第11話 RESENTMENT <襲撃>
空はいつの間にかどんよりと曇っている。
「あおいさん」
「はい?」
「麻貴君を連れて屋敷の中へ入れ。二階の物置部屋へゆけ」
「……威吹鬼さん?」
「急げっ‼」
語気の荒さにあおいの身体は跳ねた。そして無言で頷く。
「坊っちゃん」
あおいは麻貴に駆け寄った。そして目をぱちくりさせている麻貴を抱きかかえ、屋敷の中へ駆け込んだ。
ドアが勢いよく閉められる音を確認し、威吹鬼は一つ頷くと、ゆっくりと気配の方へ意識を集中させた。
そこに立っていたのは、黒い膜に全身を覆われた何か。
威吹鬼は鼻をひくつかせた。「――てめえか」
威吹鬼はばさり、とマントの前をはだけさせ、腰のホルスターに手を掛けた。
「最近、こそこそ屋敷を嗅ぎまわってたらしいな。お目当てのうまそうな食材は見つかったかい?」
ぼこ、と沼の底から気泡がわきあがるような音が響き、高さ二メートル近くあった黒い膜は、みるみる上から押しつぶされてゆくように縮み、扁平になっていった。
「……何だ?」
そいつは、威吹鬼もはじめてのタイプだった。さらにどんどんと扁平になってゆく黒い膜は幅二メートル、高さ二十センチほどの、熱されて固まりかけたコールタールのようなぺたんこの物体になった。
「こいつは驚いた」
次の瞬間、膜は凄まじいスピードで威吹鬼に飛びかかってきた。
神速でコングを抜いた威吹鬼は、膜のど真ん中に一瞬で五発ぶっぱなした。ぼっぼっ、と膜に直径二十センチの穴が綺麗に五つ空いた。
びゃああ、と悲鳴を上げ、びしゃりとそいつは地面に落ちた。だがそいつは二度三度身を震わせると、じゅる、じゅるるとマナーのなっていない若者がスープをすするような下品きわまりない音をたてて穴を塞いだ。膜は無傷になった。
「参ったな」
威吹鬼がそう呟いた瞬間、膜は水風船のような塊になって突進してきた。
不意をつかれた威吹鬼はすんでのところで後ろに飛んで衝突時の衝撃を緩和したものの、まともに体当たりを受けた。屋敷の壁に、さっきまで麻貴がボールをぶつけていたまさにその場所に叩きつけられた。内臓がわななき、頑丈な壁にヒビが入った。
「ぐ」
ずるずると緩慢な動きで、塊となった膜は後退していく。それに合わせ、威吹鬼も壁からずり落ちた。
第二撃が来る。
考えるより先に威吹鬼の足は地面を蹴り、真横に五メートル跳んだ。地面が微かに揺れ、ずしん、と壁が鳴った。一秒前に威吹鬼が立っていた場所だ。
頭はガードしたものの、内臓へのダメージは著しく、威吹鬼はバランスを取れずによろけた。
すかさず黒い塊は宙を飛び、丸めて投げた風呂敷が空中で開くように、ぱっとヒトデ型に広がった。そいつは自由に身体の固さを変えられるようだ。壁に体当たりした時は冷凍室でフックに吊るされた肉のように固かったが、今度はどろどろのスライム状になっている。
びしゃり、と音を立てて膜は威吹鬼の全身を包んだ。
「……くそったれが!」
膜の中で威吹鬼はもがいた。開いた口に、どろどろの膜は侵入しようとしてきた。
「――――!」
威吹鬼は口に侵入してきた膜を食いちぎり、背中の朱尾に手を掛けた。抜きざま、力任せに真一文字に膜を切り裂いた。またも、びゃああ、と膜は悲鳴を上げ、さあっと威吹鬼から身を離した。切り裂かれた傷はもちろん一瞬で塞がった。
威吹鬼は急いで立ち上がり、口の中に残った膜の一部をぺっと吐き出した。吐き出された膜の一部はころころころ、と芝生の上を転がり、膜の本体に吸収された。
(こういうやつの対処法は、まったくのセオリー通りだ)
膜はぶるぶる震えながら、大きく広がったり塊になったりという細かい動きを続けている。仕掛けてくる気だ。
威吹鬼はじりじりと屋敷の壁の方に摺り寄り、昨日の戦闘で壊れたままになっているガラス窓に触れた。間に合わせの修繕として、ベニヤ板が貼られている。
威吹鬼はそこを蹴破り、屋敷の中に転がりこんだ。一瞬とまどったものの、膜もすぐにその穴に飛び込んできた。
膜は威吹鬼を捜した。壁際に立っていた。
威吹鬼の手には、火の灯された高価そうなアルコールランプがある。
「プレゼントだ。ゼリーのお化け」
威吹鬼はランプを膜に投げつけた。べたり、とランプは膜の身体に張り付く。
もちろん、威吹鬼はコングをランプに向けてぶっぱなした。
瞬間、膜は炎に包まれた。
びゃあ、とこれまでにない大声で叫んだ膜は窓の穴から飛び出し、高い塀を飛び越えた。膜は黒煙を上げながら、炎の衣を身に纏って飛び跳ねるように逃げていった。
「ステレオタイプってのも意外と通用するもんだな……」
威吹鬼は呟くと、汗を手の甲で拭った。
「火事だ!」
いつの間にか執事室から出てきた洛が叫んだ。
「早く! 消火器を」
叫びながら洛は走り回った。威吹鬼の口からため息が洩れた。
二階の物置部屋からあおいと麻貴がおずおずと顔を出した。麻貴はぐずっている。
「威吹鬼さん……」
威吹鬼は二階を仰いだ。
「あの……お怪我は?」
「怪我?」
左手にひきつれるような痛みを感じた。
見ると、手首からひじにかけて革のジャケットが溶けていて、肌にケロイドのような大きなあざが残っている。どうやら膜は酸のような物質をにじみ出させていたらしい。
朱尾でぶった斬るのがもう少し遅れていたら、全身やられていたな。威吹鬼は冷静に分析した。
「――手がっ」あおいが悲鳴のような声を出した。「手当てしないと」
「大丈夫だ。大したことねえよ」
患部からは白い煙が微かにたちのぼっている。
「ただいま治療中だ」
「治療中?」
あおいは階段を駆け降りてきた。近くに寄って傷口を見ると、目の錯覚か、二階から見た時よりも幾分あざが消えて見える。
「もう一時間もすれば治っちまうだろ」
「…………」
「気味悪いか?」
あおいはかぶりを振った。
「おれは、普通とはちょっと違うんだ」
威吹鬼はコングをホルスターに収め、マントで腕の傷を隠した。
「普通とは、な」
洛は消火器とバケツを持って走り回っている。
「傷はいいんだが、水を一杯くれないか? 口をゆすぎたい気分なんだ」
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