二月十八日(金)



見慣れない象牙色の天井が目に写った。いつもとは違う光景を前に、まだ夢を見ているのかと思ったが、少し考えた後に自分が青藍島のこの奇妙な館にいることを思い出した。

底冷えする寒さだった。到底布団から出る気にはなれず、顔を窓の方に向けた。

昨日はついぞ降らなかった雨が、寝ている間に降ったのだろうか。窓には結露とともに幾らか小さな雨粒が付着しており、濡れて色を濃くした砂浜の向こうには、灰色の海が静かに揺れているのが見える。

岸辺は、少し手を伸ばしてランプの隣にある煙草ケースから一本取り出し、火をつける。

口から吐き出された煙がゆっくりと伸びていき、天井に備え付けられた排気口に消えていった。

二日酔いの重たい脳内を徐々にニコチンが周り始め、少し吐き気をおぼえる。

岸辺はベッドから重たい身体を上げて洗面所に向かい、鏡の前で蛇口を捻った。

顔を冷たい水で覆い、濡れた手を横に掛かったタオルで拭く。

ふと、違和感が脳裏を過った。

昨日初めてこの部屋に来た時にも、まずここで手を洗ったが、その時に使ったタオルではないような気がする。

気のせいだろうか————

自分なりに結論に達したその時、外からドアをノックする音が聞こえてきた。

「朝食の準備ができたわよ、そろそろ居間にきてちょうだい」

扉の前にいるのは、どうやら春野のようだ。

それに二つ返事をすると、岸辺は鏡の前で寝癖を確認し、寝巻きの上にカーディガンをそのまま羽織って部屋を出た。



階段を降りると、テーブルの上に朝食が用意されているのが見えた。

そのテーブルを囲うようにして、まだ眠たそうな様子の巳風と春野、川崎が昨日と同じ座席に座っている。

会話の節々に欠伸を挟みながら、渡戸がインスタントコーヒーの入ったコップにポットでお湯を注ぐ様子を有り難そうに眺めている。

昨夜は暗闇に包まれていて分からなかったが、各所に嵌められたガラス窓からは外の光が差し込んでいる居間は、吹き抜けの構造も相まってかなり開放的で、昨夜受けた陰鬱とした印象とはまるで異なっている。

時刻は十時半過ぎ。二日酔いの状態では、予定されていた九時の朝食に間に合わせることはできなかったのだろう。

「おはよう、歩はまだ来ないの?」

緑色のカーディガンを羽織った渡戸が、席に着いた岸辺の前にコーヒーカップを差し出しながら云った。

「ああ、おはよう。あいつまだ寝ているのか」

「二回も起こしに行ったのに、返事の一つもないのよ」

春野は不満げにそう云って、コーヒーを啜った。

「僕が起こしに行ってきます、先に食べ始めてもらって構いませんから」

巳風はそう云いながら、階段の方に向けて歩き出した。

「美姫、裕子。用意をありがとう。悟には悪いが、もう頂いちゃおうか」

川崎の言葉を皮切りに、四人はそれぞれの前に拵えられた朝食に口をつけ始めた。

白米に、焼き鮭、味噌汁という質素な朝食だったが、どこか懐かしい味が二日酔いの体に染み渡った。

黙々と口を動かす四人の所に、巳風が戻ってきた。

「やっぱり、いくら声をかけても、返事はないですね」

「そうか、ありがとう。しかし妙だな。歩。具合でも悪いのか」

川崎は、席についた巳風に礼を述べる。

「あいつ、昨夜あれを使ったんじゃあないか」

味噌汁を啜っていた岸辺が云った。

「あれって一体何のことですか?」

巳風は首を傾げた。

「あれだよ、あれ。昨夜夕食の時にもあいつから妙な匂いがしたんだ。寝る前にかなりの量使ってハイになっていたと考えるのが妥当だ。あんなものに頼らないといけない彼に僕はひどく同情するが、今は恐らくまだダウンタイム中だから、構わず起こさないでやるのが彼のためさ」

「最低ね、いくら外部の目が届かないからといって、そんなものをここに持ってきていたなんて」

春野はそう云うと、最後の一口を頬張り、箸を置いた。

「ご馳走さま。せっかく美姫が作ってくれたのに」

五人は、唯一完成形のまま一切手をつけられていない朝食の方を見た。

「ご馳走様。後片付けは男共でやるから、二人は自由に寛いでいてくれ。少ししたら館の散策でもしようか」

川崎はそう云って、自分の前にある皿を一枚ずつ丁寧に重ね始めた。


昼過ぎの銀色の光が差し込む部屋に五人が集まっている。

玄関から見て、居間の左側に位置する応接室には、好事家が国内外から集めたという貴重品や奇妙な品物の数々が展示ケースの中に並んでおり、建てられた当時はかなりの華やかさがあったことが予想できる。

「ケースの中にあるとはいえ、何十年もここに放置されていたから、随分埃まみれになっていたのよ。それを歩のお父さんの会社の人達が、一つずつ綺麗に修復して、できるだけ当時の状態に直してくれたの。まとめて全部売りに出すことも考えたみたいなんだけど、この館も観光化するから、このままの形で展示するみたい。ああ、そうだ。くれぐれも、この中のどれかを頂戴しようなんていう邪な考えは起こさない様にね」

少し腰を曲げ、展示品を覗き込む様にして渡戸は云った。

エキゾチシズムを感じさせる、どこかの民族楽器。何十、何百分の一のスケールで精密に再現された、様々な世界遺産のミニチュア模型。印象派を彷彿とさせる、カーマイン一色で仕上げられた異様な絵画。音を発するホーンがうねうねと歪曲した蓄音器。一風変わった作品の数々が、重厚なガラスケースの中にずらりと並んでいる。

「なんだ、すっかり頂戴するつもりでいたんだがな」

と云いながら岸辺は身体を折り曲げ、目下の展示品を覗き込みながら、

「おいおいおい、このレコード、戦前にアメリカで作られた限定盤じゃないか。こんなに当時の状態を保ったものなんて、現存しているものの中でも、そう数はあるまい。これ一つとっても尋常じゃない価値だ、是非家に置いて〔ザ・カーペンターズ〕でも聴いてみたかったな」

岸辺はもの惜しそうにケースの中のレコードを眺めながら云った。

「居間にも一つレコードがあるじゃない?あれもかなりの代物で、当時にしては珍しく一時間以上録音出来るのよ。再生に関しても、何十年も放置されていたとはとても思えない程の音質をしていたでしょ」

「確かに、最新のものにも遜色ないくらいでしたね。いやぁもし、全部売ったらどれ程の値段になるんでしょうね」

巳風は金縁眼鏡をガラスに押し付けんばかりに近づけ、興味深そうに品々を眺めている。

「悟、美姫は云ったことが聞こえなかったのかい」

川崎は、壁にかけられた古時計を見上げている。

「冗談ですよぉ、冗談。あれ、なんだぁ今の」

アイボリー色の机の上に置かれた展示品を眺めながら歩いていた巳風の足が、床に落ちていた何かを蹴った。

蹴り飛ばされたその物体は、床に擦られて金属音を発しながら、ソファの下に滑り込んでいった。

巳風は両膝を床について、赤色のソファの下に手を伸ばした。

「なんだこれ。何かのコインですかね?」

巳風が拾い上げたのは、両面に文様が刻まれた銀貨だった。

「そいつは、五十セント硬貨だな。少し見せてくれ」

巳風の掌の上に置かれた一枚の銀貨を取り上げると、岸辺はその両面を交互に見た。

「成程、こりゃあ面白い。本来五十セント硬貨の表面には、かの元アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの横顔が刻まれているんだ。しかし、これはどちらも裏面の鷲の紋様だ。つまり、この銀貨、どちらも裏面だ。確かにこの硬貨——通称ハーフ・ダラー———は、カジノでよくポーカーなんかに使用されていると聞いたことがあるし、造幣の際に偶然このような特殊な状態で発行されたものが、元の価値の何倍もの価値で取引されるケースもよくある。専ら海の向こうでイカサマのために使われたか、コレクションとして高値で取引されていたものが、ここの元の持ち主に渡ったんだろう。まぁ、随分変わりもの好きな人だったみたいだから、どこかの職人に金払って造らせた模造品である可能性も高い。客人との賭け事の際にこのコインを使ってイカサマをし、最後には種明かしでこの硬貨を見せて客人の反応を楽しんだかもしれないね。もちろんコレクションの自慢も兼ねて」

岸辺はそう云うと、銀貨を指で弾いて巳風に返した。

「あなたの博識ぶりは相変わらずねぇ」

その銀貨を眺めながら、春野は関心した様子で云った。

「でも一体何で、両面とも裏面なんですかね?普通は表面でやるのが普通じゃないですか」

巳風は、物珍しそうな目で眺める。

「だからじゃないかな。五十セントと聞いて大半の人が思い浮かべるのは、当然ケネディの顔だろう。その固定概念を裏手に取った手法なんだろね」

壁に掛かった幾つかの仮面を眺めながら、川崎が云った。

「ねぇ、これ、あの石仮面みたいじゃない?」

川崎の横に立つ春野が指差して云った。

「本当ですね、しっかりと口には牙みたいなのも付いているし。これもジョジョに関係しているものみたいで、どうにも奇妙だなァ。これも模造品なんですかねぇ」

「あれ?こんな物あったかしら。下見で来た時にはこんな物無かった気がするけど」

春野はその奇妙な仮面を眺めながら訝しげに云った。

「ざっと数えて五〇は超える品数だ。しかも、そのどれもが一風変わった風貌だし。君も一つ一つをじっくりと眺めたわけじゃあないんだろうしさ」

「んー、そう云うもんかぁ」

川崎に諭されるようにして、春野は視線を下に下ろした。

「ねぇ、見てみて、ここ。一つ無くなっているわ」

春野の指差した先には、拳銃の展示品があった。

パッと見ただけでもかなり旧式だと思われるものが五丁、横並びに仕舞われており、その前にはそれぞれの口径や製造年代、使用された戦争の説明が記されたプレートが等間隔で置かれている。

しかし、五丁分のプレートがあるにも関わらず、一番左にはプレートが説明する本体が見当たらない。

「前には確かに、ここにもう一丁あったのに」

「もしかして、次の悪戯のために帆留さんが取ったとか?」

「あいつのことだ、十分有り得るな。まぁどれもただのレプリカだから、何も危険はないよ。戻すように云っておこう」

川崎は、この館をかなりの精度で再現したミニチュアの隣に置かれたトランプケースを手に取りながら、巳風の問いかけに颯爽と答えた。

「このトランプは、普通のものだね。絵はやはり異様な感じだけど。少しばかりお借りして後で遊ぼうか。いいかな、美姫?」

「いいんじゃない?そのくらい。最後に元に戻しておけば大丈夫だと思うけど」

「ありがとう。じゃあみんな、そろそろ外に出ようか。島の散策だ」



初めて目にした館の風貌は、まだ外側の再塗装は済んでいないのだろう、壁面の大部分の塗装が剥がれ落ちており、その間からは、かつての瀟洒な風情を思わせる紫色が時折覗いていた。黒煉瓦で敷き詰められた屋根に、飛び出した煙突。———魔女の住む家———と云うのが、この館を形容するための適切な表現だった。

昨日到着した時には暗闇に隠れて見えなかったが、門から館の入り口を繋ぐ石煉瓦の小道は、館を囲う様に円周上に延びていた。また、その小道を更に外側から囲うようにして緑青色の鉄柵が敷かれており、最も背の高い川崎の胸ほどの高さのあるその柵の上部には、菱形に鋭く尖った棘が等間隔に並んでいる。

五人はその小道を辿って館の裏側を歩いている。

「そういえば、悟。昨日の天体観測はどうだったんだ?」

前を歩く川崎は、後ろを振り向きながら云った。

「正直予想以上でした。こんな絶好の観測スポット、他にありませんよ。かなりの数写真撮ったので、後で見せますね」

巳風は昨夜のことを思い出しながら、高揚気味に云った。

「そうか、それは良かったな」

川崎は視線が前に戻すと、その視線の先に、今にも崩れ落ちそうに見える掘立て小屋を認めた。

「こんなところに小屋があるとはね」

ボソッとそう呟いた岸辺の前を歩く川崎が云った。

「専ら木こり用の斧や、庭の手入れ道具でも置かれているんだろう。以前来た時にあの小屋にも入ったのかい?」

「いいえ、外から見ただけ。じき取り壊されることになっているし、態々あんな場所には行かないわよ」

春野は腕を組み、穏やかに流れる雲を眺めながら云った。

小屋の扉は鍵がかかっておらず、案外あっさりと開いた。

天井にある電灯は割れており、夜は完全な暗闇に包まれることが容易く想像できる。

粗い木目の隙間からは、何本もの銀色の光が線を描くようにして差し込んでいて、昼間の屋内はかなり明るい。

部屋の四隅はカビと湿気で酷く黒ずんでおり、木の腐った臭いが鼻腔の奥をつく。

入り口から見て右奥の角には、埃被った木製棚が置かれており、その一段一段には黄色のプラスチックケースが丁寧に仕舞われていた。それらの中には、かつて菜園や木の伐採に使われていたであろう道具の数々が、すっかり錆び付いた状態で雑然と入れられている。

「良浩の云った通り、ただの物置みたいね。こうゆう所って私ホントダメ。居るだけで運勢落ちそうだし。先に出ているわね」

扉の前から一向に中に入ろうとしない春野は、そこから覗くようにして小屋を一通り見渡した後、すぐさま踵を返して出て行った。

「私もいいかな。こういう道具の類にはあんまり興味ないし」

渡戸はそういうと、春野の後を追うようにして小屋を出た。

「呆れた。何故良さが分からないのかなぁ。宝の山なのに」

残された三人は、自らの手が汚れることも顧みず、各々がケースの中を必死に漁っている。

「これなんかは比較的状態がいい、まだ使えそうだな」

川崎のすっかり黒ずんだ手には、棚の目から引っ張り出した釣竿が握られている。

「いいですねぇ。夕食の食材、僕たちで捕っちゃいましょうか」

「ついさっき、朝食に鮭を食べたばっかりだろう」

「しかも、昨夜は鯵だしね」

「ああ、そうでしたね。へへ、三食連続で魚料理となると、流石に飽きますよねぇ」

岸辺と川崎の的確な指摘を受けた巳風は、眼鏡のレンズについた埃を自らの服で拭き取りながら笑った。

「おっと、これ」

岸辺が奥から取り出したのは、伐採に使用されるような大型の鉄製斧だった。

「これ、妙に綺麗だな。他の道具に比べても一目瞭然、まるで新品だ。とても、他の道具のように何十年も放置されていたとは思えないな」

「館の改修工事の際に、大工の方が使用した物をここに置いたんじゃないですか?」

「これだけを?他の道具も一緒においてあるなら納得できるんだがね、これ一つだけがここに置かれたというのはどうも腑に落ちない」

「じゃあ、改修工事の後に作業員が回収し忘れて、どこかに落ちていたのを誰かがここに置いたとか。それか、———本当に僕たち以外の誰かがこの島にいる———とか?」

その時、屋根の隙間を縫うようにして微少の雨粒が小屋の床を濡らし始めた。

初めはポツポツと降っていた雨は、次第に勢いを増しはじめた。

「館に戻った方が良さそうだな」

川崎はそういうと、先ほど拾った釣竿を引っ提げて小屋を出た。

岸辺もそれに続くように斧を背負ったまま、半ば駆けるようにして小屋を後にすると、渡戸と春野が裏口から館に戻るのが見えた。



「昼食にしましょうか。用意するからちょっと待ってて」

渡戸は、洗面所から持ってきた五人分のタオルを各々に配りながら云った。

濡れた髪をタオルで拭きながら、渡戸はキッチンの方へ向かっていった。

「まさか、こんな急に降り出すとはね」

三人に比べて比較的雨の被害を受けていない春野は、右手で濡れた髪を拭きながら、左手でテレビの電源を付けた。

「全国的な大雨みたいね、各地で警報がでているみたい」

テレビの前に備え付けられたソファに凭れ掛かるようにして、旧型のテレビ画面を凝視している。

「昨日じゃなくて良かったですねぇ。もしかしたら渡航できていなかったかも・・・」

ストーブの前で、縮こまるようにして凍える体を震わせながら、巳風は云った。

「そうだね、運が良かったのかな」

川崎はずぶ濡れになった上着を脱いで、洗濯かごに入れた。

「私も手伝いに行こーっと」

春野はそういうと、ヒョイっとソファから身体を起こした。

「僕も手伝うとするかな。悟、君は二階に上がって歩を起こしてきてくれ。流石に昼食は食べとかないとマズイだろう。岸辺、君もそうしてないで少しは手伝ってくれないか」

川崎は、ソファに座って三本目の煙草に火をつけている岸辺に向かって云った。

「どうやら僕という人間には、料理の才能がまるで無いみたいなんだよ。力になろうと思っても、気づいたら迷惑をかけることになるんだ。だからこうして、皆に迷惑をかけないようにしているんだ」

「ふっ、君らしいや。その代わり皿洗いだからな」

川崎は一瞬吹き出すと、キッチンの方へと向きを変えて歩き出した。

三人は軽快な調子で六人分の皿をテーブルの上に広げると、いつの間にか席に着いた岸辺と共に、インスタントスープで冷えた体を温めながら二人が降りてくるのを待った。

しかし、階段を降りてきた巳風の後ろにはもう一人の姿はなかった。

「やっぱり何回ドアを叩いても返事がありませんでした。帆留さん、まだ寝ているんですかね?」

「おかしいな。いくらダウンタイム中といっても、流石に長すぎる。僕が行ってくるよ」

「私も行くわ、ここまで呼んで返事の一つもないなんて・・・、何かあったのかも」

川崎と春野は早足で階段を駆け上がり、向かって左奥にある帆留の部屋の前に密集した。

異様な事態を前に五人の頭の中では、帆留に関するあらゆる憶測が飛び交っており、それぞれの顔には緊張の表情が浮かんでいる。

「美姫、ちょっと上がって来てくれ。マスターキーを借りたい」

ドアノブを握って再度扉が閉まっていることを確認すると、川崎は半ば叫ぶようにして階下の渡戸を呼んだ。

「またよ、また鍵が無いわ」

階段を上がる渡戸はひどく狼狽した様子でポケットを探っているが、一向に見つかる気配はない。

「クソっ、また歩か?そうだ、あれだ。あの斧が使える、おい悟、そこの斧を持ってきてくれ」

川崎は欄干から身を乗り出すようにして、居間のテーブルでそわそわしている巳風に云った。

「それと岸辺、君は何か応急処置に使えるものがあったら持ってきてくれ」

川崎の様子から、何やら想像以上の事態に陥っていることを感じた岸辺は、まだ吸いかけの煙草を急いで消し、自分の部屋へ向かった。

五人の緊張感は加速度的に増加しており、額には脂汗が浮き始めている。

巳風から斧を受け取った川崎は、三人を後ろに下がらせると、思いっきり力をこめて斧を振り下ろした。

木製の扉は想像以上に固く、振り下ろされた斧は、扉に細長い縦の亀裂をつくった後に真鍮製のドアノブに弾かれ、川崎は後ろに大きくよろめいた。すぐさま体勢を立て直すと、扉の隙間から手を入れ、内側からロックを外し、ノアノブを回す。

勢いよく開いた扉から、押されるように中に入った四人は、一瞬雷鳴にでも打たれたように立ち尽くした。

言葉が出ない。血脈の鼓動がはやくなるのを感じる。視界がぼんやりと霞みはじめる。今目の前に横たわる光景が現実なのかどうか理解するのに五秒あまり費やした後、春野の絶叫が部屋中に響き渡った。

「嫌っ、歩」

四人の視線の先には、変わり果てた帆留の姿があった。

眼窩からぶら下がる様にして開かれた眼球。今にも叫び出しそうな程に開かれた口。だらりと垂れたまま変色した舌。そして、その口に押し込まれている鈍色の物体を支える両手。

壁際に腰を下ろして凭れ掛かる様にして座ったその身体は、今や生物としての機能を完全に失っている。

おおよそ現実離れした光景を前に一同は完全に取り乱し、各々が一切の脈絡を欠いた言葉を吐いている。

「あ、あああ、ああそうだ、警察、警察を呼ばないと」

巳風は後ろに飛び退いたまま、体を引きづる様にして部屋を出た。

「おいおいおい、一体どうした」

叫び声を聞きつけたのだろう。応急処置キットを脇に抱えたままの岸辺が部屋に駆け込んできた。

狼狽する四人を強引に掻き分けるようにして前へと進み、部屋に異様な臭気を放つ元凶と相対した。

岸辺はその変わり果てた遺体を前にして一瞬慄いたが、すぐさま表情を戻すと、処置キットからゴム手袋を取り出して遺体の観察を始めた。

「現場保存のために、できるだけ部屋の内部には無闇に触れないでくれ。心臓の弱い者は今すぐ去った方がいいだろう」

そう云いながら岸辺は、できるだけ動かさないよう細心の注意を払いながら、遺体の節々に手を当てる。

「駄目だ。どの関節も全く動かないし、腰には死斑も多数出てる。少なくとも朝食の時には、既にこの状態になっていたというわけだ・・・ただ、何か妙だな・・・」

「キャッ」

川崎に促されるようにして部屋を出ようとしていた春野の耳にその言葉が入ってしまい、さらなる混乱を与えた。

目は酷く充血し、口をわなわなと震わせている。「もう嫌」という言葉を呪いのように何度も呟いている。

「死亡推定時刻は十二時間から十三時間、幅を持たせて十一時間から十四時間といったところか。現在の時刻から逆算すると、昨夜午後十時から午前一時の間ということになるな。あくまで一学生の見解だけど」

「恐らく正しいと思う。私も探偵小説を読んでいる延長で、少し法医学をかじっているの。今の歩の状態を見るに、その位が妥当だと思うわ」

嗚咽を繰り返す春野の身体を優しく包むように抱き寄せる渡戸は、岸辺に向かって云った。

「ひとまず、皆落ち着こう。一度居間に戻った方が良さそうだ。美姫、裕子を下に連れていって、水でも飲ませてやってくれないか」

川崎はそういうと、入念に遺体の状況を観察する岸辺の方に歩み寄った。

「一体なんだ、これは」

川崎は震える手で、硬直した帆留の両手が握っている物体を指差しながら尋ねた。

「見ての通り、鉄砲だよ」

岸辺は毅然とした態度で答えた。

「だが、こいつは本物ではない。恐らく僕たちがさっき応接室で見たレプリカの、足りなかった一つがこれなんだろう。撃たれたような痕はどこにもないし、血痕もない。それに、撃った時に異常な程の音がするはずだろう」

「どういうことだ?訳がわからない。死因はなんだ、自殺なのか?」

「ここを見てくれ、首に紐状のもので絞められたような跡があるだろう、死因は絞殺だよ。自殺なんかじゃない」

「そんな・・・。駄目だ、全く状況が飲み込めない」

川崎は嘆くようにそういうと、下ろした視線の端に何か光る者を認めた。

ベッドの支柱の影に隠れていたそれを、未だに震えの止まらない手で拾い上げると、岸辺の方に見せた。

「マスターキーだ。やはり、歩がまた美姫の知らないうちにくすねていたのか?」

「帆留が盗んだ可能性も無くはないが、恐らく帆留を手にかけた犯人が盗ったんだろう。これは自殺じゃあなくて他殺だ。客室はどれも内側から鍵をかけるか、各々が持っている専用の鍵を外側からかけるしか方法はない。でも、こいつの持っていた鍵は、はじめからあそこの机の上に置いてあった。犯人が、どこかのタイミングでマスターキーを奪って部屋に侵入し、殺害。そして、外側から鍵をかけた後に、扉と床の僅かな隙間から滑りこませるようにして部屋の中に入れたんだろうさ。それと、やっぱりこいつ寝る前に、あれを服用していたんだ。ほらあそこ、鍵の隣に小袋が置いてあるだろう。あれを使って、碌に意識もはっきりしない状況で殺害されたようだ」

岸辺は理路整然と考えを述べていたが、その額には大粒の脂汗が滲んでいた。

「歩のためにも、この部屋は警察が来るまでこのままにしておこう、しっかりと鍵を掛けて。一度僕たちも下に降りよう。状況を整理した方がいい」

川崎はそう云うと、開かれたままの帆留の瞼を閉じて、顔の上にタオルを掛けた。

部屋を出ると、外から入念に鍵を掛けた。

午後二時半過ぎ。居間には、現世に残された者たちがテーブルを囲うようにして座っている。未だに嗚咽を漏らすもの、テーブルに突っ伏したまま動かないもの、落ち着かない様子で周囲をチラチラと見回すもの・・・前代未聞の異常事態に対する反応は様々であった。

二人が階段から降りてくるのが見えると、巳風は即座に視線を移した。

「帆留さんに何があったんですか?」

川崎は、慌てふためく巳風を宥めながら、席に着いた。

「彼はどうやら何者かによって殺されたらしい。この島にいる誰かに」

岸辺は毅然とした態度を崩すことなく続ける。

「首に紐状の物で縛られたような形跡があった。マスターキーを盗んだのが帆留なのか犯人なのか分からないが、犯人は帆留の部屋に侵入し絞殺。外から鍵を掛けた後で、扉の下からマスターキーを部屋に戻したというのが見解だ。死亡推定時刻は、昨夜午後十時から午前一時の間、夕食後の晩酌を終えて解散した後に起こったと思われる。一応渡戸の言質もとってあるから、信頼に足る情報ではあると思う。銃が持たされたのは、彼の死後だと思われるが、その理由は現時点では見当もつかない」

「そんな・・・」

目の前で起きたことが再度言葉として伝えられたことで、巳風は帆留の死を現実のものとして認識せざるをえなくなった。

「それで、悟。警察はいつ頃到着するんだ」

「それが・・・」

そういうと、巳風はゆっくりと俯きながら、玄関の方を指さした。

「電話線が切られているんです・・・昨日はそんなことなかったのに」

「おいおいおい、何故そのことを先に云わなかったんだ、君は」

「すみません、何でこんなことに・・・」

「岸辺、悟を責めても仕方がないだろう。皆、少し休んだら今後について話し合おう」


三時を示した時計の針の音と、テレビから発せられるニュースキャスターの味気ない声だけが嫌に居間に響いていた。

渡戸が用意してくれた料理に誰も口をつけるものがいないまま三十分が過ぎた。

そこで、重苦しい沈黙を破るようにして川崎が口を開いた。

「そろそろいいかな」

「そうね、ずっとこうしていても埒が明かないわ」

先程までの狼狽ぶりとは一転、かなり落ち着いた様子で春野は云った。

「少しいいかい?」

何本目かの煙草を灰にすると、岸辺は云った。

「犯行推定時刻に何かアリバイのあるものはいるか?」

「僕は全体で一度解散した後、岸辺ともう少し話をしてた。ふと時計を見て、もう遅いからっていって解散したんだ。それが確か・・・」

「二時過ぎだな、アリバイとしては十分だ。ちなみにあんな高い位置にあるから、誰かが時計に細工をして時間の偽装ってのも不可能だろう」

五人は、軽微な音を発しながら今もなお針を動かし続ける古時計を眺めた。床から約五メートル、階段の側面に取りつけられたその古時計は、階段の上からも、到底人の手が届く距離ではない。

「僕も二時頃まで望遠鏡で星を観てました。カメラで写真も撮ったから、証拠はありますよ。部屋にカメラがあるから、今持ってきましょうか?」

「そうか、念の為、僕も一緒に行くよ。大丈夫、部屋には入らないから」

「え・・・、ああ、ありがとうございます」

岸辺の提案の真意が捉えられていない巳風は、困惑した様子で岸辺の後を追った。

巳風が持ってきたカメラには、しっかりと撮影した日時が記録された写真の数々が残っていた。

それを一人ずつ順番に見せて、自身の無実を証明した巳風は、安堵した様子で席に着いた。

川崎は巳風からカメラを受け取ると、今一度写真の撮影時間を順番に確認する。

「最初の写真は一時一六分で・・・最後の写真は一時五十二分か。なんらおかしい点はない。それに昨夜居間から去った時間とも整合性があるな。当然それまでは居間にいたのだから怪しい点もない。おまけに外に出るために館の玄関を出入りするのを僕と岸辺は居間で目撃してる。唯一証明できないのは、カメラを取りに一度部屋に戻った時だな」

「それに、そのカメラ、自動撮影機能もあるみたいだな。カメラを空に向けて放置しておけば、何分かおきに勝手に撮影してくれるって便利な機能だ。それを使ってたならアリバイにはならない」

「そんなぁ」

優勢で進んでいた裁判が判決直前で覆された被疑者のような面持ちで、巳風は深く項垂れた。

「君達はどうだ?」

川崎は渡戸と春野を交互に見た。

「アリバイなんてないわよ。部屋に戻った後すぐ寝ちゃったから」

「私もよ。裕子と部屋の前で少し話した後、部屋で本を読んでいるうちに気づいたら寝ちゃってたの」

猜疑心が含まれた視線が自分に向けられていることに気づいた春野は、一口飲んだ水のグラスを置いた。

「私があんなことする訳ないじゃない。なんならあなたたち二人が犯人で、口裏合わせてる可能性だってあるでしょ」

「それを云われたらどうしようもないな、僕達がずっと居間にいた証拠なんてのは無いからね。はなからアリバイをつくるために居た訳じゃないんだから」

岸辺は大袈裟に肩をすくめた。

暫しの沈黙が五人の中心に生まれた。重く沈澱した空気が肌に張り付く。テーブルの上には、すっかり冷え切ってしまった昼食が並んでいるが、それに手をつけようとする者は誰もいない。

重い雰囲気を払拭するように、顎の下に手を当てていた岸辺が口を開いた。

「僕が思うに、犯人は僕たち五人の中にはいないのかもしれないな」

「どういうこと、勿論私たちの中に歩を殺した犯人がいるとは思えないけど。やっぱり自殺だったってこと?」

「違うよ。巳風、君が昨日の館までの道中・・・それに、さっきの小屋で云っていたこと、憶えてないか?」

「僕が?えーっと・・・」

「あの斧を見つけた時に云ったことだよ」

「えーっと、あっ、もしかして」

頭を掻きながら小屋でのやり取りを思い返していた巳風は、突然閃いたように顔を上げた。

「そう、僕達以外の人間がこの島にいるという可能性だ。個人的には、そっちの方がしっくりくる。僕達だって、全員が帆留に対して多かれ少なかれ恨みを抱くような心当たりはあるだろう。故人をこういう風にいうのは少し気が引けるが、あいつはそういう奴だった。だが何も殺す程の恨みなんて誰も持ち合わせていなかった筈だ。それに、あの斧。応接室の展示物の変化。それも、七人目の人間の存在で説明がつく」

「あの斧、さっき小屋の中で他の道具の中に埋もれていたのを岸辺が見つけたんだ。とても何十年もあそこに放置されてたとは思えないだろう。以前工事の時に使われていたとか、何か心当たりはないか?」

川崎の問いかけに、渡戸と春野は顔を見合わせた。

「んー。館の工事の日にも下見で島に来ていたけれど、工事の時は二人とも浜辺にいたから。どんな器具が使用されていたかなんて、当然見ていないわ」

渡戸はそういうと、隣の春野の顔を見て共感を求めた。

「そうね。私も分からないわ。でももし、一つ回収し忘れた道具があるなら、それに気づいた誰かが話題に出すんじゃないの?私が憶えているかぎりでは、本土に戻る前とか船では誰もそんな話していなかったと思うけどなぁ。そもそも、今時工事に斧なんて使うことないでしょう」

春野は首を傾げながら、今一度マントルピースに立てかけられた斧を見つめた。

岸辺の横に座る巳風は、何やら落ち着かない様子で周囲を見回している。

「やっぱり、僕たち以外の誰かがこの島にいるんだ・・・」

「あなた、何馬鹿なこと云ってんの。だいたい居るとしても、どうやってこんな無人島で生活できるっていうのよ」

「いいや、十分あり得るね。毎年何人が行方不明になるか知っているか?その内の誰かが何かの拍子にこの島に流れ着いて、今の今まで誰にも見つからずに生活してきた可能性だって無きにしも非ずだ。生憎この島は漁船すら近づかない分こんな極寒の二月でさえかなりの魚は取れるみたいだからね。それに寒さを凌ぐ為の館だってある。何年も住んでいるのであれば、当然館内の配置や島の地理にも詳しくなるだろうから、工事の時にはどこかに身を潜めることもできたはずだ。さらに幸運なことに、工事の時に大量の人が館内を行き来したことで、それまでの痕跡も綺麗に消えてくれた訳だしね。ちなみに、工事には何人がこの島に?」

「えーっと、確か工事の人達が十五人前後で、それに帯同する形で私と裕子の家族が下見に来た感じ」

「んー。仮に、その七人目・・・いいや、零人目と云った方が正しいか・・・そいつが過去に罪を犯して逃亡中の身だと仮定しよう。意図的か、偶然なのかは分からないがこの島に漂流したそいつにとって、決して人が近づくことのないこの孤島は、時効まで身を隠しながら、自分だけが使える絶好の場所だ。しかし、この島の再開発がはじまったことなんて当然知らないそいつは、急にこの島に大量の人間が訪れたことで酷く狼狽した。でも、作業員たちの話を聞いていたところ、どうやらこの集団は自分を探しに来たわけではなく、島の観光地化のための工事に来た事を知った。それと同時に、これまでまさに楽園だったこの島が、自分だけのものではなくなることを悟ったんだ。

だが、館には十人以上もの屈強な男たちがいて到底行動を起こすことなんてできない。でもそこで、作業員達の会話を盗み聞きしているうちに、僕達がいずれ島に来るという情報を偶然知った。そうして、いずれこの島に来る学生集団を殺害し、警察の捜査を掻い潜りさえすれば、悪い噂が広まって観光地化も座礁、再びこの島を、人ひとり寄り付かない楽園に戻すという計画を立てたというシナリオだ。ただ、あくまで推測にしか過ぎないのだから、くれぐれもこれを事実だと鵜呑みにしないでくれよ」

単に岸辺の推理に納得させられたのか、帆留を惨殺した殺人犯がこの中にいないと安心したかっただけなのか。岸辺の忠告にも関わらず、岸辺の提唱した『零人目説』に異論を唱える者はいなかった。

「一度全部屋見に行った方が良さそうだな。もしもの場合もあるから、心して行かないといけない。あの斧とナイフを持って行こう。君達二人はここに残った方がいい」

「嫌よ、もしその隙に狙われたらどうすんのよ。私も行くわ。ねぇ、美姫」

「そうよ、極力皆で固まって動いた方がいいわ。それに今はマスターキーがあるんだから、できるだけ対策をしておかないと。それと良浩、マスターキーはそのままあなたが持っていてくれない?」


川崎と岸辺はまず初めに、亀裂の隙間から中の様子が垣間見える部屋の扉の修復作業に取り掛かった。

使用されていない他の客室に遺体を移すことも考えたが、後の検察による捜査のためにも、できるだけ現場をそのままの形で残しておくことに決めた。修復とはいっても、館内には代わりとなる木材は無く、離れの小屋には行くことができないため、扉の隙間を縫うようにして純白のタオルを上から吊るす形で作業を終えた。

再び遺体に向かって黙祷をした後、修復した扉を閉め、しっかりと外側から鍵を閉めた。

その後五人は、二時間程かけて館内の全ての部屋を調べたが、零人目の存在を決定づけるような痕跡や隠し部屋を見つけることはできず、これといった結果は得られなかった。再び居間へと戻った五人の顔には、徒労に終わった捜索の疲れが明らかに表れており、ただ土砂降りの雨が屋根を打つ音が聞こえる居間に、午後五時を知らせる鐘の音が響いた。


「一度部屋に戻った方がいいかも知れない、ずっとこうしていても気が休まらないだろうしね。さっきの捜索で全ての扉と窓の鍵を閉めたし、奴は今確実にこの館内にいないことが分かった。それにこの豪雨だ、到底今行動を起こそうとは思わないだろう。念の為二時間おきに交代制で二人ずつここで見張りをやろう。外から入る手段は玄関と向こうの裏口しかないのだから、ここで目を光らせておけば問題ない。一人足りない分は僕が二回引き受けるよ」

「そうね、二人いれば、いざというときもどうにかなるかもしれないし。何より少し休みたいわ」

春野は重い瞼を擦りながら、川崎の提案に賛成した。

「最初は、僕がやろう。とても部屋に戻る気にはなれないからね。それに川崎、君こそ少し休んだ方が良さそうだ。さっきから随分顔色が悪いぞ。それと、一応女性二人の組み合わせも控えた方がいいかも知れない。さっきの渡戸の話だと、そいつはかなりの体格の持ち主のようだから、渡戸と春野の時に君がついてもらうのでいいかい?」

岸辺は、煙草を灰皿に押し付けながら、川崎の方を見上げて云った。

「そうだね、じゃあ悟、七時まで岸辺と見張りを頼む。夕食はその後にしようか。念の為、食事は缶詰で済ませた方がいいだろうな。朝見たときかなりの数あったから、最終日までは持ちそうだし」

そういうと、川崎はゆっくりと席を立ち、玄関前に置かれた釣竿を拾いあげて階段の方に歩き出した。

それに続くようにして、渡戸と春野も席を立った。

「そうだ。必ず鍵を掛けるのを忘れないようにね。荷物をドアの前に置いてバリケードをつくっておくのもいいかも知れない。それと、万が一の時は大声で叫ぶんだ、分かったね。それじゃあ、七時の夕食で」

川崎は階段の途中で思い出したように後ろに振り向くと、四人の顔を順番に見ながら云った。


階段を上がる三人の背中を眺めていた巳風は、それを終えると、そそくさと岸辺の横の席に座った。

「本当にこの島に、他の人間がいるんでしょうか?最初に云い出したのは僕だし、もちろん一番可能性が高いけど、僕、未だに信じられません」

巳風は酷く怯えた様子で、しきりに辺りを見回しながら云った。

「もし、零人目が居たとして、どうやって彼は、誰にも見られずに帆留さんの殺害を終えたんでしょうか。各客室には、それぞれ硝子窓がありますが、到底人が出入りできるほどの大きさじゃないですよね。精々片腕だけでも出せれば良い方です。でも、昨夜の犯行推定時間に階段を行き来していれば、当然岸部さんや川崎さんに目撃されるはず。いくら、お酒が入っていたからといって知らない人間が通ることに気づかないはずがない。ということは、零人目は犯行後も館内の何処かに潜んでいたのでしょうか?」

「んー、それについては確かに考えていなかったな。二階から階段を使わずに外に出ることはできないんだ、犯行後は使われていない二室のどちらかに身を隠し、二時頃僕と川崎が解散した後に階段を降りたか。はたまた、僕達が館内の捜索を始める直前までは館内に残っていたのかもしれないな。でも、八つある部屋のどれを誰が使うのかを予め把握するなんて出来ないのだから、僕達が館に訪れる前から既に客室に身を潜めていたという線は消える訳だ」

「成程。ということはやはり、隠し部屋や隠し通路のようなものが何処かにあるんでしょうか」

「さっきも云ったけど、あくまで一つの説に過ぎない。当然この中の誰かが犯人である可能性もある。そんなこと僕だって信じたくないが。それと君ねぇ、君は向こうに座ってくれよ。僕は裏口、君は玄関を常に視界に入れておかないといけないんだからさぁ」

「えっ、あ、そうか。すみません。どうにも僕落ち着かなくて」

巳風はそう云いながら急いで席を立つと、岸辺の向かいの席に腰を下ろした。

「ええと・・・トランプでもしますか?まだまだ夕食まで時間ありますし・・・」

無云で煙草をふかす岸辺との間にできた沈黙に耐えかねた巳風は、テーブルに置かれたトランプケースを手に取りながら云った。

「ああ、そりゃあ名案だ。君、何ができる?二人向けなら、セブンブリッジ、スコパ、ジンラミー・・・ちなみに僕が得意なのはページワンかな。どうだ、心得はあるかい?」

「何ですか、それぇ?どれも聞いたこともないですよ。僕が昔結構やっていたのといえば、スピードですかねぇ」

「ふむ、スピードか。君、いいかい?僕たちの任務はあくまで館の見張りなんだからな。それも全員の命が懸かった見張りだ。トランプを楽しむのはいいが、スピードみたいな常に集中していないといけないゲームをして、零人目が入ってくるのを見落としたなんていったら、元も子もないだろう。あまりハイテンポじゃない[戦争]にしようか。それと、何かが動く気配がしたらすぐ知らせるんだ。最悪の場合この斧とナイフで戦うことになるんだから、くれぐれも見落とすんじゃないぜ」

巳風は途端に表情を険しくした岸辺に気圧され、本人も気づかないうちに背を正していた。

「分かりました、任せてください。じゃあシャッフルしますね」

巳風はそういうと、随分と慣れた手つきでシャッフルを始めた。

一枚ずつ指で弾くようにしてカードをテーブル上でスライドさせ、自分とテーブルの向こうに座った岸辺の手元に交互に配っていく。

「へぇ、やるじゃないか。そんな芸当ができるなんてね」

「小学生の時に必死に練習したんですよ。その甲斐あって、今じゃ無意識でもできるくらいです」

岸辺は感心した様子で、目の前に配られ始めたカードを手にとって裏返した。

手札の中には、スペードの八と三、クローバーの四、ハートの十二、ダイヤの七と共に、ドラキュラが描かれたジョーカーのカードが一枚紛れていた。

「おいおいおい、君、ジョーカーが入ってるぞ。配り始める前に予めジョーカーを抜いておくのがマナーだろう」

「ああっ、すみません、忘れてました・・・。その分一枚多く配りますから」

二人は時折扉の方を見遣りながら、真剣な面持ちで二十六枚の手札から交互にカードを出し始めた。

玄関と裏口の扉には、岸辺の提案によって、応接室にあった鈴が紐で架けられている。

各所に取り付けられ窓には全て鍵が下ろされており、その窓の向こうは既に暗色で埋め尽くされていた。

「岸辺さん、もしですよ・・・もし、0人目がいなかったとしたら、誰がやったと思いますか?」

巳風は、視線をあくまで手元のカードに落としたまま尋ねた。

「さあね、川崎はまずないといっていい。手洗いに行くことはあったが、ほんの二、三分だったし、そもそも二階になんて行ってないしね。ただ、何でも疑ってかかることだね。君は物事を簡単に信じすぎてしまう性分があるようだし。だから、何かと不都合な目に逢いやすい」

「そうですね・・・。僕、この会の先輩方皆のことを尊敬してましたけど、特に岸辺さんの描く台本が大好きだったんですよ、演っていても一番楽しかったですし・・・。特にあれ、『暗い桃色』が凄く好きでした。自分自身初めて主演を演じた作品だったから思い入れも強くて。結局登場人物みんな死んじゃうけど、あのどんでん返しの結末、最初台本読んだときは吃驚しました。だから僕、岸辺さんが小説家デビューしたって聞いた時、驚きもあったんですけど、また岸辺さんが描く物語を読めるんだって凄い嬉しくて、勿論これまで出た全作品読んでます」

自分のターンにも関わらず、巳風はトランプそっちのけで身を乗り出さんばかりに流暢な作品への愛を語っている。

「急にどうしたんだ、君は。勿論読んでくれていることは嬉しいけど」

岸辺は、拍子抜けしたような顔で巳風を見返した。

「まだ登場人物に人間味を持たせるのは苦手なんだな〜ってのは否めないんですけどぉ、相変わらず終盤の伏線回収の仕方が絶妙で。特に、作品を追うごとに、伏線の散らばせ方と台詞の構成がかなり上手になってますよ」

「おいおいおい、そんなこと思ってたのか。それに君今、まだって云ったか?ということは、高校の時からずっと思ってたってことだよな?君、何故それを云わなかったんだね」

「えへへ、だって岸辺さん、人に作品の口出しされるの、下の名前で呼ばれるのと同じ位嫌いじゃないですか。そんなこと思っても云えないですよ。それにもう岸辺さんはプロだから云ってるんですよ、あくまで一ファンの意見ですから」

「君も結構鋭いねぇ、編集から毎回云われていることと、全く同じことを指摘されるとは思ってもみなかった」

今や手に持ったトランプには目もくれず、岸辺は天を仰ぐように顔に右手を当てている。

「でもでも〜、川崎さんも良い台本描きますよねぇ。やはり舞台向けに作っているだけあって、観客の目を惹きつける演出が上手いんですね。マジシャンが観客を欺くために使うミスディレクションの技法を巧みに利用しているところとか、挙げ出したら、キリがないです」

「それには僕も同意するよ」

「あっ、そういえばなんですけど、実は僕、帆留さんが持たされていたあの銃のこと分かったかも知れません。あれって多分.み・・・」

巳風が突然真剣な表情で話し始めたその時・・・。

「えっ、今何か聞こえませんでした?」

巳風は取り乱した様子で突然顔を上げ、耳に掛かった眼鏡を振り落とさんばかりに辺りを見回している。

「おいおいおい、いきなりどうしたんだよ」

「岸辺さん、聞こえませんか?右の方から今・・・まだ喋ってますよ・・・何か男の人のような声が」

岸辺は後ろを振り返って玄関の方を見たが、何も以上はない。

「あああ・・・何だこれ・・・囁くような声が・・・あ、頭の中で聞こえる」

巳風の顔はみるみる色を失っていき、次第に肩が震え始めた。

「落ち着け、落ち着けって。君、何が聴こえるんだ。誰かがいるのか?おい」

岸辺の問いかけは一切耳に入っていないらしく、巳風は両手で頭を抑えながら、未だにしきりに首を振っている。

「おいおいおい、落ち着けよ。この館には僕ら以外いないよ。安心してくれ」

巳風の狼狽ぶりを見兼ねた岸辺は席を立ち、未だ焦点の定まらない視線を左右に動かしている巳風の肩を揺すった。

岸辺の介抱の下、平静を取り戻した巳風はゆっくりと席に着くと、両手で頭を支えるように項垂れている。

数分の間、煙草を吸いながら巳風の様子を観察していた岸辺は、もう大丈夫だとみるや口を開いた。

「ひとまず落ち着いたようだね。君、一体何が聞こえたんだ?」

岸辺の発した声に驚いたらしく、一度ビクッと肩を上げた巳風は、俯いていた顔を上げて答えた。

「急に頭の中に男性の声がしたんですよ、でも

、耳から聞こえるわけじゃなくて、直接頭の中に話かけてくるような感じでした。何を喋っているのかは全くわからないし、零人目が本当に来たんじゃないかと思って、僕、すごく怖くなっちゃって。すみません、取り乱して・・・」

