【完結】月光の虹(作品230806)

菊池昭仁

月光の虹

第1話

 雨の夜、仕事を終えた私は疲れた体を引き摺るように、とぼとぼと家路を辿っていた。

 公園の前を歩いていると、植え込みの中からクーン、クーンと子犬の鳴き声が聞こえた。

 私がその鳴き声の方に近づいて行くと、首輪のない栗毛の雑種の子犬が段ボールに入れられ、雨に濡れて震えていた。

 哀願するように震え、こちらを見ている子犬。

 私は腰を屈め、子犬に話し掛けた。

 

 「お前、捨てられたのか?」


 私の差し伸べた手をペロペロと舐める子犬。

 私は子犬を抱き上げ、レインコートの中に泥だらけの濡れた子犬を抱いて家に帰って行った。



 私たち夫婦には子供はいなかった。

 その原因は私にあった。

 妻の瑠璃子は子供は欲しかったが、それで私を詰ることはなかった。

 私には寧ろそれが辛くもあった。



 「養子縁組とかもあるんだって? 施設の子供を引き取って育てるとか」

 「そうらしいね? 瑠璃子は欲しいよね? 子供」

 「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないの。

 この話はこれでおしまい。さあご飯にしましょう。今日は朝からじっくりと煮込んだ、健介の好きなビーフシチューよ。私の愛情たっぷりのね?」


 瑠璃子も私も子供は欲しかった。

 神様はつくづく不公平だと思う。

 子供の欲しい夫婦のところには子供を授けては下さらずに、子供なんかどうでもいいような夫婦には「いらない子供」が簡単に生まれてしまう。

 私たちは子供が大好きなのに子供が出来ない。

 それは理不尽だと私は思っていた。


 私と瑠璃子は子供を連れた夫婦を見るのが苦痛だった。

 それは子供と仲良くしている家族への憎悪ではなく、それを見て嫉妬している自分たちへの憎悪だった。

 だから出掛ける時はなるべく家族連れのいない場所を選んだ。

 瑠璃子の悲しそうに子供を見る目。それがいたたまれなかったからだ。

 結婚して10年、瑠璃子のカラダも子供を安全に産むには限界が近づいていた。



 「ただいまー」

 「どうしたの? そのワンちゃん?」

 「この雨の中に段ボールに入れられて捨てられていたんだ。

 飼ってもいいかな?」

 「どれどれ? 私にも抱っこさせて。わあカワイイー!」


 瑠璃子は泥だらけの犬を気にすることもせずにそのまま抱き締めた。


 「さあ、今日から君はウチの家族でちゅよー!

 オチンチンが付いてるー! ねえ、名前は私が付けてもいいかしら?」

 「もちろん」

 「何にしようかなー? まさかジョンとかコロでは今どきおかしいし・・・。

 あまり長い名前も呼び難いわよね? うーん、何にしようかしら? 

 そうだ! 雨の日にウチにやって来たから「レイン」にしましょうよ!

 今日から君はレインだからね? あはははは

 ねえ、いいでしょう? レインで?」

 「凛々しくて、いい名前だね?

 じゃあ僕はレイン君の餌とかリードとかをこれから買いに行って来るよ」

 「私とレインも一緒に行く! ねえレイン? パパと3人で行こうね?

 レインもいっしょに行きたいって!」


 その日からレインは私たちにとってかけがえのない存在になった。

 レインが私たち夫婦の「子供」になったことで私たちの生活は、いつの間にかレイン中心の生活になっていった。


 朝の散歩は私が担当し、夕方は瑠璃子が担当した。


 レインは私たちの息子になってくれた。



第2話

 瑠璃子はショッピングモールの立体駐車場にクルマを停めると、周囲を警戒するように直人のクルマの助手席に滑り込んだ。

 瑠璃子はすぐに直人の頬にキスをした。


 「ごめんね? 待たせちゃって」

 「今日は何時まで大丈夫なんですか?」

 「今、ワンちゃんを飼い始めたのよ。

 すごくかわいいんだよー。食べちゃいたいくらい。

 だからお散歩に行く時間までね? だから今日は4時までかな?」

 「食事してからだとちょっと時間がありませんね?

 寂しいな」

 「じゃあコンビニで何か買ってホテルに行こうよ? それとビールも。

 ホテルのは高いから」


 直人はいつものホテルに向かってクルマを走らせた。

 瑠璃子は直人の太腿に、さりげなくそっと手を置いた。




 直人は瑠璃子が以前に勤めていた会社の後輩君だった。


 小野木直人、28歳。彼は平日が休みの営業マンで瑠璃子よりも7才年下。イケメンで女子社員たちから人気もあった。

 告白したのは直人の方からだった。


 「ボク、小林主任が好きです」

 「私、人妻なんだけどなあ?」


 会社の飲み会の帰り、解散した後もふたりで飲み続け、生理前ということもあり、その日、瑠璃子は直人と一夜を共にしたのだった。

 瑠璃子には5つ上の兄がいたせいか、弟のような年下の男性には憧れがあった。


 始めはちょっとした火遊びのつもりだった。

 夫との子作りに絶望し、瑠璃子は貞操観念が沈んでいた。

 自暴自棄になっていたのである。


 

 「これが最初で最後。約束出来る?」

 「約束します。だから今夜だけ、僕だけの主任になって下さい」



 だが、その約束は瑠璃子の方から破ってしまった。

 直人との関係は、瑠璃子が会社を辞めた今も続いてた。


 夫の健介はやさしかった。

 キライではなかったが、健介に不妊の原因があると分かってからは、夫婦のスキンシップも減った。

 瑠璃子は女ざかりということもあり、その寂しさを自分で慰めることもあったが、直人とのSEXは新鮮であり、瑠璃子を夢中にさせた。



 関係を持ってから2年が過ぎようとしていた。

 夫と離婚する気はなかった。

 直人はセフレとしては妥当だが、結婚となると話は別だ。

 単に体の相性がいいからといって、そこまで考えるほど瑠璃子は初心うぶではなかった。

 だが、直人は違った。


 「ご主人と別れて僕と結婚して下さい」


 彼はいつもそう言って瑠璃子を困らせた。


 「こうしてたまに会うからいいのよ。

 だって私はもう、37歳のオバサンなのよ?」


 そう言って私は彼を諫めた。




 途中、コンビニに寄ってホテルに着くと、瑠璃子はいつものようにバスへ向かい、浴槽に湯を入れ始めた。

 そしてふたりは服を着たままベッドへと上がり、激しいキスをした。

 

 お互いに服を脱いでゆき、彼はトランクス姿になり、瑠璃子も下着だけになった。


 直人は瑠璃子の下着を脱がすのが好きだった。

 直人は瑠璃子のショーツの中に手を入れて来た。


 「瑠璃子さん、ここがもうクチュクチュですよ? 帰りはノーパンで帰らないと?」

 「しょうがないでしょう? 二週間ぶりなんだから。

 すごく会いたかったわ、直人・・・」

 

 瑠璃子は直人の首に手を回し、舌を絡ませた。


 「僕もすごく会いたかったです」

 「いいの? こんなオバサンでも?」

 「瑠璃子さんはオバサンなんかじゃありません、すごく素敵な女性です」


 直人はブラのホックを器用に片手で外すと、もう片方の手で瑠璃子の白いショーツを脱がし始めた。


 久しぶりということもあり、前戯は比較的長く続いた。

 バスルームからは湯が溢れる音が聞こえていたが、この状態を中断してそれを止めることは出来なかった。



 1度目が終わり、ふたりで湯舟に浸かった。



 「今日の瑠璃子さん、すごく感じてましたね?」

 「直人が腕をあげたからよ。彼女、出来たの?」

 「僕は瑠璃子さん一筋です、それに年下には興味がありません」


 直人は瑠璃子の背後へ回ると、瑠璃子の形の良い、小さな胸を揉みしだいた。


 「瑠璃子さん、早くベッドに戻って続きをしましょうよ」

 「その前にお風呂上がりのビールを飲んでからね?」

 「はい」



 瑠璃子たちは350mlの缶ビールを空けた。

 ふたりとも酒は好きだったが、クルマなのでこれが限度だった。


 「あー、美味しい!」

 「最高です、今日のビールも瑠璃子さんも」

 「こっちにいらっしゃい。いいもの飲ませてあげるから?」


 直人が瑠璃子のところへ移動すると、瑠璃子はベッドの上に仰向けになって足を閉じ、その中心にビールを注いだ。


 

 「さあ直人、飲みなさい。私のワカメ酒を。

 イヤらしい音を立てて、全部飲み干すのよ」


 瑠璃子のいつもの悪戯わるふざけが始まった。

 直人は少しM男だったので、瑠璃子はいつもそれを楽しんでいたのだ。

 うれしそうに目を輝かせる直人。

 直人は瑠璃子に言われるがまま、そのビールを啜り終えると瑠璃子の足を広げ、逆襲に出た。

 今度は直人が瑠璃子のクリトリスを執拗に攻め立てた。

 もちろん瑠璃子も黙ってはいない。

 体をスルりと躱すと、シックスナインの体勢を取り、直人のそれを咥えた。

 直人の快感に歪んだ顔を見ると、かわいいと瑠璃子は思った。

 直人が瑠璃子のクリトリスをチロチロと巧みに舐めていると。


 「あん。うっ、そのまま・・・、上手よ、直人・・・」

 「瑠璃子さん、僕もうイキそうです!」

 

 瑠璃子はその行為を辞めずに頷いた。


 「そのまま、出しなさい、私のお口に。 はうっ、あうっ・・・」



 ふたりの時間はさらに激しさを加速させていった。


 空調の機械音と共に、行き場を失くした瑠璃子の喘ぎ声がホテルの中を彷徨っていた。



第3話

 川沿いの遊歩道は川のせせらぎの音と、枯れたススキの匂いがした。

 瑠璃子はこの晩秋の季節がお気に入りだった。


 終わりゆく秋、そしてこれから訪れる白い冬。

 人生とは冬、冬、秋、そしてまた冬の連続だ。

 人生の殆どが寒い冬だと瑠璃子はそう考えていた。レインと出会うまでは。

 その寒い冬の中で時々現れる日射しと、あたたかいスープのようなひと時。

 それが今、こうしてレインとの散歩がその至福の時だった。

 瑠璃子は幸福を感じていた。

 まるで子犬のぬいぐるみが歩いているように、レインは瑠璃子のリードを引っ張り、かわいいお尻を振って歩いていた。


 「こらこら、そんなに急いじゃダメよ。

 ママ、ついて行けないじゃないの」

 

 時々、瑠璃子のことを振り返りながら、レインはうれしそうだった。

 子犬とはいえ、自分のことを「ママ」と呼べる喜びに、瑠璃子は浸っていた。


 レインをひょいと抱き上げると、なぜかトーストのような香ばしい香りがした。


 「おいしそうな匂いがするわよ、レイン。

 ママ、食べちゃおうかしら?」


 それはまるで、自分の幼子にするように、瑠璃子はレインに話し掛けていた。

 川面を見詰めながら、瑠璃子はひとり呟いた。


 「レインは私たち夫婦の子供。レインがいればそれでいいの」

 

 小さな女の子を連れた母親が近づいて来た。


 「ほらチカちゃん、かわいいワンちゃんね?」

 「うん、かわいいね? ママ?」

 

 その母親がレインを撫でようとした時、瑠璃子は不機嫌に言った。


 「ごめんなさい。うちの子、噛むので」


 瑠璃子はレインを抱いて、足早にその場を去った。

 知らない人に、自分の大切な息子に触れさせたくはなかったからだ。

 背後から親子の声が聞こえた。


 「ママ、チカちゃんね? ワンちゃん、抱っこしたかった」

 「ママもよ。かわいいワンちゃんだったわね?

 でもね、知らない人だと齧っちゃうんだって」

 「うん、でもかわいかったね?」



 瑠璃子は急に悲しくなった。

 女として生まれたからには、自分の子供が生みたい。

 だが、夫の子供を身籠ることは出来ない。


 (直人の子供なら・・・)


 瑠璃子はその想いをすぐに打ち消した。

 いくら子供が欲しいからと言って、それは夫に対する裏切りである。


 

 晩秋の夕暮れは早い。

 いつの間にか日は落ちて、西の空には金星が輝き始めていた。


 「レイン、おウチに帰ってご飯にしましょうねー?」


 レインは小さな足をちょこちょこと軽やかに動かし、ふたりは家路を急いだ。



第4話

 「今日、ちょっとお友だちと女子会なんだけど、レインのお散歩、お願いしても大丈夫?」

 「ああ、美沙ちゃんと会うんだね?

 ゆっくりしておいで。レインの散歩は僕が行くから」

 「色々相談があるんだって、旦那さんのこととか」

 「美沙ちゃん、やっぱり離婚するのか?」

 「わかんない。あんなに仲好しだったのにね?」

 「原因は旦那さんの浮気だったよね?」

 「うん・・・」



 その時、妻の瑠璃子は酷く哀しそうな顔をしていた。

 それは罪人つみびとの顔だった。

 瑠璃子が不倫をしていることに、私が気付いていることを彼女は知らない。

 それを私が知ったのは、2年ほど前からだった。


 子作りに励んでいた頃には、セクシーなランジェリーも身に付けて、その場を盛り上げてくれた瑠璃子も、子供を断念してからは、ユニクロのような機能的な下着を着けるようになっていた。

 それがまた、以前の派手な下着が室内干しに見かけるようになった。


 (まさか瑠璃子が浮気?)


 今まで無頓着だった携帯も、常に持ち歩くようになっていた。



 そんなある日のこと、瑠璃子がスーパーへ買物に出掛けた際、携帯を忘れていったことがあった。

 そこへ妻の携帯にLINEが届いた。

 覗いたその画面には、「ナオト」と表示がされ、最初の文章が少しだけ見えた。



      昨日はすごく良かっ・・・

 


 それを見た時、私の杞憂は現実の物となった。

 妻は私を裏切っていたのだ。



 携帯を忘れたことに気付いた妻は、息を切らせてすぐに自宅へ戻って来た。


 「ハアハア、携帯、忘れちゃった。

 ダメね? おばさんは忘れ物が多くて。

 じゃあ、行ってくるわね? 何か食べたい物はない?」

 「そうだなあ? メガプリンがあったら買って来てくれ、小さいやつならいらない。冷蔵庫にあるから」

 「わかったわ、あのメガプリンね? あの大きいプッチンプリンより、もっと大きいやつ?」

 「ああ、気を付けて。慌てなくていいから。

 あっそれから・・・」

 「なあに?」

 「携帯は忘れちゃ駄目だよ。大切な物だからね?」

 「はーい、じゃあ行ってきまーす」


 私はプリンなど、どうでもよかった。

 ただ、咄嗟に気の利いた言葉が見つからなかったのだ。

 私は妻の艶めかしいヒップラインの後ろ姿を、何も言わずに見送った。

 つまり私は妻の不倫を容認していたのだ。

 容認? イヤ、それは少し違う気がする。

 「見て見ぬフリ」が妥当かもしれない。

 いや、見たくは無かった、妻が浮気をしている証拠など。

  

   

      認めていないがそれには触れない



 私はまるで、自分が哲学者にでもなったようなつもりでいた。

 「結婚したら夫は哲学者になるべきだ」と言った偉人がいたが、私はその境地にあったのかもしれない。

 なぜなら妻は、いつもと何も変わるところがなかったからだ。

 美味しい食事を作り、掃除や洗濯、靴磨きにシャツにアイロンをかけてくれている。

 いつもと何も変わらぬ生活。

 ただし、夫の私を欺いていることを除いて。


 たとえ外で私の知らない男に抱かれ、快感に身を捩ろうとも、私への愛は変わってはいないと思いたかった。

 おそらく今日も大学時代の友人と会うわけではあるまい。

 私は先ほど彼女が部屋で着替えをしているのを見かけてしまったからだ。

 真っ赤な透けたTバックを履き、姿見でそれを確認している妻の瑠璃子。




 「それじゃあ行ってくるね?

 レイン、ママが帰ってくるまでおりこうさんにしているのよ」

 

 レインは名残惜しそうな顔をして、玄関で瑠璃子を見送った。

 私はキャビネットからブランデーを取り出し、グラスに注いだ。


 「レイン、ママはこれから男に抱かれるらしいよ」


 レインは私のソファの隣に座り、私に同情するかのように私に寄り添い眼を閉じた。


 私はレインを優しく撫でながら、一気にグラスを空けた。



第5話

 今日は安全日だったので、ゴムは着けなかった。

 直人にはいつも避妊をさせていた。

 その可能性はまだ十分にあったからだ。

 子供が出来ないのは夫に原因があったからで、瑠璃子が妊娠するわけにはいかなかった。

 ゴムだったり、フィルムだったり、あるいは膣外射精を守らせていた。

 ピルも考えたが、万が一、それを夫に見つかった時には言い訳が出来ないので辞めた。

 そもそもスキンは好きではなかった。

 そのまま中で射精を迎えるのが理想の快感だったからだ。

 妊活の時には射精を終えた後に、精液が漏れて来ることがあった。

 下着についた精液が愛おしかった。

 直人とそれを実践したことは一度もない。

 だが何故か今日はそれを実行してみたくなった。

 いわゆる「中出し」を。

 夫との性行為が殆ど無くなっていたこともあり、瑠璃子はイラついていた。



 行為も既に第四コーナーを回り、直線に向いた時、瑠璃子は叫んだ。


 「そのまま! そのまま中に! 中に、あう、はうっ・・・、出して!」

 「いいんですか? はあはあ、瑠璃子さん・・・? はあはあ・・・」

 「ごちゃごちゃ、言って、ないで、はや、く、中に、出し、なさい! 今日は、大丈夫なの! あっ・・・」


 女が「イクっ」なんて言うのは、フェイクである場合が多い。

 エクスタシーの極限にいると、擬音や喘ぎ声で言葉があまり出なくなる。

 そんな余裕が無くなるからだ。

 そして本当に感じているかどうかは、足のつま先に表れる。

 その時が来ると全身が突っ張り、より快感を得ようとつま先に力を入れるからだ。

 


 瑠璃子の中で、直人はその要求に忠実に従った。


 (瑠璃子さんがいいというのだから・・・)


 いつもとは違う絶頂が、瑠璃子の全身を貫いた。

 瑠璃子はさらに快感を得ようと、爪先を内側に曲げ、足の付け根に神経を集中させた。

 頭が真っ白になった。

 痙攣が止まらない。


 直人のそれが脈を打ち、精子をドクンドクンと規則正しく瑠璃子の膣に送り出しているのがわかる。

 そんな直人がかわいらしく、瑠璃子は彼を強く抱きしめた。



 やっと強烈なオルガスムスから解放されたふたりが体を離すと、瑠璃子のそこから白い乳液のような液体が流れ、お尻を伝い、シーツに落ちた。



 「瑠璃子さん、感動しました。

 瑠璃子さんの中にやっと・・・」

 

 瑠璃子は直人の口をキスで塞いだ。

 瑠璃子は口数の多い男は好みではない。


 「瑠璃子さんのソコ、記念に写メを撮ってもいいですか?」

 

 瑠璃子は黙って膝を立て、それに応じてやった。


 「すごい、すごくきれいです。

 ボクのが流れているのが見える」

 「ばか・・・」





 帰りのクルマの中で、膣の中にまだ残っていた精液が漏れ出た感触があった。


 「さっきのが、まだ残っていたみたい・・・。

 今、出て来たわ」

 「えっ、本当ですか? でも大丈夫ですか? 赤ちゃんとか?」

 「心配しなくても大丈夫よ」




 瑠璃子の家の近くで直人はクルマを停めた。


 「気を付けて帰るのよ。おやすみ直人」

 「おやすみなさい、瑠璃子さん」


 そう言って瑠璃子は直人にキスをして、クルマを降りた。





 瑠璃子は何事も無かったかのように、家の玄関を開けた。


 「ただいまー、美紗が中々離してくれなくてさー。

 ああー、疲れたー。

 レイン、おりこうさんにしていましたかー? ママでちゅよー」

 

 レインを抱きしめる瑠璃子。

 レインはちぎれるくらいに尻尾を振っていた。



 「食事はして来たのか?」

 「当たり前でしょう? お食事に行ったんだから。少しお酒も飲んだけどねー。

 お風呂に入って来るね?」

 「ああ」



 その時私は、妻が男に抱かれて来たと直感した。


 瑠璃子は脱衣場で下着を脱ぐと、さっき、クルマの中でパンティーについた自分の愛液とザーメンを指でなぞり、匂いを嗅いだ。

 今日の行為が思い出され、またそこが潤んでしまった。



 私は洗濯籠の奥に隠された、妻の下着を見つけた。

 そこに鼻を近づけると、あの淫らな栗の花の匂いがした。

 精液の匂いだった。

 私は何事もなかったように、瑠璃子の下着を元に戻した。



 


 生理が遅れていた。

 いつもはきちんと来ていた生理が今回は遅れている。

 

 (まさかね?)


 しかし、10日が過ぎてもその兆候すらなかった。



 瑠璃子は万が一を考え、ドラッグストアから妊娠検査キットを購入し、試してみた。


 結果は陽性だった。


 瑠璃子は頭の中が真っ白になってしまい、全身からみるみる血の気が引いて行くのが分かった。 



第6話

 予期せず子供が出来てしまった。

 瑠璃子が悩んでいるのは、産むか産まないかではない。

 瑠璃子には「産まない」という選択肢は無かった。

 問題はその事実をいつ、どのタイミングで夫にそれを告げるかだった。

 

 だからと言って、直人と結婚するつもりはない。

 瑠璃子はひとりで育てることを決めていた。

 親や周りのことなど、もうどうでもよかった。

 意思を持ってそうなったわけではなかったが、日を追うごとにその喜びは増して行った。

 瑠璃子は自分のお腹に手を当てて呟いた。


 「あなたのことはママが絶対に守るからね?」





 1か月が過ぎた頃、瑠璃子は産婦人科を受診することにした。



 「おめでたですね? おめでとうございます」

 

 中年の男性医師は、いつもそう言っているかのように、フォーマットされた診断結果を瑠璃子に伝えた。


 「後はスタッフから説明があります。

 では、お大事に。

 妊娠初期が一番大事ですからね?」

 「ありがとうございました」




 瑠璃子は役所で母子手帳を受け取り、帰りにカフェに寄った。

 コーヒーやアルコールはお腹の子供に害になると思い、クリームソーダとパンケーキを注文した。

 壁際の席には小さな女の子と若い母親が座っていた。


 「おいしい?」

 「うん」


 苺のショートケーキを食べて、口元にクリームをつけてそれを頬張っている女の子。

 以前の瑠璃子であれば、その光景から目を背けていたはずだが、今はそれを微笑んで見ることが出来る。

 瑠璃子はバッグから母子手帳を取り出し、パラパラと手帳をめくった。



 (これで私もママになるのね?)



 瑠璃子はうれしかった。

 ひとりで子供を育てることには、もちろん不安もある。

 だが、その覚悟は既に出来ていた。

 このお腹の子供と生きていくことに迷いはなかった。




 家に帰り、レインの散歩に出掛けた。


 「こらこらレイン。ママは走っちゃ駄目なのよ」


 いつものようにレインは先を急ぐので、リードが張っていた。

 瑠璃子はレインを引き寄せ、言った。


 「ママね、本当のママになったのよ。

 レインに弟が出来たの」


 離婚してもレインは自分が引き取るつもりだった。

 子育てと一緒では大変なのはわかっている。

 でも、レインの存在は瑠璃子にとって長男も同じだった。


 (夫の健介には今夜、きちんと話をしよう)


 瑠璃子はそう決意した。





 夕食を終え、私はグラスにカルバドスを注ぎ、好きでもないテレビドラマを眺めていた。


 「あなた、お話があります。ちょっといいかしら?」


 私はその次の言葉を遮るように言った。


 「離婚したいのかい?

 いいよ、君は僕に良く尽くしてくれた。

 瑠璃子には悲しい想いをさせたね? 今までありがとう。

 その男と人生を遣り直してくれ」


 瑠璃子は驚いたような顔をしていた。


 「どうして離婚だと分かったの?

 ごめんなさい・・・。私、あなたを裏切っていました。

 本当にごめんなさい」


 瑠璃子は床に頭をつけ、私に土下座をした。

 

 「赤ちゃんが、赤ちゃんが出来たの。

 もちろん、あなたの子供ではないわ。

 でもね、だからと言ってその人と一緒になるつもりはないの。

 私がひとりで産んで育てるつもりです。

 だってそれが私の夢だったから、ママになるのが私の夢だったから。

 あなたはいつもやさしかった。

 でも、そのやさしさが私には重かったの。

 どうか私と離婚して下さい」

 

 私は酒が入ったグラスを、そのまま壁に投げつけた。

 グラスが割れ、破片が飛び散り、酒が壁を汚した。


 そんな自分の行動に私も驚いていた。そして妻の瑠璃子も。

 私はいつも、人に対して穏やかに振る舞うことを心掛けて生きて来た。

 そんな私がこんなことをするとは、自分でも信じられなかった。


 「俺がやさしい? この俺が?

 あるとすればそれは弱さだ。

 やさしさと弱さは常に紙一重なんだよ。

 君が浮気をしていたのは2年前から知っていた。

 子種のない俺が、君に子供を授けてやれない俺に、それを責める権利が一体どこにある?

 俺には君を責める資格などないんだ!」


 すると瑠璃子も立ち上がり、叫んだ。


 「責めてよ! もっと私を罵倒してよ! 罵ってよ! この裏切り浮気女って!

 私が浮気したのは寂しかったからじゃない! ただ男に抱かれたい、ただの淫らな女だからよ!

 

 私は誰のチカラも借りないわ!

 私はこの子と生きて行く! そう決めたの!」

 あなたは何も悪くはないわ! 悪いのはこの私よ!」


 今まで、私はこんな瑠璃子を見たことが無かった。

 私は冷静に訊ねた。


 「相手の男は子供が出来たことは知っているのか?」

 「知らないわ。これからもそれを言う気もないわ」

 「そいつと別れるつもりなのか?」

 「別れるわ、彼とはただの遊びだったから。

 結婚する気もないし、それについてグダグダ言われるのもイヤだから」

 「その男には言うな」


 瑠璃子は驚いた。


 「えっ?」

 「俺の子供だということにするんだ」

 「あなた、何を言っているの?」

 「俺たちの子供として育てよう。俺たちふたりで」

 「バカなこと言わないでよ! この子はあなたの子じゃないのよ!

 あなたを欺いて身籠った子なのよ!」

 「少なくとも君の子ではある」

 「ダメよそんなの! ダメに決まってる!」

 「君は父親のいない子を育てるつもりなのか?」

 「だってしょうがないじゃない・・・」


 瑠璃子はついに泣き出してしまった。

 私は自分でも不思議だった。

 不倫相手の子供を自分の子供として育てるなど、どう考えても常軌を逸している。



 「瑠璃子のために言っているんじゃない。

 君のお腹の子供には何の罪もないじゃないか?

 俺に対してもう愛情がないと言うのなら、せめて経済的な援助はさせて欲しい」

 「好きよ、健介のことは。

 でも、でもね、これは私の犯した罪なの。

 だからお願い、私と別れて・・・。

 そうじゃないと私、私・・・」



 私はそんな妻がとても愛おしかった。

 私は泣きじゃくる瑠璃子を強く抱き締めた。


 「この子は俺たちの子供だ。それでいいな?

 君は今まで通りでいい、今のままで。

 そしてこの子を大切に育てて行こうじゃないか? 俺たちで。

 子供を持つことは君だけの夢じゃない。俺たちの夢だったんだから」

 「少し・・・、考えさせて・・・」

 「ああ、ゆっくり考えればいい。

 とにかく、この家をすぐに出て行くことはない。

 夫婦が嫌なら正式に離婚して、同居人でもいいからずっとここに居て欲しい」

 「あなた・・・」



 私と瑠璃子は一緒にグラスの破片を拾い集め、掃除機をかけた。


 「手を切るといけないから、君はもう休むといい」


 私はいつもの自分に戻っていた。


 つけっぱなしのテレビのドラマは終わり、バラエティ番組に変わっていた。



第7話

 瑠璃子は直人のLINEをずっと無視していた。

 いきなり着拒にすれば、すぐに家までやって来るかもしれない。

 別れるタイミングと、その理由を瑠璃子は模索していた。



 あれから1か月が過ぎた頃、夫の健介から言われた。

 

 「返事はいらない。嫌じゃなければ、このままここにいて欲しい」

 「それでいいの? 私、あなたをずっと裏切っていたのよ?」

 「君はその間、ずっと苦しかったはずだ。

 時効のない犯罪者のようにね?

 そして思っていたはずだ。

 俺に捕まえて欲しいと。

 早くラクになりたいとね?」


 生まれて来るこの子にとって、それは最善の選択だった。

 だが瑠璃子はそんな自分が許せなかった。

 あまりにも身勝手な自分が。

 

 「あなたはどうしてそんな風に言えるの?

 何でもっと私を責めてくれないの? お前は最低の女だって?」

 「この子には父親が必要だ。

 そして俺たちは子供を待ち望んでいた。

 瑠璃子は施設から子供を引き取りたいとまで言ったじゃないか?

 この子は君の子供だ。

 そして君の子供は俺の子供でもある。

 俺は君も、そしてそのお腹の子供も愛せる自信がある。

 そうでなければ、君と結婚などしてはいない。

 たとえば君に子供が既に存在していたとしても、俺は迷うことなく君にプロポーズしたはずだ。

 君が浮気をしたことが俺への裏切りだという考えを捨てれば、それでいい話だ。

 君はママとして生きればそれでいい。

 では、こうしよう。俺と君は今出会った。

 そして俺は瑠璃子に恋をした。

 「俺と結婚してくれ、君も、そして君のお腹の子も俺が必ずしあわせにする」とね?

 俺は君たちを愛している、だから俺について来て欲しい」


 あの日から夫は変わった。

 自分を僕とは言わず、俺と言うようになり、自分の考えを私にハッキリと伝えるようになった。


 「あなた・・・。許して下さいとはいいません。

 あなたを裏切った罪は、これから長い時間を掛けて償わせて下さい。

 どうかこの子のパパになってあげて下さい。お願いします・・・。

 私、いいママになりたいの。

 そして今度こそ、あなたのいい妻になります」

 「瑠璃子は十分いい奥さんだよ。俺のことはいいからその子のいいママになってやってくれ」


 瑠璃子は自分のお腹を摩りながら、何度も頷き泣いた。


 「俺も、触ってもいいか?」

 「うん・・・」



 (これから、この人があなたのパパよ)


 瑠璃子はお腹の子供に、心の中でそう呟いた。

 



 

 買物から瑠璃子が戻ると、直人が家の前で待っていた。


 「どうして僕を無視するんですか!」

 「クルマで話しましょう。冷蔵庫にお刺身を入れたら行くから。

 いつもの場所で待っていて頂戴」

 「わかりました」



 瑠璃子が直人のクルマの窓をノックした。

 彼女は後部座席に乗った。


 「ここは目立つわ、早く出して頂戴」


 クルマはゆっくりと動き出した。

 運転しながら直人が言った。


 「どうして会ってくれないんですか?」

 「旦那にバレたの。だからあなたもタダでは済まないかもしれないわ。

 だからあなたのことは言わない。言えないの。

 今のあなたに高額な慰謝料なんて払えないでしょう?

 もちろん、会社にもいられなくなるわ。

 いい機会なのよ私たち。もう終わりにしましょう」」

 

 直人の表情が硬くなった。

 わかりやすい子だと思った。


 「それに私、あの人と体外受精をすることにしたの」


 瑠璃子は万が一、子供を連れているところを直人に目撃されても、怪しまれないようにと布石を打ったのだった。


 「体外受精?」

 「そう、「お前が不倫したのは俺たちに子供がいなかったからだ」って言ってね?

 そしてこの前、病院に行って来たの。

 だからあなたもこんなオバサンのことはもう忘れて、もっと若い女の子と付き合いしなさい。

 私たちはもう会えないの、会ってはいけないのよ」


 瑠璃子はウソを吐いた。


 「イヤです」

 「じゃあどうするの?」

 「僕と結婚して下さい」


 それは彼の本心ではないことを、瑠璃子は見抜いていた。

 瑠璃子は思った。

 直人は所詮、かわいいペットだったのだと。

 直人を愛さなかったこと、愛せなかったこと、それがせめてもの救いだった。


 「それはムリ。私を困らせないで」

 「わかりました・・・。

 最後にもう一度だけ、あなたを抱きたい」

 「これ以上私をがっかりさせないで。

 私に嫌われる前に、私の事は良い思い出として忘れなさい。

 わかった?」

 「・・・」





 直人とはそれっきり、二度と会うことはなかった。

 瑠璃子は携帯から直人のすべてを消去した。

 メアドも携帯番号も、そして数々の秘密の動画や画像も。


 瑠璃子から直人の記憶が消された。



第8話

 瑠璃子のお腹はどんどん大きくなっていった。


 私の両親も、妻の両親、親戚も大いに喜んでくれた。

 特に私の母は泣いて喜んでくれた。


 「よかったわね、瑠璃子さん?」

 「ありがとうございます。これで孫の顔を見せて差し上げることが出来そうです」

 「大事にするのよ。なんでも健介に助けてもらえばいいからね?」

 「健介さんにはもう十分、助けてもらっていますから」


 (助けてもらうというより、健介は私とこの子を救ってくれた、命の恩人だ。 

 だから絶対に無理は禁物だ。私はこの子を無事に出産しなければならない#義務__・__#がある)

 

 「そんなのは当たり前よ。あなたたちは夫婦なんだから」


 (ごめんなさい、お義母さん。

 私はあなたの大切な息子さんを裏切った悪い嫁です)


 そして自分の母も言った。


 「これで瑠璃子もママになるのね?

 そして私もおばあちゃんかあ。

 子供がいると、生きる励みになるものよ。

 予定日の3カ月くらい前になったら里帰りしなさいね? 待っているから。

 その方が健介さんにも負担にならないでしょうしね?」

 「うん、そうさせてもらうつもり。

 クルマで1時間だけどね?」

 「お母さんとお父さんも、その方が安心だし、孫の顔も早く見たいしね?」

 「ありがとう、お母さん」




 夫は比較的残業の少ない部署の県庁職員だったので、よく家事を手伝ってくれた。

 いつの間にか瑠璃子も、お腹の子供が夫の子供のように思えて来た。

 悪阻の酷い時には、


 「大丈夫か? 何か食べられるものはないか?

 買って来てあげるから言ってごらん」

 「ありがとう、あなた。

 でも大丈夫、これくらい平気よ」


 トイレで吐いた時も、背中を心配そうに摩ってくれた。

 夫のやさしさが身に染みた。



 

 里帰りしている時も、夫は毎週のようにレインを連れて私の実家に通ってくれた。


 「健介君、もう名前は決めたのかね?」


 父は元警察官で、優しくて実直な人だった。


 「瑠璃子さんはもう、決めているようですよ」


 夫が釘を刺してくれた。

 そうでも言わないと、父に危うく名前を付けられそうだったからだ。


 母の話では姓名判断の本をたくさん買って来て、名前の候補をいくつも考えているらしい。

 父は初孫に名前を付けたがっていたようだ。

 待ちに待った孫に、みんなの期待は高まっていた。


 「男の子だと言っていたよな?」

 「うん、そうだよ」

 「何て名前にするんだ?」

 「内緒」

 「いいじゃありませんかお父さん。この人たちが決めることですから」

 「そうは言ってもだな? 一応、初孫だし、いい名前を付けてやらんとな?」


 兄の幸二は41になるが、まだ結婚はしていなかった。

 大手電機メーカーの研究所に勤務している。



 「ルリちゃんの時も幸二の時も、お父さん、何冊も姓名判断の本を買って、あなたたちの名前を決めたのよ」

 「瑠璃子さんも同じ考えのようですよ」

 「そうか? あまり難しい漢字は止めなさい。孫が大変だからな? それからあの、キラキラネームもどうかと思うぞ」

 「いい名前を考えているから心配しないで。

 ありがとう、お父さん」

 「それならいいが。

 おい、ビール! もう1本出してくれ。

 健介君、どうせ今夜は泊まっていくんだろう?」

 「はい、ご厄介になります」


 父が健介にビールを注いでくれた。

 瑠璃子はこの時、夫の健介の提案に従って本当に良かったと思った。



 「あっ、今、お腹を蹴った!」

 「初産だから予定日よりも少し遅くなるかもしれないわね?」


 やはり子供は周囲から祝福され、待ち望まれて生まれるべきなのだ。


 夫や両親のうれしそうな表情に、瑠璃子はとてもしあわせだった。



第9話

 妻のお腹が膨らんで来くるにつれ、私は不安になった。

 それは初めて子供を抱いた時、私は素直に喜ぶことが出来るのだろうか?

