【完結】走れ! ホノルルの空の下(作品230630)

菊池昭仁

走れ! ホノルルの空の下

第1話

 郵便局での仕事を終えた私は、傘に落ちる雨音を聴きながら、少し離れた月極駐車場に向かって歩いていた。

 雨に滲む夕暮れのクルマのヘッドライトと赤いテールランプが、まるで真珠とルビーの首飾りのように連なっていた。

 私は時々、クルマの水しぶきを避けるため、傘を足元へと移動させながら溜息を吐いた。


 (レインブーツにすれば良かった)


 週末に買ったばかりのお気に入りのスウェード靴が台無しだったからだ。

 でも私はそんな梅雨が嫌いではなかった。


 谷口沙恵、射手座生まれの41才、独身。


 親戚の叔父の強力なコネもあり、私はお嬢様大学を出ると地元の大きな郵便局に就職した。

 職場ではいろんな男性から声を掛けられたが、個人的にお付き合いをしたいと思える人はなく、グループ交際に留めていた。


 私は東京での学生時代、北村毅という社会人と2年間、親には内緒で同棲をしていた。

 だがそれは母にはバレていた。


 「沙恵、赤ちゃんだけは駄目よ」


 毅とは結婚するつもりだった。

 でも、彼は同僚の女の子とヨロシクやっていて、


 「ごめん沙恵、子供が出来た。別れてくれ」


 それがあまりに彼らしく、志村けんのコントを観ているようで笑えた。

 彼とはそれっきりだった。

 私は彼を本気で愛してはいなかったのかもしれない。

 そして気がつけばいつの間にか、婚期を逃してしまっていた。

 いくつかお見合いも勧められたが、どれも体を許せるような相手ではなかった。

 そうしているうちに41。

 時が経つのは早いものだ。


 「無理して合わない人と結婚して苦労するなら、このまま自由な独身でもいいかもしれない」


 私は恋愛から自然と距離を置くようになっていた。

 母はよく口癖のように言っていた。


 「私のことは心配しなくてもいいのよ、沙恵ちゃんの人生なんだからね?」


 そんな母も最近では私の結婚を諦めたようで、何も言わなくなった。

 年老いてゆく母。

 5年前に父を亡くし、母はすっかり衰えてしまっていた。

 見た目にはまだ50才にしか見えない母と歩いていると、よく姉妹に間違えられた。

 それが母にはとてもうれしそうだった。


 「姉妹ですかだって うふっ」





 「夕食はすき焼きにしましょう」と母からLINEが届いていたので、私はクルマでいつものスーパーに向かって雨の中を走っていた。

 ワルツを指揮するコンダクターのように、ワイパーがフロントガラスの雨をスウィープしていた。



 

 スーパーで買物カートを押しながら、牛肉、しらたき、春菊に焼き豆腐、そしてシイタケを買った。

 もちろんビールと赤ワインも。

 恋人のいない私の週末の楽しみは、お酒を飲んで大好きな韓流ドラマを見て泣くのがルーティンだったのだ。



 レジに並んでいた時、ネギを買うのを忘れたことに気付いた私は、野菜売場に戻りネギを取ろうとした時、誤ってネギを床に落としてしまった。

 そのネギを私が拾い上げようとすると、横からスーツ姿の男性がそれを拾ってくれた。

 するとその男性は落ちたネギを自分の籠の中に入れると、陳列された新しいネギを品定めして、私の籠にそれを入れた。


 「このネギなら良さそうだ。床に落ちたネギは私が使いましょう。

 私ならウイルスも平気ですから。あはははは

 ここのネギは甘味があって美味しいですよ。

 いいなあ、お嬢さんは今夜はすき焼きですか? 実に羨ましい、アハハハハ」


 私の籠を覗いて、その男は笑いながら立ち去って行った。

 ほんのりと、シャネルの『ガブリエル』の香りを残して。

 とても涼しげな瞳をした、私と同じくらいの年令の男性だった。





 家に帰り、すき焼きを食べながらその話を母にすると、


 「映画やドラマならさあ、オレンジだけどね? ネギじゃね?」


 私と母は笑った。


 「本当よね? ネギだもんね? あはははは」




 それから2週間が過ぎた頃、その男性が再び私の前に現れた。

 郵便カウンターにやって来たその男性は、


 「すみません、これを速達で送りたいのですが」

 「はい、お預かりいたします」

 「あれ、ネギのお嬢さん?」

 「あっ、あの時のネギオジ・・・、ネギの人ですか?」


 私は思わず「ネギオジサン」と言いかけてしまい、慌てた。


 「郵便局の人だったんですね?」


 紺色のダークスーツにペイズリーのタイを締め、その男性は大人の色気の漂うダンディーおじさんだった。



 

 帰りに寄ったスーパーで、また彼と会った。

 今度は私から声を掛けた。


 「今、お帰りですか?」

 「ええ、独身だと外食が増えてしまい、栄養が偏ってしまって。

 ジムに行ってもなんにもなりませんよね? アハハハ

 見て下さい、今日は冷し中華に挑戦です!」

 「あら、美味しそう。

 私は母とふたりきりなので、今日は手抜きです。

 今日は簡単にお刺身にしようかなー」

 「今度、いっしょにランチしませんか?」

 「えっ?」

 「ナンパですよナンパ。

 あなたがとても素敵だったから、つい・・・。

 私は東日本銀行の結城満といいます」


 その男性は名刺入れから名刺を出すと、私に差し出した。


 「無理にとは言いません。気が向いたらで結構ですので、ぜひ電話して下さい。

 それ、私の携帯番号ですから。それじゃあまた」


 それが結城満との馴れ初めだった。


第2話

 夜、私はぼんやりと結城からもらった名刺を眺めていた。

 嫌いではない。いや、むしろタイプだった。

 落ち着いたスマートな身のこなし、バリトンボイス。

 イケメンで背も高く、スポーツマン。話も面白くて紳士。

 しかも地元本店勤務のエリート銀行マン。

 遂に王子様が現れたのだ。

 そんな素敵な理想の男性からの食事のお誘い。

 ランチデートなどという回りくどい誘い方も、大好きな韓流ドラマのよう。


 だが、私は疑心暗鬼にもなっていた。

 そんな結婚相手としては申し分のない彼が、モテないわけがないからだ。

 しかも美人揃いの銀行勤務、周りが放っておくわけがない。

 もしかすると付き合っている女性がいる? プレイボーイなの?

 でも、そんな人には見えない・・・。


 私のカラダが目当ての人ではない、絶対に。

 奥さんと離婚したばかりなのかしら?

 私は彼の名刺を抱き締めた。


 「会いたい、結城さんにもう一度会いたい」


 だが、いきなり電話するのも気が引ける。

 物欲しいそうな欲求不満な軽い女だとは思われたくはない。

 でも、会いたい。会って彼のことをもっと知りたい・・・。




 そして1週間が過ぎた頃、郵便局に彼が現れた。

 

 「あのー、ハガキを1枚下さい」

 「普通ハガキでよろしいですか?」

 「はい」


 彼にハガキを渡すと、内ポケットから品の良い万年筆を取り出し、そのハガキにサラサラと文字を書いて私に渡した。


 「これを先日お会いした、素敵な女性に郵送でお願いします。

 速達で」


 そこには、


      連絡 お待ちしています


 とだけ書かれてあった。

 きれいな文字が並んでいた。

 私は字の美しい男性に弱い。なぜなら字には、その人の人柄が出るからだ。

 私はそのハガキに自分の携帯番号を書いて渡した。


 「その人からの返信のようですよ」 

 「ありがとうございます! ではその方に今夜7時にご連絡を差し上げますとお伝え下さい。よろしくお願いします」

 「かしこまりました」


 私は微笑んで彼を見詰めた。

 もし、このカウンターがなければ、私は彼に飛び掛かって抱き付いていたかもしれない。


 「ありがとうございました! 失礼します!」


 去って行くうれしそうな彼の背中を、私は彼が郵便局を出て行くまで見送った。

 そんな秘密めいたやりとりに、私は胸がキュンとした。

 私にもまだ恋に対するときめきが残っていたことに、自分でも驚いた。

 うれしかった。


 「あのー、レターパックを3つ下さい、青いやつ」


 彼に気を取られ、彼の後ろに並んでいた小さな老婆がいたことを、私はすっかり忘れていた。


 「は、はい。レターパック・ライトを3つですね? 1,110円になります」





 夕食を終え、入浴を済ませると、私は彼からの電話をベッドの上で待っていた。

 携帯のアラームを19時5分前にセットしておいた。


 18時55分に携帯のアラームが鳴り、アラームを解除した。


 そして間もなく約束の19時がやって来る。ドキドキした。

 その間がとても長く感じた。



 携帯が鳴った。19時ジャスト。

 心臓がバクバクした。

 すぐに出たら軽い女に見られそう。私は5回目のコールで、「あら、本当に電話を掛けてきたの?」というカンジで平静を装うつもりだった


 「もしもし、結城です。

 今、お時間大丈夫でしょうか?」

 「ああ、結城さん? こんばんわ。

 大丈夫ですよ、今、お家ですか?」

 「ちょっと仕事を抜け出して来ちゃいました。

 今、駐車場のクルマの中です」

 「ではあまり長くはお話し出来ませんね?」

 「大丈夫です。今日はすみませんでした、突然郵便局にまで押し掛けてしまって」

 「結城さんて、行動的なんですね? びっくりしました」

 「嬉しかったです! 電話番号を書いてもらった時。

 中々ご連絡をいただけなかったから、嫌われたのかと思いました。

 そこでなんですが、ランチの・・・」

 「ランチじゃなくて、焼肉でもどうです?」

 「えっ、焼肉ですか?」

 「お肉は嫌い?」

 「いえ、そうではありません。

 ついうれしくて。あなたと焼肉が食べられるなんて」

 「うふっ、結城さんて面白い人ですね?」


 (そうよそうよ、私はこんなぺ・ヨンジュンを待っていたのよ!)


