二月十九日(土)
二月十九日(土)
長らく現実と悪夢の境界線を行き来していたところで、何者かがドアをノックする音が聞こえた。
咄嗟に目を開いて身構え、ベットの下に置いていた果物ナイフを手に取った。
「川崎だ。交代の時間だ、起きてくれ、岸辺」
ふと腕時計を見遣った。時刻は四時三分を示している。
薬の影響か、セットしておいたアラームはまるで意味を為さなかったようだ。
「ああ、悪い。すぐ行くよ」
すぐさま体を起こすと、寝巻きの上から緑のカーディガンを羽織り部屋を出た。
「君が寝坊とは意外なこともあったもんだ。まぁこんな事態だからな、よく眠れたようで良かったよ。この四時間は特に何も起こらなかった、流石に奴にも睡眠は必要なのかもな」
「気は抜かないでおくよ、いつ次の犯行を実行するかなんて分からないから。ではお疲れ、君もよく休みなよ」
「ああお休み、岸辺。それとこれ、鍵を頼む」
川崎は左手で眠そうに目を擦りながら、右手でマスターキーを岸辺に手渡すと、軽く手を振りながら部屋へと戻っていった。
階下のテーブルには、未だに挙動不審な様子の春野が座っていた。玄関口の方をただ一点に見つめているが、果たしてあれが見張りの体を成しているのかは分からない。
「調子はどうだ、少しは眠れたのかい」
「キャッ」
とうに視界に入っていたはずの岸辺の存在に気づいていなかったらしく、その言葉に酷く驚いた様子でハッと顔を上げた。
「ああ、あなたね」
「おいおい、大丈夫か。目の下の隈かなり酷いぞ」
「ゴメン、さっきもらった薬を寝る前に飲んだんだけど、結局寝付けなくて」
「少しここで寝ておいた方がいい、二つの扉は僕が見ておくから」
「そんな、悪いわよ」
「どうせそんな様子で見張りをされたところでなんの役にも立たない、現にすぐ近くにいた僕にも気づいていなかったじゃあないか」
「えっ、ああ、ごめんね」
完全に憔悴しきっている春野には、いつものように強気な態度で云い返す気力すら残っていないらしい。
頭を伏せて暫くもしない内に、静かな寝息を立て始めた。
少しの間、その様子を眺めた後、岸辺は視線を裏口の扉に向けた。
時間の流れ方が異常な程に遅い。玄関と裏口の二つの扉の方へ交互に顔を向ける間に、上方に掛かったあの古時計を度々確認するが、体感の半分も針が進んでいないのが常であった。
見張りに支障をきたすため、テレビも文庫本も、あまつさえレコードをかけることすらできない。唯一できることといえば煙草に火をつけることぐらいで、目の前の灰皿には、かなりの勢いで吸い殻が増えていく。
単調な動作の繰り返しがこんなにも精神的にキツいとは正直思ってもみなかった。
既に首には鈍い痛みが生じており、これを後一時間も続けなければいけないことが酷く憂鬱だった。
扉には鈴をつけているのだから、その音がした時にはじめて、そちらに目を向ければいいのではないか——————
一時間が経過した頃にそんな甘い考えが過ったが、いやいや、扉が開いた時には、もう零人目は館内に侵入している・・・、それに奴はかなりの大柄だという。そんな奴相手にこんなか細い腕で斧を振りかざしたところで、全くもって歯が立たないのがオチだ。この館に侵入された時点で、既に敗北したも同然じゃないか。
岸辺は自らの白い両腕を見下ろしながら、戒めるように独りごちた。
そうして再び顔を上げた所で、テーブルに伏せていた春野の上体も上がった。
「えっ、寝ちゃってたの、私」
未だに開ききらない両目で岸辺の方を見遣ると、一度ゆっくり伸びをした。
「ああ、頭を伏せたかと思った時には既に———だった。酷くうなされていたようだったが、大丈夫か」
「嘘・・・でもおかげでかなりスッキリしたわ。後は私に任せて。あなたは本でも読んでいて、両方とも見てるから」
「いやあ、いいよ。一つ減るだけでもかなり楽になるから」
「有難う、じゃあお願いね」
岸辺は、かくして念願の文庫本を開いた。
「コーヒー・・・水でもいる?持ってくるから、少しの間向こうもお願い」
「いいや、コーヒーを頼む。見立てか見立てじゃあないかは別として、あんな無意味な工作を施すような奴が、二度も同じ手口を使うとは考えにくい。だが、念の為何か異常が無いか確かめてくれよ」
春野は右腕を上げてそれに答え、そのままキッチンへと入っていった。
微かにポットを沸かす音が聞こえてくる。丑の刻を過ぎたこの島には、生物が放つ音は一切なく、ただ昨夜よリも荒々しい波の満ち引きが山頂の館内まで届いてくるだけだった。
「お待たせ、どうぞ」
「どうも」
「念の為、自分でも確認してね」
一定の距離を保ちながら、カップから溢れる湯気に鼻を近づけるが、ただ珈琲豆の心地良い香りが鼻を抜けるだけだ。
「カップ、五つしか置かれていなかったわ。さっき美姫が洗ってくれた時に、悟が使ってたものは捨ててしまったみたいね」
「賢明だな」
岸辺の口から漏れた紫煙が、カップの湯気に混じりあいながら広がった。
「君、さっき悪夢でも見ていたのか、しきりに歩の名を呼んでいたが。もしかして、まだ歩に気があったと」
「えっ」
春野は面食らった様子で、口元を両手で隠した。その指の隙間からは、仄かに紅潮した頬が覗いている。
何と返事すればいいのか見つけあぐねているらしく、視線を右に左にと動かしている。
少々の沈黙の末、春野は言葉を切り出した。
「ええと、この際だから云うけど、そうだったの。高校卒業前に些細なことで喧嘩して以来ほとんど連絡も取れていなかったんだけど、今回の旅行を機にまたヨリを戻せたらなって思ってた・・・でも歩が・・・ああ・・・」
話しながら込み上げてきた悲しみに耐えきれず、春野の目には再び微量の涙が浮かんでいた。
肩の震えは次第に激しくなり、顔を落としながら啜り泣いている。
慰めの言葉を脳内から探していたが、これといったものが見つからない岸辺は、口を噤んだまま春野の様子を眺めている。
「そうか、それは残念だ。あいつ、生意気なやつだったが、演技の才能は確かなものだったよ。この僕が云うのだから間違いない」
「それって慰めなの」
未だに涙で目を腫らした春野は顔を上げて岸辺を見た。
「一応そのつもりだが」
「はぁ、何よそれ・・・全然慰めになってないんだけど」
それまで一文字に閉じられていた春野の口角が緩やかな曲線をつくった。
これまで身体を蝕んでいた極度の緊張から解放され、二人は束の間の安寧を享受していた。
気づけば窓の外の暗闇は、雲間から除いた陽光の中に溶け始め、暖かな朝焼けが館内にも差し込んでいた。
それに気づくとほぼ同時に、古時計が午前六時の時報の音色を奏でた。
その音色は心なしか、昨夜聞いたそれよりも、朝の到来を祝福するかのように心地良いリズムで響きわたっている。
結局その後午前十時に至るまで、零人目のものだと思われる行動はついぞ見られなかった。
入念に確認された缶詰の食料を黙々と腹に入れた四人は、居間で各々が疲労の残る身体を休めている。
仕切りに二つの扉の方に目を向けながら、今朝のニュースを滔滔と読み上げるニュースキャスターを眺めている。
その陰鬱な声が報じる暗いニュースが居間に響き続けることに耐えかねた春野は、リモコンを取り上げてチャンネルを変えた。ややあって移り変わった画面には、デフォルメされた猫のキャラクターと小さな女の子が明るい調子で話をしている。子供向けの教育番組のようだ。先程までのニュースの時とは打って変わって、子供達の楽しそうな笑い声が響き渡り、春野は深く溜息をついた。この空間にはまるで場違いな調子の喚声が、居間で心身共に疲弊しきった四人を嘲笑するようにさえ感じられた。
「巳風の云っていた噂は間違いだったみたいだな。確かにこの島に先住者はいたようだが、人間を食ったりはしないらしい。帆留も巳風も食われてなんかないからね」
「岸辺、冗談のつもりだろうがやめておけ」
「ああ、悪い悪い。少し寝させてもらうとするかな、何だか具合が優れないんで。交代の時間になったら起こしてくれ」
岸辺は欠伸をしながらソファに横になると、読んでいた文庫本を開いたまま顔の上に乗せた。
「あら、缶詰もうないわね。カップラーメンしかないけどいい?」
渡戸はキッチンの方から顔だけを出し、今にいる三人に向かっていった。
「あれ?昨日は沢山残っていたわよね。でも私カップラーメンはじめてだし、食べてみたいな。何種類かあるわよね、何味があるの?」
「醤油と塩しかないわね」
「じゃあ私醤油で」
「僕は塩を頼むよ、岸辺は・・・醤油でいいかな」
川崎は顔を横に向けて、ソファの上で仰向けで寝ている岸辺の方を見た。
顔は本に隠れて見えないが、未だに深い眠りの中にいるようだ。
「了解、私も醤油にしよっと。ちょっと待ってね」
その声が聞こえた直後、キッチンの方からポットの沸き立つ音が聞こえ始めた。
「有難う、美姫。おーい岸辺、もう昼食ができるぞ、そろそろ起きなよ」
岸辺からの応答はなく、川崎は席を立って岸辺の横に腰を下ろし、軽く岸辺の身体を揺すった。
「おい、凄い汗だ。それにこの熱さ、大変だ」
「う・・・すまん、ちょっと体調を崩しただけだ」
岸辺はゆっくりと上体を起こすと、今にも消え入りそうな声で云った。
「応急処置キットを取ってくる。岸辺、悪いが部屋に入るぞ」
川崎は機敏な動きで階段を駆け上がっていった。
春野は慌てふためきながら岸辺の前に腰を下ろし、右手を岸辺の額に当てた。
「大変、熱が出てる」
春野はキッチンの方へ大声で何か叫ぶと、洗面所の方に駆けていった。
それと同時に、フライパンを持った渡戸が早足で戻ってきた。
渡戸は岸辺の横に駆け寄ると、春野が持ってきたタオルをフライパンに入れられたお湯に浸して絞り、岸辺の額に乗せた。
応急処置キットを抱えて戻ってきた川崎は、すぐさま中から体温計を取り出した。
「マズイぞ、三十七・四度だ」
「もしかして、これも毒なの?」
体温計を覗き込んだ春野は、また泣きそうな顔で岸辺の顔を見下ろした。
「いいや、安心してくれ。ただ少し体調を崩しただけだと思う。他の症状は出てない」
岸辺は額に乗っているタオルを手で押さえながら、掠れた声で云った。
「どの薬がいいんだ、岸辺」
川崎はポーチの口を逆さにして、様々な色のプラスターパックを机の上に広げた。
机の上に落とされた大量のケースは、その中央に山を作り、そこから雪崩落ちるようにして円周状に拡がっていく。
「紫色のが一つだけあるだろう、それを三錠頼む」
川崎は落ち着かない手振りでそれを探し当てると、三錠をカップの水と共に岸辺に手渡した。
「あとは寝ていれば、じきに熱は引いてくると思う。迷惑掛けて悪かったね、昼食を食べてしまってくれ」
岸辺は、順番に三人の顔を見やると、再び身体を横にしてタオルで顔を隠した。
いつの間にか太陽はどこかに隠れ、どんよりとした鼠色の雲が立ち込めている。
そうして暫くしない内に、激しい雪が降り出した。
吹き付ける風に窓枠はガタガタと揺れだし、その外は、吹雪の山荘を彷彿とさせる程白い雪が乱れ舞っている。
そうしている間に、既にくるぶしまでを埋めてしまうほどに地面は白で覆われていた。
「こりゃあ凄い雪だな、さっきまで晴れていたのに、いきなり降り出すとは」
川崎は窓に顔近づけて、外の様子を眺める。
「明日の迎え大丈夫かしら」
窓についた水滴をピンクのカーディガンの袖で拭きながら、春野は不安そうな面持ちで呟いた。
「予報では今日の朝から雪になってたわよね。でも、明日はまた晴れるみたいだから。もう一度お湯沸かしてくるわ、ちょっと待ってて」
渡戸は視線を天気ニュースから外してソファから立ち上がると、フライパンを持ってキッチンの方へと進んでいく。
(三人目、終了)
−は、窓の側で歩を止めた。
およそ中間地点まで計画を終え、達成感と重くのし掛かる疲労によって昂った神経を落ち着ける。
―は、思い返した。
これは厄災なのだ。不幸にもこの島を訪れた彼ら彼女らを一切の慈悲なく襲う、当然の理。
ただ偶然、その厄災の犠牲が彼らであっただけの話なのだ。
そしてこれは試練だ。自らに課された試練。過去との対峙、そしてこれからの自分の運命を決める、越えなければいけない試練。
−は拳を握り、自らの怒りが一切色褪せていないことを確かめた。
服に付いた雪と水滴を手で払いながら、–は窓の向こうにぼんやりと見える三人を侮蔑と殺意の篭もった目で睨みつけた。
(あと三回)
随分長い間夢を見ていたような気がする。
しかし、例に違わずその内容は一切思い出せない。
自分以外の誰かが、何度も名前を呼ぶ声が聞こえていたのは記憶しているが、それが誰なのか、誰を呼んでいたのか、全く思い出すことはできない。
