第七話 想いの重さ
姫君とともに過ごすようになって少し経った。
季節も移ろい、庭に咲き誇る花々も彩りを変えた。
姫君と過ごす日々は、私の心を時に悩ませ、時に救い、時に引き絞り、時に愛で満たしてくれた。
未だ私の想いの形や名前を伝えることはできてはいないけれど、私と姫君の間には形なき確かな絆が生まれていた。
それは私の首に縛り付けられた見えない綱。
それは姫君の指先に括られた見えない赤い糸。
人は
けれど、いつか離れていってしまう誰かとの結びつきを願うならば、それは縁となる。
はたから見れば、私の想いや姫君への恋情は歪に見えるかもしれない。
それでも、どうかこの呪縛や束縛が解き放たれることのないように、心から祈っている。
他者の思想や外の誰かから見た正しい想いの在り方など、私には不要なものなのだから。
恋に正誤は存在しない。
ただ趣味趣向のすり合わせがあるだけ。
理想、価値観、主張、現実、何もかも十人十色、違う考えと人生を持った相手との未来、
恋に正誤はなく、それは幸せも同じ。
他者の幸せの在り方を評価する権利は誰も持たなず、唯一幸せの在り方を評価できる人間がいるとすれば、それは未来の自分に他ならない。
――今の暮らしを、周りがなんと口さがなく罵ろうとも、私は幸せに満たされている……。
私はそう幸せに酔い痴れるように目を瞑り、そして恍惚に微笑った。
姫君と過ごす日々の中で、お互い、少しずつ物事の捉え方や暮らし方、他者との関わり方が変わっていき、約束事や決まり事もだんだんと増え、そして今のこの生活の形が築かれた。
思えば、互いのことを、何もかもわからなかった最初の頃とは、暮らしは一変した。
私は姫君のためにできることが増え、姫君は私に信頼を寄せ、身を委ねてくださる。
私の一日は、姫君の食事を作るところから始まる。
そして、姫君が目を覚ました頃、手ぬぐいと水を張った桶を用意して、姫君のお顔を拭う。
姫君の食事は必ず私が作り、手ずから私が食べさせる。
これはもちろん、毒などの危険から守るため。
そして姫君の髪や身体は私が拭う。
以前のように呪などがかけられないように。
あの時風呂場で見かけた呪、その呪を施した下手人はすぐさま仕留めた。
しかし、その呪を施した意図や、おそらく存在するであろう裏で手引した人間の正体は、未だ不明なままであるがゆえに。
姫君の
そして、屋敷の中でもそれは変わることなく、姫君のお部屋にて、私も控え、必ず傍に寄り添い、決して離れることはない。
これは一度、姫君が神の力を過信したあまり、危険にさらされ、私が怪我をしたことがあったことで決まった約束事。
実際、私が怪我をしたのは、私の不徳の致すところであったゆえ、姫君が責められることは何一つもなかったのだが。
姫君はひどく心を痛め、自身を苛まれていたので、震える姫君と一つ約束をさせてもらった。
――姫君のお傍で、姫君の全てを担う栄誉を私にください。私、
この約束事は少し姑息だったかもしれない。
自身の行動の結果に苛まれて打ち震え、心が弱りきっているところに、結果的に傷ついた私からの提案という名の
一度の過ちに恐れ、正しい判断が困難な状況での正当に見える甘言は、もはや命令と変わらない。
もちろん私は、命令をしたかったわけではない。
ただ、私の我を通して、私の想いの矛先に貴女だけを置きたかっただけ。
私は、貴女のもの。
まるで糸で括られた人形の如く、貴女の好きに動かして。
貴女は、私の全て。
まるで糸で括られた人形の如く、私の思うままに操られて。
――私は今、とても幸せです……。
天上の神に愛されし姫君と天上の神にすら嫉妬した姫守の一族は歪で正しく、歪みながらもひたすらに真っ直ぐに、糾える縄の如く、離れることなく日々を過ごしている。
そんな日々の中に、突如、降って湧いた縁談話。
「雅時さん、結婚するんですか!?」
今しがた父から受けた私への縁談話。
ともに父の部屋にて、その話を聞いていた姫君は、その場では周りの目を気にして聞けなかったであろう質問を、自室に戻ってきてすぐ、私にぶつけた。
私は静かに首を横に振って、否定した。
「いえ、先方から縁談話が持ちかけられただけですよ。当然、お断りいたします」
「でも……雅時のお父さんは前向きに考えてるって言ってましたよね?……断れないんじゃ……」
