⑦ カーチモネとサノマト
すすす、と穏やかそうな老執官史が内政の急務課題をまとめた資料に目を通していた教皇に歩み寄ってくる。
聖都オウキィ中央にそびえる「統府議閣」の隣に建てられた聖殿三階のずっと奥、その名も聖奥室の中には彼ら二人しかいなかったのだが、教皇もそれを受け入れるよう耳を傾けた。
「未だ〔こあ〕の在り処は聞かれないようですね。猊下の命のとおりク=ア学の生体工理系、物性相関系、伝導解式系の学者ら、またその研究に従事経験のある技術者および、モクの健康管理・病理解析情報採取用の専門医法師を手配できました。」
それを聞くなり教皇は白く長く伸ばされた髪と髭をわずかに揺らせて、潰れて動かなくなった右目の代わりに左の目を細める。
「そうか。ならば急ぎ『スケイデュ』に伝えねばなるまい。
ウルア、我が理解者。その職名を持って訪ね、ク=アの先駆たちの『特任室』へモクを連れてもらえぬか。わたしが出向けば「勝手が過ぎる」と周りがまた足を鳴らすのでな。」
勝手、のうちの一つに、そのウルアという名の老友の役職もあった。
教皇と統府官房室との政策・創案の橋渡し、時には折衝も引き受け、その結果や議閣での決定事項等の進捗状況を報告するのが執官史の役回りとなる。ただ、このウルアという男に関しては各地を巡る行脚の後、イモーハ教の布教強化を謳って議員を続けた経歴があったため教皇の側近のような役職を設け就かせることにしたのだ。
一部に「身贔屓だ」と不満分子を生むハメにもなったが、種のため都のためであればこそ内密に推し進めねばならない事業もある。そして特職や特別な組織、越権的に掌握した兵団のいち遊団などはその必要悪といえるだろう。
事が成就すればやがて皆もわかってくれる、と強く教皇は信じるだけだった。
「御意に。」
そんな教皇の心配が伝播したのか、執官史も声をひそめる。
「世話を焼かせるなウルア。だが、もうじきだ。」
聖都オウキィからほぼ全土を統治する者として為さねばならない責務がある。
枚挙にいとまはないものの、広大な領土の主としての、為すべきことが。
「存じ上げております。それでは、また。」
旧い友の多くは教皇に絶対的権力がないと知るにつれて離れていった。
あからさまな態度をとる者は少なかったものの、目に見えにくい分だけ彼を疑心暗鬼にさせたのも事実。
だからこそ行脚を共にし、見識を分かち合い、ときにぶつけ合った親友はこの老いた執官史だけなのだ。
「世を整えるのだ。正しき力で。」
口癖のような理想を、執官史のいなくなった聖奥室に傷ついた老翁はひとり、呟いた。
朝を知らせに医法師が客間を開けると一行はすでに準備を終えていた。
前日のひと時の休息が効いたのだろう、リドミコも全快とまではいかないながらも体力を回復させているようだった。
「おや、おはようございます。そうそう、私たちは下流のカーチモネ卿の邸宅へ向かおうと思うのですが、船頭はどちらに?」
フラフラ、というよりフワフワしているリドミコを案じ、本人は「もう大丈夫」と笑顔で訴えるのを退けてアヒオが何が何でも行くと聞かなかったのだ。
無論、風読みにもキペにも異論はない。
「そうですか。川沿いに小屋がありますのでそこへ行っていただければ。そちらはわたしの方で手配しておきますので風読み様たちは朝食を召し上がっていてください。
それからリドミコさん、きみは薬膳料理を食べるようにね。昨夜はあまり食べなかったみたいだから今日はちゃんと食べるんだ。いいね?」
うん、と健気に頷くリドミコ。
それも朝食を目にするまでだった。
「ばばばばかやろうっ! こ、こ、こんな邪悪な色のメシなんざ食わせられるかぁーっ!」
草の苦いニオイしかしない雑炊のような、よくわからないものがリドミコの前にはある。
