第二話 神に愛されし姫君と姫守としての私

 神に愛されし姫君が顕現けんげんされてから、十日余りが過ぎた。

 その十日余りを、彼女と過ごしてわかったこと。

 それは彼女の考え方や行動、そして彼女の世界での常識は、この世を生きる私たちがつちかってきたそれとは、あまりにかけ離れたものだ、ということ。

 そのことで私や周囲の者たちが振り回されるのも事実だが、彼女自身もあまりの違いに戸惑われているのも、また事実。

 常識が違うということは、こんなにも難しいことなのか……と度々たびたび、頭を悩ませる。

 けれど、それでも彼女が懸命に、この世の常識を学び、生き方に順応しようとしてくださっているならば、私たちも、彼女の生き方に寄り添わなくてはならないだろう。

 姫君の生き方と私たちの常識。

 どちらかが淘汰とうたされることなく、どちらかが身を引くでもなく、どちらにとっても良きところで、落とし所をみつけつつ、歩み寄ることができれば、それが一番よいのだから。



 父の代からこの家に仕えてくれている女房が、私の部屋にやってきて、眉を寄せ、溜息とともに私に進言してきた。


「恐れながら、若君様……しがない女房であるわたくしどもには、異なった世界の姫君のことなど一つも理解できませぬ」


「今度はどうしたんだい?また若い女房がさじでも投げたのかい?」


 姫君は女人にょにんで私は男子おのこだ。

 私と関わる時も、男と二人きりというのは恐ろしかろうと、彼女のそばには必ず女房をつけている。

 しかし、まだ経験の浅い未熟な若い女房は、彼女の尊さや存在の価値が理解できず、文句を言っては逃げ出してしまうらしい。

 先代の神に愛されし姫君にも仕えた経験があるこの女房ならば、うまくやってくれると思ったが、そう簡単にはいかなかったようだ。

 女房は憤慨ふんがいし、感情のままに声を荒げる。


「匙も投げたくなりましょう!女子おなごでありながら、素足すあしさらし、足音をたてて、あちらこちら歩き回るのですから!」


 たしかに、この世で生きてきた女房たちからすれば、そのような行為は考えられないことだと思うが、彼女はまだこの世に来たばかり。

 そのように、目くじらを立てずともよいのではないか、ある程度は目を瞑ることも肝要かんようだろう、と考える私は甘いのだろうか。

 しかし、父から聞かされた先代の神に愛されし姫君も、最初は元服げんぷく直後の父より幼子おさなごのようだったそうだ。


「そんなにすぐこの世の常識を覚えるのは難しいだろう。姫君はまだ来たばかりだ。もう少しあたたかい目で見守ってあげてくれないかい?……それに、先代の神に愛されし姫君だって、最初はそうだったって聞いているけれど?」


 私の言葉に、女房は小馬鹿にしたように鼻を鳴らして言い返してくる。


「それでも、ここまでかけ離れてはおりませんでしたわ!意味もわからぬ、まるで大陸向こうの言葉を乱用らんようし、そのお言葉の一つ一つもよくわかりませんし、話も通じません。若君にお言葉を返すようでございますが、先代の方は奥ゆかしさがございました!」


 困った。

 何を言っても、聞き分けてくれる気はなさそうだ。

 しかし今、困っている以上に自身の中に渦巻くのは、腹立たしさだ。

 少し前から女房の口から飛び出す不躾な言葉の数々に、私の腹の虫が騒ぎ出して、おさまらない。

 目の前の女から漂ってくるいびつな優越感に、私の守るべき姫君がいたずらにさらされている。

 腹立たしい。

 このような女房がこの屋敷にのさばっていることが。

 このような女房に、少しでも信頼を置いた自分自身が。


「なるほど。では君は、私がお守りするべき神に愛されし姫君は、奥ゆかしさの欠片かけらもない、はしたない娘だと言いたいのかい?」


 私が冷たい空気をまとい、女房の言わんとしている言葉をはっきりと口にする。

 すると女房は、私の言葉の冷たさにおびえ、自身のが悪いと思えば、途端に発言の責任から言い逃れようとする。


「そんなっ……そこまではっきりとは申し上げませんけれど、もう少しこちらの常識に合わせてくださいませんと……恥ずかしくてお外にも出せませんし、若君のそばに置けませんわ。教育しようにも、物覚えがとぼしくて」


「今のところ外に出す予定はないよ。この屋敷の奥でしっかりお守りするつもりだからね。……それにしても、神に愛されし姫君にご鞭撻べんたつか。君は御上おかみか神にでもなったつもりかな?」


 そもそも私のお守りするべき姫君は神に愛されし姫君、それを人間風情にんげんふぜいの私や女房が尊い彼女を相手に良し悪しや行く末を判ずることすら、おこがましいと思うけれど。

 まったく、この女房は何様のつもりなのか。

 たかだか、歳ばかりをくった女房風情でありながら、神に愛されし姫君を推し量ろうとするなんて。

 たかだか、我が屋敷に長く仕えているというだけだというのに、私のお守りするべき姫君を軽んじるなんて。

 そんな私の思いなど知るよしもない女房は、さらに癇癪かんしゃくを起こした子供のようにわめきちらす。


「そのような言い方はおやめくださいませ!私は若君の、この屋敷のためを思ってっ!」


 私はこれ以上、この女房の話も声の一つすら聞きたくない。

 そうでなければ、我が屋敷に長く仕えてくれたはずのこの女房に、凄惨せいさん末路まつろを与えてしまいそうだから。

 私は落ち着きを取り戻すため、息を深く吐いて、女房に静かに告げた。


「話はあい分かった。君たち女房は今後、姫君に近づくことを禁じる」


 私の言葉を聞き、女房の態度は、徐々に平静なものに戻った。

 そして女房は、少し思案してから、いぶかしそうに眉をひそめ、静かに問いかけてくる。


「……しかし、それでは誰が姫君のお世話をなさるおつもりですか?」


 彼女の問いに、私は迷いなく答えた。


「とりあえずは私が全て担うよ。私は姫守のお役目があるからね。もしも姫君が女子おなごの方がよいと言うならば、わらわでも女房でも、私が手ずからきちんと、姫君の世話役に見合う者を探してくるさ」


 私の答えを聞いた女房が顔をしかめながら、小さく短く尋ねる問いに、私は静かに言葉を返す。


「甘やかしすぎでは?」


「まだこの世に顕現されてひと月も経っていない。姫君には、不安や戸惑いも多々ある中で、こちらが無理を言ってここに留まっていただいているんだ。これは甘えでなく、正当な保護だよ」


 その私の言葉にも、女房は眉をひそめながら溜息とともに、吐き捨てるように言う。


「十日も経てば十分じゅうぶん、慣れていただけて当然だと思いますがね。常識が違うのはいたかたないとはいえ、無知は言い訳になりません」


「しかし、無知は罪にもならないよ。これから徐々に知っていただけばいいだけの話だ。事を早急に考える必要はない」


 私の言葉に、女房は眉は顰めたままだが、それ以上の異論はないようで、一つ言葉を残して部屋から出ていった。


「ようやっとのお役目をいただけた若君の、そのお気持ちは痛いほどわかります。ですが、私にはどうにも、あの姫君がこの世に幸いをもたらしてくれるとは到底思えないのです。立場とお役目、努々ゆめゆめお忘れなきよう」


 女房が出ていった後、私は立ち上がり自室を出る。

 そしてすぐさま私は姫君に会いにいった。

 これはある意味では、私にとって都合がよいかもしれない。

 女房に任せていた間も、姫君は泣いていないか、不安に震えていないか、と心配でたまらなかった。

 あの女房の進言によって、私が姫君の傍で一番に守れることになった。

 そう考えれば、あの女房への怒りも少し落ち着かせることができた気がする。



 姫君の部屋の前で、ふすましに声をかけ、入室の許可をいただく。

 そして部屋の中に入った私は、お守りするべき姫君の前に座り、告げた。

 この先、女房がそばにひかえられないこと。

 姫君のお役目として外に出る以外は基本的に、屋敷の奥に位置するこの部屋を姫君の自室として、暮らしていただくこと。

 そしてこれから姫君のお世話の一切は、この私、翠上みどりのうえ 雅時まさときが全て担うこと。

 あえて、他の女房を探す旨は告げずにいた。

 けれど、素直に純粋なまなこで私の言葉を聞く姫君を前にして、私自身が良心の呵責かしゃくに耐えきれず、隠し通してしまいたかったその旨を吐き出す。


「申し訳ありません。もう一つ、言いそびれておりました。私は、どうあっても男子おのこです。そのことで……貴女がもし、お気にさわるのであれば……」


 私が、その先を告げようとした時、彼女は首を横に振って、優しく私に笑いかけて言った。


「全然!気に障ったことなんてないですよ!この屋敷の人たちは、みんな優しいですし、ご飯も美味しいですし。私は、もっとこの世界のことを知りたいし、雅時さんともたくさんお話したいです」


 私が言い終える前に、彼女が私の欲しかった答えを言葉にしてくれた。

 私はそれ以上、その旨について何も言うことなく、ただ頷いて返せた言葉は一つ。

 それを聞いた貴女は、驚いた表情を浮かべてから、溶けるように甘く微笑んでくださった。


「私も貴女のお傍で、貴女の生きた世界の話や貴女の声を聞いていたい……です」


 はにかむようにお互い微笑み合って、そして彼女が徐ろに私に向かって手を伸ばした。

 私はどうしたらよいものかわからず、その伸びた手を見つめていると、彼女がもう一方の手で私の手を取り、伸びた手に握らせた。


「これは?」


「これは、握手というものです。私の世界では、これからよろしくお願いします、という意味でやります。必ず右手で握手するんです。左手でやると反対の意味になっちゃうからダメですよ?」


 姫君の説明を聞き終えた私は一つ頷いて、握りつぶさぬようにゆっくりと力を込め、姫君の手を握り返した。



 こうして神に愛されし姫君と姫守としての私、二人での生活が始まった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る