取り付く島もないほどきっぱりと答えた私に、姫君は心配そうにおずおずと言った。
私はその姫君の言葉にしっかりと言葉を返しながらも、今の状況と物事、そして私の意志は変わらないことを説明する。
「たしかに我が屋敷にとって、悪い話ではないかもしれません。父も屋敷のためになるのなら、と考えているのでしょう。けれど、悪い話ではない、というだけで、これ以上ない良い縁談、というわけでもありませんし、そもそも、先方の縁談相手として選ばれたのは父でなく私ですから。是非は私にあると考えてます。結果は非、私はこの縁談を受ける気はこれっぽっちもありません」
「でも、この世界では側室って文化があるって前に
「しませんよ、大丈夫です。たしかにこの世では側室でも、という方がいないわけではないでしょうけれど、正室や側室ってけっこういろいろと複雑で厄介で大変なんですよ。まず、基本的には側室というものはその姫君の後ろ盾になるために娶る方がほとんどですし。ただその際、何らかの事情で正室に跡継ぎが生むことができなかった場合には、側室に跡継ぎを生んでもらうこともありますけどね」
私が軽く掻い摘んで、正室と側室、その両者の夫となる男の仕組みを伝えると、姫君は少し複雑そうな顔をして呟いた。
「不倫は文化ではなかったのか……」
「不倫?それは妻ないしは夫がいるのに、他者にうつつを抜かす不義のことですか?不義は罪ですよ?ともすれば、命を落とします」
何事もないように話す私の言葉に、姫君は大変驚いたようだった。
「そうなの!?」
私は頷きながら、この世の不義という罪の重さと過ちの代償の大きさを伝えた。
「はい。悲しいかな、女性の方が不義を働いた際の罰は重くなる傾向ですけれど、男でも当然、罰は下されます。特に、高位な方を正妻にしておられるとその罰は相当なものになるでしょうね。そうでなくても、そのような軽率な人間に仕事は任せられませんし、立場は当然に危ぶまれるでしょうね。まぁ、致し方ないでしょう。どんな理由であれ、夫婦の契を交わした人間が、不義になると知りつつ、その場の成り行きやその場限りの感情に流され、自制なく快楽に浸る。そんな人間は身を滅ぼして然り。その末路は口にするのも憚られますね」
私が眉を顰め、苦虫を噛み潰したような表情で語ると、姫君は興味深そうに聞いては頷いていた。
そんな姫君に私はさらに言葉を続ける。
「所詮、この世の結婚とは、言わば家同士の繋がりの手段の一つに過ぎません。つまりは家の事情がとても大きく関わってきます。恋情が無くても、家同士で良いと互いに思えば、結婚するでしょうし、恋情があっても、身分が違えば結婚できない方もいるでしょう。これは貴族であれば当然のこと。私もかつてはそう思っていました。姫君にお会いするまではね。でもね、私は……姫君の世界の結婚の在り方が、とても素敵だと思ってしまいましたから。その頃の自身には戻れません。私は今、たとえ家のためになったとしても、想う方、一人としか結婚はできませんよ」
「想う方、一人と……そうですね。私も、うつつを抜かさず、好きになった人、一人だけを決めて、その人と生きていきたいな」
姫君のお顔は、赤い実をつける果実のように染まり、その瞳はどこか遠くをみつめている。
その心の内に巣食っているのは、誰なのだろうか。
その瞳の奥に映っているのは、誰なのだろうか。
それが私ならば、良いのに……。
私の心がまた、傾げて、ひしゃげて、軋んでいる。
そのことから目をそらし、その痛みを覆い隠すように、話を続けた。
「父に、すぐに答えを返さず、一度この話を持って帰ってきたのは、建前と相手への気遣いに他なりません。ですので、縁談話についてはご心配なく」
「……そっか。よかった、ちょっと心配してた……って言うのは変かな?おめでたい話なのに……」
安堵した表情の姫君がその安堵を誤魔化すように、頬を描きながら呟く。
その呟きに思わず、私は聞き返した。
「心配、ですか?」
姫君は小さく頷いて語る。
