第47話 丸い水槽(1)

別れも告げずに夏が去ってしまった。

パーカーのポケットに手を突っ込んで歩く。 

あれだけこの惑星を煮えたぎらせた迷惑な季節も、いざその終わりを感じると少しの寂しさがあるものだ。


西の空に陽がストンと落ちていく。

ついさっきまでお日様だったそれはいつの間にかお月様と入れ替わった。


わたしたちと同じように。

お日様もお月様も代わりばんこに仕事をしてるんだ。

10月の空と海にそんなことを思う。


時刻は19時半。

街灯に照らされたテトラポットに1人。

煩わしい羽虫たちも、いつの間にか夏と一緒に何処かへ行ってしまった。

わたしは今日もここから海を眺める。


「いい夜ですね」


振り返ると制服姿の野月秋乃さんが立っていた。会うのは8月の岬ばあのお葬式以来だっけ。


「鮫川さん、本当に毎晩ここに来てるんですね。」


ゆっくりとわたしの隣に腰掛ける。

うん。と水面を見つめたまま答える。


私の横に腰掛けた野月さんがショルダーバッグからゴソゴソと何かを取り出す。


「おばあちゃんから。」


ラムネの瓶を2本取り出して片方を私に手渡す。

わたしを覗き込むその笑顔をなんだか懐かしく感じた。


プラスチックのキャップで蓋のビー玉を押し込む。ぽんっと栓が抜ける音とジュワワっと泡が溢れて吹きこぼれるのがほぼ同時。


「相変わらず上達しないね」

声が聞こえる。

確かに聞こえる。


ゆっくりと波打つ大海原を見ながらふたり。

瓶を軽く合わせて乾杯する。


「会いたくなりますね。」


「うん。」



夏の日。ふたりで飲んだラムネの味。

畳の匂い。子どもたちの声。

隣を見たらあの可愛らしいおばあちゃんがニコニコ座っていそうで、やっぱり今も寂しくなる。


「今日はどんな取材をされたんですか?」


野月さんの声が沈黙を破る。


「聞きたいです。鮫川さんのお仕事の話。」


わたしの仕事の話、か。

相変わらず、聞かれる側はなんだかこそばゆい。


「うーん、あのね、今日は宝くじ売り場のおばさんの取材。目の前で億万長者が出るんじゃないかって、自分が買ったわけじゃないのに毎日ちょっとだけスリルがあるんだって。」


野月さんが微笑む。

この笑顔を見れただけでも、今日の仕事の意味はあったな、と思える。

わたしもつられて頬がほころぶ。



「わたしもね、野月さんとおんなじ。悩んでたんだ。学生の頃。どんな大人になるんだろうって。」


緩んだ頬のまま、ため息に混じって言葉が出る。

わたしの奥底の真っ暗闇をよじ登る言葉たち。




変な心の病気なんだ。

頭の中がたまに子どもに戻ったり

急に大人になったりするんだよね。わたし。


友達もいなくて、小学校も中学校もよく午前中で帰ってたんだ。

放課後は病院に併設された障害児童施設みたいなところに通って、先生とおしゃべりするのが好きだった。


修学旅行にも、行けなかった。

振り袖も着れなかった。

部活も恋もしてみたかったな。


水面に映る自分の姿を見ると悲しくなったよ。

どうしてみんなと違うんだろうって。


別に好きで”変な子”でいるわけじゃないのにね。


出る杭は打たれる。

打たれまいと突き抜けてみたり、自制したりすると、今度は引っこ抜かれる。


10代のわたしはいつもふらふらしていて

生きるのがすごく下手くそで、苦しかったな。


わたしは自分の将来なんて考えられなかったよ。


わたしなんかより、あなたのほうがずっとずっと大人だ。


精一杯の口調だったけど、ちゃんと自分の口から野月さんに伝えた。


しばらくの沈黙。

波の音を聞きながら、突如始まったわたしのモノローグが、野月さんの頭に落ち着くのを待った。



「鮫川さん。私、製菓学校に行くことにしました。」


野月さんが口を開く。

気を使っているのか、わたしの過去には触れてこなかった。


「私、決めたんです。」


大きな瞳がまっすぐにわたしを見つめる。


「鮫川さんに初めてあった日からずっと。私の好きなことってなんだろう、なりたい自分って何をしているだろう、って考えたんです。

先生の言ってた未来のビジョンって、なんだろうって。」


「うん。」


「私、自分の考えたお菓子をいろんな人に食べてほしい。おばあちゃんみたいに、お菓子で人を元気にしたいなって。」


わたしはどんな顔で彼女の話を聞いていただろうか。

サナギの背中からゆっくりと蝶が出てくるのを見守るような。そんな感じ。


「製菓会社に入って、おいしいお菓子の開発をしたいんです。私のなりたい自分って、お菓子で人を元気にできる人。年をとっておばあさんになったら、もちろん駄菓子屋さんになりたい。」


力強く、野月さんは自分の言葉を紡ぐ。

たくさん悩んでたどり着いた答えは、わたしの大好きな人の面影に似ていた。


夜の海で泣いていた目の前の少女はたった今、

確かに大人になった。


「なれるよ。野月さんなら。」


嬉しくて、頭を撫でてあげたくなる。


「お尻、痛くありませんか?」


冗談めかして、野月さんが言った。

この話はこれで終わり、ってことなんだろう。


「テトラポットって座り心地、悪いんだよね。」


あはは、と野月さんが笑う。

高校生にしかできないアイドルのような笑顔だ。


「鮫川さん、これからも毎日ここにいますか?」


「うん。」


「また会いに来ますね。」


「うん。約束。」


カバンを手に取り、野月さんは見納めるように海とわたしを見る。


立ちあがった少女の背中を見つめる。

次に会えるのはいつだろう。

製菓学校、合格するといいね。


「飴玉なんだって。人生って。」


波の音に負けないように野月さんに言葉をかけた。


「岬ばあが言ってたんだ。人生は飴玉だよって。

いつかなくなっちゃうものけど、甘くて優しくて、嬉しいものなんだよね。」


ペコリとお辞儀をした向こうに、今日も満月が見えた。


きっと一生忘れられないような

大波をかけ分けて突き進む帆船のような

誇らしげな少女の笑顔がわたしの瞳に映った。




わたしの答えは

きっとまだこの世にはない。


大陸を見つけたように、星座を見つけたみたいに。万有引力を発見したときの、頭にりんごがコツンと落ちる感じで。

何かの拍子でふと、気づくんだ。いつかきっと。

理想論かもしれないけど。


やりたいことが見つからないなんて

よく考えたら当たり前だ。

やってみなくちゃわかんないもんね。


それでもあなたは、最高の答えを見つけたんだ。


遠ざかる背中に、小さく手を振る。

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