⑪ アシナシとヒナミ





 その異様な光景は遠くからでも最悪を予見させた。


 岩肌に樹冠に真っ赤な炎が立ち上り、黒煙をたなびかせながら周りの畑も森も呑み込んでいく。

 それが今、目の前で起こっているのだ。


「遅かったか。」


 ひときわ大きなヒトデ馬にまたがり少年を乗せた大男が声を漏らす。


「こ・・・こ、・・・兄、兄ちゃんがぁっ! 兄ちゃんがいるんだっ! 早く、早く行かなきゃっ!」


 憂うように高台から見下ろす遊団長へ呼びかけるも、それに応じる気配はなかった。

 だから。


「待てハユっ! 行ってどうするっ!」


 救出に向かおうとしない馬から下りて村へと走り出すハユを呼び止める。

 その少年を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。

 そう、厳令が下りていたから。


「助るんだっ! そのために『スケイデュ』に入るって言ったじゃないかっ!」


 半ば八つ当たりのように言い放つハユは森を抜ける近道へと駆け出した。

 遊団兵もその後を追おうとするも細道になっていてサンゴ馬では通れそうもない。


「ちいっ。お前たちは先に向かい手筈を整えよっ! 先遣隊に手抜かりがあるとは思えんが念を押せっ! 俺はハユを追うっ!」


 重装備にも拘わらず遊団長は俊敏な動きで馬を下りるとすぐさまハユの後を追いかける。その姿が木々に隠れる前に兵たちは村へと馬を走らせた。


「ハユーっ! 俺も行くっ! 村はまだ危険だっ!」


 遊団基地から共に馬を駆らせたのも情を買ったのだろう、ハユは少し立ち止まって遊団長を振り返り、ついてきているのを確認すると誘導するようにまた走り出した。


「こんな・・・ことをするために・・・・俺は・・くそっ!」


 燃え盛る村まで走り続けるうちにハユへ追い付き、二人は同時にその森を抜けた。

 そこには


「に、・・・」


 ゴゴゴと何かが崩れる音が響き、明るすぎる夜の赤い村に、黒く焼け焦げた影が幾つも投げ出されている。


「に・・・」


 先遣隊が火に包まれた家からぐったりした女を抱えて飛び出してくる。


「兄ちゃ・・」


 点々とあるだけの井戸では煤にまみれた遊団兵が水桶をリレーして消火に努めている。


「・・・なんで・・・」


 聞こえる声は、野太い兵たちの怒声とも檄ともとれぬ雄叫びだけだった。


「ハユ。・・・もう少し早く情報が入っていれば・・・」


 立ちんぼうのハユに、もはや倒れる気力もない。


「団長、例の[打鉄]屋の周辺にはそれらしい年恰好の男はありませんでした。それと・・・」


 遊団長が直接キペの捜索を命じたのだろう。

 希望が持てないやりとりに耳を傾けるハユが兵を見遣ると、傍にはユクジモ人が引き摺られている。


「これは・・・どういうことだ?」


 そこにはただならぬ武装で息絶えたユクジモ人があった。


「・・・くっ!」


 ハユの鼓動が、激しさを増していく。


「ハっ。少数の確認ですが、このような者たちを見かけたため先遣隊が捕まえようとして抵抗に遭い、小競り合いになったと――――」


 暴れるユクジモ人。

 それはハユに数日前の惨劇を思い出させた。

 キペが家に戻ったあと、やはり一人で逃げるわけにもいかずに引き返した時のことだ。


 大きな破壊音と叫び声の混ざる通りに村の者や遊団兵がいた。そんな中、巨人が逃げ出すところを偶然目にしたのだが兵たちが村の者の安全を確保するため下がらせたその時に、ハユは確かに見た。


 がしゃんがしゃんと鉄巨人が動く中で手傷を負った老ユクジモ人が遅れを取り、それを遊団兵たちが囲んで捕縛する場面を。

 ただ、それ以降は目にしていなかったが。


「団長さん・・・・これは・・・これはユクジモのヤツらが、やったことなのかな。

 ・・・・・・おれ、・・・おれ、強くなる。

 ・・・・もう、守るものはなくなったけど、もう・・・失うものはないから。」


 静かに、ハユは遊団長を見上げてそう誓う。

 守りたい、では足りないのだ。

 倒したい、でなければ。

 悪に怯まぬ正義を貫くその信念の前では、生ぬるい覚悟などむしろ枷だった。


「そうか。・・・ならばヌイの誇りに誓え、ハユ。その忠誠を。

 ・・・俺たちが必ず、仇を討つ。」  


 なお火の手を緩めない村の終焉の音の中、少年が開いた手の甲を地に着け跪く火影はいつまでも照らし出されていた。


 ただじっと大きな男の前にひれ伏すシルエットは、ちらちらと揺れながらいつまでもいつまでも地面に焼き付けられていた。





「シクロロン様、やはりなんらかの手は打たねばならぬでしょうな。」


 アゲパン大陸の南に位置する聖都から西に離れた医法院の地下通路に、神妙な面持ちの老ギヨ人の声が響く。

 しかし尋ねられた少女が返すより早く反対側を歩くホニウの男がそれに応えた。


「情報を受けて今、デイ区長の情報部が詮索と収集に動いていますよ。

 とはいえずいぶん前にもやらかした『フロラ』ですからねぇ、不穏な動きには小さからぬ目的があると考える方が順当でしょうねぇ。

 我らが勇者殿、ここはひとつ戦力を二分したらいかがでしょう?」


 そう言って真ん中を行くシム人の少女に意見を仰ぐ。

 可愛らしい耳とは裏腹に目元が黒く色素沈着しているのはその男がダンパ族であるからだ。


「・・・うん。そう、した方がいいかな。」


 今日だけで何度、打診された提案に頷いたのだろう。

 そんなことを毎回毎回考えるのにももう飽きてしまいそうだった。


「ふ。では決まりですねぇ。メトマ総監、急ぎ策案班の各駐留部員に告げてください。数名の伝令員・情報員を残し、情報部・諜報部・暗足部を聖都オウキィと浮島シオンへ向わせ配分するんです。

 ボクたちは引き続き勇者殿の護衛を続けますが次第によっては前線へと士気昂揚のために赴くこともあるでしょう。

 ・・・ふふ。やっと連中が尻尾を出したんですからねぇ。この時を選んで動き出した『フロラ』を叩いておけばもうトカゲの尻尾切りとはいかないでしょう。くくく。」


 細く湿った通路を抜けて隠し扉を押し開けると、そこには大きな教会の庭が広がっている。そして隣接する屋敷の裏手へ歩くと、そこではイモーハ教「三神徒」の一人と呼ばれるシム人が待ち受けていた。


「久しぶり、でもないですかね。シクロロン。」


 出入りが頻繁なのは、世間の拍動が高鳴っているからだろう。


「そうですね神徒シクボ。ふふ、いつもありがとう。」


 あどけない黒目をキラキラとさせたシクロロンの礼に、リマキカ族のシクボ老はうやうやしく頭を下げて返す。教皇への反乱分子に内通する者とは思えないほど穏やかな物腰に、シクロロンは協定を結んだ時のことをふと、思い出す。



 それは四つ季をいくつか遡った頃のこと。

 反フロラ系人種、また部族間の差別や格差などの不満が生んだ『ファウナ革命戦線』は少数からなる義勇軍から始まり、先代の総長によって育てられた組織だったが、志半ばで総長はあっけなく暗殺されてしまう。

 これにより次期総長を巡り権力闘争が表面化するほど内部崩壊の危機が迫る結果となってしまったのだが、そうした混乱の中、現総監・メトマをはじめとした親・総長派により『ファウナ革命戦線』の旗印である[五つ目]を体に宿した子どもが「勇者」として総長に推されたのだ。

 勿論そんな奇跡だけで迎え入れる流れにはならなかったものの、身寄りの無い子どもたちを分け隔てなく愛し育てていた総長の、その「子どもたち」の中にいたゲアハ族のシム人だったために状況は一変した。


 その左右非対称の斑・[五つ目]の翅のシム人・「勇者シクロロン」を旗頭に据えることで、ホニウ・ハチウ・チヨー・ローセイ・ギヨの五人種を表した[五つ目]の『ファウナ革命戦線』へ注がれる目も変わっていったのだ。

