第2話 犬の本能

「ただいまー」


ブォー…とドライヤーの音とともにボディーソープの香りが出迎えた。


「おうおかえり、ちょうどよかった。背中たのむよ」


バスルームからひょいと顔を覗かせ、全裸のまま簡素な天然木スツールにどさりと座るレトリーバーの獣人。スツールがみしりとかすかな悲鳴をあげた。そろそろ壊れる頃合いか。


「ああ、ケセランパサランの季節だね」


ドライヤーで背中を乾かしていると、我々だけがケセランパサランと呼んでいる抜け毛がふわりと宙を舞う。


「一生ついてまわるからな、換毛期は。独り身はつらいね」

「じゃあ、ごそっとやっちゃうよ背中を」


ほぼ床掃除用のような大きなブラシをくびに刺し、一気に引き下ろす!


「おっ、おっ、うふーっ!たまらんねえ」


抜け毛抜きというのは快楽を伴うらしい。それはそうだ。痛いのに一生抜き続けるのは拷問だ。パワーリフターのような広い背中を二度三度。ちょっとしたぬいぐるみなら作れそうな量だが、ヒト族でいうなら髪の毛で人形を作る感覚か。やめとこう。


短毛種たんもうしゅのラブラドールでこの量ってことはさ、ゴールデンやバーニーズなんて大変だね」

「そう。結婚のなれ初めが長毛種ちょうもうしゅ同士の抜け毛処理、ってときどき聞くぜ」

「じゃあ下毛アンダーコートのない犬種は独身が多いのかもね」

「いや、シングルコートも換毛期があるからな。そうだ、シュナウザーはズルいんだぜ。換毛期がない。でも身内には愛想いいから受けもいい」


なにがどうズルなのかはわからないが、獣人でもスキンシップは大事なようだ。


「よし、終わり。背中以外は自分でよろしく」

「ああ、ありがとう」


      …


(ピンポーン)


シャワーを浴びて、少し油の匂いのするまとわりついた抜け毛を洗い流していると、おそらくプレミアムバンダイネットショッピングからの呼び鈴がした。


「オッチャンおねがい!プレバン受け取っておいて!」

「今度はなにガンダムを買ったんだぁ?」


ヒヒッと笑いながら歯並びのいい尖った歯をギラつかせ、扉を開ける音がした。


「アッ!」


バスルームに駆け込んできたのレトリーバーがバスタオルを引っ掴んで去っていった。毛皮一枚着込んでる獣人の羞恥心ならプラモデルの受け取りなんてなんでもないだろうに、どうしたんだ?


      …


「もしかして佐川急便じゃなかった?」


タオルを腰巻きにビールを取り出しながら、玄関に立ち尽くしフゥフゥとなぜか鼻息の荒いレトリーバーに尋ねる。


「お前さん…いい匂いさせてんナァ」

「そりゃシャワー浴びたばか…」


がぷり。


大型犬獣人の影が落ちた途端、オッチャンのくびが目の前にあった。そして、大きく狂暴なあぎとが肩口から胸まで挟み込んでいる。これは…?喰いつかれている?喰い殺されるのか?なんだろう、自転車で車に頭を轢かれかけたときのようにひどく冷静で客観的たにんごとだ。


「……オッチャン?痛いよ…?」


声を絞り出したものの、自制するかのように小刻みに震える剛腕にがちりと掴まれ、ヒヤリとする肉球が嫌な予感を告げる。いや待て、切り裂かれてはいない。ギリギリの理性が甘噛みに抑えているようだが、いま動いて刺激すればよだれまみれの肩が真紅に染まるだろう。


      …


待つこと数分。いやわずか三十秒だったかもしれない。荒い息のまま獣人が身体を離し、あわてて身支度して玄関から出ていってしまった。掻き消えるような声とともに。


「スマン…」


なんだいまのは?だれが来てたんだ?獣の本能なのか?五十代なのにいまさら?何かしらの薬物?本人に訊くしかなさそうだが…。


(ピンポーン)


ぎくり。今度はなんだ。


「佐川でーす」


そうだった。だが、待ちかねたプラモデルを開梱するワクワクはとうに消え去っていた。


      …


二日経っても帰ってこない。明らかにおかしい。


自分も変だ。考えがまとまらない。ばくりと喰いつかれたときはあんなに冷静だったのに、ばかり頭に浮かんで堂々巡りをしている。仮面ライダーのプラモデルも数パーツ組み立てては手が止まる。


いやわかってる。同居人が心配なだけじゃない。仮面ライダーに思い入れなんてない。気を紛らわすのにふさわしいものが売ってなかったから、消去法で買っただけだ。いつもそうだ。人族と暮らしたくないから獣人と暮らしているのだろうか?