夕陽に照らされた、広々としたどこか草原のような場所。
しかし、その場所にはまるで似つかわしくない、高架の上を鉄道が通り過ぎていくかのような轟音が耳から流れ込んでくる。その音が夢の世界ではなく、その外側から聞こえてきていることに気づくと同時に、岸辺はハッと目を開けた。
どうやら聞こえていたのは、窓に吹きつける豪雪の音だったらしい。
寝る前に見たあの澄んだ青空から、寝ている間に如何にしてこの天気に変わったのだろうか。
頭に浮かんだ漠然とした疑問を抱えながら、ふとテーブルの方へ目を向けた。
テーブルには、突っ伏すように頭を下げたまま動かない二人。
あれは、川崎と・・・渡戸だろうか。
かなり軽くなった身体を起こして、こちらに背を向けたまま渡戸の右肩を揺すった。
「おい、二人とも寝ていて見張りは大丈夫なのか。春野はどうした?」
かなり深い眠りに陥っているらしく、未だに動く気配はない。
・・・もしかして、既に・・・
そう思ったところで、渡戸の肩が僅かに動き、頭を上げた。
「えっ・・・、私寝てたの・・・」
一度辺りを見回してから、半開きの目を岸辺の方へ向けた。
「川崎も寝ているじゃあないか」
「何で・・・気づいたら私・・・」
岸辺は、渡戸の向かいに座る川崎の肩を揺すっている。
「おい、起きてくれ川崎。春野はどこにいる?部屋か?」
川崎もまた、かなりの熟睡中だったらしい。ややあって顔をあげると、不思議そうな顔で岸辺の顔を眺めていた。
「おお、岸辺。具合は良くなったのか」
「それよりも、この状況、どうなってる?春野は何処だ?」
「えっ、裕子は確か・・・。ついさっき僕達は昼食を食べていた、あのカップラーメンを。それでなんだか急に眠くなって、気づいたら今の今まで寝てしまっていた。裕子も同じくテーブルに座っていたと思うんだが」
「何時頃か憶えているか?」
「正確には分からないが、君が寝付いた頃が確か一時半だったから、二時前だと思う」
「じゃあ三十分はここで寝ていたということになる・・・」
二時半を示した時計から視線を移し、岸辺は卓上に放置されたカップラーメンの容器に目を落とした。
「もしかして、また何か盛られたのか・・・」
「部屋にいるかもしれない、見てくる」
川崎は覚束ない足取りで階段を上っていった。
「えっ」
その途端、渡戸の頓狂な声が聞こえた。
岸辺はその方を見遣ると、渡戸は右腕を水平に上げ、人差し指で何処かを示している。
人差し指で示された先には、開かれた裏口の扉があった。
「空いてるわ・・・どうして」
どうして今まで気づかなかったのだろうか。自分の視覚を疑いたくなる気持ちを抑えながら、岸辺はその扉の方に近寄った。
ドアノブに掛けられていたはずの鈴はどこにもなく、開かれた入り口からは外の吹雪が吹き込んでおり、それによって館内にまで雪塊が作られていた。
岸辺はズボンのポケットを確認した。鍵は、確かにある。
岸辺はその扉の先の白い地面に、そのまま外へと歩みを進めている形で残された足跡を認めた。
白画用紙の上を、黒インクを纏った靴で歩いたような鮮明な痕跡で、その軌跡の横を一緒に進む形で二本の並行線も続いている。
「おい、どうした岸辺」
川崎が半ば落ちるように二階から降りて来た。
「やはり部屋にもいなかった。それよりどうした、何で開けてるんだ」
「違う、元から開いていた、それに僕達が気づいていなかっただけだ」
「裕子が開けたの?外へ出たってこと?」
「見てくれ、足跡が残ってる。女性の足跡にしてはデカすぎる、零人目の足跡だ。それに、その横の並行に伸びた線。これはかなりマズイかもしれない。二人共気づいたら寝ていたなんて可笑しいだろう。今度は、毒ではなく無味無臭の睡眠薬だ。春野も同じように眠らされたと考えるなら、三人が寝ている間に、零人目によって春野だけが館外に出された可能性が高い」
「僕が見に行く。岸辺、鍵を頼んだ。君たちは侵入に警戒していてくれ」
川崎はポケットからマスターキーを取り出すと、岸辺の前に差し出した。
岸辺がそれを受け取ると、川崎は洗濯の終えた黒いダウンを羽織り、床に転がっていた斧を拾い上げて扉の方へと歩き出した。
「おいおいおい、冗談だろ君、ただでさえこの雪だぞ。それに奴がすぐ側にいるかもしれない。一人で行くなんて自殺行為だぞ。俺も行く」
「君たちをそんな危険に合わせるわけにはいかない。それに岸辺、そんな状態だと吹雪でやられちまうだろ。もしも、裕子が拉致されていたとしても、まだ生きているかもしれないんだ。あいつの好きになんてさせてたまるか」
深刻な面持ちでそう呟くと、岸辺の制止する腕を振り払って扉の外に出た。
吹き荒れる吹雪のせいで、十メートル先すら見通すことはできない。
右方からは、青鈍色の鉄塔がぼんやりと見え、それが強風に揺られてギシギシと軋む音が聞こえてくる。
岸辺と渡戸も、庇で雪の被害を被らない場所まで進み、そこからさらに一直線に歩みを進める川崎の背を眺めていた。
何十歩か進んだところで、一面雪に覆われた画用紙に沈み込むようにして川崎の影は輪郭を失い、川崎の着た黒いダウンが、彼の向かう先にある柵を背景として、白銀の世界で檻に閉じ込められた黒の球体のように見える。
そこで一瞬それまで吹き荒んでいた風がピタリと止み、岸辺達の視界が開けた。
二人は確かな輪郭を取り戻した柵のシルエットの中に、一つの半円形の影を認めた。
その少し前に川崎は気づいたのだろう。彼は既にその影に向かって、重たい両足を上げて進んでいた。
岸辺が咄嗟に抱いた悪い予感は的中していたらしく、川崎は片足を地についてその物体を観察すると、こちらに向かって大声で叫んだ。
「ちょっと来てくれ、大変だ、あああ、裕子が」
吹雪の隙間を縫うように伝搬されたその言葉をかろうじて岸辺は受け取り、未だに熱を孕んだ身体の上にダウンを羽織った。
「君はここにいてくれ。念の為、裏口の扉も見ていてくれ。何かあったらすぐに叫ぶんだ」
渡戸が無云で頷いたことを確認した岸辺は、重たい足取りで、川崎の足跡を追い始めた。
岸辺は酷い倦怠感に抗いながら、高さ二メートルはある柵の外側に周った。
「もう駄目だ、事切れている」
感情を失った川崎が見下ろす視線の先には、柵に腰掛けるような体勢で息絶えた春野の姿があった。
(これは・・・)
瞬間、この島を訪れて以来何度も脳裏を過ぎる、出所の分からない嫌な感覚が、記憶の奥底から蘇った。