 自分の子供ではない子供が、自分の妻から産まれて来ることへの矛盾。

 私はそれを、子供の誕生を心から喜ぶことが出来るのだろうか?

 自信はなかった。

 

 確かに妻の瑠璃子も、生まれて来る子供も愛せる自信はある。

 だが、私の知らない男が私の妻を抱いて出来た子供は、遺伝子学上は私の子供ではない。

 もちろん、私は妻も子供も私の大切な家族だ。

 浮気した妻を責める気持ちもない。

 瑠璃子は寂しく、自暴自棄になっていたのも事実だったからだ。

 そして彼女は男にそれを告げることもせず、その男と新しい人生を始めるわけでもない。

 その男は単なる種馬にすぎない。

 私はそう思うことにした。


 では、なぜ不安なのだ?

 演技ではなく、妻の前で本心から子供が生まれたことを喜ぶことが出来れば、これから先、妻は安心して子育てを楽しむことが出来るはずだ。

 それが果たして自分に出来るのだろうか?


 夫婦とは、家族とは何であろうか?

 適齢期を迎え、結婚して子供が生まれる。

 そして子供はどんどん成長し、反抗期を迎え、社会の仕組みの中で親の必死で生きている姿にいつの間にか心が動かされ、それを理解していく。

 子供を育て、家庭を守ろうと無意識のうちに頑張る親を。


 だが、そんな子供もいつかは親元を去って行く。

 そして自分の伴侶を、子供を持つようになり、自分の家族を作る。

 いずれ古い家族形態は消えてゆくのだ。

 命のバトンリレーが繋がっていくように。



 結婚して何がいちばん良かったのだろう?

 それは家に帰ると自分を待っていてくれる人がいるということだ。


 「ただいまー」

 「おかえりなさーい」


 休日にはランチと買物に出掛け、時には遠出をしたり旅をしたり。

 そしていつか、別れが来る。

 死別だったり、そうでなかったり。

 そこにたとえ子供がいなくても、私は別にいいと思っていた。

 愛する妻がそこにいればそれで。

 なぜなら子供はいずれは家を出るからだ。

 子供に継いでもらう稼業もないし、子供に自分たちの面倒をみてもらうつもりもない。

 つまり子供の人生は、もちろん子供のもので、夫婦の人生もまた、それぞれの人生なのだ。

 男と女の子供に対する考えは違う。

 現実的に瑠璃子の子供への執着は強かった。

 私に生殖能力が欠けていると診断された時の彼女の落胆した表情は、今でも忘れることが出来ない。

 

 妊活をしている時、中々子供が出来ないことに苛立った私たちは、ついにこんな言い争いをしてしまった。


 毎朝起きるとすぐに瑠璃子は基礎体温を測り、グラフに記入していた。


 「今日はその日だから、早く帰って来てね?」

 「今日は前から言っていただろう? 役所の飲み会だって」

 「あのね? 飲み会と子供、どっちが大事なの?」

 「わかったよ、もちろん飲まないで帰って来るよ」

 「飲まないなんて当たり前じゃない! 飲み会なんて今日だけじゃないんだから、今日は遠慮してって言ってるの!

 参加しない理由なんていくらでもあるでしょう!」


 私は義務的なSEXに疲れていたこともあり、ついに言ってはいけないことを言ってしまった。


 「それほど子供が欲しいのか! 俺は君がいればそれで・・・」


 と言いかけた時、瑠璃子はそれを遮った。


 「大好きな夫の、愛した男の子供を産みたいの!

 あなたの遺伝子をこの世に残したいの!

 それは女だから、私は女だから!」



 確かに瑠璃子も私もいっぱいいっぱいになっていた。

 友だちや知り合いから送られて来る、子供と一緒の年賀状。

 しあわせな家族であることをアピールし、何の事情も知らずに「瑠璃子も早く子供作れば?」と簡単に口にする女たち。

 子供がいることが当然だと決めつけ、それを手に入れたことへの優越感がそこにある。

 女子会での話題も殆どが子供の自慢話だ。

 そして親戚や親からの心無い圧力。


 「あれ? 今日サトちゃんは?」

 「今日はお腹の子供の検診日なのよー」


 まるで子供がいないことが、女として失格であるかのように突きつけられる現実。

 「子供」というワードに恐怖すら覚えてしまう。


 私も子供が嫌いではない。むしろ大好きだ。

 だが、こうして毎日のように「子供を作らなければならない」という脅迫観念に追われていると、何のための夫婦なのかと心が軋んだ。

 そして今、その結果が近づいている。




 先日も妻の実家で、


 「あっ、蹴ってる蹴ってる。ほら?」

 「本当だ」


 私は妻のお腹を元気に蹴っている子供に、服の上から触れた。

 妻に宿る命を感じた。




 臨月を迎えたが、まだ産まれる気配はないようだった。

 予定日より10日が過ぎていた。



 そんな時、ようやく妻から連絡が届いた。


 「これから病院に行って来るね?」

 「わかった! すぐに俺も行くよ!」


 私は課長に事情を話し、役所を一目散に飛び出した。

 いつもは下道を行くが、今日は高速を使った。

 少しでも早く、病院に着きたかったからだ。




 病院には義父の運転で来ていたようだった。


 「健介さん、いよいよね?

 今、陣痛が始まったばかりだから、まだかかると思うわ。初産だしね?

 大丈夫よ、お産は病気じゃないんだから。

 コーヒー、買って来るわね?」

 「ありがとうございます」


 気を利かせたつもりなのか、義母たちが病室を出て行った。


 妻はかなり辛そうだった。


 「忙しいのに、ハアハア ごめんね? あり、が、とう。あなた」

 「随分辛そうだね? 大丈夫?」

 「うん、平気」


 私は瑠璃子の手に自分の手を重ね合わせた。

 陣痛が始まってから、すでに10時間が経過していた。

 

 「がんばれよ」

 「う、ん・・・」


 破水したので、すぐにナースコールをした。




 「立ち合いますか?」と言われたが、それは辞退した。


 義母たちと分娩室の前で待っていると、子供の産声が聞こえた。

 

 オギャー! オギャー!


 元気な声だった。


 「よかったわね! 健介さん!」

 「よかったな? 健介君!」


 私はただ、呆然としていた。

 分娩室が開いた。


 「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」


 と、分娩スタッフさんたちから祝福された。




 病室に瑠璃子が戻って来た。


 「大変だったね?」

 「死ぬかと思ったわ」


 瑠璃子は一仕事終えた達成感に、少し誇らしげでもあった。

 その表情は安堵し、母親の顔になっていた。

 そこにナースさんが生まれたての子供を連れてやって来た。


 初めて子供を抱いた瑠璃子の顔は、とてもしあわせそうだった。


 「僕も抱いていいかな?」

 「もちろん」


 恐る恐る私は子供を抱いた。


 子供は薄目を開けてこちらを見ていた。

 小さな手が動いている。

 涙が溢れ、私の頬を伝った。


 「ありがとう、瑠璃子・・・」


 瑠璃子も、そしてみんなも泣いた。


 「私たちにも抱かせて頂戴」


 私の不安は杞憂に終わった。


 (よく来たね? これからは私が君のパパになるからね?)


 私はこの子と瑠璃子にそう誓った。



第10話

 病室で授乳をしながら瑠璃子が言った。


 「この子の名前、私が決めてもいい?」

 「どうせもう考えているんだろう?」

 「そうなの、ずっと前から」

 「どんな名前?」

 「幸運の運と書いて「はこぶ」ってどうかしら?」

 「小林 はこぶか?

 いいんじゃないか? 幸運を運ぶ男で」



 私は一生懸命に瑠璃子の乳を飲む運を見ていた。

 この子もじきに大きくなって私たち夫婦の身長を超えてゆくだろう。

 運はこれからどんな人間に成長していくのだろうか?



 本当は、瑠璃子が以前から考えていた名前は、もしも男の子だったら夫の健介から健の字を与えたかった。

 小林 たけし

 だがそれは許されないことになってしまった。

 この子は直人の子供だったからだ。





 退院すると、義父は早速神棚に「小林 運」と書いて飾ってくれた。



 「お宮参りにはみんなで行こうな? 健介君のご両親と俺たちもな?

 そして『葵寿司』でお祝いをしようじゃないか」

 「小林運くーん、ババちゃんですよー」

 「やだママ、ババちゃんだなんて。

 あーちゃんにしたら? 呼びやすいし、それにまだママは若いわよ」

 「あらそう? じゃあ、#あーちゃん__・__#にするわ。

 運ちゃーん、あーちゃんですよー」


 うれしそうな義母。


 「とりあえず出産祝いだ。おい、ビールビール!」

 「はいはい」

 「私も何か手伝おうか?」

 「いいわよあなたは、まだ退院したばかりなんだから。

 運ちゃんについていてあげなさい」

 「ごめんねママ」

 「大丈夫よ。

 運がお嫁さんを貰うまでは生きていたいわね?」

 「運の孫が結婚するまで生きていてよね? ママ」

 「そうね、がんばらないと!」


 義母は冷蔵庫からビールと冷えたグラスを出し、義父の前にそれを置いた。


 「今、おつまみを作るわね?」

 「何でもいいぞ。さあ、健介君、君もついに父親だな? おめでとう」

 「ありがとうございます、お義父さん」


 義父はベビー布団でスヤスヤと眠っている運に目を細めた。


 「綺麗な顔立ちだな? 鼻筋は健介君に似ているのか?

 この耳の形は俺に似ているな?

 ほら、ここのピンと張った耳、おいこれは福耳だぞ。

 瑠璃子、お前は本当にいい子を産んだな?」

 

 だが私も瑠璃子も義父の言葉に同意することは出来なかった。





 子育ては大変だったが楽しかった。

 4時間おきの授乳や母乳の搾乳。

 ワクチン接種に検診、オムツ交換に沐浴など、すべてがはこぶ中心の生活になっていた。

 いつの間にか自分が本当の運の父親だと思うようになっていた。


 運に接しているうちにどんどん可愛さが増していき、このミルクの香りのする運のことがたまらなく愛おしくなっていった。


 レインも立派に運を守っていた。

 頼もしい運のお兄ちゃんとして。

 私と妻は平等に、レインと運を大切に育てた。



 女性にとって育児は大変である。

 母親として子育てをするには様々なことを要求され、自分の自由な時間が削られてしまう。

 今はイクメンと言われる時代だが、私は妻の代わりをするのではなく、妻を労わるように心掛けた。

 私はそれが男の子育てだと思っていた。


 現実問題として、子育て中の母親のストレスは溜まる。

 特に我々のような世代は豊かな時代を経験しており、美味しいものを食べ、ショッピングや旅行を楽しんでいたからだ。

 私は週末には妻の自由な時間を作ってあげるように努めた。

 専業主婦は意外とラクではない。

 他の大人と誰とも話をしないなんてこともザラだ。

 もちろん職場でも大変だが、大人同士のコミュニケーションが出来る。

 人と話しをすることで、ストレスの緩和にもなるからだ。

 そして母親のストレスは子供にも伝わる。



 「今度の土曜日は美容室にでも行って来るといいよ。

 運は俺がみているから。

 ついでに服でも買って来るといい、たまには君も息抜きも必要だよ」

 「ありがとう、あなた。

 それじゃあ美容室を予約させてもらうわね? 髪も伸びたし」




 子育てをすることで、私たちは色んな気付きを得ることが出来た。

 子育てがひび割れた夫婦関係をゆっくりと修復してくれた。

 私と瑠璃子は子育という共通の目的のために協力し合い、そこに以前よりも強い絆が生まれた。


 よく「育児」を「育自」というが、まさにそれを私たち夫婦は実感していた。


 運は誰のものでもない、私たちの子供だった。



第11話

 瑠璃子は子育てがこんなにも大変だとは思わなかった。

 レインを散歩に連れて行くのとはわけが違う。

 出掛ける時はオムツにミルクはもちろん、おしり拭きにお着替え、オモチャも詰め込み、ベビーカーでぐずる時の為に、抱っこグッズも準備した。


 熱を出せば心配になり、近くのクリニックにすぐに連れて行った。



 「大丈夫ですよお母さん。ただの知恵熱ですね?」


 眼鏡を掛けた中年の女医は微笑んでそう言った。

 子供は日中には元気に遊んでいても、夜になるとぐったりして熱を出すこともある。

 そんな時、すぐに瑠璃子は母に電話をした。


 「はこぶが熱を出したんだけど」

 「何度なの?」

 「38度5分」

 「子供の体温は少し高いものよ。離乳食は食べるの?」

 「うん」

 「食欲があるなら少し様子を見てみなさい。

 食欲も無ければ心配だけど、食べてるならね?

 ウンチはどう?」

 「大丈夫みたい」

 「あんまり神経質にならない方がいいわよ。それって子供にも伝わるから」

 「うん、わかった。少し様子を見てみる」



 夫の健介は育児にとても協力的だった。

 育児休暇を取るような人ではなかったが、食事の世話から沐浴、オムツ交換も嫌な顔ひとつせずにしてくれた。




 運はすくすくと成長し、3才になろうとしていた。

 幼稚園を選ぶ時も夫は慎重だった。


 「君はどこがいいと思う?」

 「大学の付属幼稚園とかはどうかしら?」

 「僕も同じことを考えていたんだ。

 今の学校のいじめは酷いからね?」

 「一度入ればエスカレーター式で受験もないしね?

 でも地元の国立大学の場合は中学までだけど、進学校へも多く合格しているみたいだし」

 「じゃあ、付属は国立大と私立大の両方受験させることにしよう。

 滑り止めにはこの幼稚園がいいと思うんだけど? 

 それなりの家庭の子供たちが集まるようだから、いじめも少ないだろうし」

 「ありがとうあなた。そんなに運の将来のことまで真剣に考えてくれて」

 「あたり前だよ、運は俺たちの子供なんだから」


 うれしかった。そんな夫のやさしさに、瑠璃子は胸が熱くなった。


 


 幼稚園の願書を貰うために、夫は朝の4時から並んでくれた。


 「何とか貰うことが出来たよ」

 「ご苦労さまでした」


 夫の健介は運を抱き上げると、


 「運、合格するといいな?」

 「うん、ボク、幼稚園に行く」


 夫は運を強く抱きしめた。




 運を幼稚園受験のために受験予備校に通わせ、瑠璃子も健介も必死に教えた。

 その甲斐もあり、国立の付属幼稚園の1次試験には合格することが出来た。



 「いよいよ2次試験だね?」

 「まかせて、私、ジャンケンは強いから」

 「頼んだよ、お母さん」



 

 国立大学の付属受験の場合、変な圧力や忖度、裏口入園がないようにと、最後は公平にジャンケンで決めることになっていた。

 このジャンケンに負けて不合格になった子供の親は、一週間は寝込むという。

 受験会場には異様な空気が流れていた。

 高まる緊張感、このジャンケンに子供の人生が掛かっているのだ。

 もちろんジャンケンをいきなりするわけではなく、まずはジャンケンをするくじ引きをするためのジャンケンが開始される。

 いわゆる本番への練習、リハーサルである。

 いきなりの合否判定は酷だからだ。

 流石は国立大学の教育学部、付属幼稚園の試験である。

 心理学的な要素もかなり盛り込まれていた。



 そして、遂に決勝ジャンケンの瑠璃子の順番がやって来た。

 相手の母親はかなり本気だった。無理もない。

 緊張でガクガクと震えてさえいた。


 子供の人生を左右しかねないジャンケンだ。王様ゲームのそれとはレベルが違う。

 瑠璃子はこの時、無心だったらしい。


 「ジャン、ケン・・・」



 パーで瑠璃子が勝った。

 緊張している場合、相手はグーを出しがちになる。


 その場に泣き崩れた母親は、職員に肩を抱かれ、椅子に戻って行った。

 瑠璃子はその光景から目を背けた。




 入園の手続きを終えると、瑠璃子はすぐに夫の健介に電話をした。


 「あなた! 合格よ合格! 私、やったわ!」

 「そうか! やったか! 良かったな! 本当に良かった! うううっつ・・・」


 いつも冷静な夫が、電話の向こうで大喜びで泣いていた。

 しかも県庁の自分のデスクで。

 職場の同僚のみなさんからの祝福の拍手が聞こえていた。


 私たちはまた、運によって夫婦の絆をより強固なものにしていった。



第12話

 「幼稚園で着るやつか?」

 「そうなの、スモックも親が作るんですって」


 瑠璃子はミシンをかけていた。


 「それって市販されていないのかい?」

 「あるとは思うんだけど、親が作って下さいって。

 そうすることで子供に対する愛情を注ぎなさいってことなんじゃないのかしら?

 でも私、こうゆうの好きだから楽しくって」

 「君のように何でも出来る母親ならいいが、それが得意じゃない親は大変だな?

 それに母親がいない子供もいるんじゃないのか?」

 「それはないみたい。

 お受験には母親が積極的だしね?

 それにそれも入園の審査基準になっているのかもしれない。

 大学の研究機関としての役割もあるわけだし」

 「はこぶ、ママが一生懸命に君の服を作ってくれているんだよ。

 よかったね?」

 「うん、ママ、ありがとう」

 「それじゃあ運、パパとレインのお散歩に行こうか?」

 「レイン、お散歩だってさ」

 「パパと運は夕食には何が食べたい?」

 「今日はファミレスで食べよう。君も忙しそうだし」

 「ありがとう、いつもごめんね?」

 「その方が俺も助かるんだ。

 後片付けをしなくて済むからね?」


 リビングで寝ていたレインはすぐに起き上がると、ダッシュで玄関に向かい、私と運が来るのを尻尾を振って待っていた。

 

 「今日はボクがレインをお散歩させるから、パパはレインのウンチ係だよ」

 「大丈夫か? 運?」

 「大丈夫だよ。ボク、もう幼稚園だよ?」

 「そうだな? 運は幼稚園だもんな?」




 入園式当日がやって来た。

 すでに桜は散り、葉桜にはなってはいたが、新緑がとても眩しかった。

 私はビデオを、そして瑠璃子はスマホを手にして息子が舞台に出て来るのを待っていた。

 だが運の姿が見えない。

 すると舞台の袖で、保育士たちに椅子に座るように説得されている運の姿が見えた。

 私たち夫婦は息子に駆け寄りたい気持ちを必死に抑えた。



 そんなハプニングもあったが、式は無事に終了した。


 「写真を撮ろう。

 さあ運とママ、並んで並んで」


 私は妻と息子を入園会場の縦看板の前に促した。

 すると、同じ幼稚園に通う父親から声を掛けられた。

 

 「運君のお父さんですね? 村上さゆりの父親です。

 同じひまわり組の。

 これからよろしくお願いします」

 「小林です。こちらこそよろしくお願いします」

 「よかったら押しますよ? シャッター」

 「すみません、じゃあお願いしてもいいですか?」

 「もちろんです。後でウチもお願いしますね?」

 「お互い様ですから」

 「じゃあ行きますよー、はい、マルチーズ!」


 私たちは思わず笑ってしまった。


 「あのおじちゃん、面白いね? マルチーズだって?」

 「そうね?」


 運には犬と動物の図鑑を見せていたので、犬の名前は殆どわかっていた。



 とてもいい写真が撮れた。

 村上さんからスマホを受け取る時、彼が言った。


 「ようやく授かった娘なんです。感無量ですよ、今日は」


 私はそれには答えず、


 「じゃあ、お撮りしますね? はい、レアチーズ!」


 村上夫妻は微笑んだが、さゆりちゃんは笑わなかった。


 「すみませんがもう一度お願いします。

 さゆりちゃんが笑ってなかったので。

 それじゃあいくよー、さゆりちゃん、笑ってオジサンを見てごらん。

 はい、アンパンマン!」


 今度はさゆりちゃんも笑ってくれた。



 「さゆりはアンパンマンが大好きなんですよ。

 なかなかいい写真が撮れました。

 さっそくインスタやフェイスブックにあげないと」


 しあわせそうな村上親子に、私と瑠璃子も目を細めた。




 その夜、運を真ん中にして寝ていると、瑠璃子が声を掛けて来た。


 「なんだかホッとしたわ。今日は疲れたでしょう?」

 「楽しかったよ。運が出てこない時には焦ったけどね?」

 「ホント、一時はどうなるかと思っちゃった」

 「これからどんどん大きくなるんだね? 運は?」

 「そうね? 運にはずっと元気でいて欲しい。ただそれだけ。

 泥んこになって元気に成長して欲しい。

 成績なんて悪くてもいいから、みんなから愛される子に育って欲しいの」

 「大丈夫だよ、運はやさしくて逞しい大人に成長するよ。

 僕たちの子供だからね?」

 「ねえ、そっちに行ってもいい?」

 「もちろん」


 その夜、私たちは久しぶりにお互いの肌の温もりを確かめあった。



第13話

 はこぶは幼稚園に行くのが楽しいようだった。

 瑠璃子は毎朝5時に起きて、運の幼稚園弁当を楽しみながら作っていた。

 料理上手な瑠璃子の作る弁当は、かなり手の込んだ弁当だった。

 そして私も役所の食堂から弁当に変わった。

 1つ作るのも2つ作るのも同じだからと、私の分まで作ってくれるようになったからだ。


 新婚当初は愛妻弁当で、役所の同僚たちからも冷やかされたものだったが、自分に子供を作ることができないと告げられた日、私は妻に言った。


 「もう弁当は作らなくていいよ」


 それ以来、私は役所に弁当を持って行くことは無かった。

 私は妻から逃げていたのかもしれない。

 そしてまた、妻の愛妻弁当が復活した。

 これも運のおかげだった。

 私たちは再び夫婦の愛を取り戻すことが出来たのだった。




 「はい、これはあなたのお弁当」

 「いつもありがとう。

 どうだろう? そろそろ運をディズニーランドにデビューさせては?」


 すると、瑠璃子の表情がパッと明るくなった。


 「私も同じことを考えていたの!

 ミッキーたちと写真も残してあげたいし、あの魔法の国を運に見せてあげたい!」

 「それじゃあ今度の週末、ディズニーのホテルを予約しておいてくれないか?

 エレクトリカルパレードも見せてあげたいしね?」

 「まかせてちょうだい!

 私たちならシーの方がいいけど、運にはランドの方がいいしね?

 楽しみだなあ、運には何を着させて行こうかしら?

 私は何がいいかしら? 運を追いかけなきゃならないし、やはりパンツルックかしらね?」


 やはり、まだ瑠璃子には私に対して遠慮があったのだろう、私のディズニー行きの提案に、妻は大喜びだった。



 


 週末ということもあり、ディズニーランドはかなり混雑していた。


 「すごい人ね?」

 「給料日後の土曜日だからね?」

 「ほらほらあなた! あそこにドナルドがいるわ!

 早く一緒に写真を撮りましょうよ!」



 私たち親子はドナルドがみんなに囲まれているところへ走った。



 「あなた早く早く、こっちこっち!」


 すると、運と瑠璃子に気付いたドナルドが、一緒にポーズを取ってくれた。


 「よし、撮るぞー。ハイ、ポーズ」


 少しはにかむ運と満面の笑みを見せる瑠璃子。

 写真を撮り終えると、ドナルドは息子の頭をポンポンと軽く叩き、私たちに手を振るとまた別の女子高校生たちとの写真撮影に応じていた。



 「よかったわね運? ドナルドに会えて?」

 「ママ、ドナルドはお尻がかわいいね?」

 「そうね? かわいいお尻だったわね?」

 


 それから私たちはジャングルクルーズやピーターパン、イッツ・ア・スモールワールドのアトラクションを巡り、

 初めて見る世界に運は驚き、喜び、そして戸惑っていた。




 エレクトリカルパレードまで、ホテルで少し休憩することにした。

 私たちはホテルのレストランで少し早い夕食を摂った。

 初めてのディズニーは、まだ子供の体力では限界があったからだ。




 夕暮れ近くにディズニーへ戻ると、すでに場所取りが行われていた。


 「あなた! あそこが空いているわ!」



 私たちはやっと場所取りに成功した。

 場内アナウンスと共に、パレードが始まった。

 美しい電飾、音楽とキャラクターたちの陽気な振る舞いと、それを盛り上げるダンサーたち。

 私は運を肩車して、より良くミッキーたちが見えるようにしてやった。


 運は目を丸くしてそれを見ていた。

 そしてその光景を必死にカメラに収めようとする瑠璃子。

 フィナーレには花火が打ち上げられた。




 ホテルに戻り、私は運と一緒に風呂に浸かった。


 「運、また来ような?」

 「うん、お父さん、また来ようね? 家族でね?」


 私は運の「家族」という言葉に目頭が熱くなり、それを隠すように風呂の湯で顔を洗った。

 そうだ、私たちは家族なのだと。




 風呂から上がり、リンゴジュースを飲むのが運の毎日のルーティーンだった。

 そして歯を磨き、瑠璃子に本を読んでもらって日記をつけて眠る。

 運はすでに読み書きが出来るようになっていた。



 「もう寝ちゃったわ」

 「余程疲れたんだろうな?

 君もゆっくり風呂に浸かって来るといい」

 「じゃあそうするね?」


 瑠璃子は下着姿になり、パウダールームへと消えた。



 私は冷蔵庫からビールを取り出し、深夜のニュース番組を観ていた。

 髪を乾かす妻のドライヤーの音が聞こえて来た。


 バスローブに身を包んだ瑠璃子が出て来た。


 「私もいただこうかしら?」


 彼女は冷蔵庫からビールを取り出し、私の隣に座るとグラスにビールを注ぎ、美味しそうにそれを飲んだ。


 「ああ、おいしーい」


 そして瑠璃子は私の頬にキスをした。



 「あなた、今日はどうもありがとう。

 私、子供とディズニーランドに来ることがずっと夢だったの。

 いい思い出がたくさん出来たわ。

 運もすごく楽しそうだった」


 運はみやげに買ってやったドナルドを抱いて眠っていた。


 「そろそろ俺のことを瑠璃子も「お父さん」と呼んでくれないか?」

 「えっ?」


 瑠璃子のビールを飲む手が止まった。


 「君のことを俺が「お母さん」と呼んでいるのに、君が俺を「あなた」と呼ぶのもおかしいだろう?

 その方が自然だし」


 瑠璃子が私をそう呼ぶことに抵抗があることは分かっていた。

 だからこそ、あえて私からそれを提案したのだ。



 「わかったわ、・・・お父さん。

 なんだか照れちゃう」


 そして瑠璃子はバスローブを脱ぎ捨て、私をベッドへ誘った。


 「お父さん、私たちも一緒に寝ましょう」



 私と瑠璃子はもうひとつのベッドに入った。


 「また来ような? 家族で?」

 「うん」


 やがてベッドが軋み始め、そして瑠璃子はその行為の最中、何度も私を「お父さん」と呼んだ。



第14話

 役所で仕事をしていると、突然携帯が鳴った。

 瑠璃子からだった。

 イヤな予感がした。


 通常の事であればLINEで連絡をしてくるはずの瑠璃子が、仕事中に電話などしてくる妻ではないからだ。



 「自転車で転んで、運をケガさせちゃったの。 

 救急車で運ばれて、今、病院にいるんだけど」

 「それで運は大丈夫なのか!」

 「唇を切って出血したんだけど、大丈夫みたい。  

 レントゲンを撮ったけど異常はないって先生が」

 「すぐに行く! どこの病院だ?」


 私は課長に許可を貰って早退し、すぐに病院へと向かった。





 病院の待合室には瑠璃子と運が待っていた。


 「おとうさーん・・・」


 運が泣きながら私に抱き着いて来た。


 止血され、唇から顎にかけて大きな絆創膏が貼られていたのが痛々しかった。

 私も運を抱きしめて泣いた。

 こんな小さな子供が、さぞや痛かっただろうに。

 私は胸が張り裂けそうだった。


 「あなた、ごめんなさい。 

 私の不注意なの、石を避けようとしてバランスを崩しちゃって」

 「大変だったな? 瑠璃子は大丈夫なのか?」

 「私は大丈夫、少し擦りむいただけだから」

 「診察は?」

 「してもらったから大丈夫よ」

 「そうか? 取り敢えず、家に帰ろう」




 クルマに運を乗せる時、私は妻の瑠璃子の足や手にも包帯が巻かれていたことにようやく気づいた。


 「瑠璃子、お前、本当に大丈夫なのか?」

 「大丈夫、かすり傷だから。

 でも、運がかわいそうで」

 

 私は瑠璃子を抱きしめた。


 「ごめん、君のケガに気付かなくて」

 「ううん、私のことは心配しないで、本当に大丈夫だから。

 でもちょっとうれしかった。

 あなたが運のことを心配して、抱き締めて泣いてくれたことが」

 「瑠璃子も運も同じくらい俺には大切なんだ。

 大きなケガじゃなかったのは、不幸中の幸いだったよ」

 「ありがとう、お父さん」


 すると退屈そうに運が言った。


 「お母さん、オレンジジュースが飲みたい」

 「はいはい、近くのコンビニでお父さんに買ってもらいましょうね?」

 「うん、お父さん、お願いします」

 「ああ、わかったよ、喉が渇いたよな?

 お父さんもお母さんも喉がカラカラだ」



 私も妻も初めての子育ては毎日が手探り状態だった。

 ちょっとしたケガや発熱、胃腸障害などは日常だったが、それと同じくらい感動する出来事も多い。

 はじめて運が笑った時、はじめてパパと呼んでくれた時、はじめてつかまり立ちをした時や初めて歩いた時など・・・、思い出はどんどん重なっていった。

 運を抱きあげる度、重くなっていく我が子が確実に成長していくのを私は実感した。


 人は親になる資格が出来て親になるのではない。

 それは夫や妻になるのも同じかもしれない。

 人は喜びや苦しみの中で試行錯誤を繰り返しながらその役割にふさわしい自分になってゆく。

 父親にふさわしいから父親になるのではなく、その経験を通して父親になっていくのだ。


 私は夫として、運の父親としては未だ「仮免許」なのかもしれない。

 だが、妻の瑠璃子は変わった。

 良妻賢母とは彼女のような女性のことを言うのかもしれない。

 瑠璃子は良き妻であり、良き母親になった。 



第15話

 「ゲームは一日1時間までってお母さん言ったわよね?」

 「うるさいなあ、いいじゃないか? 30分位おまけしてよ」

 「じゃあもうゲーム禁止にするわよ、それでもいいならやりなさい」

 「わかったよー、お母さんのケチ」


 運はふてくされるようにゲームをするのを止めた。



 運は小学5年生になっていた。

 子供の成長はつくづく早いと思う。

 私の生活の殆どが運と夫のために費やされていたが、それはイヤではなかった。

 私はしあわせだった。

 愛する家族に尽くす喜び。それは妻であり母であるがゆえの悦びだ。

 だが運が大きくなって行くにつれ、ある不安が瑠璃子に湧き始めていた。

 それは運がどんどん直人に似て来ることだった。


 ゲームのことを叱られて反抗する息子の態度は、穏やかな夫のそれではなく、我儘な直人の目だった。

 おそらく夫の健介もそれには気付いているはずだった。

 それなのに夫は嫌味も言わず、運に父親として接してくれている。




 「今度の金曜日はキャンプに行こうか?」

 「うん、行きたい!」


 運が小学生になってからは毎年、山桜を楽しみながら家族でキャンプに出掛けた。

 夫はアウトドアには無縁な人だったが、運が生まれてからは見よう見まねでそれを始めた。

 そして今ではすっかりそれが板に付いていた。


 テントを張ったり火を起こしたりと、運と私に大自然を満喫させてやりたいと思ったようだ。




 私は運にはサッカーや野球ではなく、ピアノを習わせてあげていた。


 「ねえ? 運にピアノを習わせてあげたいんだけど、実家から私が使っていたピアノを運んで来てもいいかしら?」

 「いいんじゃないか? 音楽はいいよ、音楽は。

 男の子でピアノが弾けるなんていいね?

 僕もピアノを弾きたかったんだけど、親には承諾してもらえなかったんだ」

 「あなたも弾いたら? 私が教えてあげるから」

 「お願いしようかな?

 でももう歳だしなあ」

 「大丈夫よ、弾きたい曲はあるの?」

 「ベートーベンの『月光ソナタ』とか弾けたらいいね?」

 「がんばりましょうよ、家族みんなで」



 そんな毎日が楽しかった。

 夫が本当の父親ではないことを運が知ることはないだろう。

 だがそれは、絶対にないと言い切れるのだろうか?


 瑠璃子の不安は時折頭をもたげていた。





 キャンプにやって来た。美しい自然の中で釣りをしたり、星を眺めたりすることで、運は大喜びだった。

 小さな小川で釣りをしながら、BBQを楽しんだりした。

 料理は私の担当だった。

 月に一度は自宅のウッドデッキでBBQをしていたので、かなりレパートリーも増えていた。


 今日のキャンプご飯はパエリアと鳥のレバーのアヒージョにした。

 そして運にはお気に入りのソーセージと、レインには豚の赤身を焼いてあげた。

 私と健介はスパークリングワインを飲んでいた。



 「運、ソーセージもいいけど、ママのパエリアも旨いぞ」

 「うん、ママのお料理はいつも美味しいからね?

 なあ、レイン?」


 レインは運をチラリと見て、また肉を美味そうに食べ始めた。


 「ありがとう、運。

 お魚、なかなか釣れないわね?」

 「お母さんもやってごらんよ、そう簡単には釣れないんだから。ねえ、お父さん?」

 「釣りはね、釣れなくてもいいんだよ。

 釣れるのを待っているのが楽しいんだから」

 「でもボク、お魚が釣れないとイヤだなー。

 だってつまんないもん」

 「大人になればわかるよ。

 釣りはこれくらいにして弓矢を作るか?」

 「うん、やりたいやりたい!」

 「よかったわね? 運」

 「お父さん、早く早く!」

 「じゃあ、あの林から竹を取って来よう」

 「はーい!」

 「気を付けて行くのよ」



 瑠璃子はふたりの後ろ姿を見詰めながら、このしあわせがずっと続けばいいと祈った。



第16話

 運の成長と反比例するように、私たち夫婦も、そしてレインも歳を取っていった。

 私は53になり、妻の瑠璃子は50になっていた。

 運は中学生になり、女の子たちからも人気があるようだった。



 「運君、いっしょに帰ろう」

 

 付属中学のオーケストラに入った運はチェロを担当していた。

 オケで一緒だったビオラの由貴ちゃんとは仲がいいらしい。

 どんどん成長していく我が子を見ていると、私とは似ていない別な男の顔が浮かび上がって来る。

 瑠璃子はこんな顔の男に抱かれていたのかと思うこともあったが、私はそれをすぐに打ち消した。




 夕食時、運が学校からの案内を私に見せた。

 どうやら瑠璃子が直接私に見せるように言ったようだった。


 「来月の17日の日曜日にね、オケの定期演奏会があるんだけどお父さんも来れるかな?」

 「そうか? もちろんお母さんと一緒に行くよ。運の初舞台だからな?」

 「良かったわね? 運。

 お父さんも大丈夫みたいで。お母さんは何を着ていこうかしら?」


 やはり瑠璃子はまだ少し、私を気遣っているようだった。


 「今度の演奏はかなりいいと思うよ、何しろコンクールで金賞を獲ったオケだから」

 「楽しみにしているよ」


 食卓に家族の笑顔の花が咲いた。





 コンサートは県の大きな音楽堂で行われ、かなり大掛かりな定期演奏会だった。


 「あなた、ほら、あそこあそこ!

 運があんなに真面目な顔で座っているわ!」


 瑠璃子は携帯で息子の姿を大はしゃぎで撮影していた。

 息子はいつの間にか私の身長も超え、どんどん大人になってゆく。

 運の将来が、このまま幸せな人生になればと私は願った。



 オーケストラは100名を超える本格的なもので、とても中学生のレベルとは思えなかった。

 最初の曲目はエルガーの『威風堂々』、しかも生徒たちには譜面台がない。

 つまりそれはあの壮大な難曲をこの子たちはすべて暗譜しているということになる。

 このオケを経て、プロの演奏家になった子供たちも多くいるらしい。

 大学の付属中学の教育水準の高さに驚かされた。


 もちろん親たちも必死だった。

 夏休みの練習中も、競うように母親たちは差し入れを届けていた。

 それはまるで野球部やサッカー部のような運動部並みのサポート体制だった。

 医者や弁護士、銀行員、公務員、企業経営者の子息子女も多く、楽器はすべて自前であり、ある程度の経済力に裏打ちされ、地元テレビ局の運営するジュニア・オーケストラのメンバーの子もいるらしく、ドイツなどへも遠征するほど、そのレベルは高いようだ。


 中学生で100名を超えるオーケストラは東北でもめずらしい。

 1人の生徒に100円のジュースを買っても1万円にもなる。

 しかも母親同士の見栄もあり、無名のジュースなどは買うわけにはいかないし、着色料や合成甘味料のあるものなどはもっての外だ。


 「ごめんなさい、ウチはこういう物は飲ませていないの。

 オーガニックなジュースか、お茶かミネラルウオーターしか飲ませていないのよ」


 ある開業医の奥さんはマックのセットをよく差し入れているらしい。

 瑠璃子たちのグループは、たまにみんなでお金を出し合ってアイスクリームを差し入れたりしていたそうだ。

 

 「あんなの異常よ」


 瑠璃子は笑っていた。




 演奏が始まった。

 素晴らしい演奏だった。

 運もそうだが、他の子供たちもピアノやバイオリンなどを幼い頃から習っており、それなりの音楽レベルではあるが、それにも増して指導教諭のスキルの高さが窺えた。


 私も妻も、一生懸命にチェロを弾く我が子の姿に目頭が熱くなった。

 瑠璃子はハンカチで何度も涙を拭いていた。




 「いい演奏だったわね?」

 「すごいな? 中学であんな本格的な編成のオーケストラだなんて。

 普通ならせいぜいブラバン止まりだもんな?」

 「運も音大に行かせてあげようかしら?」

 「才能はあるよな? 君の子供だから」


 私は迂闊にも触れてはいけないことを口にしてしまった。

 「君の子供」の後には、「僕の子供ではない」という言葉が隠されていたからだ。


 妻はそれに気付いたのか、話題を変えた。


 「今日は運の好きなハンバーグにしてあげようかしら?」

 「ああ、僕も好きだよ、君の作るハンバーグは」




 家に帰ると、私たちは狼狽えた。

 いつも玄関のマットの上で私たちを待っているレインの反応がない。

 触るとまだ温かいがぐったりしていた。


 「あなた! 早く『ぽぴんず』さんのところへ!」




 瑠璃子はレインをバスタオルに包み、後部座席へと乗り込んだ。



 「レイン、大丈夫よ、ママがついているからね? 死んじゃダメよ」


 動物病院へ向かう道の赤信号が酷く疎ましかった。




 病院に着いてすぐに診察が始まったが、佐藤先生夫妻は悲しい顔を見せた。


 「レイン君はよくがんばりましたよ」


 診察台の上のレインを佐藤先生夫妻はやさしく撫でてくれた。


 「ご臨終です」

 「レイン! レインーっ!」


 妻も私も泣いた。

 あの雨の日から15年、レインは私たち夫婦にとって、長男同様の存在だった。

 どこへ行くのも一緒だった。

 運の面倒も良くみてくれた。まるで自分の弟のように。

 そのレインが死んだ。



 「レイン君は長生きしましたよ。小林さんご家族の愛情があってこそです」


 私たちはレインの主治医である佐藤先生夫妻に深く頭を下げた。





 私たちはレインの亡骸をリビングに安置した。

 妻も私もレインを撫でていた。


 「まだ温かいわね?」

 「そうだな・・・」



 そこへ運が帰って来た。

 

 「ただいまー、どうだった今日の演・・・。

 どうしたの? レイン? 病気なの?」

 「レインはね、天国に行ったのよ・・・」

 「嘘でしょう? イヤだよ、そんなのイヤだよそんなの!

 レイン、お散歩の時間じゃないか! 早く起きてよ!

 死んじゃやだよー、死んじゃ・・・、ううううう・・・、レイン・・・」


 運は声を上げて泣いた。

 いつも冷静な息子がこんなに号泣するのを私たちは初めて見た。




 その日、私たち家族はレインの傍でずっと夜を過ごした。


 家族のひとりが死んだ夜だった。



第17話

 レインが死んで半年が過ぎたが、悲しみが癒えることはなかった。



 「運、今日はお父さんはお仕事で遅いみたいだから外で食べようか?」

 「うん」

 「何が食べたい?」

 「何でもいいの?」

 「いいわよ、でも1,500円以内よ」

 「じゃあ『樺林かばりん』のチーズ・ハンバーグ定食がいい」

 「わかったわ、じゃあ夕方、混まないうちに少し早く行きましょう」

 



 瑠璃子と運は隣町のアーケードに食事に出掛けた。

 付け合わせのホクホクのじゃがバターを食べていると、運のフォークが止まった。



 「レイン、お芋が大好きだったよね?」

 「お母さんが作っている傍でお座りして、じっと待っていたもんね?」

 「ボク、もう犬は飼わないよ」

 「お母さんもダメだなあ。可愛くて賢い子だったもんね? レイン」

 「もうあんな哀しい思いはしたくないよ」

 「そうね? でも命あるものはいつかは死んでしまうものよ」

 「どうして人は死ぬんだろうね?

 お母さんもお父さんも、死んだら嫌だな・・・」

 「人は辛い事や悲しい事、そしてたくさんの過ちを死んであの世で償うのよ。そしていつかまたすべての記憶を消されて甦る、別人としてね?

 だって運、ゾンビみたいに生き続けるのはイヤでしょう?

 私たちは神様のご意志によって死を迎え、そして再生するの。

 レインもきっとどこかでまた、しあわせに暮らせると思う。

 運、人はね? 良く死ぬために良く生きなければならないのよ、生まれることと死ぬことはセットなの」

 

 運はやさしい子供に育ってくれている。

 それはやさしい夫の健介のお陰だ。

 偉くなって欲しいとか、お金持ちになって欲しいなんて思わない。

 健康でやさしい大人になってくれればそれでいい。それが私と夫の願いだ。



 ところがそんな親子を店の奥の席からじっと見ている男がいた。

 運の本当の父親、直人である。


 

 (瑠璃子と息子? 随分と会わないうちにより円熟味を増してさらにいい女になったなあ。

 でもあの子供、どこか俺に似ている)


 直人は心が躍った。


 (間違いない! あの男の子は俺の子供だ!)


 直人はそう直感した。

 それは親子であるが故の運命の悪戯だったのかもしれない。

 直人は敢えて瑠璃子たちに話しかけなかった。




 食事を終えた瑠璃子と運が店を出て行くのを待って、まだ下膳されていないそのテーブルから直人は運の使っていたストローをこっそりとハンカチで包み、ポケットに入れた。

 遺伝子解析をするために。





 2週間後、直人と運の親子鑑定の結果が郵送されて来た。

 99.4% 直人の子供であることが判定された。



 「俺はずっと騙されていたんだ」





 瑠璃子が買物に出掛けようと家を出た時だった。背後から声を掛けられた。


 「瑠璃子さん」


 聞き覚えのあるその声に、瑠璃子は恐怖のあまり振り向くことが出来なかった。



 「お久しぶりです瑠璃子さん。ちょっとお話があるんですがよろしいですか?」

 「私にはないわ。もしまたこんなことをするようなら警察に被害届を出すわよ」

 「構いませんよ、僕は別に。

 でもそれで困るのは瑠璃子さんの方ですけどね? うふふ」

 「どういうこと?」

 「息子さんのことでお話があります。ここでは拙いでしょうからクルマで話しませんか?」


 瑠璃子は仕方なく直人のクルマに乗った。

 いずれにせよDNA鑑定でもしない限り、運が直人の子供だという事実を証明することは出来ない。

 とにかく二度と瑠璃子や家族に近づかないように釘を刺しておく必要があった。

 そうしなければこの男は、今度は私の大切な家族に付き纏うかもしれないからだ。


 

 「少しドライブしましょうよ。瑠璃子さんは相変わらず綺麗ですね?」

 「もう50のオバサンよ、直人は結婚したそうじゃないの?」

 「別れるつもりです」

 「どうして?」

 「瑠璃子さんと結婚したいからです」

 「バカなこと言わないでよ」

 「元々俺たち夫婦はデキ婚なんです。

 女房とは子供が出来たので仕方なく結婚しました。

 僕はずっと瑠璃子さんが好きでした。そして今も」

 「止めて頂戴! もう終わったことよ!」

 「イケメンですね? 息子さん」

 「当たり前でしょう? 私と旦那の子供なんだから」


 その時、直人はニヤリと笑った。


 「それは嘘です。

 あの子は僕の子供ですよね? あの時の」

 「何を根拠に言っているの? あの子は私と旦那の子供よ。

 言いたいのはそれだけ?

 それだけならここで降ろして、バカバカしい」

 「証拠ならここにありますよ」

 「どんな証拠? いい加減なこと言わないで!」

 「見たくないですか? 息子さんが僕の子供だという証拠」

 「見せてみなさいよ! そんな物があるなら!

 さあ、早く見せなさいよ!」



 直人はクルマを路肩に寄せ、ハザードランプを点灯させてクルマを停め、カバンの中から書類を取り出し、瑠璃子に差し出した。


 「良かったら差し上げますよ。それ、コピーですから」


 直人は自信に満ちた表情で薄笑いを浮かべていた。

 それを見た私は心臓が止まりそうになった。

 そこには99.4%、親子であるとそのDNA鑑定書には書かれていたからだ。


 「どうしてこれを・・・」

 「二週間前、息子さんとレストランで食事をしていましたよね? 実は私も偶然あそこで食事をしていたんです。

 そしてあなたたちが店を出て行った後、息子さんの飲んでいたコーラのストローで鑑定を依頼したわけです。

 DNA鑑定をするために。

 だってあまりにも僕にあの子が似ているもんだから。あはははは」


 瑠璃子は頭の中が真っ白になった。

 すると直人が私のスカートの中に手を入れ、キスを迫って来た。


 「何をするの! やめて!」


 抵抗する私に直人は言った。


 「これ、旦那さんにお届けしましょうか? それともイケメンの息子さんにします?」



 直人は再びクルマを走らせ、近くのラブホテルへと入って行った。

 そして直人はいきなり瑠璃子をベッドに押し倒すと強引にキスをし、瑠璃子の胸を激しく揉んだ。



 「瑠璃子さん、僕はあなたが忘れられないんだ!

 あれからずっと、あなたのことだけを想って生きて来た!

 だから旦那さんと別れて3人で一緒に暮らそう! 人生を遣り直すために!」

 「やめて! やめなさい! 本当に警察に言うわよ!」

 「そんなことをしてみろ! お前たちの家族に俺はすべてをぶちまけてやるからな! おとなしくやらせろよ! 昔の淫らなお前のように!」

 「こんなオバサンを抱きたいなんて、あんたどうかしているわ!

 落ち着きなさい! あなたのしていることは犯罪なのよ!」

 

 直人はそれでも行為を止めようとはしなかった。

 瑠璃子は言った。



 「どうせ夫はそんなの信じないから!」

 「わかりました。では息子さんにこれを見せましょう。「僕が君の本当のお父さんだよ」ってね?」


 瑠璃子は直人の頬を思い切り拳で殴った。


 

 「そんなことをしたら、あんたを殺して私も死ぬから!」

 「そんなに怒らないで下さいよ。安心して下さい、またたまにこうして会ってくれれば秘密は守りますから。

 ね? 瑠璃子ママ? あはははは」

 「こんなことしてあなた、楽しい?」

 「楽しいですよ、すごくね?