 またこれによりイモーハ教「改浄主義」を奨める教皇と同じながらも距離を置く、シム人である神徒シクボが『ファウナ』との共闘路線に歩み寄りを見せる運びとなった。



 そんな因果で繋がった二人は過ごした歳月こそ決して長くなかったとはいえ、同じシム人ということもあり歳の差を越えた関係を現在も良好に保っている。


「そうだ、シクボ殿。そちらの配下の者をいくらか伝令役に使いたいのですけど、よろしいですかねぇ? 詳細に関してはこのメトマ総監と打ち合わせていただければケッコウ。急を要することゆえ迅速な手配をお願いしたいのです。」


 その二人の間に割って入るダンパの男はシクボとメトマに念を押す。

 両老翁はやれやれと息を合わせて各班の伝令員が待機する小広間へと歩いていった。


「さてと、勇者殿。たとえ内輪だけになっても威厳は保つようにしていただかなければ困りますねぇ。内部の者が求めているのは柔和な情ではなく決然とした姿勢なのです。

 アナタを妬み、失脚を望む者さえいるのはご存知のはずですよねぇ? 無論そういった不逞の輩からもアナタを守るのがボクの仕事ですが。さて、次は小広間にて各班の報告会議になり―――」


 きゅ、と足を止め、黒く大きなタレ目のシクロロンがダンパの男を見上げて口を開く。


「うん、でもねハク、ちょっと疲れてしまったみたい。一人で休ませてくれないかな。」


 こちらもやれやれ、といった表情で渋るも、まだ少女のシクロロンには移動も地下生活も状況把握も軽い荷でないことは知っていた。だからこそたまのワガママならば、と呑んでハクは屋上へ歩くシクロロンの細い背を見送ることにしてあげる。

 そうして細かなことまで知っておかなければならないハクはもう一度ため息をつくと、メトマたちの後を追うように小広間へと向かっていった。


「・・・。」


 部屋の数も充分なその屋敷にある屋上に昇れば一間ほどのテラスがある。

 狭いながらも椅子や花壇があり、なにより、そこには大きく開けた空と景色があった。


「・・・。」


 総長に就任してからずっと傍らに誰かがいたシクロロンの、そこはとっておきの場所らしい。


「・・・ふうー。・・・いい風。」


 遊びや友情、恋にかまけたい年頃だった。

 彼女に羨望の眼差しを向ける同年の者もいたが、羨ましいのはシクロロンもいっしょだ。

 しかしそんなため息の後に隣の教会からケタケタと声変わりのしない高い笑い声が聞こえてくると、やはり複雑な気分になる。

 他の者と同じように青春が味わえないことも勿論そうなのだが、今この時も人種や部族の間で争いが起こっている現実と、それを知らずに楽しむ子どもたちがいるという現実に戸惑ってしまうのだ。


 そして図らずもその指揮を、年端もゆかぬ自分が執っているということに。


「私に・・・・何ができるんだろう。」


 少女の心は翅を持ったまま、いつまでも飛び立てずにいた。





 ぎぃ、と鳴る酒場の入り口を通って厨房を通って裏通りへ入って廃墟になった小屋の戸を開けて地下室のドアを叩くと、覗き窓から目が現れ中から応じる声がした。


「誰だ。」


 おそらくココへ辿り着けた時点で客人か敵かに絞られるのだろう。ただの通りすがりですら秘密保持のためには犠牲にされそうな雰囲気だ。


「あーん、「フロラのファウナ」に会いたい。・・・こう言っときゃ会わないワケいかねーもんな?」


 緊張はなかったが、万が一を考えるとリドミコの手を握る手に力が入ってしまう。


「・・・入れ。」


 がちゃ、と開けられると風も入らないのに風除室のような区切られた狭い空間があり、そこで体じゅうをべたべたと探られる。

 必要な身体検査なのだろう。

 しかしもう一人の門番がリドミコに近づいた時はほとんど反射的に両手に構えた指投げ刃を男たちの首根に突き付けていた。


「おい。・・・・・・武器は預ける。・・・気安くリドにさわるな。」


 狭い空間をきちんと活かし二人の門番を壁に押し付ける形で自由を奪う。

 わけが分からないリドミコは不安そうにアヒオを見上げるだけだ。


「・・・わかった。通れ。」


 その引き攣った声の調子と状況から油断させるためではないだろうと判断し、アヒオはそれぞれの門番に刃を預けて室内へと足を踏み入れる。

 ちなみに指投げ刃はまだ十数本も体に巻きつけてある上、白く目立つ短刀は見向きもされていない。有無を言わせぬ環境を作った後で誠意を見せたように仕立てると意外な看過を引き出せるのかもしれない。


