B-408
B-408は至って普通の団地の一室だった。私は自分だけが汗をまとったまま他人の部屋にいることに申し訳なく思った。そう思わせるほどB-408は綺麗だった。
玄関から短い廊下が終わりすぐにキッチンダイニング。その右手には大きな窓から差す日に照らされた畳敷きの和室があった。布団が丁寧に一組折りたたまれて置かれていた。私は男の勧めるままにダイニングに腰掛け、出された冷えたお茶をなんの抵抗感も抱かずに飲みほしてしまう。それほど変哲のない整った部屋だった。
「私もお茶をいただきますので少しお待ちください」
蝉拾いの男はそういいながらやはり上機嫌で、ゆっくりとお茶を飲んだ。
まるで友人の部屋に招かれたような錯覚を覚えた。しかし私は男の目線が時々ダイニングの奥にある扉に向くことに気付いていた。実に機械的に対応するこの男が楽しそうにして目線を送るのだった。
私はその視線に確かに奇妙な違和感を感じた。もし私が引き返すのであればこの時だった。
お茶を飲み終わった男は何も言わずに立ち上がると、さっきまでゆったり飲んでいたグラスをそのままにもったいつける様子もなくその扉の方へと向かうと開け放った。私は座ったままその部屋の様子を伺ったが扉に阻まれ中まで見えなかった。私はただただ見守った。男は着たままのウインドブレイカーから、蝉の死骸の入ったビニール袋を取り出した。
そして何の躊躇もなく部屋に向かって中身を放った。死んだ蝉は再び宙に投げ出されて扉で見えない部屋の奥へと消えていった。
斜め後ろから見る男の口元は何も言わずにまだ燦々と笑っていた。私はその光景を前にして気付けば立ち上がりその扉へと吸い寄せられた。
蝉の死骸はどうなったのだろうか?あの扉の向こうは何があるのだろう?
私の脳は再び飛躍した。蝉の死骸を食べる化け物を飼っているのかもしれない。はたまたあの扉は冥界に繋がっていて小さな死を捧げることで願いが叶うのかもしれない。いや夏の神かもしれない。夏の終わりの象徴を集めて捧げることで夏を熱く長くすることと引き換えにこの男の願いが叶うのかもしれない。
しかし、そのどれもが間違いであり、実際はただただ現実がそこにあるだけだった。
私が扉の前に立って中を覗き込むと、そこはくるぶしの高さまで蝉の死骸で埋まっていた。金属質と見紛うキチン質のてかりが数万と重なって死んでいた。寝室に充分な広さの洋室がすべて蝉の死骸で埋め尽くされているのだった。
私は足を踏み入れるほどの勇気はなかったが、つぶさに見るため扉から身を乗り出した。きっと後ずさりするべきだったのだ。でも私は信じられなかった。私は確認せずにはいられなかった。これがすべて蝉の死骸であるなんて信じることができなかった。何か別のものなのではないか。私はそう思って観察した。
やはりどれもが蝉だった。あの透明の根元から脈を延ばす複雑かつ整理された羽を持ち、つぶれた様な顔面の両端には突き出すような深く黒い目がついている。硬い背を見せて尊厳を保つ個体もいれば、蛇腹を重ねた紡錘形の腹を見せて死んでいる。蝉達は生きているころに持っていた秩序を失い部屋を埋め尽くしていた。
木の粉や土や肉を混ぜて腐った胃を持ち上げるあの臭い、甲虫の艶を生み出す油が酸化して饐えたあの臭い。無数の死が放つこの世を終わりを感じるあの香り。私は自分の出す乾かぬ汗の湿った臭いなど何のことはないことに気付いた。
「壮観でしょう?今年もようやくここまでになりました」
蝉拾いの男は私の背中に話しかけた。
「すべて死骸です。すべて死んでいます」
男は一度だけしか言わなかったが、蝉の声が繰り返すように私の頭の中で幾度となく再生された。
私の精神はたくさんの死を前にして、終わった生き物の臭気に触れて沈んでしまった。だがこれで私の悩みは解決したのだろうか?ほとんどの人の悩みを解決できるのだろうか?
「これがあなたの解決ですか?」
私は部屋から漏れ出した蝉の死骸と私の足先が触れそうな距離間を目に映しながら聞いた。
「いいえ、まだこれからですよ」
「これから?」
言い終わるころには私は前のめりに倒れ込んでいた。蝉拾いの男は私の骨盤と背骨の辺りを足裏で捉えて前蹴りをしたのだった。否応なしに私は蝉の死の海に突き落とされた。
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