だのでその隣で暴れるアヒオをキペはなんとかなだめてみる。
「お、待てリドっ! は、はやまるなよ、大丈夫だ。おれが・・・なんだったらおれが食ってやるっ! 騙されるなリドっ! なんならおれがこの場にいるヤツら全員――――」
「もういいですからアヒオさんっ! せっかく医法師さんがリドミコのために作ってくれたのにあなたが食べたって仕方ないでしょう? リドミコも辛抱できるよね?」
うん、とは言わないリドミコも半べそのアヒオに元気をアピールするため覚悟を決める。
つくづく健気なのだ。リドミコは。
「だ、だ、ダメだあああっー。・・・あぁぁ、リド。まだ・・・リドはまだ、こんな、おさな・・・おれの、せいだ・・・すまな・・おれの・・・おれがもっと・・・すまな・・・」
なんつって力なくうなだれるアヒオ。
開け放たれた居間ではその迫真のドラマに朝っぱらからギャラリーが沸いている。
キペは恥ずかしくてしょうがない。
リドミコもどうしていいかわからない。
「ニオイの強いものですが食欲増進の薬草も入っていることでしょう。その椀ひとつを片す頃には、まだ足りない、なんて顔をしているかもしれませんよアヒオ?」
匙に掬ってひと口ひと口、唇をすぼめて飲み下すリドミコの反応を伺っては呻き声を上げるアヒオ。
風読みの言葉など気休めにもならない様子。
「ふふぁっ。
・・・いけたか?
・・やったのかリド?
やってやったんだなリドっ!
キペぇっ! 見てみろこれをっ! リドはやってのけたぞっ! ついに、ついにあの猛毒飯を片付けてやったってもうほんとこれ見てくれよもっとこうわかるかなこの――――」
するとそこで昂り切ったアヒオはふにゃふにゃのリドミコを高く高く掲げ上げる。
天空遥かにお住まいの神様あたりに見せつけるよう振り翳す。
戦争は終わったんだー、みたいなフキダシがよく似合うワンシーンになる。
「・・・アヒオ、埃が立ちます。座っていただきましょう。」
というわけで感極まっていたアヒオはそれからリドミコをなぜか肩車して箸を進めた。いつものやや無愛想じみた顔に戻っていたからか、風読みはその後こまかくは言わなかったそうな。
そうして食事を終え、皮袋の中の燃石が湿気てないか、干し練りはカビてないかを再度確認して川へと一行は向かう。
リドミコはといえば今はアヒオの背におんぶされながらくーくーと眠っていた。先の薬膳料理にも落眠薬が入っていたのかもしれない。
「それじゃ、お世話になりましたーっ! いってきまぁーす!」
いつまでも見送ってくれる村の酋長や医法師にキペたちは別れを告げ、そんなに離れてない小屋の戸を叩くとこれまた気の良さそうな船頭が出てきて案内してくれた。
「さ、こっちだぁ。カーチモネさんトコだったーねぇ。昨日っくれぇじゃねーけんちょもよぉ、おとついの雨さで川ぁ膨らんでっから、はー気ぃつけて乗ってぇー。」
そうしていざなわれたのが船、というより舟だったから船頭を含め五人も乗るといっぱいになってしまう。ヤアカの一団はきっと何往復もしてあの人数を集めたのだろう。
「これはどうも。ふふ、でも本当に助かりましたよ。村の方々にも重ねてお伝えください。」
それから縦に四人並んで座ると船頭が後ろでのんびりと艪を漕いで舟はゆるゆると村を後にした。
船頭の言っていたとおり、川に落ち窪んでいた岸の斜面では根元まで水に浸かっている木々が見られたので水位はいつもより上がっているのだろう。それでも流れは比較的ゆるやかだったし、たまに流れ来る流木なども上手くかわしてくれたのでこれといった問題もなく舟は川を下っていった。
「やっぱり舟だと早いですね。でもよくアヒオさんはナナバの村とか知ってましたよね?