 こうして大好きな瑠璃子ママとやれるなら? あはははは あはははは」

 


 瑠璃子は抗うことを止めた。

 とにかく今は我慢するしかなかった。

 今の幸福な生活を壊されたくはないと。

 

 行為の最中、直人にスマホで動画を撮られた。


 「保険ですよ保険。もしヘンな真似をしたらこれをネットに晒しますからね?」


 瑠璃子は暗澹たる思いだった。

 今ここにナイフや拳銃があれば、躊躇うことなく直人に向けて引き金を引くことが出来るのに。


 直人が必死に腰を振っている間、瑠璃子は心のない#人形__・__#になった。 



第18話

 この日もまた、瑠璃子は直人のオモチャにされていた。


 「調子出ないんだよなあ。少しは感じて見せて下さいよ、昔みたいに」

 「こんなことして楽しい? 私はそんなあなたじゃ濡れもしないわ。

 いいから早く終わって、夕食の支度があるから」

 「夕食の支度ですか? 奥様ですもんね? 瑠璃子さんは?」

 「どうしてこんなことをするの?」

 「どうして? 復讐ですよ復讐。

 あなたは俺の愛を踏み躙った。

 僕の瑠璃子さんへの真剣な想いを。

 そのために僕は今の女房と愛のない結婚をした。

 僕の子供を身籠ったまま、あなたは僕の元から去って行った。

 その事実を僕に告げることもなく。

 僕はこの13年間、ずっとピエロにされていたんだ。

 笑っていたんだろう? 俺のことを?

 ほらもっと俺を楽しませろよ!

 股を開け! 俺をしゃぶれ!

 そして謝れ! 両手をついて俺に土下座しろ!

 「あの子はあなたの子供でした。ごめんなさい」とな!」

 

 すると瑠璃子はベッドから降り、両手をついて床に額をつけて言った。


 「ごめんなさい。私はあなたにウソを吐いていました」


 直人は瑠璃子の頭を足で踏みつけた。


 「誠意が伝わらないんだよ、心を込めて謝罪しろ!」

 「あなたを苦しめて、本当に御免なさい。

 どうか私を許して・・・」

 「イヤだね。一生お前は俺に尽くすんだ。

 そうしないとあの子に俺が本当の父親だと名乗り出るからな!

 そしてお前の母親はこんな卑猥なメス犬だと、この動画を一緒に鑑賞するよ。父と子で仲良くな? ははははは」


 瑠璃子は直人の足を払いのけると、バッグから予め準備して来たサバイバル・ナイフを取り出してそれを両手で構えた。

 酒に酔っていた直人の顔から嘲笑が消えた。

 男の値打ちは命の危険に晒された時に出るものだ。

 直人は所詮、小学生がそのまま大人になったような男だった。


 「演説はそこまで? どうしたの? さっきまでの暴君ネロちゃんはどこへ行ったのかしら?

 何も変わっていないわね? 直人は。

 あなたは何の魅力もないただのクズ。自分の不幸はすべて他人のせいにして。

 でもそこが良かったのにね? そんな小悪党なところが。

 今のあなたには生きてる価値もない。死んで、私と一緒に。

 私はもうどうなってもいいの、夫と息子を守るためならあなたを殺すことなんて平気。

 だってあなたも私も、この世には必要のない人間だから」

 「やめろ、やめてくれ! 俺はただ、しあわせそうに飯を食っていた、お前たち親子が憎かったんだ!」

 「人のしあわせが憎い? あんたは本当にどうしようもないゲス男ね?

 かわいそうに、人のしあわせを喜べないなんて最低。

 さあ、一緒に地獄へ行きましょうよ、途中までは一緒について行ってあげるから。

 あんたは血の池地獄かしら? それとも剣山地獄?

 私はベロを抜かれるかもしれないわね? さんざん嘘を吐いたから。あはははは あははははは」

 

 瑠璃子はジワリジワリと直人との間合いを詰めて行った。

 直人のペニスは勃起したままだった。

 これから死を迎えようとしている男性のペニスは、その死の間際でさえも自分の遺伝子を残そうとすると聞いた事があるが、それはどうやら本当らしい。

 轢死した男性のペニスは勃起したままだという。


 「いい覚悟です。そこまでだとは思いませんでした。

 でも私は死にませんよ、殺されるわけにはいかない。

 もっとあなたたちを苦しめるまではね?」


 直人はそこにあった灰皿で私の手を打ち、私はナイフを床に落としてしまった。

 床に落ちたナイフを直人が拾い上げて言った。


 「今日のところはひとまず帰りましょうか? それじゃあまた。あはははは」


 直人は服を着ると、フロントに連絡をしてドアロックを開錠してもらい、そのまま瑠璃子を置き去りにして帰って行った。



 「なんであんなロクデナシと付き合っていたんだろう?」


 瑠璃子は泣いた。


 (すべてを夫の健介に話そう)


 それで別れることになっても仕方がないと瑠璃子は思った。



 


 瑠璃子はその夜、夫婦の寝室へと入って行った。

 夫の健介は本を読んでいた。



 「話があるんだけど、大事な話・・・」

 「どうした改まって?」


 夫は読みかけの本をそのまま伏せ、ベッドサイドに置いた。


 「運のことが男にバレたの」

 「それで?」

 「あなたにそれを言うっていうから勝手にしなさいって言ったわ。

 そうしたらそれを、今度は運にも言うっていうのよ、自分が本当の父親だって。

 DNA鑑定書もあるの。そして、そしてね、その秘密を言わない代わりに私のカラダを要求されたの。

 黙っていてごめんなさい。

 でもね、そうするしかなかったの。

 すべては私の責任です。だから私と離婚して下さい。

 私はまたあなたを裏切ってしまったから」


 すると夫は真っすぐに私の目を見て言った。


 「君はまだその男のことを愛しているのか?」

 「それはない! それだけは絶対にない!

 それだけは信じて! お願い!」

 「それじゃあ君は誰を愛しているんだい?」

 「もちろん健介さんと運よ!」


 夫は私をやさしい目で見詰めて言った。


 「だったら君は被害者だ。君は悪い夢を見ていたんだ」

 「でも私はあなたに嘘を・・・」

 

 その時、夫の健介は瑠璃子の体を強く抱き締めた。


 「そんなことはあの子を自分の子供として育てる決意をした時に覚悟していたよ。

 辛かっただろう? 瑠璃子」


 瑠璃子は声を殺して夫に抱かれて泣いた。


 「すべてを受け入れるよ。

 そしてその事実を俺は運にも伝えるつもりだ。

 それをあの子が聞いて、それでも本当の父親に会いたいと言ったら会わせてあげよう。

 だってそうだろう? 運にだって自分の本当の父親を知る権利はあるし、それを俺たちが拒むことは出来ない。

 そしてもし、運が本当の父親は私じゃないと言ったとしたら、それは私の運への愛情が足りなかったということだ。

 ただそれだけのことだよ」

 「そんなこと、絶対にさせない」

 「瑠璃子」





 しばらく直人からの連絡はなかった。

 そして1か月が過ぎた頃、私たち親子が庭でバーベキューをしていると、直人がそこへ現れた。

 瑠璃子が叫んだ。


 「警察を呼ぶわよ!」

 「酷いなあ、僕はこの子の父親だよ?

 それはあんまりじゃないか? 瑠璃子。

 僕も一緒にやりたいなあ、バーベキュー」


 瑠璃子が110番をしようとした時、健介がそれを制した。


 「一緒にどうぞ。瑠璃子、お客さんにビールを持って来てあげてくれないか?

 この人は大切なお客さんだからね?

 今、肉が焼けたところです。 どうぞゆっくりして行って下さい」

 

 夫の意外な態度に私と直人は狼狽うろたえた。

 

 

 肉を焼きながら、夫の健介は言った。


 「はじめまして、瑠璃子の夫の小林と言います。

 そして私が運の父親です。

 運、この人がお前の本当のお父さんだ、そうですよね? 小野木直人さん?

 運、本当のお父さんにご挨拶しなさい」


 運は直人を睨みつけてハッキリと言った。


 「僕の父はあなたではありません。僕の父はこの小林健介です。

 ここへは二度と来ないで下さい! 帰って下さい!

 僕の、僕のお父さんはあんたなんかじゃない!

 僕のお父さんは、このお父さんだけだ!」


 夫は運を強く抱き締めて直人に言った。


 「すみませんがそういうことですのでもうお引き取り下さい。

 せっかくの家族団欒なので」



 瑠璃子はそのままそこに泣き崩れ、直人は肩を落として静かに去って行った。



 そしてその日以来、直人は二度と瑠璃子たちの前に現れることはなかった。



最終回

 夜の成田空港はシーズンオフということもあり、ビジネスマンや家族連れが多かった。


 運はそのまま東京藝大に進み、ジュリアード音楽院に留学することになった。

 搭乗までの間、私たち家族は空港の鮨屋で鮨を摘まんでいた。



 「たくさん食べろよ、日本の旨い鮨を。

 ニューヨークにも旨い寿司はあるかもしれないが、日本の食材で日本人が握る鮨は格別だからな?」

 「やはりお寿司は日本人に握って欲しいもんね? 黒人じゃなく」

 「母さん、それは人種差別的発言だよ」

 「あらごめんなさい。でもお寿司は日本の食文化でしょう?

 インドカレーはインド人に、フレンチはフランス人に作って欲しいという意味よ」

 「日本人がイタリアンやフレンチを作るのは間違っているということなの?

 おそらく彼らからすれば違和感はあると思うけど、親父はどうなのさ?」

 「俺も母さんと同じ、鮨を握るのは日本人がいいな? この板さんみたいに」


 運は生ビールを旨そうに飲んだ。

 あの小さかった息子が今では私たちと酒を飲み、鮨を摘んで人種差別について話をしている。


 「次はタコとイカとかんぴょう巻きを下さい」

 「せっかくなんだから、もっと高い物を注文してもいいんだぞ」

 「そうはいかないよ、これからもっとボクにお金がかかるんだから。ありがとう親父、母さん。ジュリアードで音楽の勉強をさせてくれて」

 「何を言うの、ここまで来れたのは運の努力と才能でしょう? お母さんたちも来年、ニューヨークに行くからよろしくね?」

 「財団の盆休みにそっちに母さんと行ってみるよ」

 「うん、待ってるよ。ニューヨークの街をたくさん案内してあげるからね?」

 「ああ、楽しみにしているよ」


 私たち家族は笑顔に包まれていた。





 「向こうに着いたら電話してね?」

 「いいの? 11時間も日本と時差があるんだよ? メールにするよ」

 「いいから電話しなさい、心配だから」

 「ジョンFケネディ空港は広いから迷子になるなよ」

 「受験の時、一緒に行ったじゃないか?

 僕、いつまでも子供じゃないよ」

 「すまんすまん、それでも運はいつまでも俺とお母さんの子供だ。

 たとえ100才になってもな?」

 「僕も同じだよ。

 いくつになっても親父とお母さんの子供だよ」


 出国審査のために、エスカレーターを手を振りながら降りていく運を、私たちは見えなくなるまで見送った。





 フライングデッキで運の乗ったボーイングが夜空に向かって飛び立って行った。

 瑠璃子は泣いていた。

 そして私も。


 「とうとう行っちゃったわね?」

 「そうだな? でもまたじきに会えるさ」

 「そうね? また会えるものね? 運に。

 ありがとう、あなた」


 

 人生は険しい山道を行くようなものだ。

 上がったり下がったりを繰り返し、山道を進んで行く。

 ひたすら頂上を目指して。


 頂上に辿りつけるかどうかは問題ではない。

 重要なのは如何に頂上を目指したかだ。

 人生は結果ではない、プロセスに価値がある。旅と同じように。

 目的地に行く、その道すがらが楽しいのだ。

 桔梗の華のように凛として、頼りなく揺れながら山道をゆくのが人生だ。



 「愛しているよ、瑠璃子」

 「何? 飛行機の音がうるさくて聞こえない!」


 私は瑠璃子の肩を抱き、次々と夜空に飛び立って行く、火垂るのような飛行機のライトを見送った。


 

                                       『月光の虹』完





 【作者後書き】

 私が「月光の虹」をみたのはハワイの沖でした。

 すごく明るい月夜で、本が読めるほどでした。

 そこにスコールがやって来て、銀色に光る虹が出来たのです。

 それは七色の虹ではなく、シルバーのグラディエーションで出来た銀色の虹で、とても幻想的なものでした。


 ハワイの知り合いはその虹が「海で死んだ船乗りたちの魂が集まって出来た物だ」と教えてくれました。

 私はその月光が作り出す「MoonBow」 の美しさは、人間の脆いようで強い愛の象徴のように感じました。

 出来ることならもう一度、見てみたいものです。月光の虹を。


 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

    

                             菊池昭仁 



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【完結】月光の虹(作品230806) 菊池昭仁 @landfall0810

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