 「では、今度の金曜日の夜はいかがですか? 旨い焼肉の店を予約しておきますから!」

 「ええ、楽しみにしていますね? それから私、良く食べるし、よく飲みますよ?」

 「そんな女性、大好きです! では後でメールしますね、失礼します」

 「では金曜日に。お仕事お疲れ様です」


 携帯を切った後、私は女子高生のように足をばたつかせて歓喜した。


 「早く金曜日にならないかなあ~」


 私はギュッと枕を抱き締めた。


第3話

 待ち焦がれていた金曜日がやって来た。

 仕事をしていても、早く退社時間にならないかと気が気ではなかった。



 ようやく退社時間となり、私はあらかじめ用意して来たブラとお揃いのショーツにトイレで着替え、入念に化粧をし、髪を整えた。

 それを見ていた後輩の綾子に声を掛けられた。

 

 「あれれ谷口先輩、もしかしてデートですか?」

 「そんなんじゃないわよ、ただの食事よ」

 「普通、それをデートって言うんですよ。イタリアンですか? それともお寿司?」

 「焼肉」

 「えーっ、ということはもう長いんですね? 先輩と彼氏さん?」


 私はお気に入りのルージュを引きながら言った。


 「ううん、今日が初めて」

 「初めてのデートが焼肉デートですか? お口はニンニク臭くなって、煙に燻されて?」

 「そうだけど、ヘンかなあ? 初デートが焼肉デートって?」

 「初デートならナイフとフォークじゃないですか? それからお洒落なBARに移動して、そのまま気分が乗ればホテルでお泊りってパターンでしょー?」

 「そうかしら? そんな気取ったデートじゃ疲れるだけじゃない?

 お酒も飲めるしお肉も食べて、その方が気を遣わなくて済むと思うけどなあ。

 それに・・・」

 「それに?」

 「その方が相手の本心もよく見えるしね?」

 「流石は谷口先輩、郵便局の『美魔女』ですね? 恐れ入りました。

 でも私はイタリアンの方がいいなあ、だって、ひとりでは行けないじゃないですかー」

 「私みたいなオバサンになると全然平気よ。ラーメン屋さんだって牛丼屋さんだってひとりで行けるわよ」

 「おひとり様ってやつですね? 先輩、頑張って来て下さいね、月曜日にそのデートの話、聞かせて下さいね」

 「何を頑張るのよ?」

 「色々ですよ。あはははは じゃあ、お先でーす」


 綾子は去年、同じ郵便局に勤める井上と結婚した新婚の28才、いつも楽しそうだった。

 夫の方は別な郵便局へと配置転換になり、そろそろ子作りをして、来年からは産休に入りたいという。


 私は今、41才。今の医学では産めない年齢でもないが、問題は産んだ後だ。

 中年になってかなり体力が落ちた私に、果たして子育てが出来るだろうか?

 しかも仕事をしながら・・・。


 (あれ? 私、何を考えているんだろう?)


 鏡に映る自分を見て、そんなことを考えている自分がおかしかった。





 私は定刻よりも10分早く、駅の西口に到着した。


 (ちょっと早かったかしら?)


 すると結城さんもすでに待ち合わせ場所に到着していて私を見つけると大きく手を振り、駆け寄って来た。

 私も小さく手を振り返した。ちょっと恥ずかしかった。



 「今日、あなたに会えるかと思うと、昨日からよく眠れませんでしたよ。

 うれしすぎて30分も早く着いちゃいました。

 やっとフライデー・ナイトですね?」

 「そうですね?」

 「いい店があるんですよ、僕のお得意さんのお店なんですけどね、凄く旨いんです」

 「なんだかワクワクしちゃいます!」

 「じゃあ、タクシーで行きましょう。

 歩けない距離ではないのですが、あなたは今日、折角のお洒落なヒールなので」 


 さりげない気遣い、若い男には出来ない事だった。

 久しくこんなお姫様的な扱いを受けていなかった。




 タクシーに乗って店に向かう途中、カーブを曲がる時に結城さんとカラダが触れ、ドキッとした。

 男の人のカラダに触れることなど、もう10年以上もなかった。

 ふと彼を見ると、何も気にしてはいない様子だった。


 (やっぱり女の人に慣れているのかしら?)




 お店に着いた。

 入り口は凛として、内水と盛り塩がされ、きれいな暖簾が掛けてあった。


 玄関の壁の一輪挿しには紫のフリージアの花が活けてある。

 そのさりげない心遣いに店主の料理に対する想いが伝わる。

 


 結城さんにエスコートされて店に入ると、私は息を呑んだ。


 「どこからこんなに? お客さんでいっぱい」

 「すごいでしょう? 中々入れないんですよ、このお店。

 中はこんなに広くて綺麗なんです。

 こんばんは女将さーん、今日は美人をお連れしましたよー」

 「いらっしゃい、結城さん。

 珍しいわね? こんな素敵な女の人と一緒だなんて。

 いつもオジサンばかりなのに? 今日はデートね?

 奥のラブラブ席、取って置いたわよ」

 「あざーす! じゃあよろしくお願いします」


 女将さんの「いつもはオジサンばかりなのに」という言葉に私は少し安心した。

  

 60前後と言ったところだろうか? 女将さんは品のある和服美人だった。

 結城さんとはまるで姉と弟とのように親しげだった。



 テーブルに着くと、彼は私に椅子を引いてくれた。

 

 (えっ? こんなことまでしてくれる人なんて、今時いるの? しかも自然に)

 

 「飲み物は何がいいですか?」

 「じゃあ、とりあえずビールで」

 「いいなあ、取り敢えずビールって言う人。

 うちの課の連中と飲みに行くと、アイツらね? やれカシオレだの、カルピスサワーだのって、そんなソフトドリンクみたいなのばっかり注文するんですよ。

 やっぱり最初はビールですよね?」

 「ごめんなさい、私にはそんなカワイイお酒は似合わないので。うふっ」

 「何だか今日はとても楽しい飲み会になりそうですね?

 嫌いな物はありますか?」

 「ありません。結城さんにお任せします。

 人には好き嫌いがありますけど、食べ物はみんな好きです」

 「ますます気に入りました。ここの焼肉は最高ですよ。

 私も好き嫌いはありません! なんでも食べます!

 すみませーん! 注文いいですかあー!」


 私はこの時、結城さんにすっかり魅了されてしまった。


 「そう言えばまだ、お名前を伺っていませんでしたよね?」

 「谷口です、谷口沙恵です」

 「いいお名前ですね? 沙恵さんって呼んでもいいですか?」

 「はい・・・」


 男性から下の名前で呼ばれる。

 私はちょっぴり恥ずかしかった。でも、うれしい。


 (結城沙恵。悪くはない、きゃーっ!) 


 楽しい酒宴が始まろうとしていた。



第4話

 「こんなに楽しくて美味しい酒はありません!

 僕はしあわせ者です! 沙恵と出会えてサイコーです!

 どうです? ここの白センマイ刺し? 絶品でしょう?

 肉もじゃんじゃん焼きますから沢山食べて下さいね?

 まいうーですよ、まいうー。あはははは。

 これはお肉の宝石箱やー!

 なんてね? 古いですか? 僕?」

 「ううん、とっても美味しいわ!

 みっちゃんの言う通り、何を食べても美味しいよねー。

 すみませーん、ハイボールお替りいー!

 みっちゃんはどうする? もっと飲むよねー?

 ほら、ペースが落ちてるぞー!

 野球部で、4番で、エースだったんでしょう!」

 

 私たちは飲んで食べた。

 そしていつの間にかお互いを、「沙恵」「みっちゃん」と呼び合うようになっていた。

 

 「沙恵、ちょっとオシッコしてくる」

 「黙って行きなさい、黙って!」

 「ハーイ、アハハハハ」



 すでに3時間が過ぎていた。

 19時から飲み始めて、もう22時。

 あと30分でラストオーダーだった。

 こんなに飲んで自分を曝け出したのは、毅にフラれ、親友の裕子に愚痴を聞いてもらって以来だった。

 でもここに来て、最初の1時間はこんなカンジだった。




 「結城さん、ご家族は?」

 「両親と妹がいます。

 父は中学校の校長をしていました。

 母は小学校の教員で、今はシニアのボランティアで、カンボジアで小学校の先生をしています。

 妹は結婚して2児のママ。今は産休ですが、母の跡を継いで小学校の先生をしています」

 「私は5年前に父を亡くし、今は母とふたりで暮らしています。

 母は多趣味でハワイアンキルトにフラダンス、それからウクレレ教室にも通っています。

 ハワイ大好きオバサンなんです。

 毎年、お正月には母娘でハワイなんです、私たち」

 「それはゴージャスですね?

 僕もご一緒したいなあ。

 ホノルルマラソンに出るのが夢なんですよ」

 「結城さんはマラソンもするんですね?

 お休みは何をしているんですか?」

 「休みの時ほどすぐに目が覚めてしまうんです。

 朝、5時に起きて10キロをジョギングします。

 それからジムに行って、筋トレをしたり、泳いだり、サウナで汗を流したり・・・」

 「結城さんて、スポーツマンなんですね?」

 

 ゴツゴツした手に太い血管が浮き出ている。

 ワイシャツの上からも、その肉体美が窺えた。

 私はそんな彼に抱かれている自分を想像した。


 

 「どうです? このカルビ? 大トロみたいでしょ?

 生でも食べられるんですよ」

 「ホントですね? 冷凍じゃなく、チルドなんですね?」

 



 このようにかしこまったお見合いみたいな雰囲気だったが、私たちはすぐに打ち解けた。

 夢のようだった。


 (このまま最後まで行ってもいいかも)


 私は早速、母にLINEを送った。



   今日は綾子の家

   に泊まるね

 

          了解 避妊はちゃ

          んとするのよ

          産んでも育てるの 

          はムリなんだから

          ね(笑)

          おやすみなさい



 母は何でもお見通しだった。

 満がトイレから戻って来た。


 「おまたー」

 「バカね、私も行って来るわね?」

 「うん、沙恵、ごゆっくりー」



 私はトイレを済ませると、入念にメイクを整えた。

 何事も最初が肝心である。

 

 (よし、我ながらまだイケる。

 どうして今まで男に縁がなかったんだろう?

 こんなにいい女なのに)


 私は鏡の自分に笑って見せた。


 「私ってなんていい女なの? うふっ」


 


 「ただいまー。じゃあ次、行こうか?」

 「行こう、行こう。次、行こーっつ!

 何処に行く? ラウンドワンでボーリングとか? ダーツ? ビリヤード?」


 (ばか、ホテルに決まってんでしょ!)


 私はもう1クッション、置くことにした。

 それに明日は土曜日、焦ることはない。


 「カクテルが飲みたい」

 「いいねえ、お洒落なBARって沙恵に似合うよ」

 「みっちゃんにもね?」


 満は厨房のオーナーと女将さんに挨拶をして、お店を出ようとした。


 「みっちゃん、お会計は? 私も払うよ、ここは割り勘にしようよ」

 「ああ、いいんだ。

 もうお会計は済んでんの! さあ、お洒落なBARにレッツゴー!」


 (この人、もしかして酔ったふりをしているの?

 さっきトイレに立ったのは、お勘定をするためだったの?)


 私は益々、この爽やかイケメン・オジサンが好きになった。




 お店を出ると、彼は車道側を歩き、酔った私をさりげなく守って歩いてくれていた。

 私は彼に軽くキスをして、腕を組んだ。

 

 初夏の夜風が心地良かった。



第5話

 彼のデートプランは私を十分に蕩けさせてくれた。

 

 先程とは打って変り、そこはまるでハリウッド映画のような、大人が愛を語るにふさわしいショットバーだった。

 カルテットの演奏する『My funny valentine』とカクテル。

 私たちの会話はめっきりと減り、代わりにスキンシップが多くなっていた。


 焼肉屋での彼は、どうやら私を楽しませるために酔ったフリをしていたらしく、このBARでは大人の色気漂うgentlemanだった。


 それはエリート銀行員というより、どこかの国の諜報部員? スパイのようにミステリアスだった。

 そして何故か時折、横顔に悲しみが覗いていた。

 私は彼の肩に頬を寄せた。



 「ごめんなさい、ファンデが付いてしまったわね?」

 「スーツをクリーニングに出す時、お店の人に自慢するよ。「素敵な彼女にマーキングされたんだ」ってね?」


 彼は私の肩をやさしく抱いてくれた。

 私はこのまま彼に抱かれたいと思い、#とあるカクテル__・__#をオーダーした。


 「アフィニティを下さい」

 「私にもそれを」


 私たちの想いが重なった。

 そのカクテルの意味は、「あなたと触れ合いたい」という酒言葉だった。


 



 給料日後の金曜日のラブホテルは、どこも満室だった。

 ロビーには若いカップルが1組、部屋が空くのを待っていた。

 

 「別の場所に行きますか?」

 「ううん、もう疲れたから歩きたくない・・・」


 そう言って私は彼に寄り添い、甘えた。

 これから始まろうとしている行為を妄想すると、カラダが火照った。


 下りのエレベーターが開き、中年の不倫らしきカップルがホテルを出て行った。

 


 部屋の掃除が完了し、部屋待ちをしていた先程のカップルが手を繫ぎ、昇りのエレベーターに乗ってロビーを出て行った。




 1時間程して、ようやく私たちの番になった。

 私たちは待ちきれず、エレベーターの中で熱いキスを交わした。

 彼のキスはパーフェクトだった。

 私はそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。




 部屋に入ると彼は私の服を脱がせ、自分も服を脱いだ。


 「シャワーを浴びさせて・・・」

 「いいよそのままで。沙恵は綺麗だよ、汚れてはいない」


 確かにさっき、トイレでのエチケットは済ませて置いた。

 私は彼の言葉に従うことにした。



 ダンスもセックスも男次第だ。

 彼の鍛え抜かれた肉体。私は彼の背中に必死にしがみ付いた。


 「ずっとご無沙汰だったの、やさしくしてね?・・・」


 彼は十分過ぎる前戯を終えると、ゆっくりと私の中に入って来た。

 最初、メリメリとした感触はあったが、やがて快感へと変わった。

 私は女であることの喜びに打ち震え、セカンドバージンを彼に捧げた。



 行為の間、彼は私を誉めちぎってくれた。


 「美しい胸だ」「なんて白いきめ細やかな肌なんだ」「サラサラのきれいな髪だね?」


 そして耳元で囁く、「愛しているよ、沙恵」という甘いセリフ。


 彼は言葉でも私を酔わせてくれた。

 私はこの時初めて「イク」という浮遊感を感じ、頭の中が真っ白になった。


 今まで私は恋愛を知らなかったのだと思う。

 愛されることもなく、誰も本気で愛することもせずに今日まで来たのは、愛すべき人に出会わなかったからなのかもしれない。

 でも今は満がいる。

 私は満に出会うために生まれたのだ。

 


 「沙恵、君は本当に素敵だよ」

 「ありがとう満。こんな風にされたの、初めて」

 「この恋、これからも大切にしていきたい」

 「私も・・・」

 「ひと目惚れだったんだ。沙恵に。

 スーパーで君を見掛けたあの日からずっと。

 そしてまた、郵便局で君と偶然出会うことが出来た。

 僕は宿命すら感じたよ。

 君からの電話をいつも心待ちにしていたんだ。

 でも、君からの電話は来なかった。

 僕は居ても立ってもいられずに、君の職場へ押しかけた。

 もしもあの時、君に「NO」と言われたら、僕は沙恵を諦めるつもりだった。

 でも君は僕の誘いを受け入れてくれた。

 本当にありがとう」

 「私ね、あの時、すごく嬉しかったの。でも怖かった。

 からかわれているのかと思ったから。

 だってあなたがあまりに素敵な人だったから」

 「沙恵に出会えて、本当に良かったよ」

 「私もよ、今、すごくしあわせ」

 「結婚を前提に、僕と付き合って欲しい」

 「嬉しい・・・。こちらこそ、よろしくお願いします」



 不思議だった。「結婚」という言葉を封印して来た私が、まだ出会ったばかりの男性に、一度抱かれただけのこの男に、その申し出を素直に受け入れている自分に。


 私たちは再び熱いキスを交わした。

 ずっと昔から愛し合っている恋人同士のように。


 この日を境に、私の人生は大きく変わろうとしていた。


 私は遂に、孤独という寂しさとの決別を果たしたのだった。



第6話

 私たちは朝を迎え、再び愛を確かめ合った。

 男の肌に包まれる悦び。私は女を取り戻した。



 

 遅めのランチをお洒落なカフェで摂った。



 「ねえねえ、このかぼちゃのスープ、凄く美味しいよ、味見してみる?」

 「沙恵はかわいいね?」

 「どうして?」

 「パンプキンスープとは言わず、#かぼちゃ__・__#のスープというところが。

 そんな沙恵が好きだよ」


 私はその言葉に満足し、自分のスプーンでスープを掬い、テーブルを汚さないよう、左手を添えて彼の口に入れてあげた。


 「どう? 美味しい?」

 「凄く美味しいよ。おかわり」

 

 そう言って口を寄せる満。

 私は再び彼の口にそれを入れた。


 少し照れ臭かったが、こんなことを彼とするのが私の忘れていた夢だった。

 それが今、叶っている。

 

 満が思いがけないことを言った。



 「これから沙恵のお母さんにご挨拶したいんだけど、駄目かな?」


 彼はクラブ・サンドを食べながらそう言った。

 嘘ではなかった。昨夜、彼が言ったあの言葉。

 彼は本気で私とのお付き合いを真剣に考えてくれていた。



     「結婚を前提に付き合って欲しい」



 私はかぼちゃスープを飲みながら、上目遣いに満を見た。


 「いいけど、どうして?」


 私はわざと、とぼけてみせた。

 彼の答えを知っていながら、もう一度彼にそれを言わせたいがために・・・。



 「沙恵のお母さんに、「結婚を前提に、お嬢さんとお付き合いさせて下さい」と言うために決まっているだろう?

 昨日の夜、そう言ったじゃないか?

 やだなあ、覚えてないの?

 酔っぱらって言ったわけではないよ、僕は真剣なんだ」

 

 私の目の前がバラ色に染まった。

 夢を見ているようだった。白馬の王子様が今、私の目の前にいる。


 その言葉、何度でも聞きたい。録音しておきたいくらいだった。

 私は胸が熱くなった。


 性格も趣味も、食べ物も学歴も同じ。

 価値観も服のセンスも合っている。

 イケメンでスポーツマン。高身長、高学歴、高収入の三高揃い。

 やさしくて思い遣りがあり、カラダの相性も良かった。

 これほどの結婚相手が他に存在するだろうか?

 私は天にも昇る想いだった。



 「手土産は何がいいかなあ? お母さんは何が好きなの?」

 「何でも喜ぶと思うわ。みっちゃんからのプレゼントなら」

 「じゃあ沙恵の好きな物にしよう。それなら沙恵にも喜んでもらえるしね?」

 「それなら『プモリ』のザッハトルテがいい!

 すごく美味しいんだよ!」


 私は少女のようにはしゃいだ。


 「あはは、本当に美味しそうだね? 沙恵が言うと。 

 じゃあ、それを買って行こう」

 「それから「窯焼きシュークリーム」もね?

 お塩の結晶が散らしてあるの、それが甘いクリームを引き立ててくれて、最高なんだからあ!」

 「実は俺も好きなんだよ、ザッハトルテもシュークリームも」

 「みっちゃんはスィーツ男子なの?」

 「スィーツも沙恵も好きだよ」

 「ばか・・・」


 



 私たちはケーキを買った。

 満が言った。

 

 「花も買って行こうよ」

 「母はお花も大好きなの。凄く喜ぶと思うわ」


 満は花束も買ってくれた。

 母のことまで大切にしてくれる満に、私は心が震えた。





 家に着いた。

 母も女である、予めLINEで彼を連れて行くことを伝えておいたので、ばっちりとメイクも決まっていた。



 「ただいまー、こちらが結城満さん。

 東日本銀行の本店にお勤めなの。前に話したあのネギの人。偶然、私の窓口に来てね? それでお付き合いすることになったの」

 「ああ、あのネギの人? 沙恵、イケメンさんじゃないの!

 沙恵の母です、娘がお世話になります」

 「ネギの人? ああ、スーパーで。

 ネギの人、結城満です。はじめまして、お義母さん」

 

 「お義母さん」と言ったその言葉に、私と母は手を取りあって喜びそうだった。


 「夕べは大変娘がお世話になったようで、うふっ。

 沙恵、良かったわね?」


 母は意味深な顔で笑っていた。

 昨日の今日である、想像には難くない。

 私と満は顔から火が出そうだった。

 彼は礼儀正しく、母に名刺を差し出した。


 「それからこれはケーキとお花です。

 沙恵さんからお義母さんのお好きな物を伺って、選ばさせていただきました。

 お近づきの印として」

 「まあキレイなお花! ありがとうございます。

 さあどうぞ、上がって下さい。

 紅茶でいいかしら? それともビール? ワインも日本酒もあるわよ。

 もうすぐお寿司が届くはずだから、ラクにして下さいね」




 リビングに入ると満は言った。

 そう、あのセリフを。


 「お義母さん、沙恵さんと結婚を前提にお付き合いさせて下さい。

 よろしくお願いします!」


 彼は母に向かって深々と頭を下げた。

 私は迂闊にも泣いてしまい、思わず両手で顔を覆ってしまった。


 「いいの? 娘で? 娘はもういい歳なのよ?

 あなたほどのイケメンさんならウチの娘じゃなくてもいいんじゃないの? 他に沢山いるでしょうに」

 「いえ、私もいい歳ですから。

 それに僕は沙恵さんのすべてが好きなんです。一目惚れでした!」

 「まあ、それはそれは。お熱いことで。

 ごめんなさいね、いじわるなことを言って。

 娘は私にとってかけがえのないものだから。

 私からも娘をよろしくお願いします。

 母親の私が言うのもなんですけど、娘はとてもいい奥さんになると思います。だって私の娘ですから。

 あらやだ、まだ結婚すると決まったわけじゃないのにね、アハハハハ」

 その時、母の目にも薄っすらと涙が浮かんでいた。


 「お父様にもご挨拶させて下さい」



 満は父の仏壇の前に進み、ロウソクに火を灯し、御線香を手向け、仏鐘を鳴らした。

 そして手を合わせ、


 「お義父さん、初めまして。結城満と申します。

 お嬢さんを僕にまかせて下さい」


 と言った。

 母も私も、泣いた。

 父の遺影がうれしそうに笑っていた。




 お寿司の出前も届き、3人の酒盛りが始まった。

 母はすっかり満と意気投合し、彼に言った。


 「そうだ、今日はウチに泊まっていけば?

 どうせ明日は日曜日だし」

 「いいんですか? じゃあお言葉に甘えて」

 「沙恵の部屋は狭いから、ふたりで客間で寝るといいわ。

 私はお邪魔にならないように、沙恵のベッドで寝るから。

 沙恵、それでいいわよね?」

 「う、うん」

 「それじゃあ今日は前祝ね。お寿司もたくさん食べてね。

 そうだ、冷蔵庫に松前漬があったはずだから持ってくるわね?

 沙恵、満さんに冷たいおビールを出してあげて」


 母はいつの間にか、彼を下の名前で呼んでいた。


 こんなにうれしそうな母を見たのは久しぶりだった。

 家に男性がいることの安心感と安らぎ。


 私も母も、信じられないくらいにしあわせだった。



第7話

「満さん、お風呂どうぞー。

 着替えは主人の物だけど、もちろん新品だからそれを使って頂戴ね。

 どうせ脱いじゃうんでしょうけどね?

 沙恵も一緒に入ったら? アハハハハ」

 「すみません。お言葉に甘えさせていただきます。

 では、お先に」


 彼が脱衣場に行くと、母が言った。


 「良かったわね? あの人なら大丈夫。しあわせになるのよ、沙恵」

 「お母さん・・・」

 「男はね、お酒の飲み方で器量がわかるものよ。

 満さんは気配りの出来る人だわ。

 きちんとお父さんにも手を合わせてくれた。

 結城さんは誠実な人よ。いい人とめぐり逢えたわね?」

 「お母さんのことも大切にしてくれているしね?

 彼が言ったのよ、「お母さんに会わせて欲しい」って」

 「でも不思議よね? 男の人がいるだけで、こんなにも安心するものなのかしら?

 沙恵とふたりの時には気にしてはいなかったけど」

 「ホント、男の人がいるだけでホッとするような、守られているって感じがするもんね?」

 「そうね、所詮、女は女だからね?」

 「女のしあわせって、やっぱり男次第なのかも知れない」

 「ただし、良い男ね。

 満さんがお風呂から上がったら先に入りなさい。私は後でゆっくり入るから。

 お布団敷いて来るわね?」

 「うん、ありがとう」


 そう言うと、母は布団を敷きに客間へと向かった。




 私が食器を洗っていると、彼がお風呂から上がって来た。


 「ああ、いい風呂だったー」

 「父のために買ったパジャマだから、ちょっと小さいわね?

 うふっ、ズボンがバミューダパンツみたい」

 「そうかなあ? でもうれしいよ、お母さんに認めてもらえて」

 「母も喜んでいたわ。ビール飲む?」

 「もういらない。今日はかなりごちそうになったからね?

 何か手伝おうか?」

 「ううん、大丈夫。テレビでも見いて。

 私もお風呂に入って来るから」




 お風呂から上がり客間に行くと、布団がピッタリと並べて敷かれていた。


 「なんだか新婚旅行に来たみたいだね?」

 「リゾートホテルじゃなくて、民宿だけどね?」


 そう言って私たちは笑った。

 私は彼の布団に入った。


 「お邪魔します」

 「君の家だよ」

 「あっ、そうだった」

 「あのさ、結婚したら、お母さんと三人でここで暮らさないか?」

 「えっ、いいの? だってみっちゃんは長男でしょう?

 ご両親と同居でもいいわよ、私は」

 「僕の方は大丈夫なんだ。妹夫婦が親との同居を望んでいるしね。

 それに両親は僕の自由でいいと言ってくれている。

 君とお義母さんがイヤじゃなければの話だけど」

 「ううん、母もきっと喜ぶと思うわ。ありがとう、みっちゃん。

 何だか悪いわね? 私の親と同居なんて」

 「三人で暮らそう。その方が楽しいだろう?」

 「今日みたいに大きな声、出せないわよ。お母さんに聴こえちゃうから」


 私は彼に甘えた。


 彼が母との同居を自分から言ってくれた。

 実はそれが唯一の結婚への気掛かりでもあったからだ。

 大好きな母をひとりには出来ないし、したくはなかった。

 どうしてこの人は私の気にしていることがわかるんだろう?

 母をひとりにするには気が引けていたのは事実だった。



 私は彼にキスをした。

 そして私たちは布団の中で声を殺して魚になった。

 二階で寝ている母に気付かれないように。


 男に抱かれて眠るしあわせを、私は堪能した。





 翌朝の日曜日、私と母は朝食の支度を整え、3人で食卓を囲んだ。

 卵焼きにアジの干物、九州の伯父さんから送られて来た博多の明太子にキュウリの浅漬、切干大根とひじきと薩摩揚げの煮物。それにお豆腐の味噌汁とご飯の朝食。

 いつもと変わらない朝食が、彼がいることでこんなにもふくよかな食事になっていた。



 「満さん、ご飯のお替りは?」

 「ありがとうございます。じゃあ、お願いします。

 お母さんと沙恵のご飯、とても美味しいです!

 結婚して同居したら太っちゃうなあー」

 「同居はしないわよ、これでもお母さん、結構モテるのよ。うふふ。

 私のことはいいから、しあわせになりなさい」


 そう言って母は私たちに気を遣ってみせた。


 「夕べも沙恵と話したんです、結婚したらここで一緒に暮らそうって。

 僕、ずっとマスオさんに憧れていたんです」

 「本気で言ってるの?」

 「そうよ、お母さん。三人でここで暮らそう」

 「もしかすると家族が増えるかもしれませんしね?」

 「いやよ、お婆ちゃんだなんて」


 母はとてもうれしそうだった。

 私と母はしばらく、こんな家族団欒を忘れていた。


 「お母さん、お替り下さい!」

 「ハイハイ、明太子もまだあるわよ。

 そう言えば、イカの沖漬もあったわよねー?

 ちょっと待ってて、今、持って来るから」


 それは初夏の爽やかな日曜日の朝だった。

 私はその時、リビングのカーテンをブルーに変えようと思いついた。


 そんなやさしい彼のために。



第8話

 毎日がしあわせだった。

 まるで背中に翼が生えているかのように、軽やかな生活だった。



 職場の給湯室で洗い物をしていると、後輩の綾子が話し掛けて来た。


 「何だか最近の沙恵先輩、とってもキレイで楽しそう。

 もしかして、この間の彼氏さんとラブラブなんですね~?」


 私はその言葉を待っていた。


 「彼に告白されちゃった」

 「それってプロポーズですか!」

 「しっ! 声が大きいわよ。

 「結婚を前提にお付き合いして下さい」って言われちゃったの。うふっ。

 婚約するまでは誰にも言っちゃダメよ」

 「良かったじゃないですかー!

 おめでとうございますう~♪ 結婚式、絶対呼んで下さいね?」


 綾子は小声でうれしそうに喜んでくれた。


 「でも式は大袈裟にしないつもりなの。お互いに年令が年令だしね?」

 「そうかなあー? 先輩は年齢よりもかなり若く見えるけどなあ」

 「ありがと、綾。ランチ奢ってあげる」

 「やったー! じゃあ『オオカミ亭』の海鮮チラシで」

 「いいわよ、それに綾に訊きたいこともあるし」

 「よろこんでー! じゃあお昼休みに」

 



 私と綾子は職場の近くにある『オオカミ亭』にやって来た。



 「あー、美味しいー。美味しくて死んじゃいそうー!」

 「大袈裟ね?」

 「だって『オオカミ亭』の海鮮チラシですよ! 1,280円もするんですよ!

 これが感動せずにいられますか!

 これでも一応主婦なので、贅沢は敵ですよ。あはははは」

 

 綾子は結婚した今でも、男性社員に人気があった。

 この天真爛漫な振る舞いが、男心をくすぐるのだろう。

 綾子はしたたかだが、私はそんな彼女が嫌いではない。それも綾子の魅力のひとつだからだ。

 真面目なドキンちゃんや、誠実な峰不二子なんて面白くもなんともない。


 「写真、見せて下さいよ~、どんなイケメンなんですか? 芸能人でいうと誰に似てます?」


 おそらく綾子の予想はこうだ。

 アラフォーの私の相手など、どうせお腹が出て、薄毛の安定した公務員だと思っているはず。

 そしてすでにそれに対するリアクションも用意されているだろう。


 「へえー、やさしそうな人じゃないですかあ!」と。



 「見たい?」

 「見たい見たい! 東郵便局のマドンナ、谷口沙恵先輩を射止めた男性ってどんな人ですか?」


 この日が来るのをどれほど待ち望んでいたことか。

 私は予め用意しておいた、いちばんのお気に入りツーショットを綾子に見せた。



 「な、な、なんですかこのチョー・イケメンさんは!

