第七話
「な……は……?」
私はその光景の衝撃で、一歩後ずさり、口を震わせて声を漏らした。
『続いて、諸君に〈敵〉を見せよう。――Code:sn』
篠宮がそう唱えたとき、とてつもない音が耳を刺した。
グラァアアアアアアアアアッッッッッ!!!!
その音が聞こえたのは、画面の中ではなかった。
直接――私の近くから聞こえた。
バッと辺りを見渡す。右側、私が通ってきた道に向いたとき、そこいたのは。
人間ではないもの。
五百メートルは離れているが、私よりも十数倍は大きい異形の何かが、背を向けて立っていた。
形容するのであれば、いわゆるドラゴンのような生き物。
だが私の視界に映るそいつは、そんな生易しいものではなかった。
黒々とした硬そうな鱗と、恐ろしく長い爪。決して太くはない胴体に纏わりつく赤い帯。口から漏れ出る紫の瘴気。
見たこともない色をした翼も生えているが、二本足で動いている。
さらに、そこにいたのはそいつだけではなかった。
ごく小さい点がそいつの足元を駆け回っている。
「――……なん……おま……どうし……――」
切れ切れではあるが微かに、声が聞こえる。
動いている点は一つだけではなく、視認できる限りでは三つあった。
巨大なそいつは、彼ら三人を狙っているようだった。
左右に動くアバターを目で追い、今にも襲いかからんとしている。
赤のアバターがそいつの右脇を通り抜け、通りを奥へと進もうとした。
もう一人もそれに追随し、全員で撤退するのかと思われた、そのとき。
「あっ……!?」
左側で走り始めていたアバターが、足元の瓦礫に躓いて転倒した。
後ろに目がついていたかのように、そいつが頭を回してアバターを捉える。
今度は間を置くこともなく、あの耳をつんざく声で鳴くこともなく、その凶悪な爪を振りかぶり。
地面に転がっていたアバターを、背中から真一文字に切り裂いた。
ぎぃぃっっっ、がぁぁぁああああああああっっっ!!!
とてつもない大きさの声が、通りに響く。
ふぅぅっ、と私の口から息が漏れた。反射的に両腕で視界を塞いだが、辺りに鮮血が舞うことはなかった。
だが、その代わりなのだろうか。
ゆっくり腕を開くと、そこには先ほど篠宮が映したアバターのときのように――緑の粒が飛び散っていた。
ゔゔぁぁぁぁぁ、ひぐっ、あぁぁぁ……
アバターの悲鳴は徐々に小さくなり、数秒もすれば頭部が消えて、ついには聞こえなくなった。
崩壊を続けているアバターは、もう下半身しか残っていない。
爪を振り抜いたそいつが、ドシンと音をたてて地面を震わせながらアバターに近づき、その太い足を持ち上げて――
踏み潰した。
「っっ……!」
私が音にならない悲鳴を小さく上げたとき、巨大な頭がこちらに向けられた。
慌てて口を抑える。
まさか、気づかれた?
私は今、広い道路の真ん中に立っている。あいつの視線を遮るものは、何もない。
早くどこかに隠れなければいけないのに、あいつから逃げなければいけないのに、ここにきて恐怖が全身を支配したのだろうか、両脚は意思に反してピクリとも動かなかった。
なんで……なんでっ……!! なんで、動いてよ……!
その巨体は、みるみるうちに近づいて大きくなっていく。爛々と血のように輝く双眸が、はっきりと私を捉えて射すくめる。
もう自分の体を制御することができず、私は本能のままその場にへたり込んでしまった。
距離は百メートルを切った。あいつの放つ瘴気が、ここまで伝わってくる。全身に鳥肌が走り、心臓が凍りついた。
五十メートルになっても、私は動けなかった。
それが半分になっても、十メートルになっても。
……だめ。動けない。こんなものを前にして、逃げられるわけないよ……!
「だれか……たすけてっ……!」
私は気づけばそう口にしていた。
それは――産まれてから十五年生きてきて、一度も口にしたことがなかった言葉だった。
でも。私がどんなに叫んだって、誰も助けてはくれないだろう。だって私は、存在
しているだけで嫌われていく人間なのだから……。
すべてを諦めて、俯いた。このままあいつに潰されて、二人のアバターと同じように消えてなくなろう。
殺されるために、消えるために両目を閉じた。
――その時だ。
「立って!!」
一筋の風とともに、そう声が聞こえた。
目を開けてみれば、そこには肩を揺らしながら荒い呼吸をする少女がいた。
ぜぇぜぇと鳴る息が聞こえる。
「はやく!」
そう言って眼の前の少女は、いきなり手を伸ばして、地面にへたり込んだままの私の腕を掴んで立ち上がらせた。
「あっちに逃げるよ、死ぬ気で走って!」
少女は腕を掴んだまま駆け出した。
何が何やら分からず、私はただ引っ張られるだけだったが、数十秒ほど走ったところでようやく思考を取り戻した。
彼女に捕まっていた腕を解き、並んで走り出す。
「え、あ……あの、ありがとう」
「いいの、大したことじゃない! それより今は、あいつから逃げ切るよ!」
そして彼女は走る速度を上げ、私と左手を繋いだ。
ついていくだけで、足がもつれそうになる。
「わたしはアリア! あなたは!」
途中、彼女が走りながら私を振り返った。
今更気づいたが、彼女は私と同じぐらいの年齢であるように思えた。
髪飾りでまとめられた黒髪のポニーテールと大きな茶色い瞳は快活さを醸し出している。
くっきりとした目鼻立ちが、強い意志力を感じさせる。
――あぁ、私とは違う種類の人間だ。きっと学校では人気者で、友だちも男女関係なくたくさんいて、家族にも愛されているんだろう……。
そう感じてしまうのは、すでに私が卑屈になっていたからだろうか。
「え……わ、わたしは……レン」
「そ! じゃあレン、あいつ追いかけてきてるからもっと速く走って!」
「……へ?」
私の後ろを見ていた彼女――アリアの視線を追うと。
そこにはついさっき目にした、巨体の怪物が体を揺らしながら近づいてくる姿があった。
ええぇぇぇっ! あ、あいつ走れるの――!?
