第一話 姫守の一族に生まれた私のお役目

――この世界は天上の神と、その天上の神に愛されし姫君に守られ成り立っている。



 私は、この一族の本家の当主の息子として生まれ落ちた瞬間から、お役目があり、私のこの先は決まっていた。


 この一族の当主の息子、つまり次期当主は代々、異なった世界から現れる、“天上の神に愛されし姫君”を守るお役目を担っている。

 私は幼い頃から、その姫君のために教養きょうようを磨き、日々の鍛錬たんれんをこなし、知も武も誰にも引けを取ることないように育てられた。

 その姫君が、いつ顕現けんげんされるかも、いつお戻りになられるかも、わからないまま。


 天上の神に愛されし姫君とは、必ず顕現されると決まっているわけではないらしい。

 前の姫君がお戻りになられてから、数年も経たず現れることもあれば、数十年以上も現れないこともあったらしい。

 この家の当主として、お役目のために育てられても、そのお役目を与えらることもなく、お役目をまっとうすることもできず、その地位を去られる代も少なくない。

 天上の姫君が現れない、それは、顕現する必要がないほどに、この世界が平和な証拠。

 それは、とても喜ばしいことなのだろう。

 けれど、姫君が顕現されない代の当主はきまって、早々に立場を退かされるらしい。


 私の父は元服げんぷく直後に、そのお役目についた。

 父が守った先代の姫君は、私が生まれた後までいらしていたそうで、赤ん坊の私を見て、愛らしいとお言葉をくださったそうだ。

 といっても、私が生まれてすぐにお戻りになられたそうだから、私自身、会ったことがあると聞かされても記憶にはない。

 それでも父は、それは幸福なことだと、今でも酒の席の度にその事を語る。

 そんな私が守るべき姫君は、私が元服して十数年経った今でも、現れる兆しすらない。

 家の者たちが私のことを案じ、早々に跡継ぎの話を持ちかけてくるが、私はそのどれもに首を横に振った。

 この家の者たちは、私がお役目を果たすことはないと思っている。

 この世界の人間たちは、私の代で天上の神に愛されし姫君が現れることはないと思っている。

 けれど、私にはわかっていた。

 必ず私のもとに姫君は現れる。

 その方は美しく聡明そうめいな、とても大人びた女性。

 なぜ、私がわかるのかと問われれば、答えは単純明快。

 私は見たことがあるから。



 あれは、かすみけぶる、ある春の日。

 まだ幼かった私はお役目のための鍛錬に疲れ果てて、いつの間にか、普段は入ることのない部屋の前にいた。

 襖をひらいてみれば、そこには誰もおらず、とても静かな場所だった。

 その静けさは、その時の私には心地よく、私はその部屋に隠れるように入り込み、襖を閉めた。

 その頃、私が疲れていた原因は、教養の勉強や剣の鍛錬だけではなかった。

 私の心の疲弊が大きかった。

 心の疲弊の原因は、本家と分家との確執。

 本家の当主である父が、年齢など関係なく分家の当主より立場が上であるため、少なからず関係にひずみがあった。

 もちろん分家の当主たちは、自身の生活もかかっているから、うわべでは父にびへつらい、ヘラヘラとしていたけれど、本心では違ったのだろう。

 自身の屋敷では、本家への不平不満を並び立てていたに違いない。

 それを、その家の子供は耳にしていたのだろう。

 子供には立場もうわつら外聞がいぶんもわからない。

 本家に生まれたというだけで、私は周囲から妬まれ、他家たけの貴族からうとまれ、揶揄やゆしてくる分家の子供たちからみ嫌われていた。

 その子供たちの悪意は、大人たちのいない影となる場所で、攻撃となって私を襲った。

 その一つ一つに疲弊しきった私は、消えてしまいたい、と泣き言を漏らしながら、誰もいない部屋の中、膝を抱えてうずくまっていた。

 その時、その部屋に鎮座するように置かれた盃に目が留まる。

 私の目の少し先に置かれた丸く大きな盃の中で、水が揺れていることに気づいた。

