第12話

 ショッピングモールに寄ったところ、いつも買っていたエサが売り切れていた。

 犬や猫の物は有り余るほどあるのに、ウサギ用はそんなに置いていないらしい。他の会社の類似商品にしようかと迷ったけど、前にそれを与えたとき食があまり進まなかったのが思い起こされた。できるなら好みのものをあげたい。僕は掴んだ商品を棚に戻すと、手ぶらのまま店を後にした。


 スマホで最寄りのペットショップを調べる。いくつかの店が候補に表れた。そのなかで1番良さそうなところにチェックを付ける。すぐにルートと時間が表示された。距離はあるが徒歩で行けなくはない。そう思ったときにはもう足が動き始めていた。


 見慣れた街の、知らない路地へと進む。

 初めてウサギを飼うことにしたあの日、僕はただ当てもなく歩いていた。目的もなく、道筋もわからず。いまはウサギのエサを買うという明確な目的があり、行方もナビが示してくれている。それなのに、いまださ迷っている感覚が拭えない。


 横断歩道の信号が赤に変わり、足を止める。数十秒とも数分ともいえる時間が過ぎ、やがて青になる。1台の車も通りすぎない。がらんとした路地にくっきりと引かれた白線。その上を無表情に渡る。右足、左足。かぎりなく等しい感覚で、一定のリズムで。ただ機械的に足を交互に動かす。


 独りでいるとき、僕はよく心を置き忘れる。さっきまで持っていたはずなのに、たしかにそこに置いたはずなのに、気づいたらもうどこにもない。そして失くしたら最後、いくら探しても見つけることはできない。


 からっぽの肉体。それでも前に進めているのは、やっぱりウサギの存在が大きい。

 僕の家に来て間もないころは家を出ようとするたびに檻のなかで暴れた。わずかでも僕と離れるのがイヤだったらしい。最近は物分かりもよくなっておとなしくしているけど、それでも僕の姿が消えるまでじっとこちらを見ている。部屋に戻れば嬉しそうに鼻を鳴らし、抱きかかえると身を預けてくれる。声を出せない分、体全体で想いを示してくれる。本当に感情豊かで優しい子だ。


 今日も十分な準備をしてきたから、それこそ丸1日帰らなくても問題はない。でも、できることなら早く安心させたい、そばにいてあげたい。僕は歩幅を広くした。


 やがて目的と思われる店舗が目に入った。マップをタップしたときには気にもしていなかったが、ペットショップはそれ単独というよりスーパーマーケットや家電量販店などと隣接する形で建てられており、モールほどではないがそれなりの商業施設の一部として堂々としていた。


 意外な事実に驚きつつも店内に足を踏み入れる。エサ売り場は入り口からすぐそばの位置にあった。所狭しに陳列されている棚のなかから目当てのものを探す。ここまで来てなかったらどうしようと不安がよぎったが、無事見つけることができたので安堵する。今度は切らさないようすこし多めに購入しておこう。


 用が済んだのでこのまま帰宅してもよかったが、専門店としてはモール内にある店舗よりも大きいこともあり、有用なものがあるかもしれないとひととおり巡回することにした。実際内部は広く、エサだけでなくおもちゃやケア用品、ファッションに至るまで枚挙にいとまがない。さらに様々なニーズに応えるためか、鳥や熱帯魚といったものまで扱っていた。すこし遠いけど、これからはここで買い物をするのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、壁際にディスプレイされた動物たちに目線を配る。


 有名どころから聞いたことのない種類まで、たくさんの動物がたたずんでいる。毛色は違えどもホーランドロップの子供もいた。けれども、自分が飼うきっかけとなったあの感情が沸き上がることはなかった。あれが何だったのか、いまだにわからない。


 ただ、やっぱり羨望の気持ちは変わらなかった。

 優しい人に出会えれば無償に愛護され一生を約束される。たとえ誰からも選ばれなかったとしても、薬やガスで苦しむことなく処分される。どう転んでも幸福な人生だ。


 死ぬことがタブーとされ、どんなに苦しくても生きることを強要されるこの世界より、よっぽど尊厳に溢れていると僕は感じられた。


 穏やかな気持ちでガラスをトントンと指で叩く。ホーランドロップの子供は僕に見向きもしなかった。僕は目を伏せ、その場から立ち去った。


 家電量販店と連結する部分にはひと休みできるようカフェもあった。どうやらペット同伴が可能らしく、店内を覗くとトリートメントされたマルチーズを抱きかかえた夫人たちが楽しそうに談笑していた。緩んだ目元から会話が饒舌に弾んでいることがありありとわかる。


 いよいよ明日、長かった緊急事態宣言が解除される。


 そのゆるぎない事実とワクチン接種という安心感が人々のあごを押し上げ、行為を勇猛なものに、表情をより晴れやかなものへと変化させていた。

 明日の夜はひさびさにお酒を飲みに出かけようか、それとも旅行をして美味しいものでも食べに行こうか、そんな言葉がマスク越しからでも聞こえてくる。


 すぐそばのテレビに映るニュースキャスターもどこか嬉しそうだ。職業柄平常心を努めてはいるが、隠しきれない喜びが口角から漏れだしている。


 当たり前だ。長きにわたって人々を苦しめてきたこの窮屈で鬱蒼うっそうとした期間が終わりを告げるのだ。誰もが心躍るに決まっている。


 そんな喜ばしい状況をよそに僕の表情は暗い。

 急に僕はこの場にいてはいけない衝動に見舞われた。いたたまれなくなり、軽やかなBGMの流れる施設から飛び出す。そのままわき目も振り返らず歩道に向かい、人通りのすくなそうな路地裏に逃げ込む。ナビは利用しなかった。だいたいの方向はわかる。歩いていればそのうち見知った場所に出るだろう、そう考えながら早歩きで細い裏道を進む。


 またたく間にあたりは簡素な住宅街となり、楽しそうにマルチーズを抱えた夫人も笑みを浮かべたニュースキャスターも消えた。

 なのにどうしてだろう?

 誰かの幸せが残響し続けている。


 ついこの前まですれ違う通行人はみんなうつむいていた。みんな僕と同じように暗鬱な面持ちをしていた。

 でも、もうどこにもそんな人はいない。


 僕だけが取り残されたまま、薄暗い部屋の隅でスマホをいじっている。日常が戻っても外へ出かけるなんてことなんてない。大声で叫んだり、肩を寄せ合ったりすることもない。カーテンすら開けない湿った室内で、朝なのか夜なのかわからないまま、じっと閉じ籠るだけ。僕の世界は狭隘きょうあいで閉鎖的なままだ。永遠に変わらない。鳥籠の扉がどんなに開いていても、羽ばたくことをしなければ鳥はいつまでも檻のなかにいる。


 吐き気がこみ上げ、ちょっとした公園の隅に設置してあった公衆トイレに駆け込んだ。だが朝から何も食べていない僕は、わずかな胃液を和式トイレの底に垂らすだけだった。むせかえるような悪臭が鼻につき、耐えきれなくなって個室から出る。手を洗うときに現れた、鏡のなかの青白い男。こいつは誰だ? マスクを剥ぎ取った素顔はこんな風だったか? 疲れ切って表情筋の衰えたそれは、20代というよりは中年そのものではないか。


 呆れるほど繰り返した絶望の迷路を、蹌踉そうろうとした足取りで徘徊している。出口なんてないことはわかっているのに、それでもずっと右往左往している。自分の所在すらつかめない。ただ行きつく先は知っている、自殺だ。


 日が落ちようとしていた。溢れんばかりのオレンジ。それが閑散とした路地裏に降り立ち、僕のぼやけた顔を濃く照らしていた。道には人影すらなかった。異世界に迷い込んでしまったと思うほど誰もいなかった。静かだった。明日から規制が解除されるが嘘みたいに、寥々りょうりょうとしたコンクリートだけが伸びていた。


 ふいに愕然となる。

 この病が流行る前、僕はいったいどんな生活を送っていたのだろう?


 大学の授業がオンラインでなくなり通学するようになったら、僕はどんな顔で同期と会えばいい? 何と声をかければいい?


 不安が螺旋階段を転がるようにぐるぐるとまわり暗い底へと落ちていく。焦点が揺らぎ、冷汗がにじむ。僕は必死に考えを巡らせ答えを探した。だが何度シュミレーションしても、最適な言葉や態度が浮かんでこない。どんなセリフやしぐさも、すべてがウソ臭くてたどたどしい。


 人に触れて、人と会話する。


 誰もが気兼ねなく当たり前に行っているそれが、僕にはできない。


 自分が良かれと思ってやったことが迷惑で、楽しんでほしいと思ったことが不快で、仲良くなりたいと思っても避けられ嫌われる。


 ウイルスが流行している世界を良しとする“異常”である僕を、否定する“正常”である人々たちが受け入れるはずがない。永遠に孤立し、無視される。


 強く頭を殴られたような衝撃が僕を襲った。目の前の視界がぐにゃりと揺らぐ。倒れそうになるのを堪えようと、無意識に足を踏ん張った先に見た光景は、雑居ビルだった。


 扉が開いていた。


 それこそどこにでもありそうな鉄筋コンクリート製の灰色のビルだった。その外付け非常階段に続く扉が無造作に開いていた。といっても扉自体そんな大層なものでもなく、成人男性の身長よりわずかに高いだけの、侵入しようとすれば容易に乗り越えられる簡素な作りでしかなかった。


 顔を上げ目視で階を数える。8階ほどあった。まわりのビル群に比べたら高いほうだが、特別不思議というわけでもない。何の変哲も違和感もない、ごくありふれたビル。その扉が、いま大きく開け放たれていた。


 もし、この階段が屋上まで続いていたら?

 もし、屋上へ続く扉にカギがかかっていなかったら?

 もし、転落防止用の柵がなかったのなら?


 天啓のように頭にそれらが浮かんだとき、僕は最上階のドアの前にいた。


 意識がはっとなる。慌てて階下を覗いたが、見上げる人どころか歩く人すらいなかった。自分でも気づかないうちに僕は階段を上りきっていた。道中わずかでも物音が鳴れば、一瞥でも誰かに視線を投げかけられたら、僕は赤面し脇目も振らずにビルから逃走しただろう。でも邪魔はなかった。何にも遮られることなく、僕は屋上へ続く扉の前へとたどり着いた。


 スチール製の無機質な扉。震える手でそっとドアノブに触れる。手首を傾けると、ノブは実に軽やかに回転した。


 心臓の音が一気に跳ねた。点と点が結ばれるように、僕の中なかで何がしっかりと合致し固定された。舌の上の唾液が急速に乾いていく。息苦しさからマスクを外す。手の甲で口元をぬぐうと、金属に触れたからか鉄の臭いがした。それが鼓動を強く脈打ち、血液を熱くさせる。僕は祈るように天を仰いだ。


 空気、温度、環境、すべてが1つのことを暗示している。


 真横の空に浮かぶ夕焼けはその光をより一層鮮やかに輝かせ、憐憫れんびんとも哀愁ともいえる視線を僕に向けていた。


 急に6.1インチの華やかな世界が思い起こされた。

 はしゃぎ笑いあう声、心弾む笑顔、溢れ出る幸せ。僕が絶対に得られないすべてが、眼前の夕日のなかにありありと映しだされる。


 自殺へといざなうもの、それは辛い現実でも悲しい過去でもなかった。

 眩しいまでの幸福と希望、それこそが僕を死へと駆り立てるものだった。


 ためらいや緊張がふっと消えた。僕は汗で濡れた手をズボンに押し当て拭うと、ドアノブをつかみ一気に奥へと押し込んだ。

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