ACT・2

 地球時間24時間カウント4:00ジャスト。


 ドゥーシー・コロニー到着60分前、メイ・サトウはゆっくりと目を開けた。


 そう。この時間に眼を開けるために、9時間前に眼を閉じた。


 眠る前、火星を横切ったとき、地球はまだ恒星のような輝きを発していた。


 白色……銀色……ううん、無色? ただの輝き。


 そんな色だ。太陽光が愛想なく当たっているに過ぎない輝きを見た瞬間、何故かメイは「地球」という固有名詞を持つ惑星の大地を見た。


 それは、見て触れて抱かれたことがあるものへの再生行動だ。


「記憶」という不確かなものでありながら、確かに肌で知っているものが、ただの輝きを吹き飛ばして、彼女に大地の映像を見せていた。


 青い空。


 それは宇宙から見えるものではない。緑の葉が生い茂る木々。吹き抜ける風。木漏れ日。そそり立つビルディングやハイウェイロード。人間と自然・人工物が織り成すざわめきや活気。


 そう。何千何億万人もの人間たち。メイと同種属の生き物たちが溢れている場所。そのどれ一つとってみても、今ここにはない。


 あるはずがない。


 だからメイは、ここにいるのだから。


 底なし沼のような空間とわずかに点在する星々の輝きは、メイが感情ある生き物であることを忘れさせる。


 さして広くはないメイの船は、メイと彼女のために動くコンピューターしかいない。


 彼の鼓動が微かに聞こえている。


 なんて静かなんだろう。


 それなのに、あの輝きを見た瞬間、メイには「地球上」が見えた。そこに向かっている。


「行く」


 メイはそう呟く。


 帰るのだと自覚したことは一度もない。


 ただ、会社がそこにあるから任務終了連絡のために降りるだけだ。


 先ほどサエコ・イシイから届いた通信を思い出した。


「ドゥーシー・コロニー、ただ今24時間カウント17:00。お帰りなさい。メイ。こちらはそろそろ日没よ。夕焼けが美しいわ。あなたが到着する明朝は快晴の予報」


「ハロー、サエコ。『お帰り』なんて言って欲しくないわ」


 メイはちょっと頬を膨らませて反論した。


「じゃぁ、なんて言えばいいのよ! あなたは2カ月のフライトを終えて帰還するのよ? 他に迎える言葉なんかないわ」


 メイは何も言わず肩をすくめた。


「とにかくお帰りなさい。到着予定時間は明朝5:00ね。あなたの船以外に発着便はないわ。そうね……。3番ポートに降りてちょうだい。私、夜勤なのよ。朝食を一緒にどう?」


「最高!」


 サエコはにっこりと笑って通信を切った。


「お帰りなさい……か」


 再びスクリーンに映し出された地球の光を眺めた。


(あそこへ行くのか)


 ぼんやりとそう思う。


(あそこへ降りるのか……。降りてしまったら、しばらく宇宙には出られないだろう)


