第三話 姫君と私の何気ない日常の一幕(1)

 姫君のお世話を始めて、もうひと月になる。

 たしかに女房たちの言う通り、常識の違いは多々あれど、私は女房たちとは違い、推し量ることのできない文化の違いと、互いにすり合わせをしていくばかりの日々、それすらも愛おしく思える。

 懸命に慣れようとする姫君の愛らしさ、驚くようなことを平然とやってのける勇ましさ。

 不可測で大胆不敵な彼女の振る舞いの一つ一つに、私は日々の彩りを感じている。

 思えば、私が姫君の世話役を担うと、最初に話しに来た時の“握手”という文化にも驚いた。

 女性がおのこの手を握りしめるなど、この世では幼子でもなければ、なかなかないことだ。

 それが姫君の世界の文化だということは理解できてはいるが、今後は私以外の人間にはやっていただきたくない。

 それは常識と違うから、という教養の観点からではなく、ただ男の女々しい嫉妬が理由であることは口が裂けても言えない。

 まさか、姫守として文武両道、聖人君子であるように幼い時分から育てられてきた私が、このような醜く卑しい感情を抱くとは。

 人間とは、そして人生とは、どう変わるかわからないものだ。


「雅時さん、お疲れですか?」


 そんなことを考えながら姫君宛に届いた文を確認していた私を気遣うように、姫君が声をかけてくれた。


「いいえ。ほんの少し息を整えただけですよ。ご心配おかけして申し訳ございません、姫君」


 にこやかに言葉を返したが、姫君は少し黙り込んだ後、やや不服そうにこちらをみつめながら、複雑そうな表情で言う。


「……雅時さんって優しいし、優雅だし、すごく偉い立場なのにおごらないし、周りからの信任も厚くて仕事も完璧なすごい人……ですけど私がどれだけ、私にかしこまらないでくださいって、言っても全然聞いてくれないですよね……」


 ここひと月の間で、姫君とともに宮中に行くことも度々あり、私の仕事をする風景を彼女は近くでよく見ている。

 そんな彼女に、仕事や人柄を褒められたことに喜びを感じつつ、それと同時に私の至らなさを責められている状況に、どう振る舞ったら良いかわからず、私の顔は困った笑顔を張りつけるだけ。


「えぇっと、それは……」


 彼女の言葉に、私はどう言葉を返したらよいか、とあぐねていると、彼女はさらに言葉を続ける。


「いつも穏やかで、丁寧な口調で、たおやかで、女の私から見ても女子力高くて、素敵な人だけど……けっこう頑固ですよね。時々押しが弱そうに見えて、静かな圧力で絶対引いてくれない時あるし」


 止まらない彼女の責め苦の数々に、私はおずおずと問いかける。


「もしかして、姫君、怒ってます?」


 私の問いかけに、彼女は一瞬目を丸くしてから、勢いよく、首を横に振る。


「お、怒ってないです!怒ってはいないですけど……もう少し、仲良くなりたいって思ってます。対等……っていうのは、偉い貴族の雅時に失礼かもしれませんけど……」


 ためらいがちにだんだん小さくなっていく姫君の声がなんともいじらしく、愛おしい。

 言葉少なになっていく姫君から引き継ぐように、私は静かに言葉を返す。


「私に失礼だなんてことは決してありません……姫君、貴女は、私が貴族で偉い立場だと言ってくれますが……それは所詮、普通の人間の中でのこと。神に愛されし姫君である貴女の方が私より断然、偉いのですよ?」


「でも、私はこの世界のことはまだ全然わからないことだらけで、雅時さんに保護してもらってる身ですし……それに、雅時さんの方が歳上でしょう?そんな人に、すごくかしこまられちゃうと、申し訳なく思っちゃって、ちょっと落ち着かないんです」


 そう言って姫君は眉尻を下げて、困ったように俯いてしまった。

 相手に何か物事を突きつけるという行為は、自身にもひどく負担がのしかかるものだ。

 その相手が悪人でなければないほど、自身がその相手を嫌っていなければいないほど、そして、その相手が自身を大切にしてくれればしてくれるほどに。

 自身の常識が通用しない場所で、他に行くあてもなく保護をされている心もとない立場、そんな心細い状況の中で、相手を慮りながら物事を突きつけるというのは、とても勇気がいっただろう。

 今の姫君の心境を思うと、心苦しくなる。


「……貴女を困らせてしまってるんですね……」


「困ってるとかじゃないんですけど」


 こちらの心が痛くなるほどに、戸惑い弱々しく小さくなる彼女の心を癒したくて、私は殊更に明るい声音で頷いた。


「わかりました。善処いたします。急には難しいかもしれませんが……貴女には憂いの一つもなく、ここで微笑っていてほしいので」


 私が姫君ににこりと笑いかけながら、そう言葉にすると、彼女の影がさしていた表情が、ぱっと晴れて明るくなった。


「ありがとうございます!……その、いつも雅時さんにわがままばっかり言って、すみません……」


「わがままなんてことはっ!」


 わがままだと謝罪する彼女に、私は驚き、その言葉を否定し、訂正しようとした。

 しかし、私がどれほど、姫君の言葉がわがままではない、と告げても、優しい彼女は心を痛めてしまうだろう。

 私は、姫君の謝罪を受け入れ、そして私の言葉に願いを乗せて伝えた。


「……でも、そうですね。貴女がわがままだと言うならばそうなのでしょう。ですが、お願いです。こんな愛らしいわがままならば、これからもぜひ、わがままを言ってくださいね」


 微笑みながら返した私の言葉を聞いた姫君は、少し驚いた表情を浮かべた後、少々照れたように、はにかんでから、ためらいがちに頷いた。




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