第48話 丸い水槽(3)
部屋に大音量が響き渡る前に目が覚めた。
一秒前は夢の中にいたのに三秒で忘れる。
いつもそうだ。
「ニィ」
と足元で小さな声がする。チャコールグレーのさらさらしたものがわたしのぼやけた視界に入る。
わかったよ。起きるよ。
枕元の鯨の形の電波時計を先んじて止める。
カーテンを開けて朝の空気を吸い込む。
ハンガーに掛けた灰色のパーカーを羽織り、靴下を履く。足元のまん丸グレーに「おはよう」と声をかけるが無視される。
海沿いの一軒家は寒い。家賃とロケーションを優先したつもりなのだけれど、初冬の寒さはほんとに凄い。
部屋の中で吐息を目視できるとは思わなかった。
コーヒーを淹れ、食パンにマーガリンを塗る。足元ではギンが必死でパンの耳をちいさな口に押し込む。
またお腹壊すよ。と諭すが、今の彼の中ではパンが最優先。
わたしよりもパンの方が、何というか、偉いんだ。
テレビをつけると今日は勤労感謝の日らしい。
いろんな職種の人と向き合う自分の仕事柄、「世界中の皆さんいつもお疲れ様」と労ってあげたくなる。
本日は言わば、ジョブログ編集記者 鮫川音季にとって、オールスター感謝祭的な日だ。
クローゼットからハイネックのニットとジーンズを取り出して着替える。海沿いの釣り堀は冷えるのだ。髪を整え、素早く化粧を済ます。男子にはこの手間が無いんだよな。と女に産まれたことを恨んでいたが、これはハンデではなくアドバンテージだ。
ふと時計を見ると時刻は7時30分。
スニーカーの靴紐を結んでいると、トテトテと台所から小さな足音が近づいてくる。
立ち上がるわたしに、何か訴えるような丸い目。
口元のパンのカスをピンク色の舌で舐める。
「…ギンもくる?」
※※※※
「猫って常におなかすいてるんですかね。」
と愚痴を溢すと釣り堀のおじさんは大きく口を開けて笑った。
胡座をかいて、赤いルアーロッドから釣糸を垂らす。
自分と独りっきりになれる沈黙の時間。
自慢の釣竿で今日も釣り人を気取ってみる。
未だに一匹も釣れた試しはないのだけれど。
「上手じゃないからそんなに期待しないでよ。」
わたしの忠告に耳を傾けることもせず、ギンは虫を追い回したり、わたしの横で寝転んで自分の身体を舐めたりしている。
少しするとくうくうと小さな寝息を立てて寝てしまった。
妄想と現実を行ったり来たり。
30分くらいそうしていただろうか。
「にゃぁ」と小さくギンが鳴いた。
わたしの背中を前足でポコポコと二回叩き
鈴の音の様にコロコロと喉を鳴らす。
手に微かな振動。引っ張られる感触。さっきまで地蔵の様に動かなかった浮きが上下左右に生き物みたいに揺れていた。
「わっ…?あ、きた?きたぁ!!かかった…!」
わたしはその場に立ち上がり、竿を離すまいとまだ見ぬ大魚に全力で抗う。
「サメ子ちゃん、リール!リールを回すの!」
「落ち着け。おっちゃんが網、構えてっから!」
釣り堀にいつもいる中年のおじさんや派手な服装のお姉さんがわたしの両側に駆け寄ってきた。
たまに見かける長距離トラックの運転手さん。
無精髭を生やしたパチンコライターのおじさん。
甘いタバコの匂いがするスナックのママさん。
送電鉄塔の部品交換をしてるマッチョな兄さん。
レンタカーの清掃業をしてるおじいちゃん。
釣り堀の受付のおじさんも。
釣り堀にいた全員が、持っていた釣り竿を放り投げてわたしのもとに駆け寄ってくる。
「今日こそ大物釣るわよ。」
「サメ子ちゃん、落ち着け。深呼吸!」
「岬ばあが見てるぞ。頑張れ。」
みんなの声援を 後光が差すように背中に浴びる。
「えぇっ、ふふっ。はい!」
深呼吸して右手と両足に力を入れる。
釣り竿を握る手とは裏腹に
ほっぺたと目尻がくすぐったくなる。
飴玉を味わうようにゆっくりと。
わたしは赤いリールを回してみる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます