青藍島偽証殺人

岸辺

二月十七日(木)

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登場人物


川崎良浩(かわさきよしひろ)(21) 元S高校生徒会長兼演劇同好会会長で、現在は国立大学にて法学部を学ぶ秀才。

渡戸美姫(わたどみき)(21)元S高校演劇同好会、現在国立大学で語学を学ぶ中学から剣道を習っており、趣味は料理と読書。

岸辺実(きしべみのる)(20)同、大学で医学を学ぶ傍ら、小説家として活動。卒業後は父親が営む私営病院を継ぐ予定。

春野裕子(はるのゆうこ) (20)同、女子大の経済学部に在籍。裕福な家庭の生まれで、県内でも名高い不動産王を叔父にもつ。

帆留歩(ほどめあゆむ) (20)同、私立大学の政治学部に在籍しているが、最近は不登校。バンド活動に力を入れている。

巳風悟(みかぜさとる)() (19)同、唯一の未成年。大学に進むタイミングで上京、一人暮らしを始める。専攻は日本文学で、趣味は天体観測。

城島譲(じょうしまゆずる) (20)同


―は想った。この計画の先に思い描く未来を。身に秘めた怒り、憎悪、復讐にも似た感情の数々。

身体に纏わりつく、未だかつて感じたことのない程の緊張感。果たしてこの計画は完遂されるのか。

これはそう、言うなれば標的との知力比べでもある。

刻一刻と近づくその時を待ちながら、―は口角を上げた。


二月十七日(木)


◯県南西部に浮かぶ孤島、青藍島。本土から船で二十分ほどの距離にあるこの無人島には、戦後間もない頃どこかの好事家がえらく風変わりな邸宅を建てて家族や使用人と何年か住んでいたが、彼の死後は、別荘と共に島全体が売りに出されたものの買い手が付かず、長い間誰一人その島に近づくものはいなかった。この島を囲うようにして流れる日本海側特有の激流のせいで、漁船の一つさえ近づくことのない異質な島であった。

そして、今その島を目的地とした船が一隻、本土から出発しようとしていた。

これから向かう目的地、青藍島を取り巻く乾いた潮風の中に、明確な殺意が紛れているとも知らずに——————


「おい、天気大丈夫かよ」

身をつんざくような冷たい風に揺られた髪を抑えながら、帆留歩が言った。

短く刈り上げた髪と一重の細い目が特徴的で、彼の毒舌や人を嘲るような口調も相まって、狐のような印象を与える。

季節外れのレザージャケットを身にまとい、しきりに身体を震わせる。

「天気予報ではこれから晴れるみたいですけど」

風に揺られる金縁眼鏡を抑えながら、巳風悟は濃緑色のダウンのポケットからラジオを取り出し、今一度天気予報を確認する。

中学生のような小柄な体躯に、色白な肌。いかにも本の虫というような出立ちだ。

「ただでさえ厳しい航路なんだ。晴れてもらわないと困るな」

西方の雲を見据えながら、川崎良浩は祈るような調子で呟いた。

灰色のブレザーの上に黒いダウンを纏ったその身体つきはかなり細いが、上背はかなりあるため、どこか不均等なバランスを感じさせる。

細かい黒髪に精悍な顔つき。誰もが認める美青年という印象を与える。

また、名家や大企業の御曹司や令嬢が数多く集う◯県内きっての名門校であるS高校の生徒会長という経歴を持ちながら、飾らない性格で皆から慕われている。

「みんな、もうそろそろ出発するわよ」

船の上から渡戸美姫の呼びかける声が聞こえる。

モノトーンで統一したダウンにブラウンの髪がかかっているその姿は、既に大人びた雰囲気を纏っている。

面倒見の良い姉御肌だが、高校から剣道を続けており男勝りな体付きをしている。

空一面を覆い隠すような灰色を反射する地平線の向こう側。穏やかに揺れる二月の海を眺めながら、岸辺実は紫煙を燻らせる。

黒の柔らかなストレートヘアーが、やや不健康そうにも見える白い肌にかかっている。

黙っていれば美青年と言われるほどの容姿だが、自信過剰な性格とそれに裏打ちされた数々の言動が邪魔をしていた。

自分以外の全員が船に乗っていることを認めると、岸辺は煙草を塀に押し付けて消し、足早に船へと向かった。

「さあ、出発しましょうか」

船の主人、船木芳雄の漁師特有の甲高い声が響いた。()