真正面から巳風の話す様子を眺めていた岸辺は、ふと巳風の向こうに見える窓の方を見やった。

「そうか。すまんが君、今すぐ二階に上がって皆をここに呼んできてくれ」

「えっ、何でですか?まだ七時まで少しありま・・・」

「いいから、はやくするんだ」

岸辺は鬼気迫る表情で云った。その視線は未だに巳風の後方にある窓に向けられている。

「わっ、分かりました」

巳風が階段を早足で駆けていくと同時に、岸辺はテーブルの下に立て掛けてあった鉄製の斧を手に取った。

再び窓の方を見ると、やはりそこには先ほどまでと同様に、窓の向こうにいた。

窓の向こうには、黒一色で染められた暗闇から浮かび上がるようにしてこちらを見つめる、白。とうに陽が沈んだ時分に本来存在するはずのない異様な楕円形の物体が、こちらを覗き込むようにして館内の灯りを反射している。

それは、仮面だった。昼に応接室で見たあの仮面。春野が指を差して指摘した仮面。なんの偶然か、あの石仮面に酷似したあの仮面・・・。

それが、岸辺の視線を真っ向から見返すようにして窓から館内を見つめている。その様子には落ち着きがなく、常にゆらゆらと揺れている。黒い服を着ているためか、首下は暗闇に紛れて見えず、さながら顔だけが浮いているように思えた。

「どうしたの?」

二階から声が響いた。岸辺がそちらに目をやると、今の今まで寝ていたであろうパジャマ姿の渡戸が、二階の欄干から身を乗り出すようにして、こちらを見下ろしている。

「全員を起こして降りてきてくれ」

岸辺は叫ぶようにして云うと、再び視線を窓に戻した。

しかし、窓の向こうにはもうあの仮面は見えなかった。入ってくるのか・・・?

岸辺はしばしの間斧を持ち上げながら、裏口のドアノブを注視していた。

しかし、一向にドアノブは動こうとしない。耳を澄ませて扉の向こうの音を探るが、動くような気配はしない。

「おい、いるのか、岸辺。その向こうに奴が・・・」

振り向くと、そこには寝巻き姿の川崎がナイフを持って立っていた。その言葉で目の前の事態を察したのか、一緒に降りてきた巳風は、途端に川崎の後ろに隠れた。

渡戸と春野は不安そうな面持ちで、二階からこちらの様子を伺っている。

「ああ、そのようだ・・・。応接室にあっただろう、あの石仮面。あれが窓の外からこちらを眺めていた。だが、つい今消えた。もしかしたら、あの扉、今開かれるかもな・・・」

岸辺の視線はあくまで裏口の扉に向けられている。

極度の緊張が走る館内、全員の視線は二つの扉に向けられている。

そうして、一体どれ程の時間が経っただろうか、七時を報じる鐘の音が館内に響いた。


「どうやら怖がらせることが目的だったようだな。今入ってくるつもりは無いらしい」

口を開いたのは川崎だ。

「皆、流石に夕食は食べておいた方がいい。美姫、裕子、降りてきて用意を頼めるか。僕も見張りで一緒に行くから」

川崎は二階の方を見上げて叫ぶようにそう云うと、岸辺の近くに寄った。

「君は悟と両方の扉を見ておいてくれ、もし入ってきたら叫んで知らせてくれよ、頼んだ」


館に侵入しようとする気配が無くなってから約三〇分後。一つのテーブルを囲うようにして五人は座っているが、昨夜によりも一つ増えた空席が嫌に目に付く。

夕食は、缶詰のシチューにフランスパン、サラダという簡素な物だった。渡戸と春野が食料を一つずつ入念に観察し、缶詰が一度開かれた痕や注射針で注入された痕がないか調べてくれたらしい。

それでも、仲々目の前の食事に口をつけようとしない五人だったが、川崎が食べ始めたのをきっかけに、皆一斉に手を動かし始めた。

帆留の死によって食物が喉を通らなくなっていた五人も、十時間以上何も口にしていなかっただけに、かなりの勢いで腹を満たしている。

お互い何も発することなく、ただ目の前に置かれた食事を黙々と消化していく。巳風はひとちぎりのフランスパンを夢中に頬張っているが、時折玄関の扉に目を向けるのを忘れない。

「巳風、さっきの変な声はもう聞こえないのかい?」

「えっ、何それ?何かあったの?」

岸辺の問いかけに、春野は疑問を示した。

「ああ・・・、ええと、実はさっきの仮面の一件、と云っても僕はその仮面を見ていないんですけど、その前に何か男の人の声が聞こえたんです。音が耳から入ってくる感じじゃなくて、脳内に直接聞こえてくるような感じでした。それに岸辺さんには何も聴こえていなかったんですよね。僕、こんな体験今までしたことないから・・・、ストレスで幻聴でも聴いたんでしょうか・・・」

巳風は覇気の無い表情で、横に座る岸辺を見やった。

「巳風のコップに、帆留の部屋にあったあれが盛られたっていうことも考えたんだが・・・。まさか君自身が使ったっていうことは無いよな」

岸辺の問いかけに、巳風は大袈裟に首を横に降った。

「どんなことを話していたか教えてくれないか?何か手がかりになるかもしれない」

川崎は真剣な面持ちで云った。

「確かにあれは男性の低い声だったと思うんですけど、靄がかかったような声で、何を話しているのかは分からなかったです」

「何かを伝えようとしていたってこと?これも零人目の仕業なのかしら」

「でも悟の話を聞いた限り、そんなの超能力じゃない。悟だけに聴こえるように話すなんて、もはやテレパシーの域ね」

渡戸と春野も首を傾げながら、この奇妙な現象について思案を巡らせている。

一度今に沈黙が戻ると、川崎は一度咳払いをした後、やや改まって云った。

「やはり、一度外も調べた方がいいかな。こちらから向こうの動向を探るんだ」

「やめた方がいいわよ、いつ襲われるか分からないもの」

「ああ、やめた方がいいと思うね。裏の小屋なんてかなり怪しいけど、この館に閉じこもっている以上は、向こうもそう簡単に手出しできないだろうから」

川崎の提案は、春野と岸辺によって否定された。

「そうだな、だがやはり問題は明後日だな。仮に館に閉じこもって、奴の侵入を防ぎながらあと二日保ったとしても、明後日午前十時までに、どうやって館から出て海岸に向かうかだな・・・」

久しぶりの食事に少し気持ちが高揚していた何人かは、川崎の言葉を聞いて再び肩を落とした。

「零人目は、帰りの船が来る時間を知っているんでしょうか?それによって今後の動向も予想できそうですけど」

「流石に昨日船から降りた時にはもう何処かに隠れていて、僕達と漁師さんの会話を聞いていたなんてことは無いだろう」

巳風の問いかけに答えたのは川崎だった。

「以前の工事の時に、作業員や、春野と渡戸の両親の会話から知った可能性もある」

岸部も口を挟んだ。

「もし知っているなら、そのタイムリミット、つまり明後日の午前十時までに全員始末しまければいけないので、無理にでも行動に出る可能性が高いですね。もしかしたら船に乗る時を狙われて、船ごと奪われる可能性もあります」

「そもそも仲間がいないとは限らない。あの送電線を使って連絡を取り、本土から秘密裏に物資や食料を送ってもらっていることもあり得るからな」

岸辺の言葉に、其々はあらゆる悪い可能性を考えさせられた。

「まぁ、それはまたその時に考えましょう。まずはそれまで零人目に侵入させず、生き残る方法を考えましょうよ。」

四人の翳りのある表情に気づいた巳風は、わざと大袈裟に云った。

「そうだ、それと帆留さんが両手に持っていたあの銃のレプリカ。僕、あれを持たされた理由が分かったかも知れません」

ケースから煙草を取り出していた岸辺は顔を上げ、巳風の方に目を向けた。

「ずばり、見立てですよ」

「見立て?どういうことなの、一体何の見立て?」

渡戸の問いかけにも態度を崩さず、巳風は順番に各々の顔を見回す。

「昨夜、ジョジョの登場人物との名前の関連性について話したじゃないですか。その時に僕、帆留さんの名前、ポルポにも読めるって・・・両手でピストルを口に突っ込んだようなあの姿、あれ、ポルポの死の描写の見立てだと思うんですよ」

それを聞いた四人は面食らった様子で驚きの声を上げた。

「そうか、成程。確かに作中でポルポは銃を口に咥えながら死んだ。バナナだと思って口に入れたものが、獄中にいるポルポの元を訪れたジョルノが、去り際にバナナに変えていた銃だったってやつだ。ジョルノの仕掛けたトリックには議論の余地があるが、犯人が帆留を絞殺した後に、わざわざその死体にレプリカの銃を握らせるという不合理的な工作とも辻褄が合う」

岸辺は、ポケットから新たな煙草を取り出しながら云った。

「ということは、犯人が本物の銃を持っている可能性は消してしまってもいいでしょうね・・・」

「どうだろうね、本当の銃を持っていればそれを使用したかもしれないが、その場合だと、できるだけ音を抑えようとしても撃つ時にはかなりの音がするからな。それで周りに気づかれる危険性を考慮して使用しなかったのかもしれない。だが、見立てとして使うのであれば、遺体と共にその場に残しておかなければいけないから、当然その銃を僕たちに回収されることも想定しなければならないことになる。みすみす敵に塩を送るような馬鹿な真似をする奴とは思えないから、やはりモノホンは持っていないのかもな」

「岸辺の今の話だと、本物の銃を持っていないと僕たちに思わせるための策略って可能性もあるな。昨夜の時点で既に館の中に居て僕たちの会話を聞いていたのか、はたまた、盗聴器が仕掛けているのかもしれないな」

