第23話 マズルカ(3)
ゴキブリが出た。
かつてこの一文で始まる小説が存在しただろうか。
でも、出てしまったものは仕方ない。
わたしは被害者側だ。
前回(♭.5)の続きと行く前に、わたしの短い奮闘記を読んでほしい。
仕事終わり、いつものテトラポッドに寄って海を眺めてから帰宅。
今日は果樹農家さんの果樹園で一日中外での取材。
疲れた顔で玄関のドアを開けると奴と目が合った。
触覚をピクピクと動かしながらこちらを見ている。
まるで空き巣にに入ろうとした泥棒とうっかり遭遇してしまったような。
(よく考えたらその通りなんだけど)
冷静になるのよ。鮫川音季。
奴らは一撃で仕留めないと厄介だ。
追い詰めた!と思った隙間からいつの間にか姿を消したり、リラックスしているときを狙ってひょっこり顔を出したりする。
本来、高速で飛ぶことができるのにカサコソと這いずり回って我々を錯乱させる姿は、わたしから言わせてみれば人間に対する煽りだ。
先ほど郵便受けから取り出した大きめの封筒(多分、保険かなんかの勧誘だろう)を丸めて慎重に近づく。
息を止め、瞬きを止め、時間をも止めそうな集中力からフルスイング。一発で仕留めた。
奴らのことはもちろん好きではないが、不快なだけで別に殺すのに躊躇はない。
海にはあれに似たフナ虫というおぞましい姿の生物がうじゃうじゃいるし、ああいうコソコソ消極的な奴らに尻込みするのはシンプルに悔しいのだ。
その日はゴキブリを退治した爽快感と疲れから
21時頃には布団に入った。
明日は久々の遠方の取材。早起きしなきゃ。
今朝、1通のメールがわたしのPCに届いていた。
送信元は
【堀味牧場 食肉センター合同組合 畜産部】
わたしが先週、取材のアポイントを取った牧場だ。
先日の新人の潮田の歓迎会で焼肉を食べている時
お肉の製造過程が気になった。
豚や牛の加工工場や卸売市場などの仕事は
何となくのイメージしか湧かないので、
まずはお肉のスタート地点、牧場に取材に行ってみたい、と思いこちらから連絡してみた次第だ。
普段は広告的なアピールの観点から、個人やお店側から取材のオファーが来るのが一般的だが、今回のようにわたしから取材をお願いするケースも多々ある。
早朝5時。県を2つほど跨いだ。
電車とバスに揺られて3時間。
牧場に着くと迎えてくれたのは、優しそうな麦わら帽子を被ったおじさん。
ではなく、190cmはありそうなガタイのいい大男だった。腕は丸太のように太く、ほっぺに刀傷のようなものがある。怖すぎる。
そして一番印象的なのは『目』だ。
鉄をも溶かすレーザービームが出そうなくらいの鋭い眼光。
俺はこの世のすべてが嫌いだ、と言わんばかりの不機嫌そうな目つきだ。
牧場中の動物たちをも戦慄させそうなその目でわたしを見下ろす。
胸ポケットについているネームプレートに
【責任者 村瀬】と書かれている。
雰囲気から只者では無いと思っていたが、どうやらやはり偉い人のようだ。
「初めまして。株式会社テトラジャーナルの鮫川です。本日はお忙しい中、取材へのご協力ありがとうございます。」
初対面の目上の人には自分から挨拶すること。
たとえそれが190センチの大男でも。
『村瀬だ。よろしく。』
わたしの名刺を受取り、村瀬さんはぶっきらぼうに会釈した。
『これからこの工場内を見学してもらう。おそらく、精神的にくるものがあるかと思うが、』
言葉を言い終わる前に村瀬さんはわたしに背中を向け、歩きだした。
『約束だ。後悔するなよ。』
人間には危機感知能力というものが備わっている。
とは言っても
豪雨が来たら「停電に備えよう」 とか
前の車がふらついていたら「車間距離を開けよう」とかそんな程度のことだ。
わたしが今感じているものは少し違う。
「嫌な予感」とか「第六感」とか「本能」とか
そういった類の【理屈で説明できないやつ】だ。
目の前の大きな背中を見つめながら、わたしは工場に入った。
扉を開けた途端、場内から血の匂いと何かが腐ったような強烈な匂いがわたしを包み込んだ。