「悪いな。だが安心してくれ。危害を加えるつもりで来たわけじゃない。」


 そんな物音に中の地下室で休んでいたユクジモ人たちがアヒオとリドミコを交互に見て何事か言っていたものの、誰も席を立って阻もうとはしなかった。

 きっとアヒオ一人ではこうはいかなかっただろう。   


 そして。


 かちゃ。


「・・・なんの騒ぎかと思ったよ、赤沙のアシナシ。・・・あー、今は確かアヒオといったか、わたしにはどうも馴染まない名だが。」


 地下室の奥の部屋を開けてすぐ、上座で豆茶を飲むホニウ人が笑って眼鏡を直す様が目に入った。その脇に座るユクジモ人は状況が呑めていないようだ。


「こんな形でまた会うとは思ってもいなかっただろ。・・・まだ、目が良くならないんだな。・・その、望むなら、謝ってもいいと思ってる。」


 リドミコもアヒオからちゃんと説明を受けていなかったのだろう、声のする奥の男と手を握るアヒオとを利かない目で見比べるように顔を行ったり来たりさせている。


「わたしは怒ってなどいないさ。見えるようになるまで時間は掛かったが君のそういうところに惚れたのだからな。

 だからわたしに続く道を教えたのだよアシナシ。傷の舐め合いは趣味ではない。だが裏切られた者同士なんだ、気にすることはない。」


 耳を両脇につけたそのザリスル族の男は眼鏡を持ち上げ、座るよう手で示した。


「さっそくだがヒナミ、察しはつくと思うが・・・」


 椅子を引いてリドミコを座らせ、その椅子すら守るようにアヒオは後ろに立った。

 信用していないわけではないのだろう。だがどんな形で「いざ」という時が来るかはわからない。

 まだ仲間と呼べないユクジモ人組織に周りを囲われている以上、俊敏な動きは取れるようにしておきたかったようだ。


「その後いろいろ耳にはしているよ。でもまさかと思って気にも留めてなかったものの・・・

 そう。まさか君が、とね。

 ふふ、わたしの居場所を教えたのはこうなると予見したからではなかったよ。当然、君とわたしが決着をつけるものと思っていたのだから。」


 ヒナミとアヒオは対等なのか、何か貸し借りがあるのか探るように取り巻きも注視している。それでもなお、二人の因縁はまだ見えてこなかった。


「多くは訊かないでもらいたい。リドは、・・・・生き残りだ。見てのとおり目と言葉がうまく利かない上に、記憶も・・・。

 頼める立場じゃないのは承知している。だが、この子は別だ。

 おまえさんになら、おまえさんを通してなら、この子を安全に守れると思ったんだ。」


 ぽつぽつとイジけるよう呟くアヒオに大きな、大きな時の波が静かに押し寄せてくる。


 必ず胸を掻き乱されると分かっていた大浪を、すべてはリドミコのために受け入れようと決めて来たのだ。


 そう、覚悟をして来たのだ。


「意地悪で言うわけじゃないけどアシナシ、それは君の罪滅ぼしのつもりか?」


 意地悪に聞こえるのであろうそんな言葉も、アヒオの背に迫る波の轟きの前では虫の音より遥かにか細かった。


「そう受け取りたければそれでいい。おれはただ・・・この子の、リドのやさしさにぬくもりに、報いたいだけなんだ。

 おれは・・・。リドに、安心できる幸せを、・・・。

 その手助けをしてくれないかヒナミ。言えた義理じゃないのは本当に、本当に承知している。

 事が済んだのならおれの身などくれてやる。・・・おれのためにじゃなく、この小さな光のために、頼む。」


 そう言うと椅子から離れ、テーブルにぶつかりそうなほどアヒオは頭を下げる。


 震えた声は羞恥からではなく、リドミコとの別れを切り出さねばならない己の不甲斐なさから搾り出されたものだった。


「ふむ。・・・ユクジモのその娘を守れ、と。ついでに受け入れてくれる村や里親も探しておいてくれ、と、そういうことでいいのか?」


 冗談めいた皮肉を利かせながらヒナミは微笑む。