 まるで芸能人カップルじゃないですか!

 この彼氏さん、何をしている人なんですか!」

 「東日本銀行の#本店__・__#勤務の銀行員なの」


 私はさりげなく「本店」を強調した。


 「凄いじゃないですかあ! 東日本銀行の本店勤務だなんて! スーパーエリート!

 ふたりで稼いでガッポガッポのセレブじゃないですかあ!」

 「止めてよ、セレブだなんて」


 (そうよ、私たちはセレブ夫婦になるのよ)


 自分の彼氏を自慢する快感。それがついに私にも訪れたのだ。

 今までどれだけ多くの女子たちから、付き合っている彼氏との写真を見せつけられ、自慢されて来たことか。

 綾子もそうだった。

 わざと行為の最中の動画まで自慢げに見せられたものだ。


 「どうです先輩、AVより凄くないですか?

 もういつもクタクタですよー」


 いつも聞き役だった私も、これでそんな話題にもついていけるようになった。

 来年の写真付き年賀状には、「私たち結婚しました。ぜひ遊びに来て下さいね」と書くつもりだ。


 

 「それでさあ、綾の結婚式って何人くらい呼んだんだっけ?」

 「招待客ですか? 確か両家で150人位でしたかね?

 親戚や両親の知り合いが100人、職場関係が40で後は友人が10人位だったかなあ?」

 「友だちが10人位だったっけ? 綾は友だち多いのに」

 「先輩、コレですよコレ」

 

 綾子は人差し指と親指でリングを作って見せた。


 「友人が多いとご祝儀が少ないでしょう? だから友だちは少な目にして、会社の偉い人や親戚の叔父さん叔母さんを多くしたんですよ。

 お陰様で黒字でした」

 「なるほど」

 「先輩は教会ですか?」

 「一応、そのつもりなんだけど」

 「相手の彼氏さんは今、おいくつなんですかあ?」

 「私と同じ歳よ、どうして?」

 「バツありですか?」

 「ううん、初婚だって言ってた」


 すると綾子は意地悪そうに眉間に皺を寄せた。


 「う~ん、先輩、気を悪くしないで聞いて下さいね?

 こんなイケメンが今までずっと独身で、彼女さんもいないってどうなんでしょうか?

 東日本銀行といえばエリートじゃないですかあ?

 美人な女子行員もいっぱいですよね? 不安じゃないですか?」

 

 確かに彼女の言う通りだ。

 事実、自分もそれには疑問がないわけでもなかった。

 あんなにやさしくて、人間的にも尊敬できる満に彼女がいない?

 40歳になるまで結婚もしていないのはやはりおかしい。

 それにプロポーズが早すぎはしないだろうか?

 一度ベッドを共にしただけで、すぐに結婚?

 まだ私のことをよく知りもしないで?

 私の親に挨拶までして、しかも母と同居してもいいと言ってくれている。


 私は思いがけない白馬の王子の出現によって、すっかり舞い上がってしまっていたのかもしれない。


 結婚する前に、そこをよく確認する必要があると私は思った。



第9話

 週末の金曜日の夜からは私の家で過ごし、土日はドライブに出掛けたり、ショッピングや映画を楽しみ、ホテルでいちゃつくのが定番になっていた。

 

 正直な気持ちを言えば、ホテル代が勿体ないので、彼の家で#したい__・__#というのが本音だった。

 仕事を終え、彼のマンションに行き、夕食の支度をして彼の帰りを待つ。

 食事をし、一緒にお風呂に入り、そして彼に抱かれて眠りたい。


 1回4,300円の休憩で、ラブホを月4回利用するとして1か月で17,200円、それが1年になると206,400円にもなるのだ。

 10年だと・・・。

 結婚するんだから10年はないか?

 無駄なお金は使わず、結婚資金とか、これからの生活に備えたい。


 (それとも自分の家に私を入れたくない理由でもあるのかしら?)


 実はすでに彼女と暮らしているとか? まさか結婚して子供がいたりして?

 

 (怪しい)


 それにまだ彼のお父さんたちにも紹介されていない。




 そんな土曜日の朝、いつものように実家の布団で彼と戯れている時、彼が言った。


 「沙恵、今日は午後から僕の実家に来てくれないか? 僕の家族にも君を紹介したいんだ」


 (やった! ついに来た!)


 「うん! みっちゃんの家族にも会ってみたかったんだ。

 あんっ、ダメ、もう起きないと」

 「あともう少しだけ」

 「お風呂に入って早く用意しないと。目一杯お洒落して行かなきゃ」

 「普段通りの沙恵でいいよ」


 彼の手が私の敏感なところを刺激する。


 「あっ、そこ弱いの知ってるくせに・・・」




 朝食の時、母に言った。


 「今日、満さんのご実家にご挨拶に行ってくるからね?」

 「あらそう、何か買っておけばよかったわね?」

 「ご心配なく、花を買って行きますから。

 父は花が好きなんです。

 僕のお嫁さんになってくれる沙恵に会えば、父も妹も安心しますから」




 私たちは花束を買い、彼の実家に向かった。



 満の実家はいかにも校長先生のお家といった感じの、品の良い門構のある和風住宅だった。

 門には松が植えてある。


 ドキドキしてきた。

 こんな経験は以前付き合っていた毅の時にはなかった。

 今思えば、親にも紹介してもらえない時点で、私は遊ばれていたのかもしれない。



 「ただいまーっ!」


 すると柔和な笑顔の老人が現れ、私の緊張は一挙に緩んだ。


 「いらっしゃい、満の父です。

 谷口沙恵さんですね? 息子から話は伺っています。

 さあどうぞ、上がって下さい」

 「はじめまして、谷口沙恵と申します。

 お父様はお花がお好きだと満さんからお聞きしたので、これを手土産にさせていただきました」

 「素敵なお花をありがとうございます」


 私は大きな花束を満のお父さんに渡した。



 居間に行くと、妹さんらしき人がお茶の準備をしてくれていた。

 とてもチャーミングな人だった。

 小学校の先生というよりも、やさしい保母さんといった感じの妹さんだった。


 私が「はじめまして、谷口・・・」と言いかけた時だった。妹さんは私を見た瞬間、口元を手で押え、眼を大きく見開いて驚いていた。

 まるで幽霊でも見たかのように。


 (私のことを知っている?)


 「はじめまして。谷口沙恵といいます」


 私はにこやかに挨拶をした。


 「ごめんなさい。あまりにも綺麗な人でちょっとびっくりしちゃって。

 いつも兄がお世話になっています。

 妹の幸村花音かのんです」


 妹の花音さんが満の顔を見たが、彼は目を合わせようとはしなかった。


 「綺麗な花をいただいたんだ。

 早速、お気に入りの花瓶に活けるとしよう」

 「まあ、すごくキレイなお花。とてもいい香り。

 ありがとう、沙恵さん」


 庭はきちんと美しく剪定され、あじさいの花と花菖蒲が初夏の季節を鮮やかに彩っていた。


 

 花音さんが淹れてくれた、ミントの葉が浮いたダージリンのアイスティーと、苺のショートケーキを食べながら、私たちは他愛のない世間話をした。



 「今は産休なんだけど、10月から職場復帰するんです。

 育児と仕事でこれからが大変」

 「学校の教師は手を抜こうと思えばラクな仕事だが、子供たちの将来を想っての教職は激務だからな?

 今は子供たちも大人びている割には考え方がまだ幼い。

 それに多様性のある時代に育った、複雑な価値観を持った親に対応するのも大変なことだ。

 花音は母さんに似て無理をするから、気をつけるんだよ」

 「わかってますよ。私だってそのくらい心得てるわよ。これでも学年主任ですからね?

 父はいつも私を子供扱いするのよ、やんなっちゃう」


 花音さんの笑顔が眩しかった。

 それをうれしそうに見ているお父さんと満。


 「子供はいくつになっても子供だよ。

 子供を心配しない親はいないからな?」

 「それは私も自分の子供を産んでよくわかったわ。

 子供はお爺ちゃんお婆ちゃんになっても自分の子供だからね?」


 この家族の中で、彼のやさしさや人格が養われたのだ。私は少し安心した。

 彼はやはり誠実な人だった。



 「そこで相談なんだけど、結婚したら沙恵の実家で暮らそうと思うんだ。

 花音は前から言っていた通り、この家でお父さんお母さんと同居するんだよな?

 お父さんもそれでいいんだよね?」

 「私は構わないが、ジイジとバアバと一緒というのもなあ。私たちのことは心配しなくてもいいんだよ」

 「私たちはそのつもりよ。それに旦那の親と暮らすのはちょっとねえ?

 「実家で暮らすことになりました」って言ってしまえばいい口実にもなるし。

 それに旦那の妹の悦子ちゃんもいるしね?

 いいよ、私たちはそれで」

 「ありがとう花音」

 「このお家が貰えるんだから最高だよ。

 その浮いたお金で退職したら豪華客船で世界一周!」

 「それもいいかもしれんな? 家賃はいらないぞ。 あはははは」


 みんなが笑った。

 素敵なご家族だと思った。

 親の介護などを考えれば、娘を頼りにするのが一番気を遣わずにすむ。

 無理して息子の嫁と同居しても、お互いにトラブルの元だ。

 娘の親と同居するのがベストな選択ではある。


 (もしかして満はそれを見越して私の母との同居を?

 私が母とふたりだけだからそれを心配してくれて?)


 だとしたら、何だか申し訳ないような気もする。

 そこまで私と母のことを考えてくれているなんて。




 帰りのクルマの中で、私は言った。


 「なんだか安心した。とても素敵なお父さんと花音さんで。

 お母さんにはまだお会い出来ないけど、たぶんいい人だと思う。

 だってあのお父さんの奥さんだし、あなたたちのお母さんだもん」

 「沙恵、帰りに僕のマンションに寄って行こうか?」

 「えっ? いいの?