「じゃあ、僕たちのこの会話も全て筒抜けっていうことじゃないですか」

「ああ、もう一度館中を調べて、盗聴器がないか調べた方がいい」

「でも、こんな無人島で隠れながら生活しているような人が、漫画を読んでいるなんて到底思えないな」

渡戸は、空いた皿を一枚ずつ手に取りながら云った。

「いくら島全体を自由に使えるからって何年もずっといたら、やることも無くなるだろう。時々本土から物資や食料を届けにくる仲間がいるなら、漫画の類を娯楽品として一緒に送ってもらっているなんてのも考えられるな。昨夜の会話を聞いていたところ、偶然にも知識のあるジョジョの話が僕たちから出たのに気づいたそいつは、嬉々としてその見立てを実行した訳だ。まあ見立てをした理由は依然不明だがな、最終目標は一人残らず狩ることだろうが」

「とりあえず、もう一度館内を調べましょ。全部向こうに聞かれているなんて、既にやられているようなものだわ」

春野は、飲んでいたコップを叩きつけるように置いた。


それはあった。一度目の捜索では調べなかった、部屋の隙間や机、箪笥の裏。応接室や居間、キッチンなども含めた全部屋に一つずつ。意識して探さなければ決して見つけることができないような場所に盗聴器が貼り付けられていた。二階にある客室八室の内、帆留の事を考えて入ることを控えた一室を除いた七室からも同様に発見された。十五個程ある装置の裏には、ほんの僅かな緑のランプが付いており、その横の小さなボタンを長押しすることで色が赤へと変わった。録音が停止されたという合図である。

「全く気味が悪い。相当用意周到な奴だな、こいつは」

岸辺は、居間のテーブルの裏に取り付けられていた盗聴器を眺めながら云った。

「これは、後から回収して、録音されたものを聴くタイプなんですかね」

「どうだかな、常に音声が繋がっている電話とでも考えた方がいいだろう、後から聴くんじゃあ意味がないんだし」

それぞれの部屋から戻ってきた渡戸と春野、川崎も両手に同じ装置を持っている。

「いくらなんでもここまでやる?気味が悪いわ、こんな数一体どうやって用意したのよ」

春野と渡戸は、五.、六つ掌に乗せられた、僅か五cmにも満たない円形の装置を訝しげに眺めた。

その一つ一つには、一から順に異なる数字が記されたシールのようなものが貼られている。

「自分の人生が架かってるんだから、まあ当然といえば当然かもな。でも、これらの装置、僕達がこの館に来る前から仕掛けられていたらしいな。客室八室ある内のどれを僕たち六人が使用するかまでは分からなかったから、八つ全ての部屋に仕掛けておいたんだろう」

「これを使って逆に相手を混乱させることってできないでしょうか?装置の一つ一つに、一から順に異なる番号がついてますよね。多分一番は居間、二番はキッチン・・・という風に、どこに置いたのか見分けるための数字だと思うんですよ。だからそこを逆手にとって、これまで置かれていた部屋からランダムに置き換えちゃうとか・・・。それだけでも大分混乱させられると思いますけど」

巳風は、眼鏡の縁を人差し指で押さえながら云った。

「嫌よ、それじゃあ盗聴はされたままじゃない」

春野は大袈裟に両手を広げ、拒絶の意を示した。

「いいや、悪くない」

その横で岸辺は云った。

「ただ、君考えてみなよ。録音が停止される直前までの会話は筒抜けなんだから、実行してもまるで意味はない。僕たちが盗聴器に気づいたことを知った奴は、もう盗聴器なんてものを当てにするはずはないから。それでも、盗聴器の存在に気づいて無効化できたのはかなりでかい。奴もこれまでのように、館内部の状況を知ることができなくなったんだからね。さあ、はやいとこ全て壊してしまおうか、念の為にも」

そういうと岸辺は、投げ出されていた斧を両手で持ち上げあげた。

「僕がやろうか、君のその腕だと、全部破壊するまでにどれくらいかかるか分からない」

岸辺から斧を受け取った川崎は、床に置かれた何十もの小さな装置に向けて、幾度もそれを振り下ろした。


一通り作業を終えた五人は、先ほどまでよりかなり軽い面持ちで、再びテーブルを囲んでいる。

「コーヒーでも入れてこようかしら」

渡戸はそういうと、腰を上げた。

「僕が行きますよ。トイレに行きたいので、そのついでで」

巳風は右手を上げて、渡戸が立ち上がるのを制止するようにしながら云った。

時刻は八時半を過ぎており、つけっぱなしになっていたテレビからは、バラエティ番組の何やら騒がしい喚声がノイズ混じりに聞こえてくる。

四人は一件落着といった具合で、椅子にぐったりと凭れかかっている。

「これで、少しは安心できるわね」

「ああ、でもまだ見張りは継続しないとな。十時から、また二時間交代で」

川崎は、遠くに置かれたテレビ画面を見つめている。

「次は誰がやるの?私なんて到底寝れそうにないわ」

「眠くなるのはこれからだろう。眠くなってからがキツイんだよ、見張りってのはさぁ」

あくまで視線は目下の文庫本の方に向けながら、岸辺は春野に云った。

「そうねぇ、かなりの量コーヒー飲んでおかないと」

「次の担当は僕がやろう、岸辺と悟はさっきやってくれたから少し休むといい。裕子と美姫はどっちが先にやるか決めてくれ」

「うーん、私一度寝ると、その後頭全然回らないから・・・」

「じゃあ私後でいいわよ、裕子」

五人分のコーヒーを載せた盆を両手で支えながら巳風が近づいてきた。

「皆さーん、出来ましたよ。少し粉を入れ過ぎたかもしれません」

盆を置くと、湯気のたっているカップを一つずつ丁寧に差し出す。

「いいの?ありがとうね、それに悟も」

「いいのよ、私全然寝なくてもいけちゃう体質なの。高校の時なんて夜中までジョジョ四部漫画で読んで、そのまま寝ずに、高校行って定期試験受けたりしてた時もあったわ」

「確かに、二年の時の美姫。パッと見はいつも通りの感じだけど、時々返事が可笑しかったり、ボ〜っとしてることあるな〜って思ってたんだけど、そういうことだったんだぁ」

「えっ、そんな風に見えてた時あったの?それなら云ってよ〜」

春野は合点が行ったという具合で、過去を懐かしむように渡戸と微笑みあっている。

「えええ、そうだったんですか?渡戸さんそれでも、いっつも学年十位以内に入ってるって話でしたよね。全く羨ましい体質だなぁ〜。僕なんて最低でも七時間は眠らないと、日中眠くてしょうがないですよ〜」

巳風は羨望の眼差しで渡戸をみた。

その瞬間、耳を切り裂くような怪音が岸辺の背後から聞こえた。

五人は一斉に音源の方に顔をやり、未だに金切り声のような不快な音を発し続けるそれに懐疑の目を向けた。

それは、寸前まで軽快なジャズを奏でていたレコードだった。

そのレコードは少しの間異音を鳴らし続けた後、突然パタリと演奏を止めた。

「かなり古いものだし、ガタがきてたのかもね」

五人の間に生まれた沈黙を打ち破るように、渡戸は淡々と云った。

「ああ、レコードに傷でもついていたのかもしれない。しかし、美姫がショートスリーパーというのは初耳だな。それなら、ずっと美姫に見張りをしておいてもらおうか」

今しがた体験した奇妙によって強張った四人の表情をほぐそうと、川崎も殊更明るい口調で続けた。

「嫌よ、別に眠くならないわけじゃないんだから」

川崎の冗談に対して、渡戸はやや大袈裟に返事をしながらコーヒーカップに口をつけた。

「カッ」

いつもの調子に戻りつつあったテーブル上で、二度目の異音が放たれた。

それぞれが一斉に顔を上げ、その音の発生源の方を見た。

その視線の先には、今しがた口に入れられたコーヒーを吐き出しながら机に突っ伏した巳風がいた。

両手で胸のあたりを押さえながら、のたうちまわるように体をしきりにバタバタしている。

「カッカッ・・・カッ・・・」

苦悶の表情を浮かべたその額には大量の脂汗が浮かんでおり、必死に口を動かして酸素を取り入れようともがいているが、その口からは言葉にもならない音が断続的に発せられるだけだった。

「おい、どうした悟。大丈夫か」

川崎は急いで席を立って巳風の方へ駆け寄る。

しかし、川崎の声は巳風には届いているのか、返事はない。

「マズイ、マズいぞ。呼吸ができてない」

岸辺もすぐさま席を立って、巳風の方へ向かった。

巳風の腕を掴もうとするが、巳風はそれを振り払おうとするように手足を振り回している。

「嫌っ、どうしたの悟」

春野は両手で口を押さえながら目の前の光景を

その横に座る渡戸は、驚きのあまり言葉が出て来ず、呆然とその光景を眺めている。

そうしている間に巳風は、椅子から転げ落ちるようにして床に倒れ込み、少しの間手足をバタつかせた後・・・ゼンマイの切れた玩具のように、パタリと動かなくなった。

岸辺は、巳風の上体を持ち上げて仰向けにし、繰り返し人工呼吸を行う。

「誰もコーヒーには口をつけるなよ」

ふと、岸辺の記憶の片隅から、脳内を蝕む嫌な感覚が込み上げてきた。

(・・・何だ、これ・・・?いや、今はそれどころじゃない)

岸辺は懸命に巳風の胸元を何度も押し込んでは、巳風に呼びかけ続けるが、一向に返事は無い。

「駄目だ・・・・もう心臓が動いていない・・・」

岸辺の努力も虚しく、残酷な事実が告げられた。

「ああっ、そんなっ・・・私・・・」

渡戸はようやく口をついた言葉とともに、目の前に項垂れた。

誰も言葉を発する気力すら無く、再び重たい沈黙が残された四人を包んだ。

「クソっ」

岸辺は一度自分の膝を叩くと、立ち上がってテーブルを見下ろした。

巳風の飲んだコーヒーカップは先程の騒ぎによって倒されており、中に入っていた茶色の液体はテーブル上に広まっている。

岸辺は一定の距離を保ちながら、その液体に顔を近づけた。

「このアーモンド臭、これ、恐らく青酸カリだ。毒を盛られたんだ。僕や渡戸もコーヒーを飲んだが、異常は無いようだから、巳風が偶然取ったカップにだけ予め塗られていたんだろう」

「あああ、ごめんなさい。わ、私がカップを確認していれば・・・」

それを聞いた渡戸は、嗚咽を漏らしながら声を上げた。

「カップを最後に使ったのはいつだったか・・・」

「今朝の朝食の時。元々六人分しか持ってきてないから、使った後は毎回洗ってから棚に戻してたんだけど・・・」

「えっ、ということは朝食後・・・十二時頃から今までの間に毒が塗られたということか?」

川崎は驚いた様子で、渡戸の方を見遣る。

「・・・じゃあ、その間に零人目は館内にいたってこと?」

渡戸は酷く怯えた様子で云った。

「そうだと思う。島の散策に行った時なんて、まだ鍵なんてかけていなかったし。帆留の死に気付いて館の捜索を始める頃には既に工作を終えていたんだ」

春野は先程からこちらの会話には気にも留めず、虚ろな目でぶつぶつと何か呟いている。

「でも何でわざわざ一人だけを狙ったんだろうか。こんなこと云いたくないが、この方法なら僕ら全員を纏めて仕留めることもできたはずなのに。それに、マスターキーもだ。これがあれば自由に館の出入りができるのに、どうして一度盗んだものを、わざわざ僕達に戻したのか・・・」

川崎は、肩を竦めながらテーブル上に並べられたカップを眺めた。

「あんな見立てを行うようなやつなんだ。帆留の時も、明かに僕達目撃者の目を意識した犯行だった。一人ずつ減らしていくことで、どんどん恐怖に蝕まれていく僕達を見て、悦に浸っているのかも知れない。小説家が探偵小説の中で、読者に犯人に関するヒントを与えるように、奴自身も、ある程度僕達にも公平性を担保することで、この殺人を、平等なゲームとして楽しんでいるとか。見立てに何か、零人目に繋がるヒントを隠しているなんてこともあるかも知れないね」

「見立て・・・今回も見立てなの・・・?」

渡戸は赤くさせた目を上げながら、仰向けになった巳風を見た。

それにつられるように、川崎と岸辺も巳風の方に目を向けて、思考を巡らせる。

「あっ」

突如声を上げたのは、川崎だった。

「パープルヘイズか」

「え?」

目を見開いたままの渡戸は、ポンと手を叩いた川崎の方へ視線を移した。

「美姫、昨夜云ってただろう、巳風悟でフーゴと読めるって。そのフーゴのスタンド、パープルヘイズは致死性のウイルスを放出する能力だろう。巳風のカップに盛られた毒は、そのウイルスのモチーフとして使用されているんじゃないか」

「でも、フーゴは作中死んでないじゃない」

ようやくまともな意識を取り戻したのか、春野は酷く腫れた目を擦りながら、震える声で尋ねた。

「零人目の行う見立てにおいて、そこは関係ないんじゃあないか?元々の目的として僕達全員の抹殺があり、昨夜僕達の名前の話を聞いていたから、それぞれに関連のある見立てを行うんだろ。ちなみに、作者の荒木氏によれば、チームから外れた後のフーゴを、ジョルノ達の敵として再び登場させるという構想もあったらしいからね」

「ちょっと待って。おかしくない?仮に最初から悟を狙っていたとして、一体どうやって、棚にあった六つのカップの内、巳風が使用するカップにだけ毒をもることができたの?見立てじゃなくて、誰でもいいから私達の内の一人を狙って毒を盛った結果、運悪くハズレくじを引いたのが悟だっただけじゃないの」

「確かにそうかも知れない」

渡戸の意見に納得するように、岸辺は今一度テーブル上に並べられた四つのカップと、横向きに倒れたカップを一つずつ凝視した。

「うん、確かにこの五つのカップはどれも同じ種類だし、どこにも違いはない。どこか一部が欠けてるとか、裏に何か目標(めじるし)があるとか、そんなこともない。それに、巳風がどのコップを使用するのかを事前に知ることなんてできるわけがない。小説においても、見立てというのは、はったりとして用いられるのが常だ、やはり渡戸の云う通りだろう」

「私、思ってたの・・・ポルポと違ってフーゴやジョルノは作中で死んでないから、私たちも大丈夫なんじゃないかって・・・でも・・・ああ・・・もう嫌、帰りたい・・・」

春野はそう云うと同時に、再び肩を震わせ始めた。

「もう嫌・・・もう嫌・・・・もう嫌・・・」

春野の精神は既に限界を迎えていたらしく、虚空を見つめながら、しきりに独り云を呟いている。

「悪い、美姫。君も大変だろうが、少し裕子を部屋まで連れて行ってやってくれないか。心身ともに疲弊しきっているみたいだから」

「分かったわ、行こ、裕子」

春野は渡戸に半ばおぶられるように肩を支えられたまま、おぼつかない足取りで階段の方へ歩を進める。


疲労、猜疑心、際限のない恐怖の混じった陰鬱な空気が、石油ストーブから放たれる生ぬるい暖気と混じり合い、四人に重く伸し掛かる。とうに過ぎ去った安寧を追い求めることすら拒まんとする。

心なしか以前よりも不吉な音を刻む時計の針は、十時を回っている。

川崎は視線を時計から戻すと、銜えていた煙草を灰皿に戻した。

「今宵は特に警戒が必要だ。悪いが美姫、裕子の代わりに最初の見張りを頼む。それと岸辺も、もう部屋に戻って今のうちに休んでおいてくれ。四時に交代だ」

「ああ、了解した。何かあったらすぐに呼んでくれよ」

岸辺は最後の一本を灰にすると、重たい腰を上げた。

「一度応接室を見てから行くよ、じゃあおやすみ。くれぐれも気をつけろよ」

「ああ、おやすみ、岸辺」


岸辺は一度応接室を覗き、石仮面が無くなっていることを確認すると、二階の自室に戻った。

その道中、春野の介抱を終え、部屋から出てくる渡戸とはちあわせた。

「あっ、裕子ね、とりあえず落ち着いたんだけど、全然寝れそうにないって。睡眠薬持ってたら貸してくれない」

視線は岸辺の方へと真っ直ぐに伸びているが、その目の下は赤く腫れており、いつもの力強さはない。

「そうか、まだ残りがあるから、部屋から持ってくるよ」

岸辺はすぐさま踵を返して部屋に入ると、ベッドの近くの小テーブルに置かれたその薬を手に取った。

まだ十二錠程残りがあることを確認すると、足早に部屋を出た。

「これ、一回四錠だ。水で一気に流し込んでやってくれ」

「ありがとう、それと私の分ももらっていい?」

「ああ、かなり強めだから、見張りの前に服用するのはやめておいた方がいい」

「分かったわ。じゃあおやすみ、気をつけてね」

階段を降りていく渡戸を見届けると、岸辺は再び部屋に戻った。

入念に鍵を下ろし、残っていた鈴をノブに吊り下げる。念のために、扉の前においたスツールの上に鞄を乗せた。

今一度磨り硝子越しに外を眺めた。

(やはり、窓から外に出ることなど不可能だ。どんなに力を込めようと、窓自体を外すこともできない)

軽くシャワーを浴びて一通り寝る準備を済ませると、ベッドに腰掛けて、煙草に火をつけた。

睡眠を渇望する倦怠感に満ちた身体とは裏腹に、頭は忙しなく回転を続けている。

紫煙を燻らせながら、灯りを消した部屋をぼんやりと眺める。

奴はどこに潜んでいるのか・・・。なぜあのような奇怪な見立てを行うのか・・・。

窓の外の暗闇からいつの間にか現れ、嘲笑うようにこちらを眺めていたあの仮面・・・。昨夜の悪戯の時と全く形相のまま息絶えていた帆留。最後の一云を発することすら許されず、人生を唐突に終了せざるを得なくなった、あの巳風の物憂げな目・・・。

今日の凄惨な光景が映像として脳内で再生され、それに付随する様々な疑問が時折浮かんでは流れるように消えていく。

現実世界の時間の進み方から大きく逸脱した、この島に流れる異質な時間の感覚。

気づけば、腕時計の針は十一時を回っていた。流石に寝ておかなければ。

三時五十分のアラームをセットした腕時計を外し、小テーブルに置く。

四錠をプラスターパックから取り出し、水で流し込む。

ニコチンにより回転が続けられていた脳はそのギアを落とし、徐々に視界が曖昧になり始めた。

(明日自分は生きているのだろうか・・・)


ああ、まただ。

巳風の応急処置を行なった際に感じた、身体を苛むあの感覚。 

昨夜見た夢の中でも感じた、取り返しのつかない罪の意識。

しかし、幾ら足掻いてもその感覚の根源に辿り着くことはできない。

赤いランプと共に、けたたましいサイレンの音が近づいてくる。

込み上げてくる汗、徐々に脈立ち速くなる鼓動。

永遠に変えることのできない過去の過ちを前にした、途方もない無力感。


ああ、詩穂・・・


詩穂?誰だ、誰だったろうか・・・

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る