・・・あ、聞いちゃマズいことでした?」
ふと村の方を見遣ると背の高い広葉樹にあっという間に隠されてしまったものだから、ナナバの村が長い間ヒト目につかなかったというのも頷ける。
船頭によればこの先のカーチモネ邸のその先の川には熟練した技を持たねば通過できない起伏や落差がある上、何代も続く邸宅が出来上がった頃からこの辺りの所有権を初代カーチモネ卿が勝手に主張していたために容易くヒトが往来できなくなっていたらしい。
先の学術調査隊だけがナナバに上陸できたカラクリは一重にカーチモネ卿の許可の有無だったというわけだ。
「まぁ・・・いろいろあってな。」
そうこうしているうちに増水してなお顔を出す三角州が見えてくる。
そんな川幅が一気に広がる向こう岸に現れた丘の上に白い煙が覗くと、ようやくお待ちかねの大邸宅が厳かに一同の目にも入ってきたのだった。
「おや、空気が少し変わりましたね。木々が空っぽになった部分があるようですが。」
そう言われてもなんとなくとしか答えられないものの、目の利かない風読みにも分かるほど「大規模に木々が引っこ抜かれた」ような場所へと舟は辿り着く。
「説明するまでもないけんな、アレがおたくさんらのお望みの場所だぁ。ウチらぁココと村の往復が仕事だから、しもの方さ行くんだらソコの船頭に頼んでな。」
邸宅お抱えの船頭なのか、一行を下ろすと舟は引き返していった。
「どうもお世話になりました。・・・さてリドミコ、調子はいかがです?」
舟の上ではアヒオに抱きかかえられるようにして寝ていたリドミコ。
しかし朝ほど血色が良くはなかった。
ただの船酔いならそれに越したことはない。だが言葉の出ないリドミコの場合は心配しすぎる、ということはないだろう。
「おのれ、やはりあの原色山盛りの毒メシがワナだった――――」
「もー、違いますから。・・・でも、やっぱり寄ってよかったですね。」
そうして船着場から続く上り坂を行くとなんともため息が出るような門扉がその先では待ち構えていた。邸宅を囲う壁などは城壁を思わせる高さなので下から歩いてくると屋敷の屋根さえ望めない。
「・・・あちゃー。面倒なのがいるな。おれはどうもあーゆーのは苦手だ。」
そうなるとお決まりの門衛が付きもの、というわけでなかなかしっかりと武装したチヨー人がこちらを見止めるなり慎重な調子で呼びかけてくる。
「お止まりください。お姿からかの風読み様とお見受けしますが、残念なことに我々は一度もお会いした試しがないのでこのまま通すというわけには参りません。
できるなら引き返していただきたいところですが・・・」
茶色の神々しい髪をふぁさふぁさと揺らして大柄なその門衛は畏まる。おそらく風読みが本物だと感じていながらもそうせざるを得ない職責に多少、混乱しているのだろう。
「なるほど。しかしここには医法師が設備と共に整えられていると聞きナナバの村よりやってきたのです。このユクジモの娘の具合がよくないので診ていただきたいのですが。
・・・ふぅ。弱りましたねえ。
このような幼子一人ならばあなたたちを困らせることなど起こしようがないでしょう? 貧しく困った弱き者への施しと思い、どうかせめてこの娘だけでも通していただけないでしょうか。」
坂を上った辺りからリドミコの息は荒く熱くなっていた。
案じるアヒオは跪いてリドミコの背をさすってやるばかりだ。
「あ、はあ。・・・なにかせめて、我々としてもこう、主を説得できるものがあれば・・・」
今までに風読みのフリをして悪事を働いた者は確かに存在した。
しかしそのすべてが捕まり、そして対価としてその命を払ってきた。
風読みの名を語り汚す者はそれほどの枷をつけなければならないため今では誰もそうしようと思わなくなっているのが常識なのだ。
そもそも酒池肉林が待っている、ということが巡礼の最中の風読みに待ち受けているはずがないのだから。
しかし、暗殺や邸内の情報収集が目的であれば変装そのものに意味が出てくる。
「風読み」とはすなわち「話す風」。
拒まれることが断然少ない存在であるのは確かだが、「風」を入れたくない場所を持つ大金持ちなら敬遠してはぐらかそうとするものなのかもしれない。
「仕方ありませんね。キペ、アヒオ、リドミコとむこうを向いていてください。
・・・さ、門衛のかた、私の顔の聖布を少しめくってごらんなさい。」
そして背中で声を聞くだけのキペたちに、戦慄が走る。
「はあぁぁぁーーーいっ!」
何事かと振り返るのも忘れてその雄叫びに背を向けた三人もびっくりしてしまう。
「あ・・・あ、も、申し訳ありませんでしたぁっ! どどどうぞ中へぇぇぇいぇっへいっ!」
最後の方ははしゃいでいるようにも思えたが、とにかく門衛の見守るなか晴れて邸内へ入ることが許されたらしい。
ただ、覗いてしまった門衛の一人はぐったりとそのまま残り、もう一人は主に事の顛末を伝えるためだろう、逃げるようにして邸内へと駆けていってしまっていた。
「・・・な、風読みサンよぉ・・・おまえさん、いったい何したんだ?」
リドミコをおぶりながら訝しそうにアヒオが尋ねる。
キペも訊くのはためらっていたのだが興味がないわけではない。
「・・・遥か昔、「神官になる」ということは苦行の末のその果ての出来事でした。
顔を焼かれ、手足を捥がれ、なお「誰がための教えか」と嘆くこともなく受け入れた者の納まる「場所」が、今日「読み手」と呼ばれる存在だったのです。
ふふ、今はさすがに惨すぎる、との信者たちの声からいくつか改正されましたが・・・
ええと、こんなところで堪忍していただけますか。」
ははあーっ!と信者が時々ひれ伏すその理由がキペの心に白い稲妻を落とす。
あまりにもたくさんの感情と言葉が錯綜してしまって何も言えなくなるほどに、強烈に。
「なるへそ。だから神官ってのはそーゆー模式的な「手も足も無い恰好」するのな。
ま、どうあれ礼は言わなきゃだな。ありがとう、風読みサン。」
敬意のまるで感じられないものだったが風読みはいえいえ、と笑って返す。
「・・・。」
共に歩き親近感を覚えた風読みとの距離には、その間隙には、暗く口を開けて横たわる崖の深淵があった。
他人事で片付けられないキペはただ、立ちすくむ思いでいっぱいのようだ。
するとそこへ事の次第を見ていたのか、邸内警備の男が近寄ってきて声を掛けてくる。
「あ、風読み様、こちらは屋敷になっております。むこうの正門右手に医法衆の棟がありますのでそちらへ。主へはもう伝えましたし、また棟には生活衆の者を走らせました。」
そう言って導いてくれるも「走らせた」の言葉のとおり急ぐには本気で走らねばならないほど邸内は広かった。「木々が空っぽになった」ような森の敷地、とでも言えばいいか。
「わかりました。お世話になりますね。」
そうして呆れるほど手入れの行き届いた庭をアヒオがリドミコを背負い、その後を心配そうにキペと風読みが様子を見ながら進む。じれったい距離を見守り、そして幼い少女の回復を祈りながら。
「リド、あともうちょっとだかんな。」
マノア川から上がってきた門が東にあり、いま屋敷の西側を見ながら進んでいるわけだが、そこには北の屋敷側の生活衆、南の正門側の医法衆の棟が邸宅とは別にあった。
そのうえ東側の門の隣には警護衆の棟もあるような大金持ちなのだから「近所の森を所有している」と公言したとて誰も疑わなかったことだろう。
「はぁ。やっと着きましたね。大丈夫? リドミコ?」
やがて庭園の景色を損なわない褐色に統一された医法棟へ着くと、その玄関先で待っていた若いローセイ人が心配そうにこちらへ呼びかけてくる。
「これは、風読み様。わたしはカルエ族のサノマトと申します。まだ新米ですがユクジモ人についての研究を専攻していたのが本棟ではわたしだけですので、力不足かもしれませんが尽力する所存にあります。」
新米、といってもキペやアヒオなどよりも歳を重ねているように見えるサノマト。
浮き足立った未熟さはそこに微塵も感じられず、謙虚なその姿勢はむしろ安心感を芽ばえさせてくれるほどだった。
「そうですか、カルエのサノマト。ではそのお気持ちにありがたく甘えさせていただきますね。・・・アヒオ、リドミコは任せましょう。」
そこでアヒオは背負っていたリドミコを下ろし、サノマトに預ける。
「・・・リドを、頼む。」
開いたドアから棟の中が見えると、そこは清潔感のある青白色で彩られていた。
「ええ。それでは、後ほど。」
そう言ってサノマトはリドミコを連れて中へ入っていった。
そこへ。
「おやおや、本当に訪ねておられていたのですなぁ。ふぁっふぁっふぁ。
いや失礼、ワタシはここの主、リンキ族のカーチモネ四世であります。こんな所ではなんですので、屋敷へ。」
屋敷に住む主が突然の来訪客に部族と名前まで明かす、などといった礼儀はない。
それでも様々なヒトが部族や職名、名前を名乗るのはなかなか巡り会うことのない高位の存在に対する一つの慣例だった。
そうしたカーチモネの礼に対し、「それはどうも」と微笑む風読みとが並んで歩き、その後をキペとアヒオがついてもと来たを辿る。
ただ、屋敷に入るまでカーチモネが後ろの二人を気遣わなかったのは彼のプライドによるものだったのかもしれない。
それほどにキペもアヒオも汚く、そして臭かった。
「さ、こちらでお休みいただきましょうか。ワタシとしてもやはりこのような貴重な機会を逃したくありませんからなぁ。ふぁっふぁっふぁっふぁ。」
そう促された風読みが入り、キペたちも入ろうとしたその時、不意にカーチモネはパンパン、と手を叩く。
すると、
「さささささささささささ、こちらへぇぇぇっ!」
「へ?」
「んな?」
と思う間もなくキペとアヒオに女中が数人群がり、なんとも力づくで捕まえられるとそのまま裏手へと連れていかれてしまう。
「ふぁっふぁっふぁ。ご心配なく。さ、風読み様はこちらへ。何か召し上がりますかなぁ?」
そんなあっという間の出来事に風読みは唖然としながらも、何事もなかったかのように振舞うカーチモネに粗茶を一杯おねがいした。
それはあっという間だったうえ、さすがに女中に手が上げられるはずもなくアヒオもキペも連れ出されるままに裏口へと運ばれていく次第となっていた。
「なん、ちょ、なんのつもりだっ!」
「あちょ、なん、なんでしょうね?」
上から見ると南に向けて凸の形をした屋敷を北側へえんやこらと引きずられ、厨房だろうか、おいしそうな匂いのする屋敷の裏に辿り着いてようやく二人は解放された。
「手荒なマネをして申し訳ありません。そこの階段を上がった先に浴室がありますので。
そちらでお体をお清めになられては、と主も思われたのだと思います。
どうぞこちらをお使いください。」
どこまで用意がいいのか、体を拭く布の他に上等な服まで畳んで篭に積んである。
ただ、これは提案ではなく命令ではないのか、とキペも思いはしたもののまあ丁度いいだろうということで従うことにした。
アヒオも抵抗する意味が見出せなかったのだろう、何も言わずに篭を受け取り階段を上る。
すると。
「う、うわあぁー。」
湿気対策なのか、三つも四つもある戸を抜けると流水室と大きな浴場が二人の前にでーんと現れる。
「金持ちってのは・・・すごいんだな。さすがにおれも初めてだ、こんなのは。」
さらしや額布を人前で取るなと言われていたキペも、その大浴場の前とあっては興奮を抑えきれない様子で服を脱ぐや否や颯爽と湯気の中に身を隠して浴槽にダイブした。
「うわぁぁぁぁぁっ! すごいですよぉぉぉっ!」
しばらく体を洗っていなかったのもあって待ち焦がれていた湯だったものの、まさかこんな解放感とともに出会えるとは夢にも思っていなかったのだ。多少ハジけてしまっても不思議はないだろう。
「すごいですよぉーアヒオさぁぁぁんっ!」
それに遅れてアヒオも大浴場へと入ってきたようだ。湯気があまりに濃いのでそのシルエットしかわからない。
