翠上家に伝わる昔語り〜天上の神が愛したのは花の命を持つ娘〜

 これは昔々の物語。

 この世にまだ、この屋敷すらない頃。

 神々がまだ天上で暮らす前、神々と人間は互いの姿が見えていた。

 神々と人は、時に話し合いを重ね、ともに助け合いながら、この世界で暮らしていた。

 神々はたいそう美しい姿のものたちばかりであり、人間は誰も彼もが惹かれ憧れ、魅了されたが、神々からすれば、どれも等しく幼子のようなもの。

 神々は、人間の紡いだ恋の和歌うたのどれにも見向きもしなかった。

 それはあまりにも神々と人間に違いがありすぎたからだった。

 神々と人間の違いは、力の有無や見目の美しさばかりでなく、時間の流れもまた大きな違いだった。

 それは永遠の命を持つ神々と寿命という制約を持った人間たち。

 ともに生きていくにはあまりにも、ともに生きていける時間が少なすぎるのだ。

 如何ほどに神々が人間を愛しても、その人間の命はあっという間に散っていく。

 だから神々はけっして、人間とともに生きていこうとはしなかった。


 しかし、ある花の美しい季節。

 一人の幼き娘が、翡翠の髪と目を持つ美しい神の前に現れ、こう言った。

 自分には行くあてがない、助けてくれ、と。

 この神は、神々のいただきにあり、この世界を統べる神であった。

 幼き娘は、それを知らなかった。

 神は高貴すぎる立場ゆえに、自身に会いに来て、こんなことを言ってくる人間なんぞ、見たことがなかった。

 最初こそ、この娘は何をのたまっているのかと、目を丸くした神であったが、その娘の豪胆さと、生きることに貪欲なその生き方を、その神は面白いと笑って、手を差し伸べることにした。

 共に暮らすことを許し、住む場所を与え、この世界の決まりを教え、生きていくための知恵を授け、その娘が不自由なきよう、この世界で暮らしていくための縁を紡いだ。

 幼き娘は、神とともに暮らし、食物や着物の知識を得て、この世界の人間とも心を開いて話し、助け合えるようになった。

 衣食住に困ることなく、周囲との関係も良好。

 それはまさに、神の加護であった。

 幼き娘は、神の慈悲と優しさを身に沁みて感じ、その愛情の深さに、おおいに感謝した。

 けれど、この神が加護を与えた理由は、慈悲でも優しさでも、ましてや愛でもなく、ただのほんの気まぐれ。

 この神は常に、暇を持て余していた。

 この世界の頂にあり、この世界を統べる神として人間からはもちろん、他の神々からも崇められていたこの神。

 けれど、その神は、自身の置かれている立場を、良くは思っていなかった。

 建前や形ばかりにこだわって願い縋ってくる人間たちにも、力があるからと面倒な役回りを押しつけてくる他の神々にも嫌気が差していた。

 この世界の頂にありながら、自身はこの世界のいしずえであり生贄いけにえ、この世界を維持するために力を振るうだけの存在だと、神は常々、自嘲じちょうしていた。

 そんな時に現れた奇異きいな幼き娘。

 神にとっては、自身の胸の内の空虚さを、ほんの少しでも満たすことができるのならば、その理由は何でもよかった。

 だから娘に手を差し伸べたことも、持て余しすぎて、こけまみれになった暇を潰すための、単なるたわむれにすぎなかった。

 少なくとも、最初のうちは。


 それから数年の月日が流れた。

 妙齢となった娘と翡翠の髪と目を持つ神は変わらずともに暮らしていたが、その関係は打って変わったものとなっていた。

 娘はそのまま神を慕い続け、神もまた娘の存在がなくてはならないものになっていた。

 この世界を統べる神と人間の娘は当たり前のように恋に落ち、想い合い、そして夫婦となっていた。

 周囲には、特に神々には止められ、咎められ、疎まれもしたが、愛し合う二人の前には些末なこと。

 娘も神も、とても幸せに暮らしていた。


 しかし、ある年の寒い日。

 娘は病に罹り、床に伏すことが多くなった。

 娘の苦しそうなか細い呼吸を聞くたびに、神はそのまま止まってしまうのではないかと恐れた。

 けれど、幸いなことに病は重くなる前に娘のもとから消え去り、暖かい日が続く頃には、また娘は元気に外へ出かけるようになった。

 必ず神の住まう屋敷に帰ってきて、笑って、楽しく、病になる前と変わらず、幸せに過ごしていた。

 しかし、神は違った。

 娘の前から病が消え去った後も、神の心は晴れなかった。

 なぜなら神は知ってしまったから。

 いや、改めて突きつけられ、気づいてしまった、と言った方が正しいのだろう。

 なぜなら神は気づいてしまったから。


――娘の命が花のように儚いことを。


 自身の妻が自身を独り、この世界に残して消え去ってしまうことを。

 人間の寿命の短さを。

 この幸せな時間が刹那であることを。


 ある日、神は娘に問う。


――人間をやめて、神として悠久を生きる気はないか?


 娘は、少し考えてから首を横に振ってはっきりと答えた。


――私は人をやめる気はない。神様になるなんておこがましいし、人間の私には荷が重い。なにより、悠久を生きるなんて、私には恐ろしくて、できない。周りの人たちが、なすすべもなく死んでゆく姿を見続けながら、その先を生きていくなんて、私にはできない。


 神は娘の答えを聞いて、過去に自身が、娘に与えた加護を悔やんだ。

 娘にこの世界の知識を与え、この世界の人間との縁を紡いだことで、娘は自身を置いて死ぬことを選んでしまった。

 今更悔やんでも仕方のないことだとわかりながらも、娘に悠久の命を与えられぬことが悔しくて苦しくてたまらない。

 神は娘にもう一度、問うた。


――私を独り残して逝くのか……?


 この私を。

 もうひとりでは生きてはいけなくなった私を。

 寂しいという感情を知ってしまった私を。

 身勝手に押しかけてきて、自身の思うままに私に願って、誰かとともに生きる幸福を教え込んで、ともに生きてきて。

 願いを叶えてやった私を、夫となった私を、孤独と絶望に突き落として一人、消え去ってしまうというのか。

 娘は少し躊躇いながらも答えた。


――貴方を独り、おいていきたくはない……。どうかお願い、私とともに生きて。


 娘は神に願った。

 その後、娘は花の命を持ちながらも、その花が枯れ落ち、朽ちて、力尽きるまで、この世界を統べた神の妻として、夫とともに生きた。

 この世界を統べる神もまた、その時が訪れてしまうまで、花の命を持つ娘の夫として、妻とともに生きた。

 娘は神に願い、そして、娘の願いは叶えられた。


――神が人間に身を落とすことで。


 娘の死後まもなく、かつてこの世界の頂にあった神も残された花の命を散らし、その生を終えた。


 幼かった娘も、かつては翡翠の髪を持つ神だった男も、二人揃って髪の色が白くなり、時の流れに逆らうこと叶わず、老いていた頃、こんな話をした。


「なぁ、妻よ。もしも私が神のままであれば、次の世のそなたとまた愛し合うことができただろうか」


 男の問いに、妻は少し驚いてから、楽しげに笑って答えた。


「そうかもしれないけれど、私は嫌ですよ?だって、次の世の私といえど、今の私は私だけ。今の世の貴方の妻になれるのは、今の世の私だけでありたいじゃないですか。ですから、次の世の私は、次の世の貴方にお任せしますよ」


 娘の答えに、男は少し驚いてから、楽しげに笑って頷いた。

 それから幾度も季節を越えて、ある薄紅色の花が咲く季節、神々にとってはほんの刹那、かつて翡翠の髪と目を持つ美しい神だった男とその妻は、この世の生に幕を閉じた。


 二人の死後、かつてこの世界を統べていた神の愚行は、神々に、そして人間たちにも、多大な影響を与えた。


 ある神は笑い、二人の行く末を祝った。

 ある神は嘆き、海の底に身を沈めた。

 ある神は怒り、娘の魂をどこぞの世界へと投げ捨てた。

 ある神は許し、かつて神だった男と娘の再会を心の底から願った。

 様々な神々が、各々思うままに動いた後、二度とこのようなあやまちが起こらぬように、決まりをつくり、その決まりに従った。

 まず神々は、人間の目から自身たちの姿を消した。

 そして話し合うこともやめ、声も言葉も人間に届かぬようにした。

 天上へと住む場所すらも変えた。

 もう二度と、神と人間が恋に落ちることのないように。

 神が人間に身を落とし、その生を終えることがないように。

 かつて頂きにあった神が消え、残された神々が、引き裂かれるような想いを抱くことがないように。


 人間たちは神々が姿を消したことで、この世界の頂きにあるのは我らだと思い上がった。

 そしてこの世界を統べるため、責任と役割を作り上げ、貴族や武士、女房や従者、行商人や民草、様々な立場が生まれた。

 人間たちは我が物顔で、この世界を好き勝手に変えて、思うままに住まった。


 ある夏の日、突如、空が夜でもないというのに真っ暗になり、強い光とともに、力任せにに太鼓を打ち鳴らすような轟音が、この世界中で響いた。

 雨が止まず、山は崩れ、田畑は実らず、光が落ちてきたところにいた人間はその身を焼かれた。

 その時、人間たちは知った。

 自身たちの傲慢さに怒り、神々は天上へと立ち去ってしまったのだと。

 神の怒りに触れた者は、身を焼かれ死んでしまうのだと。

 人間たちは恐れと畏怖の念を取り戻し、再び神々を崇めたてまつり、神々の恵みに感謝しながら暮らすようになった。


 それから月日が流れたある日、この屋敷に一人の娘が現れた。

 その娘は、異なる世界からこの世界に降り立ち、神と見紛う力を持っていたという。

 その時、この世界は未曾有の混乱の渦中にあったのだが、娘が来て力を振るうと、途端にその混乱は消え去ったそうだ。

 その後も、時を変え、姿を変え、名を変えながら、この屋敷には力を持つ娘が、異なる世界から降り立った。

 娘はきまって、この世界の窮地に現れ、この世界を救って、異なる世界へと帰っていく。

 人間はこれを、天上の神からの救いだと考えて、その救いに感謝した。

 そしていつからか人々は、降り立つ娘を天上の神に愛されし姫君として崇め、また娘が現れるこの屋敷の当主を、天上の神に愛されし姫君の守り人として敬った。

 こうしてこの屋敷、翠上家は続いていく。

 その当主こそ、かつてこの世界を統べていた神の末裔なのではないかと、まことしやかに囁かれながら。

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