 まるでたった今、水が注がれているかのように波紋を作り、盃の縁まで溢れんばかりになみなみとある水は、薄く入り込む隙間風に揺れている。

 盃の側面は黒く、盃の中は紅と金色で鮮やかな装飾が施されていて、その装飾の細部まで見えるほど、その水は塵一つなく、澄んでいた。


 その水鏡の向こうに、美しい女性の姿があった。


 私は慌てて周りを見回した。

 けれど先程までと同様、その部屋には私の他に誰もおらず、それでもまるで水鏡の奥にいるかのように、その女性は映っていた。

 女性は私の涙を見て、少し目を丸くしてから、優しい声音で私に言った。


――大丈夫。すぐに逢いにゆくから。ほんの少しだけ、待っていて……必ず、逢いにゆくから……


 彼女の微笑みが、優しい声音が、言葉もなく、私に告げていた。

 彼女こそ、私のお役目、天上の神に愛されし姫君なのだと。

 その邂逅は、ほんの一瞬だった。

 風に揺らめくその水が、ぱしゃりと音を立てた時、彼女の姿は消えていた。

 私の寂しさや孤独をともに引き連れて。

 その日から私は、彼女への想いだけのために強く生き、彼女への想いのためならば、どんな困難も怖くはなかった。

 必ず逢いにゆく、と約束を交わした彼女のためならば。



 そして、その想いは変わることなく、今に至る。

 やはり、天上の神に愛されし姫君と、ただの人間である私との間に、時間の捉え方に差があるのだろう。

 彼女の“すぐ”とは何年先のことなのだろう。

 すでに、あの約束から二十年の月日は経ってしまっている。

 それでも私は、彼女の言葉を疑うことなく、約束を違えることなく、待ち続けている。

 現れる兆しすらなくとも。

 家の者たちが跡継ぎの話を持ちかけてこようとも。

 この世界の誰に、私がお役目を果たすことはないと思われていようとも。

 この世界の誰もが、私の代で天上の神に愛されし姫君が現れることはないと思っていようとも。

 私は信じて待ち続けている。

 必ず私のもとに彼女は現れる。

 あの美しく聡明な、とても大人びた女性。

 なぜ、信じられるのかと問われれば、答えは至極当然。

 私は一目惚れしてしまったから。


 あの日、出逢った瞬間、言葉をかけられたその一瞬で、私のこの先は決まってしまった。



 天上の姫君が現れない、それは、顕現する必要がないほどに、この世界が平和な証拠。

 それならば、彼女との出逢いを今か、今かと待ち侘び、希う私は、罪人だろうか……。


 そんなことを頭に巡らせながら、寝屋に向かった日の夜更け。

 私の待ち人は現れた。

 この世界の平和は打ち崩され、天上の神に愛されし姫君が、この世界に顕現された。

 私の前に現れた私の守るべき姫君は、あの頃と全く変わらないお姿だった。

 しかし、私が歳を重ねたせいだろうか。

 あの、霞烟る、春の日に出逢った時と変わらない、そのままのお姿だというのに。

 美しいというより愛らしく、聡明というよりあどけなく、大人びてはいない、むしろ幼い。

 見目も物事の捉え方も、想像していたよりだいぶ幼い。

 無知で幼稚で愛らしい姫君が、私の瞳に映っていた。


 それはたしかに、想像していた“天上の神に愛されし姫君”の印象とはかけ離れていた。

 出逢い方も姫君の雰囲気も何もかも、私が思い描いていたものとは全く違っていた。

 それでも、私の想いが変わることはない。

 むしろ、想像以上の昂ぶりさえ感じるほどに。

 私が守るべき姫君は、私が守ってさしあげなければこの世界では生きていけぬほど、無知で、あどけなく、幼稚で、愛らしく、そして脆い。

 待ち遠しかった再会は、想像よりもはるかに私の心を掻き立てるものだった。

 私の中で彼女の存在が、無知は無垢に、幼稚は純粋に、愛らしさが愛おしさに変わることに、そう時間はかからなかった。

 

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