大きな機械音に混じって動物の悲鳴が聞こえる。
一気に胃液が込み上げてくる。
吐きそうになるのを我慢した。
そしてガラス張りの向こう側。
わたしの瞳に大きな牛が映る。
これから何をされるかわかっているかのように泣き叫び、暴れている。
バチン!と大きな音がした。
電気を流された牛の巨体が、硬直した後ゆっくりと倒れた。
多分、いや、認めたくないけど。絶対そうだ。
死んだのだ。
倒れる瞬間、虚ろなその目がわたしを見たような気がした。
鳴り響く機械音の中、脈が早くなるのがわかる。
吐き気を我慢しながら、死にゆく獣の瞳から
急いで目をそらした。
目をそらした先には足を縛られたまま吊り下げられている牛の死体がスキー場のリフトのように次々と運ばれている。
アームのような機械が牛の周りでうごめき
そして、首をはねた。
大量の血と肉片が丁寧に仕分けされていく。
『何してる。こっちだ。』
村瀬さんは私を置いてスタスタと奥の方へ歩いていく。
目の前の光景に脳が追いつかない。
わたしは牧場に取材に来たはずだった。
牛や羊と戯れて、あわよくばお土産に新鮮なヨーグルトでも貰えるもんだと思っていた。
身体が、手足が、動いてくれない。
目の前の残虐な景色から目を逸らすこともできず
首を切られ、血を抜かれ、皮を剥がれる動物たちの中でわたしは立ちすくんだまま動けなかった。
昨日ゴキブリを瞬殺したときには何も感じなかったけど、そうだ、そりゃあそうだ。
人間がお肉を食べるってことは。
そういうことだ。当たり前のことだ。
機械の轟音と動物の悲鳴。獣の血の匂い。
気絶しそう。吐きそう。おかしくなりそう。
目は開いているが、脳が失神している。
立っているのがやっとだ。
走馬灯のようにいろんな記憶や思いが炭酸の泡のように込み上げて消えていく。
その中に1つ光る泡。
10歳のとき。お父さんとの記憶。
音季。サッカー選手にはスポットライトが当たるけど、ゴールネットを作ってる工場のことはみんな知らないだろ?
芝の整備をした人をカメラは映さないだろ?
あの選手の、専属の美容師の、ハサミを作りました、なんて職人さんもいる。
目に見えないところにいろんな仕事がある。
その人たちがいないと地球が回んないんだ。
明日が来ないんだよ。
わたしの大切な言葉だ。
停止した思考の中に一粒。
お父さん。
助けに来てくれた。
お父さんは海岸にテトラポットを設置する仕事をしていた。
わたしが10歳のとき、作業中クレーンで海に沈めたテトラポッドの下敷きになり死亡した。
死因は窒息死だったとか圧死だったとか
警察と白衣の人は言ってることがチグハグだった。
そんなこと知りたくもなかったけど
いずれにせよ即死だったことだけ理解した。
小学校で訃報を聞いたとき、私は1人で泥をこねて遊んでいた。
「おとうさんがじこでしんじゃったの。」
学校に迎えに来た母の言葉の意味はもちろんわかったけど、その時はどうしていいかわからず、お父さんのことを考えながら泥をこね続けて静かに泣いた。
目に見えないところにいろんな仕事がある。
その人たちがいないと明日が来ないんだよ。
お父さんがわたしにくれた言葉。
呪文のように呟くと、不思議といつもあたたかい気持ちになれた。
この仕事をするようになってから、何度もこの言葉を思い出す。
目の前では休むことなく、動物の首が切断されている。
その様子を無の境地で村瀬さんが見つめながら歩いていく。
手足も動かず、戦慄するわたしの全身。
荒く口で息をする。
喉を酸素がなんとか通過しようとする。
歩け。動け。わかってる。負けるな。鮫川音季。
轟音と悲鳴の中
残虐な既成事実のど真ん中
ゆっくりと、倒れそうになりながらも
わたしは歩き出す。
両足に絡みつく先程の氷のような言葉を、
必死に振りほどく。
【約束だ。後悔するなよ。】
するもんか。後悔なんか。
わたしは、あなたのこの仕事を、
誰かに伝えるんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます