鏡
バグパイパー
作者より
この小説は創作である。ここに書かれていることはほとんど全て架空の出来事であるし、私にはAという友人はいない。もちろん、ピーター・アンダーソンという心を病んだ道化師もどこにも存在しない。世界のどこかでは今も戦争があり、民族ジェノサイドが行われているというが、私にとってそれらは、遠い、非現実の出来事だ。多くの人にとって世界は平和なものなのだ。
しかし、全て事実であるとも言い切ることもできる。
我々は、それぞれの人生の中で多くの体験をし、多くの傷を負う。だから、ここに書かれていることは、ある人にとっては事実なのかもしれない。実際、私の中でこの物語の構想が思い浮かんだということは、私の頭の中では全て事実なのである。作者である私はそれを架空に体験したし、それを物語ろうと言葉を捻り出しているのだから。
かのレフ・トルストイはこう言った。”幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである”と。
幸福というのは容易に想像できる。しかし不幸はそれぞれに不幸なのであり、関係のない他者が共感できるものではない。だから、ある人にとっては民族ジェノサイドと同じぐらいの不幸を心のうちに秘めているのかもしれない。
まず物語を進めるために私にAという友人がいるという設定にしよう。やつとは、偶然同じ時に、同じ場所に居合わせたので友人になった、という仲だ。
私は大学にいた。授業を終え、喫煙所に向かっていた。やつもちょうど授業が終わったようで偶然居合わせることになった。
私たちはコカ・コーラを買い、自分のタバコに火をつけた。喫煙所は半ばギャング化した外国人留学生の集団で溢れかえっていた。中には日本人学生もいる。だが、たいていここにたむろしてる連中は、グレていたり、ふしだらだったりする連中である。たいていそういう連中は、聞く人に嫌悪感を抱かせるような猥談をしている。隣のベトナム人は狂犬病にかかったように何かを捲し立てている。
「あの連中も悩んだり、何か物事を考えたりするんだろうか?」
「それだけの脳みそがあるんだったらね」
私たちは話した。授業がくだらなくて退屈だということ、教授が人格異常者だということ、フロイトの理論は学問というよりポルノであるということ、今中東で起きているジェノサイドのこと、云々。
「で、イスラエルってのはイスラム教なのか?」
「今度ユダヤ人にあったら同じ質問を聞いてみるといいよ」
一通りの話を終えた後、やつは急に黙り込んだ。そして口を開いた。
「一つ馬鹿な話をしてもいいか?」
「なんだ?」と私は言った。
「おれは呪われているんだよ。前付き合ってた女に呪いをかけられてしまった」
「浮気でもされたのか?ひでえ話だな」
「いや、したのはおれの方だ。遠距離でずっと会えなかったから、その間に別の女と付き合っていた」
「お前がか?」
「そうだ、それで呪われた。それから他の誰かと付き合っても純粋な心で愛することができなくなってしまった。誰かを愛そうと思っても、あの子が脳裏に浮かんできて邪魔をしてくるんだ。おれはきっともう永久に誰かを愛せないと思う」
それに対し私はこう返答した。
「人間というものは間違う生き物だろう。過去に間違いを犯したからってそれでもうお終いってわけじゃない。次いい人と出会ったなら、一生をかけてその人を愛してやればいい。君は裏切りの苦しみを知っているんだから、もう間違うことはないだろうよ」
そしてこう続けた「過去は過去だ。もう気にするな。君はもう十分苦しんだんだから。贖罪はしたさ」
やつは少し物思いに耽った後、こう言った。
「くだらない話をしたな。さあ、飯でも食いに行こうか」
私たちはタバコの火を消し、灰皿へ投げ入れ、喫煙所を後にした。喫煙所ではまだ外国語と、品のない日本語の会話が飛び交っていた。
私たちはお互い日々に追われ、消耗し、疲れ切っていた。ただ適当に言葉を交わし、ほんの一時でも、この辛い人生から目を背けることができるならばそれでいいのだ。私はただ聞かれたことに気の利いた返答をするだけのマシーンだったし、やつもまたそうだった。やつにとってそんな不貞行為はどうでもいいことだというのはわかっている。
私たちの目の前を野良猫が通り過ぎる。猫は草陰から足早に飛び出し、道路を渡り、また草陰に消えて行った。
私はぶっきらぼうに口を開いた。
「うちの実家にも猫がいるんだ。今度見に来てくれよ」
「機会があればな」とやつは言った。「名前はなんていうんだ?」
「ディック」
やつは吹き出した。「なんでそんなふざけた名前にしたんだ? 当ててやろうか、そいつは雄猫だろう?」
「そういう名前のSF作家がいるんだよ」
この小説もまた同じだ。この物語になにか意味があると思ってはいけない。
つまるところ我々の人生も同じだろう。我々は出会い、別れ、体験し、何か教訓を得て、最後は死ぬ。この過程になんの意味もないのだ。
それぞれにそれぞれの不幸があり、喜びがある。この取るに足らない短い人生の中で、多くの人はそれなりの幸福を感じ、不幸を体験する。その不幸や喜びの集合が今現在80億も存在しているらしい。誰かが心の中で独りごちた。
「見ろよ、80億人もいるぜ。こいつらを一列に並べたら北極と南極がくっついちまう」
野に咲く草花がどれほど精一杯、美しく咲いたとしても、それは風景を構成する一要素にすぎない。それが私たちの人生、私たちの生命なのだ。
どこかで猫が鳴いていた。あの猫がこの愚かな我々の物語を眺めた時、なんと言うだろうか。それはきっとこういうものだろう
「ゴロゴロにゃー」
鏡 バグパイパー @11hungary
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