第2話

 その日の帰り道のことはよく覚えていない。気付いたら家にいて、夜になっていた。

 晩ご飯のときまでぼーっとしていたら、気付いたら私の皿からコロッケが消えて、代わりに人参のソテーが置かれていた。それに対してすら何の感情も湧かなくて、もそもそと人参を口に運んでいると普段は横暴な姉からすごく心配されてしまった。


「なるほど。ついに恐れていた事態が到来したわけね」


 無理矢理私から事情を聞き出した姉が言い、私はこくりと頷いた。


「だから言ったでしょ。長十郎は家が借金持ちってデバフが大きいだけで、本人は滅茶苦茶イイ男だって」

「そんなこと、私が一番よく分かってるし……」

「一番よく分かってたらなんで告白してないんだろうねぇ?」

「うぐぐぐぐ」


 反論の余地がなく、私は唸ることしかできない。

 七年間、ほとんどライバルがいなかった事実に甘えていた。

 いや、今までも長十郎に好意を寄せる女子はいたが、家庭環境や放課後や休日はバイト漬けという事実を知ると早々に退散していたのだ。言い方は悪いが、長十郎と付き合うのは青春を棒に振るに等しい。薔薇色のキャンパスライフだって送れない。

 だからこそ、覚悟が必要なのだ。学生恋愛では終わらないぞという覚悟が。


「問題はその子がどれくらい長十郎に本気かよね。ちょっとイイかな~ぐらいなら、どうせすぐに諦めるでしょ」

「……そういう感じでは、なかったかな」


 桃瀬のあのときの表情を思い浮かべ、私は首を振った。

 あれはまさしく、恋する乙女のそれだった。汗も、赤面も、早口も、あの全てが演技だと言われてしまった日には、私は世界を信じられなくなってしまう。


「顔写真ある?」


 私はクラスのグループチャットから桃瀬の写っている写真を探し、姉に見せる。

 姉はそれをまじまじと見つめ、ひとしきり唸ってから言った。


「どんまい」

「諦めるのが早いって!」

「いやいや、これは無理でしょ。こんなん芸能界にだってそうそういないって。しかもこの子、事務所にもスカウトされてるんでしょ? もしそれが実現したんなら、あんたより先に買われちゃうかもね」

「やだーーーーッ‼」

「ははっ、ざまぁ」

 

 脳裏に浮かんだ最悪の未来予想図に私は思わず床に突っ伏した。

 見える、金銭的な援助ををちらつかせることで長十郎を専属の執事として雇い、二十四時間自分のそばに侍らせる桃瀬の姿が。

 それは正しくおはようからおやすみまで。朝の身だしなみから始まり、帰宅後のご飯とお風呂のお世話だって執事の仕事だ。就寝前にはもこもこの寝巻きで抱き枕になり、眠れぬ夜は生のASMRによる安眠導入も外せない。

 ベッドから始まり、ベッドで終わる実質的な同棲生活。

 やがて桃瀬からの要求は執事の領分から逸脱し始めるも、妹の学費を人質に取られては逆らうこともできない。お願いは命令に、日毎に過激さを増していく。そして長十郎はクリスマスの夜に初めてを散らされるのだ。そう、プレゼントは既成事――


「死ね」

「いっそ殺せ」


 私は辛い、耐えられない。死んでくれ鈴木あづみ。この恋が破れる前に。


「そんなに好きなら告ればっていつも言ってんじゃん」

「断られたら死んじゃう」

「だから死ねって」


 なんて薄情な姉だろうか。妹がこんなに悩んでいるというのに。


「愛だ恋だで騒ぐのなんてお子ちゃまの証拠だよ。どうせ十年も経てば立派な思い出になって風化するんだ。当たって砕けて爆死しな」

「……彼氏いたことないくせに」

「ぶち殺すぞクソガキ」


 ここで恫喝が言葉だけで終わらないのが私の姉である。投げつけられたアメ玉がおでこにクリティカルヒットし、私は後方に倒れ込んだ。


「痛い……心も体も痛いよ……」

「へたれな妹の言い訳を聞かせられるあたしの身にもなれっての」

「ちくせう……」


 私だって分かってる。自分がへたれなことぐらい理解している。

 でも、きっと、私が告白してもあいつは受け入れてくれない。それは私自身に魅力が云々と言うよりも、自分なんかと付き合って青春を棒に振ることはないと、他ならぬ長十郎自身が考えているからだ。

 ばっさりフラれるならまだしも、気を遣わせることになるのはごめんだ。

 そしてあいつは、私のことを想って私と距離を置くだろう。


(でも……)


 桃瀬が告白したならどうなるだろうか。近いうちにアイドルとしてデビューされると目されている学校一の美少女。健全な男であれば、さしもの長十郎であろうと揺らいでしまうものはあるだろう。

 それにアイドルであれば、どうせまともな青春は送れない。多忙を極める者同士で気が合うかもしれないし、それこそ織姫と彦星のように、たまの逢瀬を何よりも大事にするお付き合いというのも素敵かもしれない。


「お似合い、なのかなぁ」


 周囲はそうは思わないだろう。でも、少なくとも私はそう思う。


「まっ、丁度良かったんじゃないの?」


 姉があっけらかんと言う。


「何が?」

「確かにあんたとその桃瀬って子の戦力差は圧倒的なわけだけど……」

「うるさいな」

「でもね、恋のレースはまだ始まってすらいないんだよ。その上で、相手はあんたのことを競争相手だとも思っていないから、お優しいことに前を譲ってくれようとしてる。なんなら、出走の時間を決めるのだってあんたじゃないか」

「!」


 言われてみれば、確かに姉の言う通りかもしれない。

 私が桃瀬の代わりに長十郎の好みのタイプを聞くということは、私の方が先に長十郎の好みのタイプを知るということでもある。

 

➀私が長十郎の好みを聞いて、桃瀬に伝える。

②その内容を基に桃瀬がアクションを起こす。

 

 ➀と②の間に挟まるラグ。

 それが私の唯一の勝機にして、最後に残された猶予だ。

 恋がレースだと言うのなら。自分よりも足の速い相手にレースで勝ちたいのなら。

 答えは単純だ、相手よりも先に走り出せば良い。


「長十郎が美少女に落ちる前に、あんたが落とせば勝ちだ」


 単純だろ、と姉は他人事のように笑った。

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