「しかし、あなたさん達。こんな真冬に一体どうしてあんな辺鄙な島に?」

ハンドルを強く握り、あくまで視線は前に向けたまま漁師が尋ねた。

「これといった目的があるわけじゃあないんですよ」

他に答える人がいないとみるや、川崎が口を開いた。船と波のぶつかる轟音に掻き消されないように半ば叫ぶように説明する。

「僕たちは、高校の時の演劇同好会の仲間なんです。三年前に卒業したきりみんなバラバラの進路に進んでしまったので、ほとんど会う機会もなくて。そんな或る日、偶然再開した渡戸と思い出話に花を咲かせるうちに、どういう風の吹き回しか、当時のメンバーで久しぶりに会わないかという話になったってわけです」

「そんななか、偶然にも渡戸の叔父がこの島を購入したっていう話を聞いて。それが探偵小説をこぞって愛する変人集団にはお誂え向きの絶海の孤島ときた。そんなわけで、せっかくならこの島で何日か過ごそうじゃないかという話になったのですよ」

「そりゃあ随分と楽しそうな話ですな」

近年でも稀な厳冬の吹き荒れる風をもろともせず、漁師は豪快に笑った。

「わたしへの感謝も忘れないでよね」

春野裕子は、不機嫌な面持ちで口を挟んだ。

艶のある黒髪を肩まで伸ばしており、未だに高校生時代の名残を残したあどけない少女というような出立ちだ。

柔らかな黒髪を後ろで結んでおり、小柄な体躯も相まって渡戸の妹と言われても疑う人は少ないだろう。

ピンク色のニット帽の下の気の強そうな顔立ちは、我儘な幼女というような印象を与える。

「へ?君に?君にかい?」

獲物を見つけた鷹のような生き生きとした目で、帆留が言葉を返す。

「何よ、その態度。私がいなかったら、あの館に泊まることもできなかったのよ」

「まあまあ、そう揚げ足をとってあげるなよ、帆留。彼女の言った通りだ。僕たちは彼女にも感謝すべきだよ」

岸辺は地平線を見据えながら、煙草を銜えている。

「そうだぞ。前もって荷物の運搬や館の修理をお願いしてくれたのも彼女じゃあないか」

川崎もそれに乗ずる。

「お願いってさぁ、実際にやってくれたのは彼女の父親だろう」

帆留は悪びれもせず、揶揄うような口調で続ける。

春野裕子の父親は県内でも有名な建設会社を営んでおり、渡戸美姫の叔父で青藍島の新たな持ち主となった不動産王渡戸玄也とも懇意にしていた。そのため、この島の観光地化に先駆けて、長年使用されていなかった邸宅の改装工事の役を買って出たと共に、愛娘である裕子の参加する今回の旅行のために、予め荷物や食料を本土から運搬してくれていた。

「呆れた、あなた高校の時から何も変わってないのね」

春野は肩を竦め、この会話はもう終わりだというように視線を前に移した。

「ねえ、あれがそうじゃあないですか」

場の空気を変えるように、巳風はわざと大袈裟に呟いた。

「思ったよりも大きいのね」

渡戸も思わずそう呟いた。

徐々に近づくその島の容貌が見えてくるにつれて、それぞれの好奇心が確かなリズムを持って弾み始める。

断崖絶壁という言葉を絵に描いたような島の裏側は、激しい波が岸壁に何度も打ち付けられており、よくある刑事ドラマのラストシーンを彷彿とさせた。

三日月型に延びる島の円周に沿って船は進み、次第に島唯一の船着場が姿を現し始めた。

ラジオの天気予報は当たらずとも遠からずといった具合で、どんよりとした灰色の雲が緩やかに流れていく。

塩の香りの混じった二月の風が辺り一帯を吹き曝している。

「本当に帰りの迎えまでは一度も来なくていいのかい?」

「はい、せっかく外部からの干渉が一切ない孤島ですから。この雰囲気を存分に楽しませてもらいます。四日後二月二十日の午前十時に、またこの場所にお願いします」

「そう何度も船に行き来られちゃあ、この雰囲気も台無しってわけですよ」

「余計な口を挟まないで」

春野が険しい目で帆留を睨め付ける。

「ははは、怖いねぇ。先に行っているぞぉ」

帆留は特に反省した様子もなく、そそくさとカバンを抱えて行ってしまった。

漁師の船を見送ると、各々は自らの荷物を携えて山の山頂に聳え立つ奇妙な館に向けて歩き始めた。

船着場のある砂浜を過ぎると、枯れ木が乱立する林の隙間を埋めるように敷き詰められた一本の小路が、島の頂上に位置する館まで凸凹に伸びていた。

曇天の空から落ちる灰色の光が、ただでさえ味気ない林道をより一層陰鬱な色に染めていた。

「川崎さん、あれ、なんですか?」

巳風は上方に見える鉄塔のような建造物を見上げながら呟いた。

かつては純粋な銀色をしていたと思われるが、長い年月によって全体が暗い赤褐色へと変色している。

「ありゃあ、送電線だよ。どうもこの島は本土からの距離の関係で、あそこまで大きい電波塔を建てないと電波が入らないらしいな。だろう、美姫」

「そうみたいね、建てられた当時はまだ携帯電話なんて当然ない時代だったから。聞いた話だと、主に本土との連絡に必要だったみたい」

「成程、過ぎ去った時代の遺物ってわけね。面白いじゃあないか」

「岸辺さん、ああいう不気味なものに惹かれるとこありますよねぇ」

館を守るように聳え立つ鉄塔は、暗くなり始めた空の下で、何やらその館に侵入しようとする不届き者達を監視する監視塔のように思えた。

「でも今はもうほとんど使えないみたいね、当たり前だけど。館の修理の時に一応送電線も復旧できるか頼んだんだけど、今はもうあの型式の送電線は使用されてないみたいだから、直に取り壊すって。辛うじて置き電話とテレビ、それとラジオが繋がるか、繋がらないかといった具合よ」

春野が答える。

「絶海の孤島に相応しい景色だな」

岸辺は島の頂上に見える送電線を見据えながら、少し口角を上げた。

「知ってます?この青藍島の噂。オカルト界隈で実しやかに囁かれている奇妙な噂があるんですよ。昔この島に住んでいたと言われるどこかの富豪の家族。なんでもその息子が悪魔に取り憑かれて、家族も使用人も全員燃やして食べちゃったらしいんですよ。港に来る前に少し住民の方に聞いてみたんですけど、時々この島から異様な光が目撃されているって。もしかしたら会えるかもしれないですね、いやぁドキドキしちゃうなぁ〜」

「ふん、くだらないな。悪魔だとか幽霊だとか、そんな子供じみた発想など非合理的だよ」

「ははっ、悟。岸辺の前でそういう類の話はやめておけよ、彼は根っからの科学至上主義者なんだから」


約二十分の館までの道程は、散歩というより寧ろ登山だった。

一行は肩で息をしながら、漸く館の門前に辿り着いた。肌を刺すような潮風のことはすっかり忘れ、各々の額には脂汗が浮いていた。

巳風の腕時計の針は五時半を周っていた。辺り一面は暗闇に包まれており、館の全貌は捉えられない。

先頭を歩く川崎の懐中電灯が照らす先に、錆びた鉄製の門が待ち受けていた。

五人は酷く不快な音を発する門を開け、小さな庭の先にある玄関へと進んだ。

「あれ、鍵が無い」

扉の前に着いたところで、渡戸は自分の鞄の奥を覗き込みながら言った。

「おいおい、冗談だろう。何処かで鍵を落としたのか」

岸辺は不機嫌そうに言った。

「そうかもしれない。船に乗る前に確かに確認したんだけど」

「こんな暗闇の中探すなんて・・・それに、もう既に疲労困憊だよ」

「もしかすると、この島に来る途中に海に落とした可能性もありますね」

巳風の一言で最悪の可能性に気付かされてしまい、次第に各々の口から溜息が出始めた。

「えっ」

驚いたような声を出したのは、岸辺だった。

「おいおい、この扉、最初から鍵が掛かっていないじゃあないか」

其々の驚きの声に混じり、渡戸の安堵の声が漏れた。

岸辺はそのままドアノブを回し、所々が錆びている鉄扉を押し開けた。

「キャーーーーーーーー」

川崎が持っている懐中電灯の光が暗闇の中で一筋に伸び、偶然にも玄関前にある異様な物体を捉えていたらしい。

最初に玄関に入った春野がそれを目撃してしまい、絶叫が館中に響いた。

「うわぁっ」

渡戸の肩越しにその光景を目撃した巳風も思わず声を上げた。

「どうした」

最後に入った川崎が、急いで玄関左にあるスイッチを押し、蛍光色の灯が玄関を照らした。

その瞬間一同の前に現れたのは、口から血を流して仰向けに倒れた帆留の姿だった。

「あわわわわわわ」

巳風は絵に描いたように身体を震わせているが、どうすればいいのか分からずその場で右往左往している。

「傷口は見当たらないな」

岸辺は血塗れの帆留の身体に近づき、観察を始めた。

その内、苦悶の表情を浮かべる顔を覗き込んだところで一瞬目を見開き、その場で顔を伏せた。

「どうしたんですか、岸辺さん」

巳風は金縁眼鏡の奥の目を震わせながら、俯いた顔を見遣る。

岸辺の頭も震えているが、顔は影に隠れて表情は読み取れない。

「いいから早く警察を呼んでよ」

痺れを切らした春野が、ややヒステリック気味に叫んだ。

すっかり冷静さを失った巳風は、何処にあるかも分からない館の置き電話を探そうと駆け出した。

それを制止するように岸辺は巳風の華奢な腕を掴んだ。

「帆留の顔をよく見てご覧よ」

「もうそろそろいいんじゃないか」

川崎も呆れたような表情で倒れた帆留を見下ろしている。

「はい?どういうことですか」

巳風はまだ状況が分かっていないらしく、二人の顔を交互に見回している。

そして、倒れたまま動かない帆留の側に腰を下ろし、顔を近づけたその瞬間―

「うがぁっ」

死んだはずの帆留の右腕が、脈拍を測ろうとした巳風の左腕を掴み、苦悶の表情を浮かべたその顔を巳風の目の前に差し向けた。

「あああ」

巳風は完全に意表を突かれた様子で、後ろに飛び退いたまま腰を抜かしていた。

「全く趣味の悪い悪戯が好きだな、君は」

岸辺は、思惑が成功したことでひどく満足げな表情をした帆留に向かっていった。

「そうだぞ、歩。巳風がこういうの駄目なの分かっておきながら標的にするなんて」

「悪い悪い、標的を誰にするかって考えたら、ビビリな巳風が一番いいに決まってるじゃんか。それに折角のこの舞台だ。こんな雰囲気のある館を利用しないなんて勿体無い。ゴメンなぁ、悟」

「もういい、私帰る」

仕掛け人も意図していなかった標的として、帆留に想像以上の満足感を与えてしまった春野は、完全に怒り心頭に発するといった様子で、荷物を持ち上げて踵を返した。

「まあまあ、そんな機嫌を悪くしないでくれよ。歩も、もうこれに懲りて反省しているからさ」

場を収めようとする川崎の手を振り払い、春野は玄関の奥に続き、階段を上っていった。

「私は一番右奥の部屋を使うから。誰も入ってこないでね」

階段を曲がり、姿が見えなくなるよりも前に、春野はそう言い残した。

「全く盛大な歓迎だったな。夕食の時間になったら呼んでくれ」

岸辺は肩を竦めると、投げ出された鞄と部屋の鍵、其々に配られた館の見取り図を持って奥へと消えた。

「俺もなんか疲れたな。飯ができたら起こしに来てくれ。ちなみに俺はもう左奥の部屋を使っているからよろしく」

口周りに付いた血糊をティッシュで拭い取りながら、帆留も階段を上がっていった。

玄関から見て右前方にある階段は、丁度中心を歪曲されたような畸形で、歩を進めるにつれて緩やかな曲線を描きながら、弧を描くようにして二階の丁度中央にあたる踊り場へ繋がっている。高級ホテルなどの造型であれば、これと対称のものが反対にも備え付けられており、丁度二階の踊り場と接する頂点で双方が繋がって綺麗な半円形をつくるものが一般的だが、この館にはどうしてか、一辺のみで構成されていた。

「あっ、そうだそうだ。これ返しとくわ」

帆留は思い出したように踵を返すと、右ポケットから館の鍵を取り出して渡戸に渡した。

「君だったのかい、美姫のカバンからくすねた鍵泥棒は」

川崎は呆れたように言った。

「私が失くしたと思われたじゃないのよ。海に落としたかもって、本気で心配していたんだから」

普段温厚な渡戸も、今回ばかりは怒りを露わにした。

「悪い悪い。さっきの茶番にも必要不可欠だったわけだし」

「もしかして、私の鞄の中漁ったの?」

渡戸はひどく深刻そうな面持ちで帆留を睨め付けた。

「そんなわけないだろう。船から降りる時に偶然君の鞄の中から落ちそうになってんのが目についただけさ。生憎乙女の荷物を詮索するような趣味は俺にはないよ」

軽快に階段を上っていく帆留を尻目に、残された川崎は渡戸と共に、漸く落ち着き始めた巳風の側に寄った。

「全くあいつも子供のままだな。大丈夫か、悟」

渡戸も心配そうな面持ちで巳風の手を取った。

「休んだほうがいいわね。部屋まで連れて行ってあげる」

「あ、すみません。僕、一人でも歩けますから」

「いいよ、僕が連れてくから。君は荷物を置いたら、夕食の準備を頼む。悟を連れて行ったら僕も行くよ」

川崎は巳風の腕を自らの肩に回し、負傷軍人を背負うようにして少しずつ階段を登り始めた。

誰もいなくなった中央玄関。開かれた扉から二月の冷気が流れ込み、その空間全体を埋める様に重たい静寂を形作っている。その向こうでは、天井から吊り下げられた橙色のランプが朧げな灯りを静けさの中に落とし出していた。


―は道具の数々を今一度確認した。そして、頭の中で計画を細部に至るまで何度も反芻し、それに一切の抜け目がないことを再確認すると少し口角を上げた。やはり、計画は万全だ。バレることは決してあり得ない。後は実行に移すだけだ。そうして―は遠くに見える、夕食の並べられたテーブルに視線を向けた。


午後八時半過ぎ。居間の中心に置かれたテーブルに円座するように、七席あるうちの六席を埋めている。

渡戸が腕をかけて振る舞った料理を、各々は称賛の声を上げながらあっという間に平らげてしまった。

夕食ができたと川崎から呼ばれた時は未だに不機嫌だった春野でさえ、本格的なイタリアン料理の数々を前にしてすっかり機嫌を直し、渡戸へ尊敬の眼差しを向けていた。 

「美姫、こんなに料理が上手だったんだ」

「ありがとう、大学で一人暮らしを始めてから結構自炊に拘ってるから、その甲斐があったのかも」

「いやあ、このクオリティの料理を五日間食べられるだけでも、来た甲斐があるってもんだ」

満ちた腹を手で押さえながら、岸辺は満足げに独りごちた。

「僕も一人暮らしを始めてから、味気ないものしか食べてなかったので、感動ものです。譲さんもこれが食べられないなんて、勿体無いですよ」

巳風も金縁眼鏡の下から、羨望の眼差しを渡戸に向ける。

「そんな褒めてもらえるなんて思ってなかったから、嬉しいわ」

渡戸も満更でもない様子で称賛の声を素直に受け取る。

「ご馳走さんです、なぁんか、すっかり眠くなって来ちゃったなぁ」

帆留はやおら席を立つと、思い出したように口を開いた。

「そういえば、部屋にテレビがないんすけど」

「テレビは前の持ち主のものが残っていたんだけど、使われなくなって相当時間が経っていたみたいだから修理しても駄目だったわ。唯一まだ映るのがあそこの一つだけ。ちなみに電話も、玄関前にあるあの黒電話だけね」

春野は、玄関の方を指差しながら言った。

「なんだよ、ロクな暇つぶしもできないわけですか」

帆留はもの惜しそうに舌打ちをすると、そそくさと階段を上って左廊下に消えていった。

残された五人に暫しの沈黙が流れた後、重い空気を払うように川崎が口を開いた。

「それにしても、美姫。料理がさらに上手になったね。もし最後の晩餐だとしても、誰も文句は言うまい。特にあれだ。ええと・・・あの、鯵の」

「カルパッチョね」

「そうそう、それだよ。あんな本格的なイタリア料理なんて、ジョジョでしか見たことないな」

「そう、そうなの。丁度昨年五部の連載が終わったじゃない?四部や五部に出てきたイタリア料理を見ていたら、自分でも作ってみたくなったの。それで案外上手くいったから、今回も作ってみたってわけ」

「ははぁ、なんといっても五部は最高傑作だったな。これには異論の余地もないだろう」

岸辺は自信のある面持ちで、円形のテーブルを囲うようにして座る四人を順番に見遣った。

「確かに。特にボスの倒し方は過去一痺れちゃいましたよ」

巳風も岸辺に同乗して、声高に感想を語った。夢中に目を輝かせる彼の目には、先程の恐怖に怯えた表情はもう見られなかった。

「そう?個人的には安易っていうか、なんかイマイチって感じだったわね」

「そっか、裕子は生粋の三部派だったっけ」

渡戸は横目で春野を見遣った。

「そうね。やっぱり皆が自らを犠牲にしながらも、仲間を想って行動して。そうやって想いを紡いで最終的に承太郎がディオを倒すのが至高というか。何処か神話的で惹かれるのよね」

「私は二部かな。歴代主人公の中でも一番抜けてるのに、ここぞっていう時には一番頭が働くって感じのジョセフがいいのよ」

「それには同意するよ。でも僕はやはり四部が好きかな」

高校生時代、同好会の会長であった川崎は、某週刊誌で当時連載していた漫画「ジョジョの奇妙な冒険」四部に夢中になった。その波は、川崎が同級生の岸辺に勧めたことから始まり、瞬く間に会全体に広まった後、一躍演劇同好会で大ブームを巻き起こした。全員が卒業後も、五部の連載が終了した最近に至るまで現在進行形で連載を追っていたため、ジョジョ談義に花を咲かせるのも当然の成り行きだった。

「一見すると穏やかな街なのに、悪意が至る所に隠れているような杜王町のあの不穏な雰囲気が堪らないな」

川崎は煙草の紫煙を美味そうに燻らしながら、過去を懐かしむように宙を見据えていた。

「殊に、ボスが魅力的だと思うね」

「平穏で変わり映えのない生活を望みながらも、生来の殺人衝動を抑えきれず何度も手を血に染める。更には、それを楽しんでいる側面もある。二つの相反する欲望に苦しみながらも身を委ねる彼には、他の人物にはない圧倒的な魅力を感じるよ」

「なんか、意外ね。良浩は仗助の方が好きそうなのに」

春野は顔を傾け、口を挟んだ。

「へぇ、君にはそう感じるのかい?」

川崎は意味深長な笑みを浮かべ、春野の目を見た。

春野は川崎の意外な反応に困惑した様子で、目線を外した。

「そういえば、僕ね、川崎さんと、ある奇妙な関連性に気づいたんですよ」

巳風が華奢な両手をテーブルの上に突き、興奮気味に言った。

「ジョジョときて、帆留さんの名前。何か気づきませんか?」

一通り一同の反応を見るも、誰一人それに答える者がいないと分かると巳風は右手を挙げて言った。

「帆留さんって、名前は歩ですよね。帆留歩って書いて、音読みで読んでみるとポルポって読めますよね。これ、結構面白くないですか?」

巳風は「どうだ」と言わんばかりの自信ありげな顔で、反応を求めた。

「はぁ、言われてみれば確かに、気づかなかったわ」

人差し指で宙に文字を描き、自分でも確認ができると春野は、思わず声を上げた。

「それにしてもよく気づいたわね」

想像以上の反応を得られたことに満足げな笑みを浮かべる巳風は渡戸の関心の言葉を受け、より得意げに続ける。

大きく開けた口から、鈍色の銀歯が覗いている。

「岸辺さんの岸辺は、言わずもがな岸辺露伴じゃないですか」

「確かに、岸辺露伴ほど岸辺の人格形成に影響を与えた人物は他にいないだろうね。ナチュラルに人を馬鹿にしたような態度や、やけに物事を断定したがる口調なんてまさに彼譲りだと言える」

川崎は微笑混じりに、冗談を口にした。

「言ってくれるねぇ。大体岸辺露伴だって、小説家の幸田露伴から拝借した名前だろう。それに君だって似たようなもんさ。川崎良浩君、君の苗字と名前の一文字ずつ、川尻浩作と一致しているじゃあないか」

川崎はカッと目を見開いたまま、開いた口が塞がらないようだ。

「なぁんだ、あんなに彼への愛を語っておきながら、まだ気がついてなかったのかい?」

岸辺の嘲笑を含んだ質問をもろともせず、川崎は平静と続けた。

「まるで気がつかなったな、自分の名前の中に彼が隠れているなんてね、これも奇妙な縁なのかな」

「それでですね、僕はもう一人同じような名前を見つけましたよ」

川崎と岸辺の諍いによって脱線してしまった話題を戻さんとするように、巳風は改まって言った。

「春野裕子さん、あなたですよ」

「わ、私?」

呼ばれた当人は面食らった様子で、人差し指で自らを指差しながら目を見開いた。

「そうですよ、分かりませんか?んー、少し難しいかもしれないですねぇ。ヒントは五部の登場人物です」

「ジョルノだろう」

岸辺が口を挟んだ。

「ジョルノは日本とイタリアのハーフだ。日本人としての名前は汐華初流乃。漢字こそ違うものの、はるのは一致するってわけだ。ちなみに僕はヒントを貰う前から気づいていたがね」

「流石は探偵小説作家の頭脳だな」

川崎は冗談混じりに、真向かいに座る岸辺を褒め称えた。

「成程ねぇ。ジョルノか〜、結構嬉しいわね」

手柄を横取りされたことが面白くないのだろう。

素直に感心した様子の春野の隣で、巳風は顔を引き攣らせている。

「そういうあなたもじゃない。巳風悟。風と悟で、フーゴって読めるでしょ」

「えぇー、本当だ。何で僕、気が付かなかったんだろう」

先程までの得意げな様子からは反面、巳風は恥ずかしそうに笑った。

「しかし、こうも偶然が連続すると少々気味が悪いな」

川崎は話をまとめるようにして言った。

朧げな灯の下で、五人はその後も高校の時の話や其々の現状、最近読んだ小説の話など、空白の三年間を埋めるように夜が耽るまで語り合った。五人の中心に位置する木製のテーブルの上には、空になった缶ビールやワイングラスから漏れた匂いと煙草の煙が充満しており、唯一酒の飲めない巳風を除いた四人は皆心地良く頬を薄い紅色に染めている。

壁際のマントルピースに置かれたレコードからは、春野の趣味が反映された心地よいジャズが流れている。 

「もうこんな時間になっちゃったわね」

春野が右手で充血した目を擦りながら言った。

「私もう寝るわ、おやすみ」

そう云うと春野は席を立って一度伸びをした後、重い身体を引き摺るように階段の方に歩き出した。

「私もそうするわ。皆おやすみ」

渡戸もそれに続くようにして席を立った。酒にはかなり強いらしく、動きには一切のムラがない。

「ああ、おやすみ。そうだ、二人とも。明日の朝食は九時にしよう。八時半には起きて準備をお願いできるかな。そのあとは皆で館の部屋巡りでもしようか」

川崎の問いかけに対し、二人は振り向くことなく手を上げて返事をした。

「じゃあ、僕もそろそろ戻ります。星も観たいし」

「そうか、君は望遠鏡を持ってきているんだったな」

ひどく赤い顔を机に押し付けて、突っ伏すような体制で寝ていた岸辺は、巳風の方を見上げて言った。

「はい、街灯の一つもない、こんなにも天体観測にうってつけの場所なんて東京にはないですから」

巳風の背中を見送った後、岸辺も重たい身体に鞭打つようにして立ち上がった。

「ちょっと待ってくれ」

それを制止したのは、向かい側に座る川崎だ。

「せっかくの再会だ、それに酒もかなり入ってる。もう少し話さないか」

「まぁ別に断る理由もないが、一体何を話すことがある?」

「まあまあ、積もる話は一杯あるだろう。ほら、覚えているかい?僕と君は試験の度に学年一位を争いあった仲じゃあないか」

「そうだったかな。何せ僕にとって他人の成績など、どうだっていいものだから」

二人が向き合うようにして座るテーブルの上には、双方から吐き出された紫煙がうねるように溶けあっており、天井から吊り下げられたランプの灯りをぼんやりと包んでいる。

川崎の座る席の後方に置かれたオイルヒーターから放出される熱気の隙間を縫うようにして時折肌に触れる外気の冷たさが熱った肌に心地良い。ランプの灯りは居間の中心を同心円状に照らしており、灯の届かない部屋の四隅は暗闇に隠れて殆ど何も見えない。

「ははは、君らしいや。そういえば、最近君は自ら小説を書いているらしいね」

「一体何処で聞いたんだ。ひょんなことから投稿した小説が偶然編集者の目に留まってね。まだ、文壇の風上にも置けないレヴェルだけれども。それでも年末は専ら期限に追われる生活を送っていたから、最近漸く一段落して、こうやって羽を伸ばしていられるわけさ。次は、ここみたいな孤島を舞台に、学生六人が次々と殺される探偵小説でも描こうかなと思ってね」

岸辺は大学で医学を学ぶ傍ら、自ら小説家として作品を寄稿する多忙な日々を送っていた。

「まさか、君が小説家とはな。同好会での経験が少しは役に立ったんじゃないかい?」

「まあ否定はしないさ、これでも小説家の端くれにはなれたんだからね」

岸辺の吐き出した煙が、天井に辿り着く前に川崎の煙に掻き消されて霧散した。

「卒業後は、やはり父親の病院に勤めるのか」

「まあそうなるだろうね。個人的には、自分の時間を他人のために費やす様な仕事は性に合わないと思っているんだが。他に後継がいないようだから仕方がない。そういう君はどうなんだい?君も親父さんの会社を継ぐんじゃあないのか」

一瞬川崎の顔が曇ったきり、少しの沈黙が続いた。

「父は3年前に亡くなったよ。持病が悪化して、治療の努力も虚しくこの世を去った。会社の方も早々に売り払ってしまったから、今は大学を休学して、演劇に力を入れているよ」

川崎は、ケースから次の煙草を取り出して火をつけた。

「そうか、非常に残念だ。思い出させてしまって申し訳ないね」

流石の岸辺も、この時は川崎に哀悼の意を示した。

「こちらこそすまない。すっかり場が白けてしまったな、折角の再会なのに」

再び顔を上げると、川崎は口元に微笑をつくって言った。

「もうこんな時間か」

川崎は、壁に架けられたアイボリー色の古時計の方に目を遣ると、溜息をつく様に呟いた。

時刻は今や午前二時を回ろうとしている。辺りは完全な静寂に包まれており、刻々と動く時計の針の音だけが、妙な調子で響いている。

「そろそろ解散しようか。ゴミは僕が片付けておくから、君はもう部屋に戻りなよ。おやすみ、岸辺」

川崎は先ほどまでと変わらない様子で、机の上に散乱したビール缶やグラスを集め始めた。

「全く、君は気が効くやつで助かるよ。では、おやすみ」

川崎に一瞥をくれると、岸辺はタバコを咥えたままゆっくりと立ち上がり、二階へと通ずる階段を歩き始めた。


二階に上がると二手に廊下が分かれており、その廊下のそれぞれに四つずつ、同じ造作の客室が並んでいる。

英国のホテルを彷彿とさせる古風な造りになっており、各部屋に風呂とトイレが備わっている。

かつてここに住んでいた好事家家族のことを考えると、八つという部屋数や各部屋に風呂トイレが備わっていることが妙に思われたが(よく客人を招いていたのだろうか)、今回の宿泊にはかえって好都合だった。


岸辺は左の廊下に進み、奥から三番目、川崎と巳風の部屋に挟まれた自室に戻ると、軽くシャワーを浴びて寝巻きに着替え、そのままベッドに飛び込んでランプを消した。

目の前の視界がぼんやりと歪み始め、現実を形成する輪郭が曖昧になる。

徐々に機能を停止していく思考の端に、ふと妙な言葉が浮かんできた。


(何か、「大事なこと」を忘れているような・・・。)


・・・燃えるような夕立に照らされた影・・・


・・・誰かの叫び声・・・


・・・けたたましく鳴り響く救急車のサイレン・・・


(これは・・・記憶なのか・・・・・・・?)


・・・一切の感情を失ったあの目・・・



岸辺は記憶の断片をなんとか繋ぎ合わせようと必死に踠いたが、そうしている内に身体を蝕み始めた睡魔に抵抗する気力は残っておらず、迎えに来た甘い誘いに素直に身を委ねる他無かった。





一切の生き物が寝静まる夜の静寂の中。或一つの部屋から光が漏れている。

完全な均衡を保っているその館の秩序を乱すように、不自然に開かれた扉。

寝室に置かれたランプが柔らかく照らす光景の中には、異様な物体が一つ紛れ込んでいた。

そして、それを見下ろすもう一つの影———

ーは、アドレナリンが溢れて未だに震えが止まらない自らの身体を落ち着かせるように、小刻みに粗い呼吸を続ける。

ただの肉塊と化したその物体に今一度目を遣ると、―はニヤリと微笑んだ。


明確な殺意が含有したその計画の第一段階は、ノスタルジックな雰囲気に包まれる館の水面下で、―によって滞りなく遂行されていた。

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