第2話 千載一遇(2)
草木が本格的な春の到来を告げる。
はずもなく、3月の早朝の潮風は真冬のようだ。
暦の定めか天文学的なこじつけなのか知らないが、春分やら秋分やら常に気が早すぎる。
今日から春服に着替える人なんていないだろう。
おそらくみんなが毎年思っているんだろうけど、
祝日という大義名分には誰も逆らわない。
海沿いの借家を出て歩き慣れた道を進む。
一時間早く家を出ただけで通りは全然違う表情を見せる。
一人で散歩する犬がいたり(首輪をしてるから脱走かな)、開店前のパン屋の匂いがしたり。
まるで消灯したような薄黄色の月が、
海面を照らす朝日からひっそりと逃げていく。
会社まであと五十メートル。
いつもの通勤路の曲がり角で事件は起きた。
帽子を被った三十代くらいの男がわたしにぶつかってきたのだ。
咄嗟に避けようとしたが、男はスマホを覗き込んだままわたしをちらりと横目で確認し、わざとらしく左肩をぶつけて、そして派手に転んだ。
その拍子に男の持っていたスマートフォンが
ぽーんと宙を舞った。
『食パンを咥えていなくてよかった』
などとわたしが思っている間に、男のスマホは割れた画面の液晶をキラキラ飛ばしながら地面を跳ねた。
『スマホってこんなに転がるんだ』と感心するくらい、アスファルトを躍動した後、電柱にぶつかってようやくその身を静かに伏せた。
「あああ!おい姉ちゃん、どーすんだよこれ!」
バキバキに割れたスマホを見せつけて男は叫ぶ。
突きつけられた液晶にひび割れたわたしの無表情が映る。
「おい!俺のスマホ!どうすんのこれ!電源付かないんだけど!」
男の声が大きくなる。
帽子にはDestinyと刺繍がしてあるが、単語の意味をわかっているような人には見えない。
スマホは見たところ完全に息を引き取っている。
チーンと高い音がして羽と輪っかの付いたスマホの幽霊が、春風に流されて消えた。
男は大事そうにスマホを撫でながらわたしを睨み付ける。ただ困ったことにこちとら罪悪感はこれっぽっちも無いのだった。
『なによ!そもそも歩きスマホしていたのはあんたの方でしょ!ぶつかる寸前でわたしは避けたし!あんたが謝りなさいよ!肩をぶつけたのもスマホ落としたのも自己責任!一人で好き勝手ワーキャー騒がれても困るんだけど!』
と上手に出るとキレるタイプだろう。出社前のトラブルになるのは火を見るよりも明らかだ。
やはりここは大人しく、
『すみません、お怪我はありませんでしたか?修理代だけでも…』
なんて下手に出たが最後。これはこれで一瞬で状況が不利になることも目に見えている。
オラオラと巻舌で修理代を請求し、最悪わたしを路地裏のアジトへ連れ帰り、身代金を要求するのだ。
きっと。
外国に売り飛ばされるのかもしれない。
関わらぬが仏様。
こういうときに使うべき、スマートな万能日本語ランキング第1位は『忙しい』だろう。
「すいません急いでるので」
わたしが怖気づくどころか何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとしたのに腹を立てたのか、
「おい無視かよ、警察呼んでもいいんだぜ。痛ってぇ、足もヤったかもしれねえ。」
と男はへらへらと三文芝居を始めた。
ん?とわたしは振り返って男を見つめる。
風がざわめく。春一番。
わたしの表情にも
一気に春が芽吹く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます