第10話 一文菓子(2)

少し歩くと、沢山の船が見えた。 

船着場から伸びた木製の桟橋の先に、網で囲われた釣り堀がある。

入り口に小さな小屋がある。

釣り道具をレンタルすれば90分2000円だよ、

と窓口のおじさんが教えてくれた。

少し高めだが、2000円で趣味が見つかるかもしれないのだから、無趣味のわたしにとっては妥当な額だ。


ここで一つ問題がある。海には毎日行っているくせに、実は釣りはしたことがないのだ。


釣竿にエサをつけてぽーんと水辺に向かって釣り糸を垂らす。魚が食いつくのでそれをリールで巻き上げればゲット。


という具合に簡単なものだと思っていた。


実際は、初めて手にした釣竿をまじまじと眺めて

パチパチと瞬きを繰り返していた。

原始人にドライヤーとか掃除機とかを

はいどうぞ、って渡したらきっとこんな感じなんだろう。


エサの付け方は?このレバーはなんだろう。

釣糸の長さはどれくらいがいいのか、

あ〜あまた絡まっちゃった。終わった…。


と私が一人であたふたしていると、


「オモリとウキは」


と声をかけられた。

隣を見ると八十代くらいのおばあさんがこっちを見ている。


「え あ、コこんちわ、私コレハジメテ、、」


とカタコトで返すと貸してごらん、と言って

慣れた手つきで竿をいじり始めた。


「すぐには魚もかからないから辛抱強く待つこと。わからないことがあれば声かけな。」


おばあさんはそう言うと、また自分の竿に戻り水面を眺める。


ありがとうございます。と早口で礼を言って、

私も釣り糸を垂らしてみた。


楽しい人生を釣るのだ。

瞑想に耽るように神経を研ぎ澄ませた。

 






「あんた名前は?」


びっくりして顔をあげた。


あたしゃこの沈黙、もう耐えられないよ、

と言う顔でおばあさんが先に口を開いたのだった。


「え。え、名前、あ、サメ子。鮫川です。」

「サメコ・サメカワ、外国の人かい?」

「違います。鮫川です。愛称がサメ子。」

「初対面で他人に愛称を言うのは珍しいね。」


おばあさんが笑う。


「あたしは岬。ミサばあって呼びな。」


「岬、さんは、ええっと、名前ですか?」

「いや、岬は名字。」


今思えば、岬ばあとの出逢いはこんなグダグダで

拙いものだった。


お互い初対面で愛称を言うのは珍しい。おかしい。



「見かけない顔だと思ってね。なんでまた釣り堀になんか来たんだい」


道場破りを挑発するかのような口調で岬ばあが私に尋ねる。


「家から近かったんです。」

「あんためちゃくちゃだね。おっとっと。」


慣れた手つきでリールを回すと、岬ばあの釣竿の先に魚が顔を出す。

どうだい、というように今度は顔をしわくちゃにして微笑んだ。


お年寄りの顔がしわしわになるのって、きっとお顔に染み付いた、喜怒哀楽の長い長い積み重ねなんだろうな。

そう思うと、目の前の老婆が急に愛おしく思えた。



「ここにくる連中は悩みがあったり、忘れたいことがあったり、心に何か引っかかりがある人たちさ。言わば人生の避難所みたいなもんさね。あんたも何かあったんだろ。」


辺りの人を見渡すと、確かに冴えない中年のおじさんや、派手なヒョウ柄の服を着た″ヤクザの女″のみたいな女性など、クセのありそうな面々がそれぞれに自分の浮きを見つめている。


出会ってまだ数行しか立っていないのに、このおばあさん、随分とデリケートな話に持ち込んだな。

きっと、人と話すのが好きなんだ。


「岬ばあはいっつもここにきてるんですか?」


私は尋ねる。


「天気のいい日は、たまにね。いつもはこの近くで駄菓子屋をしてるんだ。」


駄菓子屋!!その懐かしい響きに心が躍る。

今や絶滅危惧種となった幻の職業。

釣りなんかしてる場合じゃない。


思わぬ大物がヒットしたぞこれは。

私の脳内で、巨大な魚を担いだ海の男たちが、波飛沫をバックにガッツポーズした。


私は釣竿を静かに置いて岬ばあに微笑みかけた。


「あのぉ、そろそろおなか空きませんか。」

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