 話の主題がわかった者たちはアヒオの目的がようやく見えてすっきりした様子だ。


「ああ。そうだ。」


 会話の内容が理解できたのはしかし、

 リドミコも同じだった。


 何も言い出せず、何もすることのできない自分を置いてアヒオがどこかへ行ってしまう。


 そう知っておろおろするリドミコは隣で頭を下げているアヒオを見ようと、開かぬ目で見つめようと必死になる。


 なぜ自分が捨てられてしまうのか、あれほど自分を好きでいてくれたアヒオに何か悪いことでもしてしまったのではないのかと聞きたかった。


 問い質して、考え直して欲しかった。


 涙の流れないユクジモ人に、どうして「泣く」という大事な表情がないのだろうと自分を恨んだ。


 口が利ければどれだけアヒオのことが好きか伝えられるのに、目が利けば未だ見ぬアヒオの瞳を覗き込んで一緒にいたい旨を示すことができるのに、どうして自分にそれが出来ないのか、悔しくて悔しくて仕方なかった。


 そんな気持ちに気付いてくれないアヒオをやはりそれでも嫌いになれない心に苛まれながら、ぎゅっと拳を握りしめて祈るようにリドミコはその言葉の撤回を待った。


 強く強く、待った。


「みんな、聞いて欲しい。詳しく触れるなとこの男が言うのだから今は割愛するが、このアシナシの機動力はすばらしい。数人しかいなかったとはいえ手練の部下に守られたわたしに一泡吹かせたのだからね。

 でだ、アシナシ。どうだろう、わたしたちの下に付いてみるのは。」


 それも筋書きの一つにあったのだろう。アヒオは顔を上げて頷いた。


「ちょ、ちょっと待ってくださいヒナミさん。あんたを信頼するよう達しはあったが我々はこの男のことをまだ知らないのですぞ?」


 勝手なやりとりに苛立った初老のユクジモ人がテーブルを叩く。他の者も意見は同じようだ。


「しょうがないな。アシナシ、席を外してくれないか。君の話を聞かせれば説得できると思うんだ。」


 今はその言葉にすがるしかなかった。自分に利用価値がないとなればリドミコの後見もままならなくなってしまう立場だから。


「・・・わかった。」


 そうひとつ頷くアヒオはリドミコの手を取り、その部屋を後にした。


「・・・。」


 手を離そうとはしなかったが、明らかにリドミコは混乱し、そして怒っていた。


「・・・。」


 どんな言葉も言い訳にしかならなくて、でも、どうにかしたいアヒオも、どうしていいかわからずただ戸の前で立ち尽くした。


「・・・。」


 これでよかったのか、そんな迷いが消えるのは想像の遥か彼方のことにもかかわらず、


「・・・。」


 立ち尽くした。



 かちゃ。


「というわけで全員納得してくれたよ。君は自分の信念には忠実だからね。

 その君のたっての願いなのだからユクジモ人を介してその子の処遇はきっちりやってもらうさ。・・・それでいいな、アシナシ。」


 よくはなかったが、呑むしかなかった。すべてはリドミコの幸せのためなのだ。


「今夜は旧大聖廟前の酒場にいる。悪いが、休ませてくれ。明日からは従う。取り急ぐことがあれば今夜でも構わない。・・・・・・げ、んきでな。リド。」


 その小さな顔は見ずに、マントを翻して戸を締めた。

 歯を食いしばり、地下室で休むユクジモ人を通りすぎ、門番の守る扉を抜ける。


「・・・く。」


 廃屋の階段を上がったところで、涙が出た。


「・・・・・・く、そ。」


 涙が出て、体が震えて、やがて歩けなくなって、壁にもたれた。


「・・・リド。」


 隣にあった温もりに、その小さな柔らかい手にもう二度と会えないと思うだけで、胸が痛かった。引き裂かれそうだった。


「・・・・・・・リドっ。」


 陽が落ちて闇に包まれるまで、心を知ったハチウ人はひとり、震え続けた。

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