心のなかで悲鳴を上げると、錯覚だろうか、そいつが走る速度を上げたような気がした。
ひぃっ。
十メートルという距離にまで接近したことが今になって恐ろしく思える。
怪物を視界に捉えながら体をすくみ上がらせていると、繋がれた左手が、一度ぎゅうっと強く握られた。
彼女が何を考えてそうしたのかは分からないが、敵意や害意は伝わってこなかった。
「この先に大きなビルがあるから、そこに隠れるよ!」
「う、うん、わかった」
「さっき倒れてたみたいだけど、もしかしてTTM初心者? 何か聞きたいことある?」
そう問われて私は驚いた。心外だったと言っていい。
「いや、あの、そういうわけじゃ」
おそらく私は、同じ年齢のどのプレイヤーよりもTTMをプレイしているだろう。三年間、日数にして1095日、時計にして約二万時間、家に引きこもって続けていたのだから。
自分が一番上手いと言うつもりはないが、初心者扱いされるのはいい気分ではなかった。
しかし、地面にへたり込んだあのときの私はひどく弱々しく、小さく見えたろう。
TTMで勝利を続けようと、覇者になろうと修羅になろうと、結局は私はひとりのしがない中学生――にすらなり得ない引きこもりだったのだ。
そんな人間が、本物の恐怖を前にして立ち上がれるわけがない。
そこで、ふと疑問に思う。
――ならばこの少女は、いったい何者なのか?
彼女も二人のアバターが消えていく光景は見ただろう。あれは心からの、いや身体からの恐怖を誘うものだった。
それなのに彼女は立ち止まらず、私の前に現れて手を引くことができたのは、なぜ? 彼女はTTMのプロプレイヤーか何かなのだろうか……? どれくらいの練習を積んできたのか?
胸に湧いてきた疑問を、そのまま口にしていた。
「……アリアは、どのくらいTTMをやってるの?」
「わたし? そうだな、考えたことなかったけど……」
アリアは走りながら少し空を見上げて、答えた。
「二万時間ぐらい?」
「えっ……」
えっ、聞き間違い?
にまん、って言った?
私は絶句し、アリアの言葉が脳内でぐるぐる回る。
それはもう、私のプレイ時間と同等だ。その事実は、あの怪物に出会ったときよりも大きい衝撃をもたらした。
私があんなにTTMをやっていられたのは、学校に行っていないからだ。その時点で、自由に使える時間は普通の学生とは十時間ほどの差が生じる。
もしかしてアリアは、見た目のように子どもではないのだろうか。
そう考えたところで、ううん、と否定する。
年齢と外見を偽るのは不可能だ。TTMには認証カメラがあり、それが取得した生体情報をもとにアバターがつくられるのだから。
彼女は絶対的に女であるし、おそらく中学生だ。
だとしたら、どうやって二万時間ものプレイができたの……?
疑念が顔に出てしまっていたのだろう、アリアは私を見て困ったように笑い、口を開いた。
「わたし、学校行ってないからさ。一日じゅう部屋にこもってTTMをやってられるの」
「……っ」
目を見開く。
――学校に、行っていない。
この少女が? 誰にでも愛されるような見た目をした、この少女が?
「そう驚かないでよ。わたしだってあんまり言いたくないし……」
「……ご、ごめん」
私の脳は、半ば困惑に占められていた。
だが残り半分は、きっと――。
「その、わ、わたしも。だよ」
「ん? なにが?」
「えっと……、学校、行ってないの」
今度はアリアが目を見開く番だった。
勢いに任せて、私はついそんなことを言ってしまった。
だがそれも仕方ないのかもしれない。私と同じ境遇の人間に、初めて会ったのだから。
アリアはしばらく沈黙していた。顔も正面に戻し、地面を見ながら走っている。
やっぱり言わないほうがよかったかな、と後悔しかけていたところ、彼女が思ってもないことを口にした。
「そっかぁ、わたし、一人じゃないんだ」
「え……?」
「ううん、いいの……じゃなくて、ありがと。レン」
ありがとう――。
そんな言葉は、助けてと漏らしたときとは逆に、言われたことのないものだった。
優しさの伴ったアリアの「ありがと」が、脳内で反響していく。
「学校に行ってないの、もしかしたらわたしだけなのかなってずっと不安だったの。でも、レンもおんなじなんだね。それを知れただけで、わたしはすごく……ホッとした。自分が不正解、出来損ないなんかじゃないって分かったから」
「……」
「ってわたし、初対面でなにこんな暗い話してるんだろ! ごめんごめん、レン!」
「あ、いや……大丈夫だよ」
振り返ったアリアの顔を、私は直視できなかった。
それはきっと、鏡だから。私の顔を映すから。
……アリアは私のことをどう思ったかな。
安心したとは言ってたけど、それは私を慰めてくれてるだけなのかな……?
きっと私には分からない。
だって私は、〈レン〉でありながら〈双波怜〉なのだから。
本当の自分を人前に晒せない弱い私が、彼女のような、他人を助けられる人間に認めてもらえるわけがない。
「さ、はやく街に行こう。そしたら安全だよ!」
――でも。
彼女と「友だち」になりたいと思ってしまう自分も、確かにいたんだ。
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