春野の遺体は、この真冬にまるで相応しくない薄青色のワンピース一枚だけを羽織った状態で柵に凭れ掛かっており、(このワンピースは・・・)晴れていれば、ちょうど海の向こうに見えたであろう本土の眺望中に、そのまま寿命を終えてしまったというような印象を受ける。
その目から流れていたであろう涙は途中で雪と混じり合いながら凍りつき、眼窩一帯が氷に覆われている。
「死因は何だ?凍死か」
激しい風に煽られるダウンのフードを押さえながら、春野の身体を観察している岸辺に向かって云った。
「いいや、そうじゃあない。ここで、こんなふうに座る体勢になる前に既に彼女は死んでいた。ここを見てくれ。腰の付け根辺りに刺された跡がある。死因は刺殺だろう」
「おい、じゃあこっちは一体何なんだ。この血の跡」
川崎が指を差した先には、春野の背中の部分、ちょうど背骨が浮き出た部分をかわすようにして、その少し右側から垂直に等間隔につけられた赤い跡が無数に残されていた。
この人工的としか思えないような間隔で付けられた傷は下に行くにつれて、腰の刺し傷に合流するような若干の曲線を描いており、その一つ一つから溢れ出した鮮血が、半透明の薄青色の生地を円形状に赤く滲ませている。
「一体何なんだ、この奇妙な傷は。それに、中にこんな季節外れの服着てたか?」
「服に関しては分からないが、恐らくこれも見立てだ。不謹慎なのは重々承知だし、こうなるのを防ぎたかったのは紛れも無い事実なんだが、奴の行動を紐解く手がかりにならないかと思って、一通り考えていたんだ。ポルポやフーゴのように、ジョルノや他の人物の見立てを行うとしたら、どのような工作を行うのか。それでふと思い浮かんだのが、原作のジョルノの死の描写だ」
「ん?ジョルノは死んでいないだろう」
「まぁそうだな。正確には、[チャリオッツ・レクイエム]によってジョルノの肉体に入っていたナランチャの死亡描写だ。コロッセオでの戦闘中、ボスのスタンドによって、鉄柵がジョルノの身体中を貫通する形で死亡していた。実際はナランチャの死なんだが、見立てとしてその描写を利用しようとしたんだろう」
「じゃあ、なんで春野はこんな体勢に?」
「当初はあの描写を忠実に再現しようとしたんだと思う。他より傷口の大きいこの腰の傷は、恐らく春野が寝ている間にナイフなんかで刺した傷で、これが直接的な死因だ。そして、柵の近くまで遺体を運び、柵の上部にある棘に遺体を押し付けて見立てを実行しようとした。しかし、予想外のこの吹雪もあってか、柵の棘で身体全体を貫通させることは、奴にとっても想像以上に難儀だった、そうしている内に君達が目覚めてしまうことを恐れ、途中で諦めたんだろう」
「許せない、完全に狂ってやがる」
川崎は横たわった遺体を見下ろしながら、強く舌打ちをした。
吹雪は先ほどまでの勢いを取り戻し、容赦なく二人の身体に打ち付ける。
「春野を館まで運ぶぞ。こうしている間に奴は侵入してくるかもしれない」
岸辺は立ち上がり、川崎の肩に右手を置いた。
「どうしたんだ」
岸辺の問いかけに答えることなく、川崎はどこか一点を神妙な眼差しで見つめている。
「これ、この足跡。奴のだ。それがあの小屋の方まで続いている。僕は奴を追う。君は裕子を連れて館に戻ってくれ」
「おいおい、こんな吹雪の中無謀だろう。しかも奴は二メートル以上ある柵の上まで春野を持ち上げる程の怪力だぞ」
「この足跡が、降り積もる雪に埋もれてなくなる前の今が唯一のチャンスだ。今しかないんだ。それに、春野にこんな仕打ちをしたあの野郎をこれ以上のさばらせておくなんて我慢できない。僕がここで奴を仕留める」
「おい川崎、待て」
川崎は足元の斧を拾い上げると、制止する岸辺の手も構わず、足跡の続く先に歩き始めた。
「君は裕子を館内まで連れていってやってくれ。それと美姫を頼んだ。僕が戻ってくるまで、決して館からは出るなよ」
かなりの勢いで進んでいく川崎の背中が、段々と白い霧の中に消えていった。
館の方からは、渡戸が川崎を止めようと必死に叫んでいるのが聞こえてくる。
この吹雪の中で知らず知らずの内に体力を削られており、今の岸辺に春野を抱えて歩く気力は無かった。
微熱と極限まで冷えた身体の影響で、朦朧とする意識の中でなんとか春野の両腕を掴み、半ば引き摺るように館へと歩き始めた。
居ても立っても居られなくなった渡戸も庇から飛び出し、二人で春野の身体を丁重に館内へと運び込んだ。
「良浩は零人目を追って行ったの?」
「ああ、僕の言葉も聞かず、確固たる意志で奴の足跡を追っていった・・・クソっ、どうしてこんなことに・・・」
「そんな・・・なんでこんな・・・裕子・・・」
渡戸は両肘をテーブルにつき、重たい頭を支えるようにして項垂れている。
「後、約二十時間。僕たちが生きたまま島を出られるかは、全て川崎に懸かっている」
「お願い、良浩。死なないで・・・」
岸辺は手を伸ばして煙草を一本取り出すと、それを口に銜えたまま火をつけた。
それを一回吸った所で蒸せ返し、咳き込みながら煙草を強引に揉み消した。
「やはり僕も行ってくる」
少しの沈黙の末、岸辺は重たい腰を上げた。
「駄目よ、そんな咳してるのに。それにその汗、また酷くなってるじゃないの」
岸辺の顔は尋常ではないほどの熱を帯びており、額には滝のような汗が滴り落ちている。
「川崎がやられてからじゃ遅いんだよ、今行かないと。もう打つ手がないんだ」
「立ってるだけでやっとじゃない。駄目よ。今は良浩を信じて待ちましょ」
渡戸は縋るような眼差しで、腰を上げた岸辺の目を見つめている。
岸辺は口を一文字に閉じたまま、窓の方に視線を向けた。
いつの間にか雪の勢いは衰え、窓を叩いていた風も大分おさまっている。
(駄目だ・・・これで川崎を失ったら・・・川崎までも失ったら・・・)
岸辺は、出所不明の鼓動に圧され、機能停止寸前の身体に鞭打って歩き始めた。
扉に近づくにつれ鼓動は段々と加速し、渡戸の叫びの声が遠のいていく。
(川崎まで失えば・・・)
歩を進めるうちに、頭を血が駆け巡る音が脳内に響いてくる。
(川崎まで失えば・・・)
脳裡にこびり付いた奇妙な声が断続的に耳を掠め、刻々と増す焦燥感をしきりに煽ってくる。
(詩穂だけでなく、良浩まで・・・)
(詩穂・・・?)
その瞬間、岸辺の視覚はコードの抜かれたテレビのようにプツリと途切れ、これまで当たり前に感じていた身体の平衡感覚が失われた。
渡戸は、自分の目を疑った。
目の前を歩いていた岸辺の身体が一瞬傾いたかと思うと、そのまま床へと崩れ落ちてしまった。
(彼までも・・・)
そう心の中で呟きながら、渡戸は片足を地について岸辺の顔に手を当てる。
白目を剥いたすぐ横の額には大粒の脂汗が滲んでおり、その熱った肌の表面からは蒸気が沸きたっている。
ただでさえ体を蝕んでいた微熱に、あの吹雪。岸辺の身体は既に限界を迎えていたらしい。
すぐさま両手を掴んで上体を起こすと、ソファまで引っ張っていき、身体をその上に横たわらせた。
今一度、鈴が紐で掛けられている二枚の扉の方を交互に見遣ると、キッチンに向かった。
(一体どうすればいいの・・・)
再び沸騰させたお湯をフライパンに注ぎ、熱したタオルを岸辺の額に乗せながら思った。
(これでもし、良浩も戻って来なかったら・・・)
脳裡に浮かぶ受け入れ難い未来を否定しながら、渡戸はソファの前に置かれた小机の上一杯に散らかされたプラスターパックを眺めた。
(確か、あの時彼は紫色の物を要求していたはず・・・)
渡戸は、積み上げられた容器の山の端に放り出されたままになっている、それだと思われるものを見つけた。
縦二錠、横六錠の計十二錠が納められたその濃紫色のパックは、他に比べて数が少ないらしく、この一つ以外にはもう予備は無いようだ。
(彼は何錠だと云っていただろうか・・・)
何とか当時の光景を思い出そうとしたが、そんな仔細な所まで思い返すことができるはずもなく、少し逡巡した末、二錠を取り出すことにした。
その時、ふと渡戸の脳内に疑問が浮かんだ。
(どうして、一錠も減っていないの・・・)
十二錠が透明なビニール繊維によって梱包されたままの状態のケースに目を近づけ、今一度確認した。
(もう一ケースあったのかしら・・・でもあの時確か彼は、紫色のが一つと・・・)
実際は二ケース残っており、ただの岸辺の勘違いだったのだろうか。
渡戸は己が聞いた音声を追憶したが、やはり正確な答え合わせはできない。
岸辺の唇の隙間から二錠を軽く放り込むと、岸辺の頭を後ろから支えて少し前に傾けながら、コップの水を流し込んだ。
念の為、ソファから最も近いゴミ箱の中を確認したが、あの紫色のプラスターパックはその中に無かった。
渡戸は、ゆっくりとテーブルの側に戻ると、両方の扉が視界に入る椅子に腰を下ろした。
ポケットから緑の箱を取り出すと、そこから一本だけを口に咥え、テーブルの端に置かれた岸辺のジッポライターを手に取った。
(いつぶりだろう・・・)
軽微に振り得る手でジッポの火に煙草を近づけ、溜め息のように煙を吐き出した。
(最後に吸ったのはいつだったろう・・・)
何かに依存することを忌避し、自立した人間であるというのが唯一の信条である渡戸にとって、何かにすがっていなければ、砂のように足元から崩れていってしまいそうな現在の自分の有様は、到底受け入れることのできないものであった。
大学入学後、まだ未成年だった時分に同級生の誰かに勧められ、好奇心に負けて吸ったあの一本。
その時と同じくただ不快なだけの煙が口の中に広がり、思わず咳き込んだ。
(これからどうすればいいの・・・)
何度も同じ疑問が浮かび、これからの未来に漠然とした不安を感じさせるだけで、答えてくれる人はいない。
時刻は午後三時半を周ろうとしており、窓の外にはうっすらと影が濃くなり始めている。
雪の勢いもかなり落ち着いており、窓を叩いていた暴風の音はもう聞こえない。
(あれから一時間・・・どうして戻ってこないの・・・)
どうしても認めたくない現実を何とか脳裡から取り除こうとするが、そうすればそうするほど、かえってより濃い密度を以て戻ってくる。
何をすべきなのか判断できずにいる内に、渡戸の右手は無意識に二本目の煙草に手を伸ばしていた。
しかし、脳内に吸収されたニコチンは渡戸に一切の安寧を与えることなく、ただ徒に血流を加速させ、増々募る不安に拍車をかけるだけであった。
幾度も窓の外を黒い影が通った気がして振り向くのだが、どれも渡戸の願望が招いた、ただの勘違いだった。
岸辺が目を覚ましたのは、それから一時間が経った頃だった。
渡戸が三度窓に視線を向けたその時、口から何か吐き出そうとしているような大きな咳が背後から聞こえた。
その声に後ろを振り向くと、岸辺がいつの間にか意識を取り戻したらしく、ソファから上体を起き上がらせていた。
「大丈夫なの?」
「ああ、一応大分マシになったんだが・・・如何せん記憶がないんだ・・・」
未だに頭のどこかが痛むらしく、岸辺は顰めっ面で頭を押さえている。
「あなた、良浩を追って外に出ようとしたところで、突然気を失って倒れたのよ」
「気を失っていたのか。そうだ、川崎は?あいつは戻ってきたのか?」
突然思い出したようにカッと目を見開き、渡戸の方に顔を上げた。
「まだ・・・・」
