解脱

なぜ人は咄嗟に大声を出してしまうのだろうか。私も大声を出しながら倒れ込んだものだから、蝉の海に突っ伏した時に口の中に少なくとも2匹の蝉が入ってきた。


私はいったいどんな叫び声をあげていたのだろうか。できる限りの絶叫をしていたはずだが私の耳に残っているのは甲殻や羽のこすれ合う音だ。虫の隠れ家を見つけてそこをつついた時に一斉に虫たちが駆けだすかすかな外殻のこすれる音。それを何百倍にも大きくした音が脳の芯まで響いていた。


なぜ人は混乱するとがむしゃらに力を入れてしまうのだろうか。異物の侵入に対して反射的に閉じきってしまうことを選んだ。ガッチンと閉じた歯列は蝉の死体を二つに割いた。外角はパリとしていて、その後の内部はシュックっとした。


あの死を濃縮した臭いが味となって口腔内を満たした。それになんだか知っているような味が加わった。"蝉の精液だ"私は普段嗅ぐあの臭いに近いことに気付いてしまった。口腔内のすべてを吐き出したかった。だけどでは口を開けられない。次の侵入を許すわけにはいかなかった。どうしうようもなく、それまでも暴れていた手足を大暴れさせた。


冷静も上下を失っていた。海で溺れた人が海面を見失うより深刻だった。蝉の死骸は液体のようなまとまりも重さも持たない。私の腕が、足が、その海を搔きわけても殆ど空を切るような感覚で重力を教えてくれなかった。


蝉のあの手足。木々の表皮に抱き着いて、そこから引き剝がそうとしてもなかなか苦労するようなホールド力。その根源は細かくのこぎりのような手足の機構。私の手足は暴れるほどに血が滲む程度の微細な傷が無数に出来た。そのわずかな血の湿りが臭い汗と蝉のてらてら光るあの油分と混じって今もB-408に残っていることだろう。


私はこの中で目を開けることができなかった。眼球を傷つけないためではあったのだが私はこの判断は正しいものだと思う。数万の死んだ蝉と目を突き合わせることを避けられたのだから。


異物に耐えられなくり胃の中のものまで口腔内に溢れさせた。私は自分の酸味と死の臭いと蝉の種の混ざったものが唇を破って飛び出すのに抵抗した。それでも暴れると少しずつ、少しずつ当たりにまき散らした。この頃、手や足先に床の硬さを感じて私は下を理解し始めていた。


私がやっと上を向いたら、腰の辺りにずっしりと重さを感じた。首の後ろに救いの手が差し込まれて私の顔面は蝉の海から持ち上げられた。どのくらい経ったころだったのだろうか。出来事を鑑みれば数秒だったのだろう。だが私は数時間だったかもと考えることがある。


目を開けると蝉拾いの男が私の上でマウントポジションをとっていた。


「どうですか」


相変わらず燦々輝くほほ笑みで私にたずねた。私はやっと空気の中にいることに感謝して、えずくに任せて口腔内のものを吐き出していた。口から四方八方にまき散らされたは私の顔を涙や鼻水と一緒になってを汚していた。


「あなたはたくさんの死に囲まれた。全身の皮膚も鼻腔も満たされましたね。おや口の中にまで」


蝉拾いの男は私の口に指を差し込み蝉の殻片を取り出して臭いを嗅いだ。私はされるがままになっていた。


「あなたはもう悩むことはない。悩まなくていいんです。。そうでしょう?」


私は初体験の様子を思い出していた。私も彼女に馬乗りになってこんな風に話かけた。ラブホテルの柔らかく清潔な布団、傷のない滑らかな肌、嘔吐物で汚れていない彼女。私は彼女に愛を囁いてみて、彼女は赤くなってそれにどう答えて良いのわからない様子だった。


「すべて大丈夫。生きているから。あなたもあなたの周りの人も」


蝉拾いの男も私に愛を囁いているようだった。私の頭を持ち上げて死の海から救いあげたその手に私はすっかり体を任せていた。まるで0歳の子供を支え慈しむような手。世界のすばらしさを教えるような口ぶり。この狂乱の元凶である蝉拾いの男から私は愛情を感じていた。それほど男の心は深い感情に満ちていたのだった。


「どうですか?もう大丈夫。すべてよくなります」


私の脳内では再び初体験の光景が再生されていて、私はただ赤くなったきり何も言わなくなった恋人に優しく口づけをしたことを思い出した。


キス。蝉拾いの男。ゲロまみれの自分。蝉の死骸。嫌だ。記憶とこれから起きることを錯綜させて、私の体は跳び起きた。


立ち上がり見下ろすと、蝉拾いの男は私の勢いでのけぞって、後ろ手になって蝉の死骸に浮いていた。相変わらず燦々笑顔のままだ。


正常に振れた私は自分で指を突っ込んで口から蝉の異物を取り除いた。男はまた何も言わずに私を観察していた。ゲロを手の甲で拭ったり、応急処置を済ませてみても男は動かずほほ笑んで私を観察する。


蝉拾いの男を見下ろしながら、沈黙した。私はどうするべきなのかを考えていた。通報するべきなのだろうか。男はどんな罪に問われるのだろうか、私は事情聴取になんと答えればいいのだろうか。はたまた男の手を取って立ち上がらせてお茶のお礼くらいは言って去るべきなのだろうか。どの考えも結局私は実行に移さなかった。


「おいきなさい」


その言葉に従った。何も言わず、結局最後まで男の指示に従ってB-408を後にした。

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