小井華の場合
―――05―――
茜色に染まり始めた西の空。
どこか儚さを伴って、色は静かに拡がっていく。
「ね、凪咲」
窓の外をボーっと眺めていた私の横から、華がちょこんと顔を出して来た。
「良かったらこの後、付き合ってくれない?」
「いいけど……どこ行くの?」 .
「それは着くまでのお楽しみ」
'
埼京線に揺られながら北へと進んで行く。
「この次で降りるよ」 ~
「……赤羽、か」
^
華の最寄り駅である。
ホームグラウンドだろうし、何か良い穴場でも知っているのかな。 '
普段は車窓からの景色を眺めるだけで、どんな場所なのか実はよく分かっていない。
-
「凪咲って最寄りどこだっけ?」
「私? 東川口だよ」
「……?」
'
はて、といった様子で華は首を傾げた。
「ええと、今乗ってる埼京線で、武蔵浦和まで行くでしょ」
「うん」
車内に掲示された路線図を指し示しながら、慎重に説明して行く。
「そしたら武蔵野線に乗り換えて、ちょっと東に行くと東川口」
'
「……」
すると華が、おぼつかない視線をこちらに送って来た。
^
「東って右だっけ?」
「…………ん?」
今、何か怖いことを言われた気がする。
-
「北が上なのは分かるんだけど」
「……」
「あれ違う……? 西が右で、南が下……」
「あ、うん全部違う。怖いから一旦やめて」
義務教育の敗北――。
曇りの無いひたむきな彼女の眼が、より一層私を悲しくさせる。 '
-
程なくして、赤羽駅の手前に差し掛かると、多くの人が扉の近くにぞろぞろと列を作った。
「結構降りる人多いよね。それなりに都会なのか」
「…………」 .
「……華?」
額に汗を浮かべ、もじもじと
ついさっきまで柔和な笑みを浮かべていた彼女の顔が、やけに強張っているのが分かる。
「ゴメン、ちょっと……トイレかも」
「トイレ!? もう少し我慢出来る……?」
「……うん」 .
絞り出したようなその声に、かなり緊迫したものを感じる。早くしないとマズいかも。
^
「もうすぐ駅着くから。一人で歩けそう?」
「…………」 '
^
力なくコクリと頷くと、彼女は扉の方へ歩き始めた。しかしその足取りは重く、とても間に合いそうにない。こうなったら――
「……私の背中、乗っていいよ」
「え……」 ~
「その方が早いでしょ。ほら身体貸して」
彼女の返事も聞かずに、その華奢な脚をむんずと掴み、それから
「んしょ……大丈夫? ちゃんと掴まっててね」
-
「……うん」
こうして背負ってみると、彼女の身体の細さに驚く。
いったい何処から、普段の元気を捻り出しているのだろうか――そう思ってしまうくらいに。
やがて電車は速度を落としながら、赤羽駅に到着した。周りの乗客が次々に降りて行く中、なるべく慎重に歩みを進める。 '
^
「降りるよー……よいしょっと」
「…………」
~
私の言葉に反応して、彼女の指にぎゅっと力が込められた。
「……ありがとう」
「お礼は間に合ってから言いなさい」
ゆっくりと進んで行く。焦りは禁物。
ホームの奥の方にエレベーターを見つけたので、私達はそれに乗り込んだ。
「……まだ大丈夫?」
「うん。多分……間に合うと思う」
扉が音も無く閉まる。
途端に外からのノイズは遮断され、沈黙が辺りを満たした。 '
「…………」
^
そこでようやく気付く。
ひっきりなしに聞こえて来る、華の微弱な息遣い。
「……冷たいもの食べ過ぎたかも。ファミレスで」
消え入るような声で彼女は言った。
先ほどのように切羽詰まった様子はなく、幾分か落ち着いている。
「確かに、アイスめっちゃ注文してたな……そりゃあお腹壊すわ」
やがてエレベーターが改札階に到着すると、すぐさま周囲に目を凝らした。
'
「ゴメン、トイレどこか分かる?」
「ここを右に曲がって……それから……」
~
彼女のナビゲートを頼りに再び歩き出す。
改札階は多くの人で犇き合っていて、時折周囲からの視線も感じ取った。
^
――いちいち気にしていられるか。
有無を言わさず、闘牛のような心持ちで猛進する。
(……あった!)
女子トイレの入り口が見えて来た。
さっきはどうなることかと思ったけれど、何とか間に合いそうで一安心。 .
私は華を負ぶったまま、ゆっくりと中へ入ろうとした。
「ま、待って……凪咲……」
彼女の手が、私の肩を強く引き留める。
「アタシは……あっちだよ」 '
「…………え?」
^
突然の言葉に思考が追い付かない。
弱々しく伸びた華の指は――反対側を指し示していて。
.
「え、え……?」
「ありがとう。ここからは……一人で行けるから」
呆気に取られている私の背中からするりと抜け出し、そのまま彼女は男子トイレへと姿を消した。
「…………」 .
――今、何が起こったのだろう?
一人取り残された私は、狐につままれたような気分のまま、ただ立ち尽くすしかなかった。
'
~
―――06―――
^
駅を出てしばらく歩くと、荒川の河川敷に辿り着いた。
高台からの景色は殆ど遮るものが無く、通り過ぎる風も非常に快い。
'
「ごめんね。とっくに気付いてると思ってたから」
私の横に沿う形で華が歩く。
「あ、謝ることじゃないって。こっちこそ……」
^
「……ううん。ちゃんと話さなくちゃね」
すると彼女はピタリと歩みを止め、流れる川の方へと視線を向けた。 -
'
「ここ、アタシの大切な場所なんだ」
「大切な場所?」
「うん。小さい頃はいつもここで過ごしてたの」 .
思いを馳せるかのように目を瞑る華。
その間にも、涼しい風が私達の身体を掠めて過ぎ去って行く。
直観的に、ここが彼女の連れて来たかった場所なのだろう、と思った。
「アタシ、小学3年生から学校に行けなくなったんだ」
^
薄紅色に色付いた彼女の唇が、静かに震える。
「自分の身体と心が……どんどん離れていくのが分かって。でもみんなの前では、男の子として振る舞わればいけない。でないと酷い目に遭ってしまう」
「…………」 ~
「そう思い込んでた」 .
すると、彼女の目がこちらを真っ直ぐ捉えた。
「でもね。今の学校に来て、胡桃と楓に出会って……アタシのことを受け入れてくれる人が居るんだって気付いたの」
「……二人は知ってたんだ?」
-
「うん」
「…………」
^
どんな言葉を紡げば良いのか分からなくて、何となく遠くの景色に目を遣ってみる。
遠くの街明かりは星のように点々と輝き、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
ふと空を見上げれば、本物の星も見え始めていたのに、何故か私の心は前者に惹き付けられている。
「……凪咲は、アタシのこと、どう思った?」
「え……?」 '
短い沈黙を破ったのは、華のほうだった。
「正直に聞かせて欲しいの」
-
「……」
今一度、華の姿をまじまじと見つめる。
触れたら折れてしまいそうな程に細い腕。
ほんのりと焼けた肌。
少しごつごつとしていて、広い肩。
――そのどれもが、華という存在を揺るがすに足らない、見かけだけの要素だと気付く。
私の中の彼女は、変わらず彼女のまま。
「友達だよ。これまでも、今日からも」
-
「……そっか」
'
そっと胸を撫で下ろし、華が微笑む。
その姿は何一つ代わり映えの無い、どう考えてもこれまでと同じ彼女だった。
「何かゴメンね。本当は凪咲に話を聞こうと思って、付き合ってもらったのに」
「私に?」 ^
そうか。
そもそもここに来たのは、華に"付き合ってくれ"と言われたからで。 '
元はと言えば私に用があったんだ。
「凪咲は……その。何か思い詰めてることとか、ある?」
「え……」
突然の言葉に、思わず緊張が走る。 -
「……アタシたちと居ると時々、寂しそうな顔をしてるから。気のせいかな」
^
「…………」 '
私って、そんなに表情に出てるのか。
自分の分かり易さに思わず呆れてしまう。
「大丈夫だよ。私は……」 .
平静を装って笑顔を浮かべようとした。
でも、顔が引き攣って上手くいかない。
「……ごめん。余計な心配させちゃって」
「あ、謝らなくていいよ……」
華は上擦った声でそう告げる。
「アタシの方こそ、ごめん……聞くまでも無かった」
'
「え?」
「……だって、ほら」 ^
口をパクパクと動かしながら、やがて華はキッパリと言い放った。 .