 実はずっと行ってみたかったんだ。満のマンション。

 いやよ、歯ブラシが二本並んでいたりしたら」

 「沙恵に見せたいものがあるんだ」

 

 ハンドルを握る彼の横顔には、ただならぬ決意が漂っていた。



第10話

 そこは地元では有名なタワーマンションだった。

 彼の部屋は陽当りの良い、18階の南東の角にあった。

 広がるパノラマの風景。遠くにはつくばの山々も見えていた。


 部屋は綺麗に整理整頓され、まるで恋愛ドラマのセットのようだった。

 女の気配はしない。

 私は安心した。



 「見せたい物ってなあに? 何かすごい値打ちのある絵とか? それとも宝石? ロレックスの時計とか?」

 

 部屋の中を見渡すとフォトスタンドが置いてあり、お花と御供物の果物が眼に止まった。

 私がそれに引き寄せられるように近づいて行くと、私は小さな叫び声をあげた。


 そこに微笑んでいる女性は、私に瓜ふたつだったからだ。

 カラダの震えが止まらない。



 「君にすごく似ているだろう? 僕のフィアンセだった人だ。

 彼女は25歳の時にある重い病気になってしまってね、あっけなく死んでしまったんだ。

 15年前のことだ。

 僕が初めて沙恵をあのスーパーで見掛けた時、心臓が止まりそうだった。

 ネギを選んでいる君の横顔が彼女と重なり、僕は震えた。

 他人の空似? 諦めようとしたが、また君を郵便局で見つけてしまった。僕は運命を感じたよ。

 僕は偶然を装い、スーパーで君を待ち伏せして名刺を渡した。

 だがいくら待っても君からの連絡はなかった。

 僕はいても立ってもいられなくなり、遂に君のいる郵便局に行き、君の真意を確かめた。

 そして初めてのデート。僕はあの日、君と結婚することを決めたんだ。迷いはなかった。

 だがそれは、君が死んだ彼女に似ていたからではない。信じてくれ!

 もちろん顔は似てはいるが、君は君だ。

 美佐子とは声も、仕草も、好みもまるで違う。

 僕は美佐子ではなく、沙恵を愛したんだ。

 だからプロポーズをした。

 さっき、実家で花音が君を見て驚いていたのはそのせいだ。

 確かに最初は君と美佐子を重ねていた。

 いや、美佐子が帰って来てくれたとさえ思った。

 でも、今は違う。違うんだ!

 僕は美佐子に似ているから沙恵を愛したんじゃない! 沙恵という一人の女性として君を愛している!

 信じてくれ、だから誤解を・・・」


 すべてが崩れ去り、泪の海に部屋の景色が沈んでいった。

 私は彼の言葉を途中で遮った。


 「聞きたくない! そんな話!

 私は美佐子さんというあなたのフィアンセの代わりだったのね! 酷い! 酷すぎる!

 なんでもっと早く言ってくれなかったの! 付き合う前に!

 こんなにあなたを愛してしまった私は、一体どうすればいいのよ!

 冗談じゃないわ! こんな話ってある?

 おかしいと思ったのよ! こんなに素敵なあなたが誰とも付き合わず、結婚もせずにその歳になるまで独身だったことが!

 死んだ美佐子さんをずっと愛していたからなのね!

 あなたはやさしい人だから、これからも美佐子さんのことを忘れることは出来ない!

 私は死んでしまったあなたの恋人じゃない! そんなのイヤ! 絶対にイヤ!」



 私はそのまま彼のマンションを飛び出した。

 彼は私を追って来てはくれなかった。

 せめてもう一度言って欲しかった。


 「僕が愛しているのは沙恵、お前なんだ」と。





 家に戻り、母の顔も見ずに私は部屋に閉じ篭って泣いた。

 ドアの外で心配した母が声を掛けてくれた。


 「沙恵、満さんとケンカでもしたの? ちょっと入るわよ」


 私は思わず母に抱き着いて泣いた。


 「お母さん、彼が愛してくれたのは私じゃなかったの!

 私にそっくりな、亡くなった婚約者だったのよおおおおお~」

 

 母は私の頭を子供の頃のようにやさしく撫でてくれた。


 「そうだったの、沙恵も辛かったわね?

 でも満さんはもっと悩んだはずよ。

 自分の愛した亡くなった恋人が、突然目の前に現れる。それって残酷なことじゃないかしら?

 だって沙恵はその人じゃないんだから。

 沙恵は沙恵なんだから。

 もしもお母さんもお父さんと同じ人を見かけたら、どこまでもついて行きたくなると思う。

 沙恵、人はいつかは死ぬものよ。私も沙恵も、そして満さんも。死なない人はいないの、そして死んだその人のことを想い続けて悲しみにくれて生きても、死んだ人は嬉しくはないハズよ。

 もし沙恵が同じ立場だったらどう?

 自分のことを想って暗い人生を送って欲しいと思うかしら? 

 すべては時間が解決してくれるんじゃない?

 それほど満さんは一途な人なんだと思う。

 だってそれを言うことによって、沙恵が傷付くことはわかっていたはずよ。

 最初はわからないわ、。でもね? 今はしっかりと沙恵のことだけを見てくれていると思う。

 あなたが亡くなったその人に似ているのではなく、その人がたまたまあなたに似ていたと考えればいいんじゃないかしら? 

 沙恵は自信がないんじゃない? 死んでしまった彼女さんには勝てないと。

 いいんじゃない? あなたはあなたのやり方で、満さんを大切にしてあげたら。    

 だって、今更嫌いになんかなれないでしょう? 満さんのこと。

 とにかく、少し時間を置いて考える方がいいと思う。

 すぐに結論を出さずに」




 その後も何度も彼から連絡があり、郵便局にもやって来たが私は取り合うことはしなかった。



 「もう一度、沙恵と話し合いたいんだ!」

 「何も話すことはないわ。もう私に近づかないで!」


 私はしばらくの間、彼と距離を置くことにした。

 自分の心の整理がつくまで。



第11話

 (人を好きになるって何だろう?)


 あの人の顔が好き、声が好き。

 サラサラの髪が好き、うなじのほつれ毛が好き。

 顎が好き、鋭い眼差しが好き・・・。


 それは違うと思う。

 好きになるとはその人のパーツを好きになるのではなく、その人のすべてを好きになることだ。


 心もカラダも、いいところもイヤなところもすべてを包括して好きになることだ。

 だからこそその好きが恋となり、愛に昇華するのだ。

 私は自分に問いかけてみた。



 「どうして彼を許してあげないの?」

 「だって、私を好きになった理由が、死んだ彼女さんに似ているって酷くない?

 私はその人の代用品、慰め物なの?」

 「彼が黙っていてくれればそれで良かった?」

 「それはもっと嫌」

 「みっちゃんは沙恵のことを本気で愛していると思う。

 だから正直に言ったんじゃないの? 沙恵が好きだから」

 「そんなのわかっているわよ! わかっているからこそ辛いんじゃない!

 私だってどうしていいのかわからない!」

 「どうして人は恋なんかするんだろうね? 辛い事もたくさんあるのに」

 「辛い事を予想して、人を好きになる人なんていないわよ」

 「傷付き、傷付けてするのが恋愛じゃないの?」

 「だから私は恋愛を放棄したのよ。ひとりで生きて行こうと決めたの。

 折角、大人しく眠っていた私を揺り起こしたのは彼なのよ!」

 「まだ好きなんでしょう? 彼のことが?」



 虚しい自分との遣り取りだった。

 どうして私は彼を許せないんだろう?

 その理由は分かっている。

 それは私が彼を愛しすぎたからだ。


 裏切られたと思った。

 薔薇色の人生が、古いイタリア映画のように色褪せてしまった。

 そもそも、死んだ人にどうやったら勝てるのよ!

 いい思い出しか残っていない彼の中の美佐子さんに! 

 そして一番辛く悲しい別れをして、そこで彼の時間が今も止まっているのよ。

 彼女は若くて美しいまま、彼の記憶の中で永遠に生き続けるの。

 でも私はどんどん年老いて、おばあちゃんになっていく。

 そんなのズルいでしょ?

 勝てるわけがないわ。

 せめて付き合う前に言って欲しかった。



     「君は僕の亡くなった恋人によく似ている」



 そうすれば私だって、そんな彼の悲しみを癒してあげたいと思えたかも知れないのに。


 確かに「結婚を前提にお付き合いして下さい」とは言われたが、「結婚して下さい」と、正式にプロポーズをされたわけではない。

 それなのに怒っている私がヘンなの?





 綾子と昼休みにランチに出て来て唐揚定食を食べていた。



 「どうしたんですか? 先輩。

 かなりのダークグレーですけど、彼氏さんとケンカでもしました?」

 「それがさあ、彼の亡くなった婚約者が私にそっくりで、それで私に近づいて結婚しようとしたみたいなのよ。信じらんない!

 酷い話でしょ?」

 「ええーっ! そうだったんだー! それはショックですよねえ!

 まるでドラマみたい! モグモグ」


 綾子は唐揚げにたっぷりとレモンを絞り、まるで他人事のように食べ始めた。綾子らしいと思った。

 確かにそんな話、他人にはどうでもいい話だった。

 

 「上手くいかないものね? 恋愛なんて」

 「どうして先輩はそれがイヤなんですか? モグモグ」

 「イヤに決まってるでしょー? 私じゃなく、その人の事が好きなのよ!」


 今度は柴漬を食べている綾子。


 「パリポリ パリポリ そんなにイヤかなあー?

 それって先輩が、まだ本気で彼氏さんのことを愛していないからじゃないですか? パリポリ」


 (んっ? この子、今なんて言った? 私が本気で満を愛していない?)


 「どうゆうことよ?」

 「つまり先輩は唐揚定食の唐揚げは好きでも・・・」


 綾子は私がそのままにしておいた櫛型レモンを取り、自分の唐揚げに掛けた。


 「別に唐揚げにレモンは掛けなくてもいい。だから残す。気にしないで残す。

 亡くなったその人のことに拘っているのは先輩の方じゃないですか?