 旅の終わり特有の悲しさが、行き場を失った仔犬のようにメイの中を走り回っていた。


 その仔を捕まえられず、メイの心もおろおろしていた。


 彼女は捕まえるのを諦めて、じっと地球を見つめた。


 降りてあの大地に立つということは、重力によってしっかりと両足を地面につけることだ。


 落ちることも登ることもない安定感。


 そこに漆黒の空間はない。


 それが生む、地に足がつかない無重力状態もない。


「あ―――あ」


 メイは唯一の話し相手に声をかけた。


「ヘルメス。寝るわ。9時間後に起こしてちょうだい」


 古代ギリシャ神話で語られる「ヘルメス」は旅人の姿をし、伝令師のような仕事をしていたらしい。


 頭の回転が速いがちょっと悪賢く、雄弁で音楽や計数の神でもある。


 この船をもらい、コンピューターMAを作動させた瞬間、メイは躊躇ためらうことなく「ヘルメス」と命名したのだった。


 メイがヘルメスと会ったのは3年前だった。


 宇宙飛行士養成所を6年前に卒業し、恒星間飛行セクションを持つ、巨大コンツェルンに入社した。


 しばらくの間はごく普通の輸送パイロットとして、多くの同僚たちとローテーションを組んで稼働していたが、彼女はその中でもトップクラスのスキルを持つパイロットだった。


 その腕を、会社が高い金で買ってくれたのだった。


 そして彼女の性格にも、彼らは高い値をつけた。


 メイは根っからの一匹狼だった。


 入社以来誰とも深い付き合いをせず、かといって疎まれることもなく、そのくせ仕事だけは最高のスキルを提供していたのだった。


 プライベートを一切語らないメイは、勤務評価の中で「協調性」という点だけはかなり低かった。


 だがそれは、中間管理職たちの採点に過ぎない。


 メイの無関心は、同僚のみならず、会社の方針に対しても同じだった。


 上層部がこの性格と腕に対し、高性能中型宇宙船を提供したのだった。


 それが3年前。以来メイは、会社の重要機密や製品サンプル・そして時には会議に赴く重役連中を運ぶようになったのだった。


 ヘルメスに声をかけると、椅子をフルリクライニングさせた。


 ゆっくりとカプセルがメイの身体を包む。


 睡眠装置の作用により、わずかな時間で深い眠りに入った。


 24時間カウント4:00ジャスト。メイは眼を開けた。


 身体を起こすと展望室へと向かった。


 ヘルメスは現在、地球の衛星軌道上を回っているはずだ。


 ブリッジに姿を見せ、コクピットに座る彼女を待っている。


 メイは展望室に入った。


 デッキに立った瞬間、よろけて2歩下がった。


 2カ月ぶりのアースライト。


 青……白みがかった青い地球。


 その巨大な姿によろけたのだった。


 吸い込まれそうな感覚。溶けていく。


 なんてすてきな色だろう。


 思わず両手を広げて抱きしめたくなった。アースライトは、いつまででも見ていたい色だ。


 抱きしめて笑い声をあげて、早くあの中へ行きたいと思った。


 記憶がよみがえる。青空と青い海。


(ああ、今日はこのまま自動車を走らせよう。海がいい。緑のアーチを抜け、谷を駆け降り、水平線を傾けて仰ぐのがいい。地球。地球。なんてすてきな響きがする言葉なんだろう)


 メイはブリッジに向かって走り出した。


 ドアが開くとすぐさまコクピットに座って通信回路を開いた。


 スクリーンにサエコの顔が浮き上がった。彼女が声を発する前に、メイはしゃべりだしていた。


「サエコ! 予定通り5:00。ポートにつくわ。おいしいコーヒーを淹れておいてね」


「了解よ。メイ!」


 にっこりと笑ったサエコと地球がダブる。


 フライトを終え、帰還の時にはいつもこの笑顔が一番初めにメイを迎えてくれた。


 サエコはいつも地上でパイロットに笑顔を送ってくれている。


 ヘルメスがゆっくりと降下していく。


 足元にアースライトを想像する。


 少しずつ少しずつメイは、青に染まっていく。


 漆黒の闇が青白い光に呑まれていく。


 眩しい青が広がっていく。


 そして目の前が白くなる。


 いつもそうだ。


 メイが降下するときにイメージする地球と宇宙の狭間。


 超えた瞬間、突然襲うおびただしい音。


 それは地球の音。現実らしい音。


 宇宙の静寂は、まるで夢だったかのように消え失せた。


 さらに、降下していく。


 クリアーな空。遠くに海が見える。


 足元からメイは青になる。


 メイの長い髪の毛が上方へとたなびくイメージ。漆黒の宇宙がメイの毛先から上方へと別れを告げた。


 大陸が見える。


 ドゥーシー・コロニーが見える。


 見える……。


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エンジェル(左目の記憶) 柊 あると @soraoda

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