「そもそも何かが無い限り――あの学校に通うっていうことが有り得ないから」
彼女の言葉が脳内で反響する。
何かが無い限り、あの学校に通うということは有り得ないから。
´
そう、それは私も知っていた。
あの学校――私たちがいま通っている学校は、世間一般の学校ではないということを。
「自分のことを話せないのに、こんなこと言うのもおかしいけど……ひとつ、訊いていい?」
`
「うん?」 ^
みんなには何か抱えているものがあって、でも私は深入りをせずに彼女達と過ごして来た。
個人的な問題に首を突っ込むのは、適切な対応だと思わなかったから。
「華はどうして……今の学校に来ることになったの?」
`
けれど。決して興味本位ではなく、失礼を承知で。
華のことを、みんなのことをもっと、ちゃんと知りたいと思った。 -
「……さっきも少し話したけれど、小学3年生から不登校になって。その日からはずっとここで過ごしてた」 ^
"アタシの大切な場所"。この河川敷を、先ほど華はそう呼んでいたっけ。
「ここに居ると余計なことを考えないで済むの。遠くの景色を眺めて、ボーっと一日を消費して……」
'
彼女の言葉に呼応するかのように、また涼しい風が横切る。
「でも、それも中学の終わりまでだった」
^
「…………」 .
「だんだんと現実が見えて来て。アタシ、このまま大人になってやっていけるのかなって、不安になったの」 `
穏やかだった口調は、いつの間にか悲痛な叫びに変わっていた。
´
「自分を見つめる時間が山ほどあったから……余計にね」 '
思春期の学生ならよくある話だろう。
成長して、物事を俯瞰的に捉えられるようになったが故に、自分の行動や現状を気にしてしまう。
他人の視線や世間体というものを意識するようになる。
'
もちろんそれは、人間社会で生活していく上では大事なことなのだろうけど。 -
彼女の場合、学校や部活などで忙殺されることが無かった分余計に、自分を見つめる時間が出来てしまったのだ。
「そして――そのストレスが原因で、発作を起こして倒れた」
「発作……」 .
転校して来た際、先生から聞かされた話がある。 -
『高校生という多感な時期に、過度な不安やストレスに苛まれ続けた結果……彼女たちは発作を起こして、今も社会復帰が難しい状態になっている』 '
『だからこの学校では、普通の教育を受けさせつつ、みんなの傷を和らげられるよう努める。これが目標の一つなんだ』
つまるところ私たちの今通っている学校――
「学校に通い続けて、みんなと知り合ったお陰で、今は精神的にも安定してきてる。……やっぱり大人になるのは怖いけど」 ~
「大人になる……っていうのは、学校を出た後のこと?」
華は首を縦に振った。 '
「でもね。アタシは自分の心に沿って、堂々と生きる。これだけは譲らない」 -
そうハッキリと口にした彼女の姿は、今までで一番輝いて見えて。
その正直な言葉に、私の方まで勇気づけられてしまった。
^
「自分の身体にはウソを吐いても、心にはウソを吐きたくないから」
'
「ウソ吐いてるだなんて、思ったりしないよ」
だから私も正直な気持ちを伝える。 .
「……えへへ。そっか」
^
暮れなずむ空の下。
夜の訪れを知らせるかのように、常夜燈が灯り始める。 -
私達は河川敷を後にして、家路についた。
'
「ねえ、凪咲?」
「うん?」 ´
「……なるべく一人で抱え込まないでね。アタシ達はいつでも、凪咲の味方でいるから」
暗がりに隠れて彼女の表情は見えなかった。
でも、きっと柔らかい顔をしていたと思う。
'
「……うん。ありがとう」
^
どうしてみんな……優しいのかな。
理由なんて必要ないのかもしれないけれど、求めずにはいられない。
それくらい私は、学校に来てからのたった一か月間で、みんなに良くしてもらった。 -
――私もいつか、この優しさを返せる日が来るだろうか。
'
「あ……そうだ! 小説、どんなの書こうか決まった?」
´
思い出したように華が言った。
「私は……うん。書きたいこと、決まったよ」
「おー、奇遇だね。アタシも実はさっき決まったんだ~」
並んで歩く私達の横を、いくつもの車が通り過ぎて行く。置いてけぼりにされる。
焦る必要なんてない。
私達は私達の歩幅で、進めばいいのだから。
しばらくすると華の家に辿り着き、私達はそこで解散した。
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