竜の国、魔法使いの棲むところ

尾八原ジュージ

竜の国、魔法使いの棲むところ

 どうせ百歳になったら死ぬんだし。

 これはあなたが書いた小説の台詞だ。そして私が一番好きな台詞。

 五年前、息子が零歳だった頃に、初めてあなたの小説を読んだ。当時、夫が仕事で多忙だったためにほとんどワンオペ育児をせざるを得なかった私には、なるべく遠くまで飛べるような現実逃避が必要だった。

 あなたの小説はまさにそれだ。あなたの紡いだ言葉はたった一行で遠い竜の国まで私を運んだ。あの時期、ハードカバーの本を片手で読むすべを身につけた。息子はベッドに置くとすぐに泣く。赤ん坊を抱いて揺らしながら、本を片手に、終わらない寝かしつけに耐えた。

 どうせ百歳になったら死ぬんだし。

 その台詞は私に「だから今がしんどくても、こんな時期が終わらないってことは絶対ないよ」と優しく語りかけてくれているように思えた。もちろん、あなたにそんなつもりはなかったのだろうけれど。


 私にとってあなたは竜の国を作った神様で、雲の上の人だと勝手に思っていた。だからごく近所に住んでいることを知って驚いたし、同年代の女性だということにも驚いたし、神様がゴミ出し当番なんかするんだということを知って、さらに驚いた。

 資源ごみの回収場所で、三歳になった息子が蟻の行列を眺める姿を見張りながら二人で立ち話をしていたとき、私はふと「結婚前に家政婦をしていた」ということをあなたに話した。素性はよくわからないけれど感じのいいご近所さんとのコミュニケーション、ほんの世間話のはずだった。そしたらあなたが突然「今はやってないの? よかったらうちに来てくれない?」などと言い出したので、魂消た。あなたはメディアに一切顔を出していないのに、たまたまゴミ当番がかぶった私なんかに「実は作家をやってて、ペンネームは……」なんて明かし始めるものだから、本当に焦った。とんでもないことを聞いてしまったと思った。

 かくして息子が幼稚園に通っている間、私は週に二回のペースで、あなたの家に通うことになった。

 あなたは家事ができない。特に片付けが苦手だ。本は出しっぱなし、服は脱ぎっぱなし、おまけに原稿をプリントアウトした紙束が、部屋のあちこちに転がっていた。それら未発表の作品は私にとっては宝の山だったけれど、出せない情報も多いからと、血涙が滲むような思いでシュレッダーにかけた。

 私が通うようになってから、あなたの生活はずいぶん改善されたと思う。あなたの部屋には見える床が増え、本は本棚に並び、冷蔵庫からは賞味期限切れのものが消え、代わりにタッパーに入ったおかずが格納された。

「なにこれ凄い。魔法みたい」

 あなたはそう言ってとても喜んだ。大げさだなと思いながら、私は一緒に笑っていた。そういうあなたこそ魔法使いだ。竜が治める国を作り、魅力的な人々をそこに住まわせ、彼らの文化を、何気ない暮らしを、無慈悲な戦争を、壮大な時の流れを、どこにでも売っていそうなパソコンひとつで生み出してしまうあなたは。優しさも残酷さも美しさも醜さもあなたの小さな頭から生まれ、指先から真っ白な画面の上に広がっていく。私にとってそれは魔法だ。

 私はあなたの小説のすべてを愛していたけれど、なかでも巫女の話が好きだった。竜の国の巫女は、百歳になったら国を統べる巨竜のもとに赴き、その口に身を投げて死んでしまう。巫女たちは老いず、少女のような姿のまま、竜に食われて死ななければならない。そうでなければならないと大昔から決まっているし、巫女たちもその運命を疑うことはない。それでありながら私の好きな巫女は「死ぬ前に一度、砂漠に沈む大きな夕日が見たい」と願う。彼女の友人は、九十九歳になった巫女の手をとって旅に出る。

