吉沢胡桃の場合
———07———
『そもそも何かが無い限り――あの学校に通うっていうことが有り得ないから……』
.
今日も、
`
総武線の某駅から歩いて10分。
"
エントランス先の待合室は、今日も大勢の患者で埋め尽くされていた。
咳き込む人、足にギプスを付けている人、パッと見では症状の分からない人。 .
院内に漂うアルコールのツンとした匂いも、最早慣れっこだった。もっとも医者志望の私にとっては有り難い話ではあるが。 ,
ここに学校があるというのだから驚きだ。
,
連絡通路を経由しB棟3階の教室へ向かう。
こちらの方まで来ると、先ほどとは打って変わり
「よいしょ……」 ` ,
階段を一段登るたび、コツンコツン……という小気味良い音が辺りに響き渡る。
'
ようやく教室が見えて来たところで、廊下の奥の方に人影を認めた。
「あ、凪咲。おはよう!」
「おはよう胡桃。昨日はお疲れさま……」
゛
「そっちこそ。ふふ、目の下に隈が出来てる」
'
指摘され、慌てて目元を覆い隠す。
朝起きた時よりかはマシになってると思ったんだけど。
恐る恐るスマホのインカメで再確認すると、油性ペンで引いたように黒く濃い線が、相変わらず下瞼に浮かんでいた。恥ずかしい。 .
「睡眠不足、こんなハッキリと見た目に出るんだって思ったよ……」
'
「可愛いじゃない。そういうメイクだって言い張れば全然行ける」 ゛
「行けるか?」 `
眼球の裏にずっしりとした重い感覚がこびり付いて、離れない。
,
なまじコーヒーを摂取してしまったが故に、頭は冴えているのが何とも最悪だった。
「……あれ、そういえば華と楓は?」
「ん? もう来てるわよ」 '
胡桃はにこやかにそう告げる。
゛
それにしては、やけに静かな気がした。
いつも私が来た時には、教室から声が聞こえるのだけれど。
(まあいっか……) "
'
そのまま教室の扉を開けようとしたところ、突然胡桃の手が私を制した。
「え、な、なに?」
「できるだけ……慎重に開けてね」 ,
「……?」
_
不思議に思いつつ、ゆっくりと扉を横に動かしてみると――
「…………」
~
教室の隅。隣り合った二つの机。
そこで仲良く突っ伏している華と楓の姿が、私の目に飛び込んで来た。 ^
彼女達のすぐそばへ寄ってみても、小さく寝息を立てたままピクリとも動かない。
「私が教室へ来た時にはこれだったの。可愛い……」
'
胡桃はどうやら母性を刺激されたらしく、うっとりとした瞳で二人を見つめている。
^
「……起こすのは憚られるね、流石に」
「このままにしておきましょう。昨日はみんな頑張ったもの」
自然とヒソヒソ声での会話になりながら、私たちは席に着いた。
^ ~
夏休みまで残すところあと4日。
連日みんなで通話をしながら課題に取り組んでいたが、昨夜に至ってはそれが深夜の三時過ぎまで続いたのだ。
`
初めこそ筆が乗らなかった胡桃と華も、楓からの適切なアドバイスを受け、今では着々と執筆に勤しんでいる。 ,
「いさ書き出してみると、案外早いものね」
「華も言ってたよ。『アタシこんなに集中力あったんだ』って」
と、その時。 ,
会話を遮るようにして、先生が教室に入って来た。
`
「あ。おはようございます」 ^
「おはよう」
変わらず白衣に身を包んだその姿は、理科の先生を思わせる。
――実際の所は医者なのだけれど。 ,
「……ってあれ?」
'
彼の動きが止まった。
その視線は、気持ちよさそうに眠る二人を真っ直ぐ捉えている。
「先生。あの……華と楓のことですけど」
すると胡桃が、声を落として弁明し始めた。
―――08―――
教室にシャーペンの音だけが響き渡る。
話を聞き終えた先生は私達にも昼寝を勧めてくれたが、胡桃も私も結局、寝付けずに文章を書き続けていた。
゛
もっとも私の場合、書かないと間に合わない可能性があるし。
^
(…………) ,
チラッと横を見遣る。