 レモンが掛かっていようがいまいが、好きな唐揚げには変わりはないんですから。モグモグ」

 「綾・・・」

 「先輩なんかまだいいですよ? 私なんか彼をお口でしてあげている時に、「いいよ、凄くいいよサキ!」なんて別の女の名前を呼ぶから齧ってやりましたけどね。モグモグ

 許してあげたらどうですか? あんなイケメン、勿体ないですよ。おじさんだけど。パリポリ」

 「悪かったわね? オジサンで。私もオバサンだけど」

 「先輩はオバサンじゃなくて、#美熟女__・__#ですよ。モグモグ」



 携帯電話が鳴った。

 彼の妹の花音さんからだった。


 「花音です。今夜、ちょっと会えませんか?」

 「いいですけど・・・」


 話の内容はおよそ想像が出来たが、私は花音さんと会うことを承諾した。



第12話

 私たちはお寿司屋さんで会うことになった。


 「さあ沢山食べてね? ここは兄の驕りですから」


 私は黙っていた。


 「兄から沙恵さんはキライな物はないと聞いてますけど、大丈夫ですか?」

 「はい・・・、大丈夫です」

 「ウチの家族はみんな好き嫌いがないんですよ。

 別に親から強制されたわけでもないんですけどね?

 大将、それじゃあ「おまかせ」でお願いします」

 「かしこまりました」

 「あと姉に生ひとつ、お願いします。

 本当は私も飲みたいんだけど、今授乳中だしね?

 ああ、私も早く飲みたいなあ」


 花音さんに「姉」と言われた時、嬉しかった。

 私は妹か弟が欲しかったからだ。


 「私ね、お姉ちゃんが欲しかったんです。

 だから沙恵さんがお兄ちゃんと結婚してくれたらすごくうれしい。

 イヤですか? 私のお姉ちゃんになるのって?」

 「とんでもない! 私も花音さんみたいな妹が出来ると喜んでいたわ。でもね・・・」

 「わかります、沙恵さんの気持ち。私も女だから。

 でも私、兄と沙恵さんにはしあわせになって欲しいんです。ふたりとも、大好きだから。

 初めて沙恵さんに会った時、息が止まりそうになるくらい驚きました。あまりにも美佐子さんにそっくりだったから。

 美佐子さんと兄は銀行の同期入社で、とても素敵な人でした。

 美佐子さんを亡くした兄は、見ていられないくらい、落ち込んでいました。

 それから兄は誰ともお付き合いすることもなく、あの歳になるまで独りでした。

 そんな兄が沙恵さんと出会って、変わったんです。

 とっても明るくなりました。

 「俺はこの人なら結婚したいという人に初めて出会えた」って、本当に喜んでいたんです。

 もし、お兄ちゃんが沙恵さんを美佐子さんの代わりとして好きになったとすれば、結婚したいなんて思わないと思うんですよ。

 だって沙恵さんは美佐子さんじゃないから。

 沙恵さんのことが本当に好きだからこそ、沙恵さんと結婚したいと思ったんだと思います。

 沙恵さんの大切な人生を、自分のために犠牲にするような兄ではありません。絶対に。

 兄の中ではまだ美佐子さんは死んではいなかったんだと思います。

 美佐子さんの死を受け入れることができなかったんです。

 沙恵さんに出会うまでは。

 沙恵さんと出会って、兄はようやく美佐子さんの死を受け止めることが出来たのだと思います」


 そう言って花音さんはヒラメを摘まみ、私は生ビールを飲んだ。


 「沙恵さん、私が口を挟むことではないことは分かっています。それは兄と沙恵さんが決めることだから。

 でも、たとえお兄ちゃんと沙恵さんが別れても、私は沙恵さんの妹でいたいと思っています。駄目ですか?」

 「ううん、花音ちゃんありがとう。凄くうれしいわ。

 頼りないお姉ちゃんだけど、これからもよろしくね?」

 「じゃあもう一度、考えてくれるんですね? 兄の事?」


 私は微笑んで頷いた。

 私はようやく自分の気持ちに整理がついた。


 「ああ、良かったあー。別れるなんて言われたらどうしようかと思っちゃった。

 さあどんどん食べましょう! 沙恵#お姉ちゃん__・__#」


 私には夫よりも先に、かわいい妹が出来た。

 


 満からLINEが届いた。



    もう一度 僕に

    チャンスをくれ



 私はすぐにそれに返信をした。



           一度だけよ


    ありがとう 今

    電話してもいい

    ?


           今 花音さんと

           お食事している

           から 後で電話

           する


    了解




 「お兄ちゃんからですか?」

 「うん」

 「兄のこと、よろしくお願いします」

 「こちらこそ」


 私たちは本当の姉妹のようだった。






 そして木曜日の夜、彼とホテルの展望レストランで食事をすることになった。

 私はきちんとメイクをして美容室にも行って、彼の好みの白の下着をつけて出掛けた。



 久しぶりに会った彼は、すっかりやつれていた。

 その哀愁に満ちた表情が、大人の魅力をより一層湛えていた。



 「ごめん、彼女のこと黙っていて。

 僕は怖かったんだ、沙恵を失うことが」


 私は平静を装い、ブルーベリーソースの掛けられた牛テールにナイフをいれ、口に運んだ。


 (まだ駄目、すぐに許しちゃダメよ。落ち着くのよ沙恵)


 「もう一度、やり直せないか? 俺たち?」

 「何を?」


 私は彼を上目遣いに睨み、わざと冷たく言った。

 

 「恋愛を最初から、君と出会う前からやり直したいんだ」

 「無理」

 「どうしてもか?」

 「たとえば私に死んじゃった恋人がいて、その人があなたに似ていたら、あなたはどう思うかしら?」

 「ごめん・・・、沙恵の気持ちも考えずに、俺は酷いことをした。

 でも僕は、沙恵を愛しているからと言って、美佐子のことを忘れたくはないんだ。

 君と出会って、彼女がようやくいい思い出になったからだ。

 僕は沙恵を必ずしあわせにする。沙恵という素敵なひとりの女性としてだ。

 それが彼女への供養であり、美佐子も君となら祝福してくれると思う。

 僕も君も、いつかは美佐子と同じように死ぬわけだからね?」


 私はそれには答えず、ワインを飲んだ。


 「じゃあ僕と賭けをしないか?」

 「賭け?」

 「来年のホノルルマラソンに俺はエントリーする。

 そこで俺が100位以内に入れたら、僕と結婚してくれ。

 もし駄目だったら君のことは諦めるよ。

 僕は必ず100位以内に入って見せる。

 それが僕の君への愛の証だ」


 (ホノルルマラソン? そんなことをして、もし100位以内に入れなかったらどうするつもりなのよ。バカ)


 「わかったわ、じゃあ必ず100位以内に入ってみせて」

 「必ず100位以内に入ってみせるよ。

 そして結婚しよう。僕のお嫁さんになって欲しい」

 「ちゃんと私をあなたのお嫁さんにしてね? 100位以内に必ず入って」


 私たちはそのまま、下のホテルで久しぶりの逢瀬を楽しんだ。

 



 「ホノルルマラソンってどのくらいの人たちが参加するの?」

 「3万人くらいかなあ?」

 「3万人!」

 「そうだよ、だから100位以内には入りたいと思うんだ」


 私はベッドから跳ね起きた。


 「そんなの無理でしょう!」

 「やってみたいんだ。簡単じゃないからこそ挑戦したい。それが僕の沙恵に対するケジメだ。

 僕は沙恵と結婚したいんだ。そんなことも出来なくて君をしあわせには出来ないからね?」

 「でも・・・」

 「もちろん簡単じゃないよ、これから毎日トレーニングをする。100位以内に入るためにね?

 沙恵としあわせになるために。

 大丈夫、これでもインターハイの時、フルマラソンで5位だったから」

 「それは高校生の時の話でしょう?」

 「まあ、そうだけど」


 彼は私を抱き締めて言った。


 「必ず100位以内に入ってみせる。どれだけ僕が沙恵を愛しているか、証明してみせる。

 沙恵と結婚するために」

 

 (嬉しかった。でも100位以内に入ることが出来なければ結婚は出来ないの? そんなの絶対にイヤ!)

 

 彼の決意は揺るぎない物だった。



第13話

 「そうか? 美佐子さんのこと、沙恵さんに話したのか?」


 盆栽の松を剪定しながら、満の父親は言った。


 「それで?」

 「条件付きで許してもらえました。

 もっともその条件を付けたのは私の方ですけど」

 「どんな条件だ?」

 「来年のホノルルマラソンで、100位以内に入るという条件です」

 「それはまた大変な条件を付けたなあ? 若い時ならいざ知らず、お前もいい歳だからな?

 まあ、自分で決めたことだ、納得がいくようにやればいい。

 お前は一途だからな?

 女はな、時として逆のことを言うものだ。

 キライは好き。

 イヤよイヤよも好きの内ってな? あはははは

 沙恵さんはいいお嬢さんだ。長年子供たちを見て来た俺が言うんだから間違いはない」

 「でも、何か欲しいんです。これを乗り越える絆が。

 これからの結婚生活を、より強固な物にするために」

 「人の気持ちというものは相手にも伝わるものだ。

 好きだという気持ちを持ち続けていれば、それは必ず相手にも伝わる。

 たとえ離れていてもだ」


 父は母のことを言っているのだと思った。


 「それでもし、100位以内に入れなかったらどうするつもりだ?」

 「沙恵さんのことは諦めると言いました」

 「お前のそういう「All or Nothing」のところも、母さんに似たのかもしれないな?

 「生か死か?」なんでもシロクロをはっきりさせようとする。

 人生には時として、グレーでもいい時もあると俺は思うがな?

 だって疲れるだろう? 物事を決定するのって。白か黒かなんて。

 人間の心など、その時と場所、状況によって変化するものだ。

 あの時は黒と言ってしまっても、今は白だと思う時もある。

 物事を決めつけず、おおらかに生きればラクだぞ、満。

 パスカルの『パンセ』を読んだことはあるか?」

 「中庸ですか? 中身は知りません」

 「パンセとは「考える」という意味もある。あの三色スミレをパンジーというだろう?

 パンジーの語源はパンセ、つまり、俯き加減に咲くパンジーは、「考えているように見える」というところから来ているそうだ。

 パスカルは言う、

 

  「私は中庸には拘らないが、その状況におかれていることは認める。

  その端にあることはだ。

  ただし、下の端に置かれることは心外だ。

  人間の偉大さはその中間にあることを知る事だから」


 と、そうは思わないか?」

 「私は経済学部でしたから、すべてを理解することはできませんが、お父さんが僕を励ましてくれているのだけは伝わります」

 「なら良かった。

 母さんには今でも責められるよ、「私のこと好き?」って訊いたら、あなたは「好きでも嫌いでもない」って言ったとな?