 それは全体の流れからすれば、複数のサイドストーリーのうちのひとつだ。でも私はその話が、これまでに刊行されたすべての物語を通して一番好きだった。そのことをあなたに話すと、あなたは「私もそこ好き」と言って笑った。どの場面をほめてもあなたは「私もそこ好き」と言うので、嘘ではなく本当にすべてを好きで書いているのだろうと思った。

 あなたのだらしない私生活も、実は何も考えていないかのような執筆スタンスも、私にとってはどうだってよかった。あなたの文章はいつだって私をぐいぐい引っ張り、竜の国へと連れていく。緑豊かな森、瀑布の白い水しぶきの冷たさ、やがて巫女が見る広大な砂漠と、怖ろしくなるほど巨大な赤い夕焼け。乾いた砂の匂いまで伝わってくるようなあなたの言葉はやはり魔法で、あなたは偉大なる魔法使いだった。


 息子が小学校にあがっても、私は家政婦を続けていた。辞める理由がなかった。あなたの家に通うだけで、近所のスーパーに週四でパートに出るよりもいいお給金がもらえたし、それだけでなく、私はあなたのことが好きだった。

 あなたもたぶん、私のことを気に入ってくれていた。あなたは私と息子に本を貸してくれ、夫の健康を気遣ってくれ、あなたのファンになったという私の父母のためにサインを書いてくれた。

 竜の国のシリーズはまだ続いていた。「ラストは決めてるの?」と尋ねると、あなたは「全然」と首を振った。

「何巻くらいで終わるかも決まってないの」

 だったらこの先何十年でも続けてほしいと思った。本当に心からそう思っていた。

 それは木曜日の朝、とても寒い日のことだった。いつものようにあなたの家のインターホンを押したけれど、返事がなかった。預かっていた合鍵でドアを開けようとすると、内側からドアチェーンがかかっていた。がつんとドアが引っ掛かったとき、いやな予感がした。

 あとで警察の人に話を聞いた。あなたは火曜日の夜、お風呂上りに洗面所で倒れ、そこから動くことなく亡くなったらしい。脳の血管が突然切れてしまったらしい。せめてそれが、私が通う月曜日か木曜日の朝のことだったなら、違った結果になっていたかもしれない。そんなことを考えながら、私は立ち尽くすよりほかになかった。

 あなたの両親が郷里からやってきて、あなたのお葬式をあげた。たくさんの人がお別れにやって来た。私も息子を連れ、一般の弔問客と一緒に焼香を済ませた。帰ろうとしたとき、親族席にいたあなたの母親に声をかけられた。あなたの母親は、私に伝えたいことがあると言った。

 娘は、あなたのおかげで小説が書けると言っていた。

 あなたがいなかったらとっくに不摂生のせいで死んでるって、たまに電話するたびにそう話していた。

 私も娘が亡くなったあと、訪れた家があまりにきれいなので驚いた。

 ゴミはきちんと捨ててあるし、冷蔵庫の中には美味しそうな料理がたくさん入っていた。

 仕事とはいえ、本当によくしていただいていたのだとわかった。

 ありがとう。

 そう言われて、あなたの両親に深々と頭を下げられた。

 私は、息子の前で泣くのは我慢しようと思っていた。思っていたのに、その瞬間心臓が止まってしまうんじゃないかと思うほど胸が苦しくなって、気がつくととめどなく涙が流れ、その場にしゃがみこんでいた。


 あなたは亡くなる二日前に、新刊の初校を編集者に戻したところだった。今そのゲラを元に、書籍化作業が進められている。あなたにとっては不本意だろうか? でもあなたは初校でほとんどの修正を終えてしまって、再校にはあまり赤を入れないのが常だった。だからどうか大目に見てほしい。

 最新刊の最終章、私の好きな巫女は友人と共に砂漠から帰還する。故郷を離れた彼女は、土地にいる間は発症しない病に体を蝕まれている。それでもなんとか百歳の誕生日を迎え、竜の棲む洞窟へと、満ち足りた顔で消えていく。

 あなたの魔法にかかるのを待っている人たち、つまり私のような人たちに、どうしてもその物語を届けたい。あなたのことだからきっと、笑って許してくれると思う。

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