蝉拾いの男
ぽんぽん丸
蝉拾いの男
夏の公園は向こう見ずに満ちている。
昨今の夏の暑さは人間が動くには苛烈である。
にも拘わらず公園では子供が致死量に思える汗にまみれて遊んでいる。おじさんが粒のような丸い汗を額から溢れさせ、その汗は皮脂と混ざり粘度を得ながらも軽快なランニングのリズムによってあごのラインまでしたたり落ち、公園の舗装路に点々と痕跡を残していく。
冬のこの公園で一か月でかかれる汗の量がこの一時間足らずで生産されている。私も生産者の一人だった。
木陰の涼しさの中のベンチに腰をかけるとやっと、ランにも耐える頭蓋骨に張り付くような帽子を脱ぐことができる。帽子と頭蓋の間にはそれでも少しの空間ができていて、この湿気で蒸発しきらずそこに溜まった私の汗が、帽子をとったとみるや瞼や鼻筋やほうれい線、私の顔に刻まれた筋をなぞった。暑い外気の中にあっても不快なぬるい温度を顔面に伝える。それだけでなく私も全身にはまるで衣服のように汗をまとっている。自分の不快な臭いがした。きっともうただ臭うだけでない。この臭気は吸い込まれてから大きく膨らみ、その臭いで他人の鼻腔を満たしてしまうことだろう。
息を整えながら私は先日終えた恋人との初体験を思い出した。
行為は何も問題なく進んだ。だが私はまだ乾かないうちにもう、初体験よろしく、ちょうど入学式を終えたような心持になっていた。それは式典のようだった。冒頭の挨拶、口頭での祝辞、正式な宣言、厳かな退場。まったく滞りない。しかし、こんなものか。瞬間に劇的に世界が変わるものだという期待をしていた。今まで見えなかった色や物が見えたり、炎や電撃が指先から出るに匹敵する変化が訪れるのだと信じていた。しかしどの時にも、変化はやってこなかった。私は夢をみていて、それは確かに夢だったのだった。
私はそう悟ってもまだ行為への夢を追っていて、こうしてランニングをしている。自身の耐久力や強い精神の先に私が想像していた夢があるのだと自分を磨いている。私はあきらめられなかったのである。より硬くより長く時間をかければ熱く燃え、雷鳴が体を貫き、世界は変わるのかもしれない。
そんな私とは違い無謀に思える同志がいる。蝉の声が公園には響いてる。彼らは十年近い成長を経て地上にでて実際には二週間から一か月ほどだという期間に交尾をする。ただただ大きな声を出すという到底正気とは思えない方法で、自分の性欲がどれほど強いかを叫びちらして相手を待つ。
足元に転がった蝉の死骸を見ていると、私の臭い汗粒が落ちて蝉を撃った。なんだか不敬に感じられ私は息を落ち着くようにとっていた楽な前景姿勢をやめて体を起こした。汗は私の体を伝うようになった。それから安心してまた蝉を見た。
この蝉は童貞のまま死んだのだろうか。はたまた交尾をしたのだろうか。もしかするとそこいらの土の中にはこの蝉の子孫を包んだ卵がもうすでに無数に埋まっているのかもしれない。
彼らの世界は変わったのだろうか。
そんなことを考えているとふいに、蝉の死骸に手が伸び拾いあげられ私の視界から消えた。
私は視線をあげた。そこには一人の人間が手に持ったビニール袋に蝉の死骸を放り込んでいる。その袋にはすでに目視で数えるには苦労するほどの蝉の死骸が入っている。私は凝視した。
「死んだ蝉は私がみんな拾っているんです」
長身と言うには少し足りない私よりもさらに30センチは小さい人は声から察するに男だった。私に言ったのかはまだわからなかった。
「このあたりでどれだけ蝉が死ぬと思いますか。その死体が全部鳥にさらわれたり、土に還ったり、車や人に轢かれて粉砕されて綺麗になくなると思いますか」
私は答えるわけでなく、しかし頭の中ではしっかりとその問いを思案した。決して理論的でないその言葉のどこかに納得してしまっていた。確かに蝉の死骸はどこに行くのだろうか。
「この仕事も大変でして、最近は特に夏が暑いでしょう?もう私は長く続けられないかもしれません」
男は近くの蝉の死骸をそそくさと拾いながら話した。
「そうですか、ごくろうさまです」
私は蝉拾いの男と会話をした。労いの言葉がつい口を出て、そんなわけはないのにと正気の自分の声が聞こえた。労いを返してほしい気がした。
「あなたもご精が出ますね。スポーツですか?」
「ああ、いえ」
私は言い淀んだ。セックスだとは言えない。
男はこの時やっと私の顔を見た。
「ああ、何か悩みがあるんでしょうね」
私の顔を見て合点がいって、また蝉を拾いに戻りながら男は続ける。
「きっと人間関係でしょう。人間が悩むのはいつも人間のことですから」
男は当然のことを言っている。具体的なことは何も言っていない。だが私は胸の内を透かし見られている気がした。
「解決しましょうか?」
「えっ」
私はこの男がさっきから言っていることすべてに根拠を見つけられないのだが、なぜだか男の言葉は私の今に満足できない心に光が差すように抵抗なく一筋差し込んでくる。
「私は人間関係の悩みならなんだって解決できる手段を一つ持っていますよ。あなたの悩みもきっと解決する」
男は今や仕事の手を止めて静態し、関心に満ちた二つの瞳孔を私に向けた。この酷暑の中、身震いするほど、その視線は私を貫いていた。あらためてまじまじ見た時、50くらいに見える男の風貌に不釣り合いな張りのある肌艶をしている。男は長袖のウインドウブレイカーを着ているのに汗を一つもかいていない。
私はこの時、男は死や生命に関係する精霊や妖怪や神の類なのではないかと感じた。はたして神はウインドウブレイカーを着るのだろうか。全能ならウインドウブレイカーを着る能力も持っているはずだ。また私の悩みをたちどころに解決するすべも持っているはずだ。
公園の緑は目に痛むほど鮮やかだ。夕方に差し掛かる時間の日差しは傾き始めている。とはいえ、いまだにすべての生命を攻撃するように輝いていた。道行く人はその光線を少しでも避け木々が作ったまだら模様の木陰を歩く。まだらな避難所にあっても生命の根源である水分を垂れ流し続けている。
蝉拾いの男と私は殺人光線を真っ向に受けながら発生源である沈む日を追う方角へ、木陰のない舗装路の真ん中を歩いていく。私の帽子の中にはまたぬるい汗の溜まりが出来ているが、快不快さえ忘れただ男の小さな背中を追うことに夢中になった。
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