ACT・3

「お帰りなさい。メイ!」


 コーヒーを差し出すサエコに、メイは笑いかけながらカップを受け取った。


「ただいま」


「ふふっ」


 サエコが肩をすぼめて笑った。


「なぁに?」


「ただいまって言うじゃない」


 メイは少し照れた頬笑みを浮かべてサエコに背を向けると、リクライニングチェアに深々と座り足を組んだ。


「帰ってくるしかないもん」


 熱いコーヒーを少しすする。


「まるで、『帰ってきたくなんかなかった』と言いそうな口ぶりね」


 サエコが不思議そうな顔をした。


「いられるもんなら、ずっと宇宙にいたいわよ」


「そう? 最後の通信はえらくうれしそうだったわよ?」


 サエコの言葉に、メイはただ笑っただけにした。


 何をどう説明しても、生まれ育ったこの地球が一番いいと信じている彼女に、メイの気持ちが理解できる訳はない。


 無重力と漆黒の闇。


 無音のささやきに耳を傾ける穏やかな時間や、無限を体内に取り入れ、総てを解放するおもちゃ箱を、彼女は持っていない。


 いや、持とうとしないのかもしれないし、それ以前に、彼女の次元には存在しないものなのかもしれない。


 だから、メイが最後の通信の10時間前に完全に目を閉じていた理由も、アースライトを見た瞬間、何故地球を愛したのかも、彼女に説明する気はなかった。


 どんなに説明しても、けっして彼女には分からない。


「あたしは夜明けに到着するフライトが一番好きだわ」


 サエコが首を傾げた。


「漆黒の宇宙から降りてごらんなさい。まだ人間の呼吸や靴底で汚されていない、澄んだ空気と明るさに感動するわよ」


 メイは足を組み替えた。


「宇宙? 宇宙ねぇ……」


 サエコは大きなため息をついた。


「行ってみたいなぁと、思うこともあるわ。でもね、実際行こうと考えるとだめなのよ。私って、地に足がついてないのって怖いのよ。地球を見下ろすなんて、考えただけでぞっとするわ。う―――、いやだ!」


 サエコは大げさに身震いした。


「変な子ね」


 メイはおかしそうに笑って続けた。


「母なる大地は、大地の虜って訳ね」


「何よ? それ?」


「サエコ? あたしの目をごまかせると思ってるの?」


 メイは、左目にだけ装着したバイザーを爪で弾いた。


「ああん。あなたの左目は、ヘルメスの端末みたいなものだったわね」


 メイはそこでは頷かなかったが、言葉は続けた。


「ヘルメスが、あなたが妊娠5カ月の身重だって教えてくれたわよ」


「叶わないわ、メイ! そのヘッドバンドだか眼鏡だか分からないものは外しなさい。ものが見えすぎるのは良くないわ」


 サエコが憮然として言った。


「だーめ! これは外せないわ。あたしの眼球にはヘルメスの端末ユニットが組み込まれてて、ヘルメスとのリレーシステム用ヘッドバンドよ。これがないと不便すぎるわ」


 メイは、ヘッドバンドを整えながら説明した。


「その流行を無視した長い髪も?」


 サエコが近付いてきて、メイの左目に少しかかった髪の毛を一束摘まんだ。


「そうよ。それに長い髪の毛がいけないって法律はないじゃない」


 メイは、大きく頭を振って、髪の毛を後ろに追いやった。


「地球から出ないならね。あなた宇宙パイロットよ? 非常時に宇宙服を着るとき邪魔じゃない!」


 サエコがぷっと膨れた。


「ヘルメスがいるから、私の船が故障するなんてことはまず考えられないわね。まぁ、本当に非常時になったら、ナイフで切り落とすわよ。とにかく! サエコ、おめでとう。かわいい赤ちゃんを産んでね。あなたは本当に大地に立ってるのねぇ」


「ええ。どっかりよ」


 サエコはちょっと膨らんだ腹に手を当てて笑った。


「朝食は?」


 メイは立ち上がった。


「約束してたのに、ごめんなさい。さっき、主人からコールがあったのよ。何か話したいことがあるんだって」


「そう。ダンナ様じゃ負けるわね。分かった、一人で食べるわ」


「メイ。あなたもフライトはもうやめたら?」


 サエコがまじめな顔で言った。


「冗談!」


 メイは、コーヒーカップをテーブルに置くと、スペース・ジャケットを肩にかけた。


「もう! あなたもそろそろ結婚なさい! パートナーがいると精神衛生上もいいわよ」


「それこそ、冗談はやめて」


「なぜよ?」


「半分機械よ。あたし……」


「関係ないわ」


「簡単に言わないでよ。自分が抱いている女の片目と片腕が機械で、自分の頭蓋骨の創りを見ているかもしれないと考えてごらんなさい。不気味で引くわよ」


「メイ!」


 サエコは呆れたようにため息をついた。


「あなたの眼は、ヘルメスに命令しなければそう見えないことくらい、私は知ってるわよ?」


「へへっ!」


 メイは肩をすくめて舌を出した。


「宇宙へ行きたいのよ、サエコ」


「宇宙に何があるというのよ」


「何も……」


「地球には何でもあり、私たちを幸せにしてくれるわ」


「そうね」


「分かってるなら、もう船を降りてもいい年よ?」


「年齢は関係ないわ。いったいいつの時代の話よ? それにダメ。地上より宇宙の方が魅力的なんだもん。あなたも一度飛んでごらんなさい。分かるわよ」


 メイは、サエコをないがしろにはできないので、だめもとで本音を言った。


「そんなのまっぴらごめんだわ! 私はGに耐えて、地上から空へ行くなんてぞっとするわ」


「あたしもまっぴらごめんよ。地球に留まっているなんて」


 この話になると、自分とサエコは平行線を辿るしかないとメイは分かっていた。


 彼女はサエコに背を向けると、ドアへ向かった。


「どこへ行くの?」


「朝食に決まってるでしょう? その後は1カ月の休暇。海へ行くわ」


「定期連絡はしてちょうだい」


 メイの背中に向かってサエコが叫んだ。


 彼女は振り返らずに軽く右手を挙げただけで姿を消した。


 スペースポート・ビルディングの最上階にあるレストランで、メイは朝食を摂っていた。


 朝焼けの中に、ポツンポツンと銀色の船体が見えた。


 そろそろポートも騒がしくなってくる時間だ。


 巨大船団が集結している。


 土星の衛星にでも行くのだろう。あの辺は移住者も多い。今後どんどん開発が進むだろう。


 しかしメイは、その向こう、恒星間航行用の船が集まる一角に眼を移した。


 あそこで、メイのヘルメスも休んでいた。


 1か月かけて、ヘルメスは十分メンテナンスされ、次の航行を楽しみにしているだろう。メイの右目が笑った。


(ヘルメス。待っててね。あたしはほんの一時、地球を愛してあげるの)


 メイはゆっくりとオートミールの中にスプーンを入れた。

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