思い出したくない記憶を思い出したように、途端に渡戸は表情を曇らせた。
「おいおい、冗談だろ。確かに戻ると云ったんだ、あいつは約束を守るやつだ」
岸辺は頭に掛かっていたタオルを握り、勢いに任せて窓へと投げた。
その言葉に渡戸は肩を震わせ始め、言葉にならない声が口から漏れ出ている。
岸辺は一度時計を見上げると、そのまま視線を窓へと移した。
「あれから約一時間か。雪の勢いも弱まっているし、まだ足跡は残っているはずだ。暗くなる前に川崎の足跡を辿るしかない」
「もう無理よ、良浩もやられたんじゃ、もう・・・」
渡戸は両手を目に当て、咽び泣いている。
「まだやられたと決まったわけじゃあないんだ。もしかしたら、未だに島のどこかに隠れている零人目を探し回っている可能性もある、行くなら今しかない」
岸辺は身体のどこからともなく湧き上がった、得体の知れない責任感に押されるままに、覚悟を決めた。
「駄目よ、やられるだけだわ・・・ここに居ましょうよ。明日になれば助けが来てくれるんだから、この館に閉じこもっていればいいじゃない」
渡戸は縋るような眼差しで真っ向から岸辺を見つめているが、その視線の先にある表情には変化はない。
「あいつを見捨てることなどできない。君はここにいればいいさ。悪いが僕は行く」
今生の願いが拒まれた渡戸はガックリと肩を落としたまま、視線を床に向けている。
「私も行くわ・・・こんな所に一人でいたくないもの・・・」
「分かった、念の為応接室から鉄砲を取ってこよう。向こうも当然レプリカだと知っていると思うが、一瞬でも隙が生まれるかもしれない」
レプリカを携えた二人は、注意深く窓の外を眺めながら玄関口の扉をゆっくりと開けた。
その扉の前には、二時間ほど前に三人によってつけられた足跡のほか、それ以前につけられたと思われるものも、殆どそのままの形で残されていた。
扉から春野の遺体のあった所までうねうねと伸び、そこからまた直線状に玄関口へと引き返す足跡が一つと、その半分程の距離で残された渡戸の足跡。そして、そこから横に逸れるようにして離れの小屋の方へ向かっていく二つの足跡。
肌の表面を優しく撫でる程度にまで落ち着いた細雪によって、少しずつ覆われ始めているそれらの足跡は、それでもまだ明確な輪郭を保っていた。
岸辺は扉に鍵をかけると、離れへ歩を進める足跡に悠然と続いた。
「できるだけ既存の足跡の上をなぞるように歩いてくれ、既存の痕跡を崩すのを避けたい」
岸辺は後ろを振り返って、あちこちと首を動かしながら自分の後ろを歩く渡戸に向かって云った。
川崎の靴の跡は、途中で別のものと合流する形で、館の裏を回った先にある小屋へと伸びていた。
薬と睡眠のおかげか、先程まで続いていた諸症状は殆ど消え失せたが、それでも身体は未だに怠く、一歩一歩と進むその足取りは重かった。
漸く小屋の前に着くと、二つあった筈の痕跡の一つ、川崎のものは小屋の前で再び逸れていることが分かった。そして、小屋から出てきた形でつけられているもう一つの方と、小屋から見て右前方の何十歩目か進んだ所で再び合流している。
その後小屋から伸びた足跡は、川崎が来た方向とは真逆の方向に、そして川崎の足跡もそれを追うような形で、これまでよりも大きな歩幅で島の裏側まで伸びているのが見てとれた。
これらの痕跡から推測するなら、春野の殺害を終え、その遺体を柵に凭れかからせるような形であの場所に残した零人目は、そのまま真っ直ぐ小屋へと向かい、その後小屋から出て館の裏口の方へ歩いていた所で川崎と鉢合わせ、すぐさま踵を返して反対方向に逃げていった・・・というところだろうか。
「やはり、ここで川崎はあいつに遭っていたんだ。川崎との邂逅にたじろいだ奴は真っ先に踵を返して逃げていったらしい」
念の為、小屋の中を入念に見回しながら、岸辺は云った。
小屋の中には、確かに人がここに入ったことを裏付けるような、散らばった雪の跡があるが、それ以外に変わった点は見られなかった。
「でもこの足跡の進んでいる方向って、確か崖よ」
小屋の外にいる渡戸は両手を膝につきながら、辺りをしきりに見回している。
「それよりも早く行きましょ、こんな所で時間を無駄にしている場合じゃないわ」
渡戸に急かされるまま岸辺は身を反転させると、小屋の前から崖の方に続いている二つの足跡の後を追い始めた。
枯れ果てた木々の間を抜けるようにして、真っ新な白銀の平面上に付けられた二人分の跡は、島の裏側に位置する崖の方まで直線に伸びていた。
逸る気持ちで重たい足を懸命に動かし、約十分の道程の末、島の先端が見え始めた。
歩を進めるにつれ徐々に視界が開け始め、目の前の光景が鮮明になっていく。
二人は崖のすぐ手前に、異様に地面が低くなっている空間を見つけた。
直径にして二、三メートル程のその空間は、何度も足で踏み鳴らされた結果、降り積もった雪が周りに散らばっている。
岸辺はそこに、いつか巳風が持ってきたオカルト雑誌で見た、なんの変哲もない畑の一角に突如として現れるというミステリーサークルを重ねていた。
しかし、崖のすぐ手前に位置するその空間には、人が争ったような跡はあるものの、血痕や遺体は一切なく、川崎が持っていた斧が少し遠くに転がっているだけだった。
「この斧・・・良浩、居るの?」
渡戸は両手で口の周りを囲うようにして、何度も大声で川崎の名前を呼んでいるが、それに答える声はなく、凍てつく風の中へと虚しく消えていく。
辺りを調べていた岸辺は、ふと顔を上げて目の前に広がる地平線を眺めた。
未だにふわふわと揺られ宙を舞う膨大な量の雪が透明な霧のように見え、その先に映るはずの銀色の海を隠していた。
耳に渡戸の絶叫が響いてきたのは、呆然とその景色を眺めていた時だった。
すぐさま視線を横に向けると、渡戸は崖の端から顔だけを伸ばし、崖下を見下ろしていた。
「いやっ、嘘っ、あれ、ああ、あああ」
渡戸は勢いよく後ろに倒れ込み、必死に両手を使って退いていく。
目を細めて遥か下方を身下ろした岸辺は、五十メートルはある崖下の光景の中に、何か異様な物体を発見した。
(まさか・・・)
岸辺が立っている場所のちょうど真下、海面から頭を出すように屹立した無数の岩肌の一つの上に横たわった人型の影。
明らかにあれは、人間の身体だ。
(ああ、あれは・・・)
しかし、雪と靄が視界を防いでいるため、あの身体がうつ伏せなのか仰向けなのかすら判断できない。かろうじて見て取れるのは、(ああ・・・)本来曲がるはずのない角度にひん曲がった足(あれはどちらの足だろう・・・)と、その身体から岩伝いに流れ落ち、周囲の海水を赤く染めている液体。(嘘だ・・・)そして、その身体を覆っている黒い服。
「クソっ」
岸辺は強く舌打ちを打つと、その場で崩れ落ちるように膝をついた。
未だ崖下に向けられた視界の端に、ゆらゆらと揺れているシルエットが目についた。
岩上に打ち付けられたあの遺体から、そう遠くない場所に浮かんだもう一つの影。
初めは島に流れ着いた漂流物のように思えたが、あの物体には確かに四肢が付いている。
力を失った四肢が波に揺られる様子は、流されるままにぷかぷかと泳ぐ水母(くらげ)のようにも思えた。
あれが、あの零人目なのだろうか・・・。
うつ伏せの体勢で浮かんでいるため、顔はおろか、渡戸が大柄だといっていたその体格すら確認できない。
確かに分かることと云えば、闇に潜むために黒づくめの服を身にまとっていたことと、波に濡れたその髪は短く、やはり男性だったということ。そして、どちらも既に血に塗れた抜け殻となっているということだ。
「渡戸、あっちだ。あそこにもう一人浮かんでいる」
「あれが零人目なの・・・?」
自らの目でもその遺体を捉えた渡戸は呟くように云った。
「恐らくそうだ。二人がここで掴み合いをしていた拍子に、雪で足を滑らせて二人とも崖から落ちてしまったのだろう」
「そんな・・・ああ、良浩・・・」
渡戸は目の前の光景をまだ現実のものとして認識できていないらしく、両膝を地面についたまま何度も頭を振っている。
「奴も息絶えた。これで漸く平穏が戻ってくるのか・・・」
未だに茫然自失な面持ちで、遥か遠くの虚空を見つめている岸辺の声には力強さはない。
「流石に引き揚げるのは無理だ。もう命の心配をする必要はないし、館に戻ろう。そして四人のことを偲びながら明日の迎えを待とう」
岸辺は目を瞑って黙祷を捧げると、踵を返して斧を拾いあげ、傍で項垂れている渡戸の肩に片手を置いた。
来た時と同じように、既存の足跡の上を辿って館へと戻る二人の体内では、四人の友人を失った悲しみと、これまで常に纏わりついていた死の恐怖から解放された安心感が混ざり合った奇妙な感覚が蠢いていた。
その反面、極度の緊張が消えた身体は従来の動きを取り戻し、館までの足取りは軽かった。
これまで幾度も視界を遮り、不快な感触で肌を撫でていた雪でさえ、今の二人には安寧の象徴として心地よく感じられた。
ヒーターの暖気、テレビからぼんやりと聞こえる声、ポットの湧く音、煙草の煙、微かに聞こえる波のさざめき。
その全てが傷心した心と疲弊した身体に沁み入り、緩慢な鼓動を続ける心臓を更に落ち着かせる。
これまで四六時中まとわり続けていた極度の緊張から解放されたことで、これまで殆ど機能を停止していた胃が、食べ物を求めて主張を始めた。
ポットを運ぶ渡戸は心ここに在らずというような感じで、覚束ない手取りで紅茶のティーパックの入れられたカップにお湯を注いでいる。
「しっかりと洗ったから、多分薬の成分は残ってないと思う」
「ありがとう、それとカップラーメンの残りってまだあるか、少し小腹を満たしたい」
「あるわよ、塩と醤油どっちがいい?」
「醤油で頼む、身体が塩分を欲しているみたいで」
「なら、どちらかといえば塩じゃないの?」
「えっ、ああ、そうか」
岸辺は恥ずかしそうに目線を下にし、自らの脳の疲労を実感した。
「結局醤油でいい?」
「ああ」
岸辺は揉み消した煙草を灰皿へと棄てると、その灰皿に見慣れない銘柄の吸い殻が増えていることに気づいた。
(川崎のか?でも彼は赤のマルボロだったはず・・・とすると渡戸が?)