「おーなんだキペ。おまえさん体洗う前に入るなよ。湯が汚れるだろ。・・・ま、おれの家じゃないからいいけどな。はっはっは。おれも入るか。」
そうボヤいて、ちゃぽん、としずしず入るアヒオ。全身で大浴場を味わいたいキペは潜水と水泳に夢中だ。
「あははは。いい湯ですねーアヒオさーん。・・・あ、風読みさまは入らなくていいのかな? 痒くならないのかなー?」
いつも気にしていたことだ。肌着のようにぎゅっと巻くさらしは汗や汚れが溜まるとすぐ痒くなるから同じように思ってしまうのだろう。
「気にしぃーだなおまえさんは、ははは。シム人ってのはよ、すこし特殊な体の構造をしてるんだよ。んーと、代謝が栄養供給や老廃物の排出をはじめとする生命活動に関係あるのはわかるだろ。・・・・・・そうなんだよ。
で、主にファウナ種は活動力の転換に使われるよう、摂り入れた養分を燃料に変換させる酵素や微菌を持ってる。だからユクジモ人やシム人たちより活発に動くことができると言われてるんだ。
で、シム人たちは栄養を体のいわば建設や補修によく使うらしい。筋肉を異常に発達させたり、外皮を数日で取り替えたり、体内外の異常な箇所の修復・治癒を早めたりとかな。
ちょっと長くなっちまったけどよ、つまり風読みサンはな、垢の溜まった皮膚をおれたちの気付かないところで服の下からポロポロこぼして取り替えてたんだ、ってことだ。
だから不衛生ってことで病気になったり単純に臭くなったりしないんだよ。
・・・あのよ、聞けよキペ。おれがなんだか一人ぼっちだよキペ。」
湯の中で運動したのがマズかったのか、キペの頭は著しく世界を巡っていたため難解な話を消化できる状態ではなかったらしい。とりあえず、痒くないんだ、ということがわかったので上がって体を洗おうと思う。
とそこへ、ガララと戸を開ける音。
「すみませーん、こちら衣類等の洗濯がしたいのですがー。」
妙齢の女中が中に聞こえるよう叫ぶものだからキペはフラフラする中ほうほうの体で脱衣所まで歩く。まぁ自業自得なのだが。
「あ、どうもすみませ・・・あ、荷物、は、」
旅に必要な道具を詰め込んだ皮袋もついでに運ぼうとしているところだった。
「あの、すみません。この手鎚だけは持っていかないでください。・・・形見の、宝物なんです。」
武器と見なされかねない品とはいえ、それだけは見逃してもらえた。風読みさまさまだ。
「あのぉーそちらはいいのですけど、もうひとかたの篭に刃物があったのでねぇ、こちらは預かってもよろしいですかねぇー?」
そう問われて振り見たアヒオは何も言ってこないし、さすがにその指投げ刃と白い短刀は武器以外の何ものでもないので、ええ、と返す。
「では、おくつろぎください。」
そして女中が去り、改めて手鎚の重さを実感する。素っ裸で。
――集中して木目を読みなさい。そして音をきちんと聞き届けなさい――
そんなタウロの言葉がふと、思い出された。
「おーい、どしたー?」
祖父・タウロからハユへと思いは繋がり、そして声の主へと続いて今このときを辿り返す。
焦りがないわけではない。しかしこの道のりに不可欠だった者たちとの関わりを大切に思ってここにいるのだ。ハユを見放したわけでも、像やそれに携わるべき者の運命から逃れているわけでもない。
だから。
「なんでもないでーす。」
柄を握る手に、キペはその思いを強く込めた。
そうして半刻、湯から上がり戻って屋敷に入ると、執事らしきギヨ人が二階の応接間へ案内してくれた。
腰に巻いたキペの手鎚が気になるようだが女中から聞いていたのだろう、確認程度に一瞥をくれるとあとは微笑みを絶やさぬまま二人の前を歩いていく途上。
「ふふ。おや、これはまたずいぶん素敵な紳士がおいでになったようですね。見ることはできませんが雰囲気が違います。ふふ、きっと似合っていますよ、キペ、アヒオ。」
キペ、照れる。
アヒオ、ふん、とやる。
「えと、でも僕らどうしましょう? 風読みさまはカーチモネさんと何か話していたようですけど・・・」