「うん。この世界に来て、もうずっと雅時さんと一緒にいて、なんでもお世話してもらってるでしょ?そんな状態で、雅時さんが結婚しちゃったら、私、これからどうしようって……私、何もできないよ?それなのに、もしも雅時さんが誰かと結婚しちゃったら、今までのように生活するのは、無理でしょう?……いくら、ただのお世話だとしても、さすがに奥さんに申し訳ないと思うし。何より、雅時さんが誰かのところに行っちゃうのは寂しくて、嫌だなって。すごい身勝手な話なんだけど、結婚してほしくないって思っちゃって……」
とても言いにくそうに、ぽつりぽつりと言葉を選びながら、胸の想いを口にする姫君がなんとも愛おしい。
そんな姫君の言葉の一つも聞き逃したくないと思うのに、その言葉を受けた心が至福に極まり、逆上せるように、姫君の声が少し遠くに聞こえる。
――姫君が私無しでは生きていけないと思ってくださっている。
――姫君が私を手放したくないと、他の女には奪われたくないと、心を痛めてくださっている。
――私がいなくなることを憂いてくださっている。
――私には他者と結婚してほしくないと……私の想いは気づいてはいられぬだろう姫君が……
私が嬉しさのあまり言葉を失い、黙り込んでしまったことが気にかかったのだろう。
姫君が困ったように微笑んで、悲しげに呟く。
「人の幸せを願えないなんて、私って最低だよね。ごめんなさ」
「嬉しいです……貴女は人の幸せを願えないと嘆きましたが、私にとって、この縁談話は幸せではなく、貴女にもし、願われてしまったら、私は苦しくて嘆いてしまう……だから、私は今、この上ないほどに、嬉しいのです」
その姫君の言葉を私は塗りつぶすように、姫君が言い終える前に放った言葉をさらに続ける。
「私の心はこんなにも満たされて、これほどまでに幸福な男がいてよいのかと、そう思うほどに……」
私が喜びのあまり、小さく震えながら、堪えきれない涙に頬を濡らし破顔した。
貴女には、頼れる男だと思われたい。
そんな男でありたいと思っているのに、まるで幼子のように、涙は止まらず、ぬくもりを求めて、貴女を抱きしめる。
先ほどまで、姫君の言葉と瞳によって軋んだ心が、姫君の言葉と瞳によって癒されていく。
姫君が誰を想っているかわからないままだというのに。
姫君の想い人が私ではないかもしれないことは何一つ変わっていないというのに。
私という存在が、貴女の中でなくてはならないものであると、貴女の心の内に微かでも私が巣食っているという事実に、心は天まで舞い上がる。
私が抱きとめたことに、貴女は少し驚いたような声を小さく短く漏らしてから、柔らかく微笑んで、私の背中に手を回し、力をこめて抱きしめ返してくれた。
「雅時さんは優しい人ですよね。雅時さんと一緒だから、私はここで生きていける。そのせいで、雅時さんを縛っている気がしているんです。けれど、離れられないんです。雅時さん、ごめんなさい」
「謝らないで……謝らないでください、姫君。いつか約束したように、私の躰、心、未来、運命、この私に纏わる全てが貴女のもの。それを違うことはなく、それを偽りにすることはありません。私は、そんな私の想いを貴女が汲んでくださったこと、そんな私の想いを貴女が心に留めてくださったことが何より嬉しいのです……」
姫君が困ったように微笑って言った。
「雅時さんは、欲がないなぁ……」
私が困ったように微笑って言った。
「私、欲張りなんです……」
姫君の背中に腕を回したまま、ほんの少し姫君から体を離し、私は姫君の瞳を見て、照れながらもそう言って微笑った。
姫君の瞳に映る私は、なんとも情けなく頼りなく、そしてとても幸せそうに微笑っていた。
数日後、姫君を連れて、再度父の部屋に向かう。
此度の縁談話を断る旨を伝えるために。
姫君とは片時も離れないと約束してから、父の部屋にも姫君をお連れしている。
本来ならば、姫君の足を疲れさせたくはないのだが、さすがに、父を呼びつけるのは、周りにとって良い状態ではない。
おそらく、私が事情を話し、来てくれと言えば父は快く頷いてくれるだろうが。
この屋敷の現当主が、若君のいいように動かされているというのは、互いにとってはなんとも思っておらずとも、周りの目としてはよろしくない。
仕方なく、私はまた、姫君を連れ立って、父に会いにきた。
「父上、先日の話について、お話があります」
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