第9話 DISTANT <遥か>

 遠くから声が聞こえる。懐かしい声だ。

 声は振り子のように揺れ、近づき、遠のく。遠のき、近づく。

 あたたかい声だ。少なくとも、威吹鬼にとっては。

 威吹鬼は暗闇の住人だ。いつも目を閉じている。覚醒している時と、眠っている時との境界が、時々ひどく曖昧になる。

 しかし、今は夢の中にいる。声が、それを教えてくれる。あたたかい声が。聞こえるはずのない声が。威吹鬼にとって、かけがえのない声が。



「……またいじめられたの? いぶき」

 幼い威吹鬼は泣いていた。母親の前に立ち、しゃくりあげている。堪えようとしても、どうにも肩の震えは止められない。母親は棒立ちになっている威吹鬼の前にしゃがむ。そして微笑む。

「どうしていじめられたの?」

 威吹鬼は震える人差し指で、両目に巻かれた布を指した。

「……これ……」

「……いぶき。いぶきはねえ、ちょっとだけ他の子と違うの」

「……どこが?」

「目がね、ちょっとだけ悪いの」

「……このお布のことを悪く言われたよ?」

「目が悪いからね、……このお布は絶対に取っちゃだめなの。だからこのお布のことを悪く言う子なんか、相手にしちゃだめよ」

「おかあさん……ぼく、すごくいやなんだ。このお布。だから……だから、悪く言う子のこと……」

「……殴っちゃったの?」

 威吹鬼は激しくかぶりを振った。

「頭にきて、殴っちゃいそうになっただけ。ぼく、がまんしたよ? お母さんに言われたから、がまんした」

「えらいね、いぶきは」

 母親は威吹鬼の頭を撫でた。

「いい? いぶき。いぶきはね、とっても強いの」

「……ぼくが?」

「そう」

「強いの?」

「そうよ。だからね、絶対にお友達を殴ったりしちゃだめよ? 大変なことになっちゃうのよ」

「大変なことって?」

「うーん……。お友達同士のけんかを見たことあるでしょ?」

「ある」

「二人ともたんこぶができたり、あざができたり、擦り傷ができたりするでしょ?」

「うん」

「いぶきがあれをやったらね、相手のお友達が大怪我をしちゃうの。相手のお友達がお医者様へ行かなきゃならなくなるような大怪我をしちゃうのよ」

「おおけが?」

「そうよ。いぶきの力はね、とっても強いの。いぶきはお友達の中で、誰よりも強いの。それでね、いじめっ子はね、本当はとっても弱虫なのよ。とっても弱いから、とっても弱いことが誰かにばれるのが嫌だから、強がっていぶきをいじめるの。だから、ね? とっても強いいぶきが、とっても弱虫のいじめっ子のことを殴ったりしちゃいけないの。相手にしなくてもいいのよ」

「……うん」

「本当に強い子は、自分から強いって言わないものなのよ」

「うん」

「それからそのお布。絶対に取っちゃだめよ」

「わかった」

「絶対の、絶対よ」

「うん。絶対に取らない」

「もしいじめっ子にお布を取られそうになったら、その時は――」



 不意に意識から、母親の姿が遠のいた。急速に。

 威吹鬼は目を覚ました。

 瞬時に寝具の異変に気付き、枕元の武器を確かめる。命を賭けて戦ってきた者の習性だ。

 枕元に置かれているガンベルトに指が触れた。冷たく硬く、コングが存在を主張した。威吹鬼は安堵のため息を洩らし、ここが自分のアパートメントではなく、高羅家の客室であることに思い至った。

 夜空の東の方から、紫が少し薄くなってきている。

 威吹鬼はベッドから起き上がり、サイドボードに置かれているポットから直接水をがぶがぶと飲んだ。邸内はまだ寝静まっている。ビスケット型の固形食糧を一本口に入れ、唾液で溶かすようにゆっくり噛み、また水を飲んだ。

 軽い食事が済むと、威吹鬼は下着だけで床に直接あぐらをかき、背筋を伸ばした。

 ぴたりと一旦息を止め、ゆっくり大きく吸う。これ以上は一ccも酸素が入らない、というところまで吸うと、今度はそれを七回に分けて小刻みに吐いた。

 たっぷり吸って、小刻みに吐く。吸って、吐く。吸って、吐く。それを十分間繰り返した。身体中の細胞という細胞一つ一つが、スイッチをひねられた送風機のように活発に回転しはじめる感覚を覚える。

 深呼吸が済むと、今度は修行時代に身体に叩き込まれたかなりハードなストレッチを十五分、シャドーボクシングを十五分、腕立て伏せ、腹筋運動をともに五百回みっちりやった。そしてバスルームに入り、熱湯のようなシャワーと冷水シャワーを二回ずつ交互に浴びる。髪を洗う。髭をそる。念入りに歯を磨く。

 バスルームから出ると全裸のままでもう一度軽くストレッチをやり、そのまま身体中を撫でてみる。頭のてっぺんからつま先まで。全身くまなく。身体の研ぎ澄まされ方をチェックする。

 無駄な肉は一片たりともついていない。しなやかな筋肉が、人間の形を成していた。

 そういった朝の儀式をすべて済ませてしまうと、威吹鬼はソファーにかけた。そして目を閉じたまま、もう一度さっきまで見ていた夢のことを思った。

 母親の面影を辿った。

 優しかった母。

 どうしてだろう。どうして、ずって見ていなかった母の夢を見たんだろう。

 母を想うと、すぐにそれはもやもやとどす黒い怒りに変換されていく。晴れ渡った空に、夕立を降らせる墨色の雲が流れ込むように。

(塗りつぶせ)

 全身に熱い血がめぐる。

(黒く塗りつぶせ。意識を怒りで、黒く塗りつぶせ)

 心の奥底から声が聞こえる。

 空がずいぶん明るくなってきた。

 もうすぐ夜明けだ。月はまだ姿を見せている。




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