 それからこれだけは覚えておくといい。

 女は何でも覚えている。自分に都合のいいことだけはな?」


 満の父親はそう言って微笑むと、


 「ビールでも飲むか?」


 と言った。


 遠くから貨物列車の通る音が聞こえてた。



第14話

 満は毎朝、1時間早く起きて5キロのジョギングを10キロの倍にし、週末にはフルマラソンを走った。

 インターハイの選手だった頃から比べると、もちろんタイムは落ちていた。

 フルマラソンを走り終え、腕時計を見る満。


 「ハアハア これじゃ全然ダメだ。せめて3時間を切らないと、 ハアハア 100位には入れない」



 食事はタンパク質、アミノ酸、疲労回復効果のあるビタミンB1を主体に摂取した。

 そして鉄、ビタミンCにクエン酸。

 運動の前後にはオレンジジュースを飲んだ。

 マラソンには心肺機能を高めることは重要だが、怪我や故障のリスクの防止、基礎体力とスタミナの向上も大切だ。

 特にインナーマッスルを鍛える必要がある。

 スプリットスクワット、スタンディングカーフレイズ、フロントブリッジにニートゥーエルボーなどを重点的に行った。



 「必ず100位以内に入って沙恵の愛を確かな物にして、必ず結婚してみせる」


 満は本気だった。





 休日、沙恵は満の実家を訪ねた。


 「先日はどうもありがとうございました。

 ちょっとよろしいですか?」

 「どうぞ上がって下さい」


 お父さんは私に冷たい麦茶を出してくれた。



 「息子から聞きました。あなたを傷付けてしまったと。

 すみません、親に似て不器用なもので、沙恵さんに上手く本心を伝えられなかったようです。申し訳ありませんでした。

 親の私が言うのもなんですが、満はやさしくて真面目な男です。

 今まで独身でいたのも、お亡くなりになった美佐子さんのこともありますが、沙恵さんのような女性に巡り合うこがなかったからだと思います。

 確かに沙恵さんと美佐子さんはお顔は似ているかもしれない、事実、私も驚きました。

 だが、もちろんあなたは美佐子さんではない。

 声も性格も、好みも人生観も異なります。

 息子はあなた自身に惚れたんだと思います。

 沙恵さんという素敵な女性に恋をしたんです。

 どうか息子を許してあげてやって下さい。このとおりです」

 

 お父さんは私に頭を下げてくれた。

 

 「お父さん、どうぞ頭を上げて下さい。

 私も大人気なかったんです。

 もう怒ってはいません。

 今日、ここへ来たことは満さんには内緒にして下さい。お願いします」

 「それを伺って私も安心しました。

 わかりました。今日、沙恵さんがここに来たことは息子には黙っておきます」

 「今日お邪魔したのは、美佐子さんのお墓の場所を教えていただきたくて参りました」

 「美佐子さんのお墓をですか?」

 「ええ、私もけじめをつけようと思いまして」





 手桶と仏花、御線香とお供えを携えて、私は美佐子さんのお墓を訪れた。



 「ここね?」


 私はお墓に柄杓で水をかけてお供えをし、仏花を飾った。

 御線香の束に火が付き難い。

 私はようやく御線香に火を付けて、手を合わせた。



 「私も美佐子さん同様、満さんを愛しています。

 横取りするようでごめんなさいね?

 最初、あなたと私が似ていると聞いた時はショックでした。

 私はあなたの代わりじゃないと思ったからです。

 今日は美佐子さんにお許しをいただきに参りました。

 私もいつこの世を去るかわかりません。

 でも精一杯、彼を支えてあげたいと思います。美佐子さんの分まで。

 だから許して下さい、あなたの愛した満さんを私も愛することを。

 お願いします。

 必ず、満さんをしあわせにしますから」


 私は再び手を合わせた。


 すると、どこからか美しいアゲハ蝶がひらひらと飛んで来てお墓にとまり、呼吸をするかのように静かに羽根を動かして私を見詰めていた。


 どうやら美佐子さんは私を許してくれたようだった。



最終話

 12月の第二日曜日、ホノルルは針を落としても聞こえそうな爽やかな晴天だった。

 ワイキキ・ビーチから聞こえる潮騒の音、フラのリズムのように揺れるヤシの葉。

 花の香りに包まれた至上最後の楽園、ハワイ。

 遂に決戦の時がやって来た。


 午前2時から4時にかけて、ホノルル動物園のカパフル通り側の駐車場を出発し、スタート地点のアラモアナ公園へと向かう大勢のホノルル・マラソン参加者たち。

 街にはクリスマスのイルミネーションが美しく輝いていた。

 

 アラモアナ公園をスタートし、ダウンタウンから一度アラモアナに戻り、その後ワイキキ、カピオラニ公園、ダイヤモンドヘッド、ワイアラエ・ビーチ、そしてハワイ・カイを折り返してカピオラニ公園のゴールを目指す42.195kmのコースだ。


 いつもは年末からお正月にかけてハワイで過ごしていた母と私は、彼を応援するために少し早くハワイを訪れていた。

 そして彼のお父さんと、赴任先のカンボジアからお母さんも彼の応援に駆け付けていた。


 

 「あなたが沙恵さんね? うちのひとから聞いていますよ。すごく素敵なお嬢さんだって。

 ホント、想像していた以上に美人さんだわ。

 満の母です、ヨロシクね?」


 笑顔の素敵な、チャーミングでパワフルなお母さんだった。

 母とお母さんはすぐに打ち解けた。


 「ねえねえ結城さん、おいしいパンケーキのお店があるの、滞在中に一緒に行かない?」

 「パンケーキ? 私もだーい好き! 行こ行こ!」




 沿道は物凄い人混みで、どこに彼がいるのかもわからないほどだった。

 出場前、家族のみんなは彼のことを励ましたが、私は彼とは会わなかった。

 レース前、彼に余計なプレッシャーを掛けたくなかったからだ。



 (神様、どうか満を100位以内でゴールさせて下さい! お願いします!)



 私たちの運命の戦いが今、始まろうとしていた。




 そして運命のホノルル・マラソンがスタートした。

 彼が今日のためにどれほどの努力をしてきたかは知っている。

 うれしかった。彼の私を想う真剣でストイックな気持ちが。

 

 怪我やアクシデントにも遭うことなく、ゴールさせてあげたい。

 もちろん100位以内で。

 



 私たちはゴール近くで彼を待つことにした。


 「満君、100位以内に入るといいわね?」


 と、母が言った。


 「うん大丈夫、彼なら必ずやり遂げるわ! 私の決めた人だもん!」




 私は居ても立ってもいられなくなり、ゴールを逆方向に小走りに歩いて行った。

 少しでも早く、彼を見つけるために。




 スタートしてから2時間、先頭を走る選手が見えて来た。

 優勝者は2時間8分前後のタイムだったので、おそらくそのペースでの優勝になるはずだ。



 その後に続く先頭集団、彼は100位以内に入いることが出来るのだろうか? 

 私は次第に不安になって来た。



 次々になだれ込んでくる参加者たち。


 48、49,50、51と数えていたが、そのうちごちゃごちゃになり、数が分からなくなってしまった。

 感覚的にではあるが、100人は既に越えてしまったような気がする。

 だがまだ彼の姿はまだ見えなかった。

 私は遂に逆走を始めていた。しかも全力で。



 彼らしい人物は中々確認出来なかった。

 私はどんどんスピードを上げて走った。



 はあはあ・・・


 もういい、たとえビリでも彼と結婚したい!

 私は泣きながら走った。



 すでに4時間が経過している。


 (彼はどこなの?)



 すると、左足を引き摺るようにしてヨロヨロと歩く彼をやっと見つけることが出来た。

 私は大声で叫んだ。 

 

 「みつるーーーっ! もういい! もういいよ! もう走らなくていいから! もう止めて! お願い!」


 涙が止まらなかった。

 彼の姿が涙の海に沈んで行った。



 それでも歩くことを止めない満。


 「わかったから、もうわかったから止めて!

 大好き! あなたが大好きーっ!」



 彼は私に気付き、掛けていたサングラスをは外してそれを私に向かって放り投げた。


 「沙恵、約束を守れなくて、ゴメン。

 左足が肉離れを起こしたらしい。

 でも、完走はしたいんだ、絶対に・・・」

 「わかった! じゃあ一緒にゴールしよう! 私もあなたについて行くから!」



 私も彼と歩いた。ゴールに向かって歩いた。

 なんとか満をゴールさせてあげたい。

 彼の支えに、杖になってあげたいがそれでは失格になってしまう。

 周囲から湧き上がる歓声と拍手に支えられ、私たちはゴールを目指した。

 私たちを次々と追い越していく参加者たち。


 「がんばれ! あともう少しだ!」

 「Do your a best! You are the Hero!」


 そう声を掛ける者もいた。

 1歩1歩、着実にゴールが近づいて来る。

 母たちも一緒に歩いてくれた。泣きながら歩いてくれた。

 

 「満、あと少しよ!」

 「がんばれ満!」

 「満さん、もう少し!」




 そして彼がゴールした瞬間、私は沿道から彼に駆け寄り彼を強く抱き締めた。

 再び巻き起こる大きな喝采、そして拍手と涙。



 「賭けに負けちゃったな?」

 「賭け? そんなのもう忘れたわ・・・」






 それから2日後、私たちはハワイで挙式を挙げた。

 ハワイの海が見渡せる、白いチャペルで。


 それは彼には内緒で私が準備していた事だった。

 母も、彼の両親も泣いていた。


 神父さんの結婚の誓いの言葉に同意し、私たちは指輪を交換し、誓いのキスをした。


 「おめでとう!」

 「しあわせになるのよ」

 「よかったな? 満」


 ハワイの空に鳴り響くウエディング・ベル。

 心地良い潮風に揺れる、真っ白なウエディングドレス。



 「僕たち、やっとゴール出来たね?」

 「ゴールではなく、これが私たちの人生の「始まり」よ」



 ハワイの紺碧の海と、抜けるような青空。

 沖合のスコールには美しい虹が架かっていた。

 

 それはまるで、私たち夫婦のマラソンのスタートを祝福するかのように。

 


                  『走れ! ホノルルの空の下』完



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【完結】走れ! ホノルルの空の下(作品230630) 菊池昭仁 @landfall0810

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