何か用があって風読みを連れていったのかな、と思ったカーチモネも下の階へと降りてしまったようだ。案内してくれたギヨ人の姿は既にないのでぽつんとしてしまう。
「下の連中が慌ただしいのはおれたちが理由ってんじゃなさそうだな。してみるとだれか来賓でも来るんだろ、じゃなきゃ小綺麗におれたちを飾ってやる理由もないしよ。」
カーチモネによればなんでも今日、明日と商業連合代表の集まりがあるらしい。ちらほらと屋敷西棟の一階広間にはヒトが続々と集結していたのはそのためだそうだ。
そしてそれだけのお歴々を招待できる地位にあるのがカーチモネだった。
「そのようですね。さあ、あなたがたは座ってお茶でもおあがりなさい。私たちがそわそわしたところで検査の結果が早くわかるわけではないのですからね。」
との風読みの提案にも従わず、好奇心の尽きないキペと落ち着きのないアヒオは部屋の中の絢爛な美術品に目を奪われていた。
一階の大広間にも珍しいもの美しいものは並んでいたが、ソファとテーブルのある二階広間にもぎっしり飾られている。そして小さな彫刻や造形品は「透き石」と呼ばれる高価な工芸鉱物を使った棚に納められ、絵画やタペストリーが壁を華やかに彩っていた。
「・・・あ、初めて見た。こんなの。」
そのコレクションの中には見たこともない[打鉄]で作られた伝説上の台王の像があったものだから、キペは作者不明の複雑なその像に細部まで目を凝らしてしまう。
〔魔法〕を使い王となったその姿のほとんどは想像なのだが、伝えられる白髪と「
そこへ。
「どうも、失礼します。」
一階から上がった広間なので階段がトントントンと鳴れば足音で誰かが上がってくるのはわかっていた。現れたのは先ほどのサノマトという医法師だ。
「何かあったのか。」
酒棚に夢中だったアヒオが途端に詰め寄る。慌ててキペがそれを制する。
「いえいえ、別状はありません。触診や問診――といっても、はい/いいえの二択でしたが、その結果から言えばおそらく単なる疲労からくる免疫の低下、それによる初期感冒の不調でしょう。
詳しい検査は担当の者が今やっておりますし、結果はまた時間の掛かるところなので辛抱していただきたいのですが。」
透き石を贅沢にあしらった南向きの大窓戸からは鋭い斜陽が部屋の中を照らしていた。
サノマトのむずかしい顔も、アヒオのしかめっ面も、その光を浴びて一層険しくなる。
「ところで彼女について幾つかお尋ねしたいことがあります。ひとつ――――」
「知らない。」
遮るように、アヒオは答える。
「どういう・・・?」
言えない、ではないことにサノマトも戸惑いを隠せなかった。
「わからないんだ。月日は共に過ごしてきたが、出会った時から言葉はなかった。風読みサンもキペもここへ来る途中で初めてリドに会ったんだ。・・・・だから、知らない。」
何か聞かれたくないことでも隠すようにアヒオは冷たくそう言い放つ。
「この者の言うように、少なくとも私とそこのヌイのキペは道の途中でこの者たちに会ったのです。
また知っての通り、リドミコは話すことができません。記憶もどうやら一部が失われてしまっているようですし、知り得る手立てはここにいるムシマのアヒオだけですが。
この者がそう言うなら事実でしょう。申し訳ありませんけど。」
そうですか、とだけ言い残してサノマトは階下へ降りていった。
何にイライラしているのか、アヒオはソファにもたれて目を閉じている。
一方サノマトが何を知りたかったのかちょっと気になるキペは用足しを口実にその後を追うことにした。
暇つぶしというわけではないが、まぁ、暇つぶしだ。
「あ、あの。」
このごろの非日常的な日々に体は慣れて動いてくれるものの、まだ口だけは今ひとつ達者にならないらしい。
「あ、ああ。キペさん、でしたかね。」
西棟へ続く重厚なドアからは商業連合幹部たちの喧騒が漏れている。対照的に屋敷の中央にある大広間は静かなままだった。
それでも次はここで盛大にパーティーでも行うのだろう、生活衆たちは階下で黙々とテーブルや椅子の準備を整えている。
「うんと、えと、何か気になることでもあったんですか? 問題ない、って聞こえたんですけど。」
そんないたたまれない忙しさに弾き出された二人はそのまま医法棟まで歩くことにした。
「いえ、大したことじゃないんです。わたしも実はよくわかっていないのですが・・・
《オールド・ハート》と呼ばれているものを知っていますか?」
呼び留めてはみたものの、てんでさっぱりだった。
「・・・いいえ。」
こんなことなら来なければよかったかもしれないな、とキペは不覚にも思ってしまう。
「旧い時代の文字でも部族の文字でもない模様で、わたしたちが描く「星の記号」に似ているものなのです。
ええと、△の中心から三辺に向かって線が伸びている図形なのですけど、それがあの子の背中にあったので。
もちろん刺青のような人為的なものでないことは解るのですが《オールド・ハート》については理屈の通らない話ばかりだし、あまり良い噂は聞かれないものなので、つい。
現在は《古の傷跡》とも呼ばれるそれは「無害な斑の一種」としてだけ扱われてはいます。ただ、これらは共通して特徴的な形を描いていて・・・
はは、すみませんね妙な話をしてしまって。そういう理解を超えたものにわたしたちは変な理由やよからぬ由縁をこじつけたくなるものなのかもしれませんね。」
ははは、と乾いた笑いでごまかすも、キペはその謎がいっぱいの《オールド・ハート》に釘付けだ。なぜなら好奇心が旺盛だからだ。
「えと、それ、聞かせてもらっていいですか。あの、僕、聞いてみたいです。」
それに理屈の通らない物事ならもう充分に見聞している。
オバケが現れても今なら胸を張って認められるだろう。
「えぇ?・・・はあ。あーっと、あの、本当に噂話ですよ? 近所のおばあさんが魔法使いだ、くらいの。・・・そうですか。
ええと、いろいろ耳にする噂をまとめますと、《オールド・ハート》というのは精霊と何かを〈契約〉できる者につけられた資格で、取り交わすと違反するなどして破棄されない限り「特別な力を得られる」というものです。ありがちな〔魔法〕の話でしょう?
ただこの斑、《オールド・ハート》は劣勢遺伝と結論付けられているのですが、やはりどういう経路で、なぜ発生するのか説明できていないのが現状なのです。
・・・ヒトとは弱虫なのかもしれませんね。
頼り続けてきた理屈が通らなくなると、すぐに愛想を尽かせて噂や伝説に浮気をする。結局また元の理屈に戻りはしますが、ひと通りよそ見をしないと不安でならないんです。
一筋にただただ信じるということが、できない。
・・・・あ、いや、これはわたしに当てはまることであって、その。気を悪くしないでください。あなたや風読み様までひっくるめるような言い方をしてしまって。」
気のやさしいヒトなのだろう、頷くばかりだったキペにペコペコとやると「検査の方を見てきます」と残してサノマトは棟へと入っていった。
ヒトはヒトを、強いもの、脆いもの、温かいもの、情けないものと呼ぶが、果たしてそれはキペ自身にすべて当てはまってしまう。
多くを知らなければ今こうして様々な言葉を組み合わせて考えるには至っていないのに、あちこちに目を向けることが薄情に思える時もある。
ハユのことだけを思っていれば「自分は純心な弟想いの兄なのだ」と少しは自信も持てたが、といってリドミコたちを軽く見放したくはなかった。
だからだろう、そのどちらにも手を伸ばそうとしている自分が欲張りなようにも見え、仕方ないのだと自身をなだめる抑揚のないオトナにも見えてしまう。
そうして打ちひしがれる中、風読みたちのところへ帰ろうかと踵を返したとき、それでも、風読みたちのところへ帰ろうと思った自分がすこし、好きになった。
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