第18話 魚心水心(2)

「廃棄の多かったものは、仕入れや作る量を調整するから大丈夫。各お店がちゃんと売れ筋の統計を取ってるはずだから、あんたが心配しなくても大丈夫だよ。」


岬ばあの優しい声が、蜘蛛の巣のようにまとわり付いた私の不安を丁寧に解いてくれる。


岬ばあの背中には1匹の子猫。

釣れた小魚を誰にも取られまいと必死に食べてる。

最近この釣り堀に出没するようになった迷い猫。

岬ばあは『ギン』と名前をつけて可愛がっている。

私が手を伸ばすと、岬ばあに隠れるように逃げる。



有給消化の為、昼から半日休暇を取った私は、

仕事帰りに直接釣り堀へと向かった。


先日、ついに自分の釣竿を購入した。

初心者用の真っ赤なルアーロッド。

「お!サメ子ちゃんついに買ったか!」

と私より釣り堀小屋のおじさんの方が嬉しそうだった。


今ではセッティングもお茶の子さいさい。

今日も2人、隣同士に座って釣糸を垂らす。



自分と独りっきりになれる沈黙の時間。

十人十釣。釣りとはそういうものなのだ。

まだ自力で釣れた試しはないけれど

自慢の釣竿で今日も釣り人を気取ってみる。


面白い出来事や不安なことがあると

あの日以来、釣り堀に足を運ぶか

もみじやに遊びに行くようになった。

どちらにせよ、そこには岬ばあがいて

駄菓子とラムネを畳に並べて

隣に座っていつでも私の話を聞いてくれた。


「あのね、岬ばあ。私が今日、自力で何か釣れたら、うちにおいでよ。ご馳走してあげる。すぐ近くなんだよね。私の家」


水面を見つめたまま。

今日は私が先に口を開く。



「そうかい。そんなに甘くないよ。」


同じくして水面を見つめたまま

ありがとね、と最後に付け足して

隣で岬ばあが笑った。

子猫のギンが大きくあくびをした。


夕陽に照らされる寂しそうな赤い釣竿。

あっという間に時刻は夕方4時。

今日も記念日にはならなかった。


人生は飴玉だ。

でも、そんなに甘くないらしい。

年の功とは説得力そのものだ。


岬ばあと別れ、いつものように

海岸沿いのテトラポットに立ち寄る。

潮の香りが濃い。

夏が始まるよ、と

海が教えてくれているようだ。




『ん。』と間抜けな声を出して立ち止まる。

私がいつも座っている特等席に人影が見えた。

いきなり近づくと驚くだろうし、海に落ちたら大変なので、ゆっくりと様子を伺う。


小さな高校生くらいの女の子が一人。

猫背を丸め、夕陽を一点に見つめている。


あれだけ慎重に近づいたのに、

『あの、何してるの?』

と普通に大きめの声を出してしまった。

女の子は驚いた様子で私を見るなり

意味もなく立ち上がる。


すいません、と互いに狼狽え、謝り合った。


「えっと、私もね、ここ、好き。」


凍りついた場の空気を溶かそうとするには、

ぬるま湯のような不器用な台詞。

我ながら、とても記者とは思えないコミュニケーション能力の低さだ。

今は仕方ない。


彼女と目が合う。

まぶたと頬が赤く染まってることに気づく。


夕焼けのせいじゃない。

この子、泣いてたんだ。


彼女は、恥ずかしそうに目を擦って涙を隠す。

平常を保とうと、笑ったり瞬きをしたり

コロコロと表情を変えてみせたが、

徐々に困ったような表情に戻ってしまった。


次第にぽろぽろと涙を流し

声を震わせ元気よく静かに泣き出した。


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