胡桃の視線は真っ直ぐ、机の原稿用紙を見据えていた。
少しずつ手を動かしては止めるを繰り返し、時折唸りながらも、もうすぐ次の用紙に取り掛かろうとしている。
'
――訊くとすれば今しかないだろう。
「胡桃、あのさ」 ^
「ん? どうしたの」
彼女はペンを置くと、キチンと私の方へ向き直る。 '
「胡桃は……ここに来た時のことって覚えてる?」
「…………?」 ,
口にしてから、しまったと思った。
いきなり踏み込み過ぎたかもしれない。
そんな私の心配を他所に、彼女は顔色ひとつ変えずに答えてくれた。 ^
「ここに来た時……か。何だかもう随分、昔のことみたいにも思えるわね」
そう語る彼女の視線は、華と楓に向けられる。
^
「みんなの居ない教室が、今となっては想像つかないのよ」
「初めは一人だったんだっけ」 ,
「ええ。そこから楓が来て、華が来て……凪咲も」
学校に来てまだ一か月。
それでも私は、この場所がとても心地良かった。 ^
胡桃や皆が、私を独りにさせまいと気に掛けてくれたお陰だろう。
'
「みんなが来てくれてすごく嬉しかった。一人じゃないって思えたから」
「私の方こそ、胡桃が優しくしてくれて嬉しかったよ」
「……優しく、か」 ゛
袖を握り締めながら、彼女は小さく呟いた。
`
「私ね、たぶん……本当は優しくなんかない……」
「え?」 ^
一瞬にして教室中に冷気が立ち込める。
もちろん空調は掛かっているのだが、それとは別の、青みを帯びた空気。
胡桃は背中を丸くしながら、次の言葉を紡ぎ出した。 '
「昔からずっとそうなの。嫌われるのが怖いから、独りになるのが嫌だから、他人に優しくしてる……」
,
空調の音は止むことを知らず、寧ろ彼女の声を引き裂くかのように、やけに大きく響いている。
空調の癖に、空気は読めないらしい。 ^
「そうやって、いつも人の顔色を窺ってた。そうすれば自分は傷付かないで済むと思ってたから」
'
すると彼女は、原稿用紙をひらりと一枚、机から掠め取った。
中空で僅かにはためくその紙は、苦しみ藻掻いているようにも見える。
` ,
「でもね。他人の目ばかり気にし過ぎて、いつの間にか自分の気持ちを押し殺してた……」
穏やかな口調で胡桃は言った。
あからさまに張り付いた笑顔を浮かべていて、見ている私までもが苦しい。
^
それでも、彼女の口は懸命に動き続ける。
「読書感想文。私……イヤって言ってたわよね」
゛
「……うん」
「自分の言葉で書くことが、下手だからなの。嫌だって言った理由」
その意味を理解するのに、少し時間を要した。
つまり――自分の感情を言葉に乗せることが、困難になっていたということか。
^
「このまま大人になるんだって思うと、怖くて仕方が無くて。それで――」
`
そこで彼女は口を噤んだ。
恐らく、その後は華と一緒だろう。
「あのっ、胡桃……」 ^
咄嗟に出した私の声は、可笑しいくらいに上擦っていて。
゛
「胡桃の優しさは、私、嘘じゃないって思ってるよ」
「…………」 '
例えそれが自分を守る為だったとしても。
今日まで、彼女が皆に振り撒いて来たその優しさが偽りだなんて、私には到底思えなかったのだ。 ^
「だから……自分には何も無いだなんて、そんな悲しいこと言わないで」
「凪咲……」 ,
何も無いだなんて、それこそ嘘だ。
私たちは胡桃の良い所もそうでない所も、沢山知っているのだから。
^
その全てを引っ括めて——彼女なのだから。
'
「……自分のことを一番理解しているのは、必ずしも自分とは限らないのかもね」
彼女はそう零すと、寝ている二人と私を交互に見遣った。
^
「う~ん……」 ,
すると私たちの緊張を解すかのように、華が欠伸を一つ。
^
私も胡桃も、それを見て静かに笑う。
「……ありがとう」 ^
空耳かもしれないその言葉は、優しく私の耳に届いていた。
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