      …


がちゃり。


振り返るとやはり、虚無の表情を浮かべたオッチャンがいた。弁明を求めるでもなく、拗ねるでもなく、判決を待つ死刑囚のような表情かお


「竹蔵、同居をやめたいか?」


低くよく通る声で、予想していた問いを突きつけられた。これは質問なのか?


「事情によります」

「そうだな」


お互い簡潔に答え、深い息を吐きながら壊れかけのスツールに悲鳴をあげさせた。


      …


こういうことらしい。

階下の女性獣人が引越しの挨拶に来たが発情期のピークだったらしく、強烈なフェロモンを振り撒いていき、そのフェロモンに当てられて獣の欲求を抑えられなくなった、と。


「理論上はわかるけど、あそこまで我を忘れるなんて聞いたことない。そんなしょっちゅう発情してたらオフィスで仕事にならないし」

「オフィスで働くような一般獣人いっぱんじんはフェロモン抑制剤を飲んでるからな。下の女はたぶんセクシャルワーカーだな」

「オッチャンは飲んでないってこと?」

「保険が効くのは女だけだ。それに男に発情期はない」

「発情期がないなら問題なさそうだけど」

「一年中、発情期ってことだ」

「ああ…」


「あとな…その、生肉を常食にしてる者が生肉を断つと…強いフェロモンで獣の欲求を抑えられなくなる」

「生肉?そんなの食卓に出したことないけど」

「……」

「……いったい…どこで食べてるの…?」


叱られた子犬のように押し黙ること数分。


「…言えない。会員制のそういう場所がある、としか」

「ときどき生肉食べてが満たされるなら、出すよ?」

「食欲だけでは…ない…。性欲…もだ」


消え入るように答えた。あのとき、二つの意味で喰われかけていたのか。


「今回は悪い状況が重なった交通事故みたいなものだけど、そうならないように生肉を避けている獣人ひともいるってこと?」

「草食獣人はさておき、半数は誕生日にだけ食べる感じだな。常食にしてるのは山に籠った世捨て人のようなハンターくらいだな」

「まさかハンター経験が…?」

「肉体労働なんてしたことないな。ないんだが……」


目を逸らし、伏せがちな瞳は月のない海の淵のように暗い。過去を詮索すべきではなさそうだ。生肉依存症(?)になった経緯はいまはどうでもいい。


おかしいとは思ってた。獣人は生肉中心の食事が母の味、という人族の一般常識おもいこみとは異なる獣人を多く見てきた。外食のときだけ社会に合わせて生肉を食べないだけだろうと。オッチャンはたまたまそこから外れている、あるいは加齢によるものと思っていた。コソコソ隠れて生肉を摂取してたとは、まるで吸血鬼ドラキュラだ。


「……腹をくくるよ、トールさん」


まんまるの栗色の瞳に驚きの色が浮かび、わずかに目が泳いでいる。


「ただし!条件があります」


一瞬、輝いた瞳から光が消える。そりゃそうだよな、と目が訴えている。


「カウンセリングを受けて、欲求を吐き出すタイミングを調整してください。手段は詮索しません」

「遺伝的な本能だぞ?医者ならまだわかるが」

「はっきり言いましょう。オッチャンはおそらく依存症です。薬はそもそも悪い状態を矯正するものであって、本来あるものをねじ曲げるものではありません。それよりもカウンセリングの方が効果的な予感がします」

「カウンセリングってあれだろ?息を吸ってー、止めてー、はい吐いてーみたいなやつ。胡散臭いぞ」

「呼吸法みたいなのはセラピーだね。カウンセリングは、対話しながら依頼人本人の中に眠ってる解決法を掘り出す作業」

「ふむ…カウンセラーなんて山ほどいるのにどう選べばいいんだ?」

「それなら以前、通ってたとこを紹介するね」

「通う必要があった…のか。いや、お前さんのことはいまはいい。明日にでも予約入れてみるよ。ありがとう」


徳川家康曰く、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。」


国際法が獣人を保護してずいぶん経ったが、現代文明を生きるものとして共存するようになってまだ日は浅い。種族固有だけでなく一個人の悩みも尽きない。互いの過去を詮索しないように過ごしてきたが、トラブルを未然に防ぐためにはどこまでそのを越えるべきなのだろう。


オッチャンはこの同居関係をどうしたいのだろうか?もうすっかり手に馴染んだ煙草の香りアークロイヤルにインスピレーションを託した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る