いつの間にか渡戸は再びキッチンから戻って来ており、目の前にはお湯の入れられたカップが差し出されていた。
そのまま渡戸は岸辺の目の前の席に座ると、ポケットから煙草を一本取り出した。
「君も煙草を吸うとはね」
「うん、いつもは吸わないけど、何となく持って来たの。ライター借りるわね」
渡戸はそう云うと、テーブルの端に投げ出されていたジッポライターを手に取り、右手で挟んだ煙草に火を付けた。その右手の人差し指には、初日から変わらず、小さなエメラルドが施された指輪が嵌められている。
ゆっくりと煙を吐き出す渡戸の表情は、未だ若干の翳りを帯びており、浮かべる笑みもどこかぎこちない。
岸辺はさっさと平らげ、何本かの煙草を灰にすると、ソファに腰掛けた。
テレビからは取り止めのない夕方のニュースが流れている。
そこから耳に入る情報を脳に入れる訳でもなく、ただぼんやりと眺める。
「ただ一つ気になることがあるんだよ。零人目の足跡、玄関口から柵まで伸び、そこから一度小屋を通って崖の方から続いていた。ただ、それ以前のもの・・・館まで来た時の足跡がないんだ。雪はいつから降っていた?」
「あなたが薬を飲んで眠ってから、三十分後位だったかしら・・・」
「だったら足跡が残っていないのはおかしいな。それに、あの玄関口の扉も、僕達が目覚めた時には既に開いていたが、外側から壊されたような痕跡なんてなかった。もしかして、零人目は既に館内にいたのか・・・」
「どうやって?館内は全部屋入念に確認したのに、どこにもいなかったじゃない。」
「ああ、そうだな。もしかしたらこの館には、本当に隠し部屋や隠し通路があるのかもしれない・・・」
「嘘でしょ・・・・」
「しかしね・・・何か隠し部屋や隠し通路のヒントがないかと思って、応接室にあったこの館のミニチュア模型。あれをさっき確認してみたんだが・・・部屋の間取りだけでなく、内部の家具や装飾まで緻密に再現されていて正直驚いたが、特に僕達が確認していない部屋や通路は無かったし、そのようなものがありそうな空間も存在しなかったんだよ」
「一体なんなの、零人目って。何でこんなことしたの、何で四人は死ななければならなかったのよ」
渡戸は再び両目に涙を浮かべながら、吐き捨てるように云った。
「・・・完全なる狂人だよ。真っ当な人間の物差しでは決して測ることのできない、倫理の理から完全に逸脱した化け物だ」
二人はかなりの間黙り込み、少し緩やかになった風が窓を打つ音だけが嫌に響いていた。
「・・・巳風のカメラで、崖下の写真を撮っておいた方がいいかもしれない。明日には波に流されてどこかへ行ってしまっているかもしれないし」
「私もう動けないわ・・・」
「分かった、僕が行こう」
岸辺は気怠い身体を持ち上げると、ゆっくりと階段の方へ歩き出した。
昨夜未風の遺体を川崎と運び込んだ、空き部屋の前を通り過ぎ、巳風の部屋の前で足を止めた。
ポケットからマスターキーを出すと、それを鍵穴に差し込んでゆっくりと開けた。
部屋の光景は昨夜巳風が使用していたまま変わっておらず、荷物が小綺麗に纏められた様子は、彼の几帳面な性格をよく反映していた。
岸辺は部屋の中心まで進み、そこでぐるりと全体を見渡した。
その後、多少の罪悪感と申し訳なさを感じながら、巳風の荷物の中を探り始めた。
—————ない。巳風の持ってきていたカメラが。昨日彼が居間に持ってきて、星の写真を見せた後・・・
全体で一度解散し、見張りのために再び居間に戻ってきた時には既に持っていなかった。
とするとやはり、その時に部屋に戻していたはずだが・・・
机の引き出しや箪笥の中、念の為に確認した洗面所にも、どこにも見当たらない。
彼の遺体は隣の空き部屋に運び込んだのだから、彼の死後は誰もこの部屋に入っていないはず・・・
岸辺がそのカメラを発見したのは、なんとなく覗き込んだベッドの下だった。
岸辺は右手をベッドの下に伸ばし、隠されたように奥に仕舞われていたそれを握った。
岸辺は拾い上げたそれの観察を始めたところで、ガッと目を見開いた。
それは既にカメラとしての機能を失っていた。
撮影した写真を確認するための画面には一切の異常は無かったが、その裏側、長く突き出た凹凸状のカメラレンズの部分が、大きな石を振り下ろしたかのように、粉々に打ち砕かれていた。そのダメージによって、電源自体もやられてしまっている。
(巳風が何かの拍子に落としてしまったのだろうか・・・?)
しかし、ただ落としただけでは、これほどの傷はつかない。この部屋の床一面にも、例に違わず臙脂色の絨毯がひかれている。それに、仮に巳風が壊してしまったのだとしても、わざわざベッドの奥にしまう利点がない。
とすると、これも零人目が・・・?初日の夜に星を撮影していた巳風は、彼自身も気づかない内に、零人目の姿を・・・あるいは零人目にとって何か都合の悪いものを、あのカメラに写してしまっていたのだろうか・・・
様々な憶測が駆け巡る頭を回転させ、カメラを抱えたまま部屋を出た。
再びマスターキーを差し込んで、先ほどと反対に回すと、そのまま踵を返して階段を降りた。
「見てくれ、これ。巳風のカメラ。この状態でベッドの下に置かれていた」
岸辺は椅子に腰を下ろしながら、テーブルの中央に半壊状態のカメラを置いた。
「どうしたのそれ、壊れてるのよね?」
渡戸は身を乗り出し、胡乱な目でそれを凝視している。
「ああ、レンズが粉々だ。これも零人目の仕業なんだろうかねぇ。取り敢えず、写真の撮影は無理だな」
「悟が落とすかなんかして壊れたということは?」
「ないんじゃあないか。ベッドの下のかなり奥、そこに人目から隠すように置かれていたんだ。巳風がそんな場所に置く理由がわからん。まあ、もう脅威は消えたんだ。そこまで深く考えなくてもいいかもな」
「そうね・・・」
渡戸にもこれ以上この件を詮索する気力は残っていないらしい。
二本の煙草を灰にすると、煙草の箱の中に再び指を入れた。
しかし、もう箱の中には一本も残されておらず、何となく吸い終えた先の二本が最後だったらしい。
この島に来てからというもの、予想外の出来事の連続に身体は拠り所を求め、当初想定していたよりも遥かに上回るペースで、持ってきた一カートン全てを吸い尽くしてしまったようだ。
岸辺は物惜しそうに空になった箱を投げ捨てると、再び立ち上がってソファに腰掛けた。
「荷物の整理どうする?今日の内にやっておいた方がいいわよね」
「僕は明日でいいかな、とても今は手をつける気になれない。それと、検察の捜査の為にも四人の部屋と荷物は、あのままの状態のまま残しておいた方がいいな。僕は寝かせてもらうよ、おやすみ」
四人、あの四人。
今はもう見ることのできない其々の笑顔が順番に浮かんでくる。
(もし・・・)
グルグルと回転を続ける脳とは裏腹に、腹を満たした身体の中では副交感神経が働き始め、脳の回転が鈍くなる。
(ああ、もしあの時・・・)
脳内の隙間で其々の死に際が映像として再上映され、段々と夢と現実の境目が曖昧になっていく。
(もし何処かで違う行動をとっていれば・・・)
「おやすみ」
(もし何か行動を起こしていれば、四人の内の誰かは、今もこうして居間にいたのだろうか・・・)
岸辺の意識は、輪郭のない後悔の念に苛まれながら、程なくして深い眠りの底へと落ちていった。
(良浩も・・・詩穂も・・・)
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