結束力がいかんなく発揮される。
「というわけで飲み直しだあっ! いいかキぺ、風読みサンっ! そしてリドっ! おまえも飲――――」
「子どもはダメです。」
騒ぎを聞きつけた店主の適切な注意により沸き立つ一同は瞬く間に撃沈されて目が醒めてしゅーんとなる。無駄な結束力が即座に崩壊する。
「よかった。・・・よかったぁ。ふふ、よかったね、リドミコ。」
それすらも楽しんでいるのは今やスポットライトの二人だけとなっていたが、キペはそれでもうれしかった。
「ばかやろうっ! よかったのはリドだけじゃないぞキペぇっ! このおれもだぁぁぁぁっ!」
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