夜空と朝陽

紫鳥コウ

夜空と朝陽

 沙弥香さやか先輩が先に告白をしてきたのだから、ぼくは受け入れるか受け入れないか、あるいは保留するかのみっつの中からひとつを選ぶだけだ。だからぼくの方が気楽なのだ。告白をするのは勇気がいることだけど、選び取る側は幾分か暢気のんきでいられるものだ。


 でも、告白をするのだって、覚悟を決めてしまえば、するかしないかの二択でしかない。される側は、断ることを選べば、勇気を踏みにじることになるのだからこころが痛む。だから暢気なものではなくて、どの選択肢をどのように調理するかという、高度なことが求められている。


 というふたつの陣営に分かれて冷戦になってしまい、いまだ雪解けが見えない。ちょっとした会話から、深刻な喧嘩へと発展するなんて思いもよらなかったし、いま考えれば、べつに暢気だというのを受け入れたところで、なにかを失うわけでもなければ、傷つけられたことにもならないのだ。


 どうすれば、冷え切った関係に春の日射しを入れ込むことができるのかを考えていると、先輩から話があると電話がかかってきた。

 ぼくが謝る側でも、謝られる側でもどちらでもいいから、はやく手を繋ぎたくて仕方がなかった。すぐに国道の支線を自転車でかっ飛ばしたわけだけれど、帰りはトボトボと押していた。夜空を見上げると、ちょっと膜のはった、濁った色をしていた。


     *     *     *


 大学生になると、あまり評判のよくないサークルの勧誘を断れなくて、ズルズルと引きこまれ、あちこちに旅行へ行くことになった。お金が減るし、時間もかかるし、とても面倒だった。

 なにより、ドロドロとした人間模様を見なくてはいけなくて、本人じゃないぼくが、まるで当事者になったかのように苦しまなければならなかった。


 三回生になったころに、卒論という武器を盾にして、ようやく抜け出ることができた。だけど、庭の池の水が一気になくなってしまったかのように、物足りないというか寂しいというか、とにかく大学生活がつまらないものに変わった気がした。

 そのころのぼくは、バイト帰りに八割の確立で膜の張った夜空を見ることになった。セピア色のうすい雲が漂っていた。


 ゼミの飲み会で四回生の氷川先輩に迫られて、ぼくは童貞を失った。だけど失った分だけ手に入れたものもあった。一晩泊めてくれなくて、朝の三時頃に、先輩の家から帰っている途中に見た夜空が、とても綺麗だったのだ。

 膜がどこにも見当たらなかった。冷たく透き通っていた。星が迫ってくるようだった。この寒々しい風が吹くなかで眠ってしまえば、下手したら死ぬかもしれないと分かっていたけれど、いまなら凍え失せてしまってもいい気がしたのだ。


     *     *     *


 なんとか地元で就職先を見つけて三年後、同期と海外旅行をしたとき、現地で知り合ったカトリーヌに、砂漠の夜空は綺麗だと教えられた。一面に砂漠が見渡せるホテルをとって、一晩中、夜空を見つめようと思っていたのに、いつしか寝てしまい、もう明け方を迎えていた。

 肩を落としそうになったけれど、砂漠に差し込む朝陽を見たとき、涙がこぼれ落ちそうになった。夜空はぼくの人生の象徴であり、なにかを失ったときにそこへすっと入ってきて、欠落を埋めてくれる存在だった。


 だけどこの朝陽は、欠落を与えてきた。ぼくの身体から引っぺがされたかのように、色濃い影が部屋の奥へと伸びていくのだ。

 一瞬、トイレットペーパーを巻くような要領で取り返したくなったけど、あの日、凍え死んでいいと思っていたのと同じように、このままどこまでも影が伸びていき、ぼくの身体すべてが持っていかれてもいい気がした。


 カトリーヌは砂漠の夜空は綺麗なのだと言った。だけどこの朝陽だって少しは美しく感じられた。なんというか、死と生の境界をぐちゃぐちゃにしてしまえるくらいの残酷で強大な力が、そこに宿っているような気がするのだ。

 まるで氷の芯というか花の茎というか、見えないところのものが誤って見えてしまう。そんな危うさと不安が螺旋を解いて一直線にやってくる。

 いままで朝陽を見たことがないわけではない。記憶をまさぐれば、ラジオ体操や学校の一限目にくっついている。だれかの詩に腐ってこびりついている。だけどこの朝陽は、身体の内を探してもどこにもない。常に外で生きている。そんな感じがする。


 その後、ぼくはもう一度寝てしまったのか、死んでしまったのか。眼を開けたら、朝陽から遠く離れたところで呼吸をさせられていた。あれから、あの朝陽には出会えていない。



 〈了〉

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