背中
道路に出てからも男はどこに向かうか口にしなかった。それどころか口を開かなかった。それでこの男は一体どうやって私の悩みを解決するというのだろう。
もしかするとこの男は本当に初体験で炎や電撃ではなくて人の思考を見透かす力を手に入れたのではないか、おまけに彼は同性志向なのではないかと私は考えを飛躍させた。彼は私の悩みをすっかり理解して私に今までにない性的な行いを施すことで今ある悩みを綺麗に捨て去らせようとしているのかもしれない。私は異性愛者であるから決して許さないだろう。男の小さな背丈や骨格を見れば抵抗は間違いなく成功するに違いない。
私は支離滅裂なことを考えていて、自分が脱水の症状にあるのではないかとボトルを取り出し水を飲んだ。一口の水は私を落ち着かせて"何か危ないことがあったら帰ろう"という要点だけをはっきりさせた。男の背中をしっかり見て、とにかく自分の背中を見せないようにしようと決めた。
横断歩道、赤信号が二人の足を止める。私は男の横に立ち、全身入れ墨の人を横目に見る時のように男の様子を伺った。男は私が何かを観察する間も与えてはくれずに視線を合わせてきた。
「それはこういうことですよ」
男はわざわざ私の方を向きなおしてウインドブレイカーの前を止めるジッパーを下ろす。ちょうど変質者がやるように腹の辺りを両手持って開いてみせた。
私はウインドウブレイカーの下に襟付きのポロシャツを着ていることに気付いていたし、その裾が腰の上までであることを理解していた。それでもさっきの邪推が影響して男がどうにか男根を露出するのではないかと身構えてしまう。
「保冷剤です」
横断歩道を渡ってくる人も、道路を走る車も悲鳴を上げることなく問題ない日常のままだった。男のウインドウブレイカーにはいくつも裏地にポケットがついていて、すべてに白と水色で何か冷たいことを著す文字の書かれた保冷剤が収まりきらずに見えている。
「蝉ね、腐るんですよ。暑いから。だから冷やしてるんです。それに私も暑いのは嫌ですし一石二鳥なんです」
男は私に日差しのように笑った。ちょうど蝉拾いの男と私が待っていた信号は青に変わって男は前に向きなおして歩き出す。しかし男の笑みは褪せることなく燦々として上機嫌の様子。
男の手によって見るからに安物のジッパーが布を噛んで止まることもなく実に豪快な良い音を立てて閉まった。私はその音をスターターピストルにして、とんと重くなった自身の足をなんとか持ち上げ歩道の淵を跨いでまた男の背中についていった。
-そもそもこの男はなぜ蝉を集めているのか?
正常を取り戻した私の頭には要の問いが浮かんだが、正常な思考ではこの答えは見つけられなかった。なぜ狂った頭のうちに考えなかったのだろうか。
到着したのはなんのことのない団地だった。6棟ほど大きな建物が並んでいる。どれも水色とも黄緑ともとれるような曖昧な色で塗られている。"ここは遊び場ではありません"と書かれた看板の側では、やはり汗だくになった子供達がボール遊びを楽しそうにしている。A棟とB棟の間に男は進んでいく。日はB棟の方へ傾いて二棟の間の子供達の狭い遊び場は影で覆われている。それでもまだ子供たちも、ただ歩いてきた私も汗をかいていた。
「こちらの棟の4階です」
B-40?。私は危険に備えて情報を記憶した。建物の中ごろまで進むとエレベーターが見えた。私はどうやって男に背中を見せずにエレベーターに乗ろうか考えていたが、男は階段を上りだした。
私はこの暑さだから自分だけエレベーターに乗ってしまおうかと考えた。だがなんとなく、そうして一度離れたらこの男は霧散してもうこの世界から消えてしまうような気がした。私はそれでいいのではないかという理性の声を聴きながら、無視して階段を上った。
B-408だった。男はまるで普通の人間のようにポケットから鍵を取り出し差し込んで金属に安い塗料が塗られた扉を開ける。その時に隣人がゴミ袋を持って廊下に出てきた。蝉拾いの男が隣人に目をやると、隣人の方から笑顔をつくり会釈した。男も「こんにちは」と笑顔で返した。私は結局、実に自然な暮らしの姿に心を緩めてしまってB-408の敷居を跨ぐのだった。
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