第11話

 その後、先輩とどんな会話をしたのかはよく覚えていない。

 ただもうすぐ終電ですからと、適当なところで話を打ち切ったことだけはわかっている。


 改札まで送るよという先輩の申し出を断り駅に向かおうとした去り際、風の音に混じって「ごめんね」と声が聞こえた。だが、僕は気づかないふりをして、そのまま一直線に構内へと入った。


 ホームには誰もいなかった。

 僕は階段から先端まで進み、ポケットからイヤホンを取り出して耳にはめた。でも、音は鳴らさなかった。眼前の看板を眺める。空気は変わらず寒い。とくにすきま風は身震いするほど冷たく、僕の頬を容赦なく突き刺してくる。今日最後の電車の到着まであと15分、待合室で座っているほうが暖もとれ得策だろう。でも、僕の足は立ち尽くしたまま動かなかった。


 別れ際の先輩の一言が頭に反響する。


 いったい僕は何をしているのだろう?


 キスやセックスはおろか手すら繋げないのに、こんな時間にわざわざ電車まで乗り継いで何がしたかったのだろう?


 摩滅まめつした心をあざ笑うかのように急激な倦怠感が肩にのしかかる。思考が蒸発し、感情が泥となって溶けていく。腕、足、指、あらゆる関節が機能を喪失し細胞が瓦解がかいする。いびつに歪曲した水晶体では光を屈折することすらままならず、でかでかと表示された広告の文字すら判別できない。脳が崩れあらゆる組織が壊滅していくなか、1つの言葉が僕のすべてを支配した。


「疲れた」


 いますぐ眠りたかった。何もかもかなぐり捨てて、ただ無条件に横になりたかった。


 ふらふらとした足取りで黄色い視覚障害者用の誘導ブロックを踏む。正しい間隔で並んだ枕木と砂利の敷き詰められたレーンが見えた。あとすこし進み体を傾ければ、圧倒的な質量を持つ鉄の塊が僕そのものを脳みそごとすりつぶしてくれる。神経は一瞬で轢断れきだんされ痛みはない。まるでTVの電源を切るがごとく僕個人は終わる。

 それは夢だ。なかなか寝付けなかったのに、夜明け間近になったとたん急に意識が途切れ眠りにつくように、食事のあとの昼下がりの太陽が心地よい子守唄に聞こえるように、僕は楽になる。


 死はなかった。ただこの終わりのない疲労から逃れたかった。

 そして、その最善の手立てが目の前の線路に飛び込むこと、それだけを遠いところで理解していた。


 アナウンスが流れる。暗闇から2つのヘッドライトが顔を出す。車輪が勢いよく回転しうなりをあげる。蛇は両目をギンギンに光らせ、ラストスパートと言わんばかりに迫ってきた。狙った獲物を丸飲みするように、巨体が一気にホーム内へと伸びる。不自然なほど大きな汽笛が寂然じゃくぜんとした空間に一段と響いた。


 すさまじい鉄の塊が目の前を駆け抜け、衝撃となった突風がワックスのとれかかった前髪を吹き飛ばした。鉄は一気に失速したのち、プシューと声を上げて口を開けた。

 僕は絶望した。足は点字ブロックの上に残ったままだ。五体も1つも損壊していない。茫然自失のさまで電車を見ると、そこには不気味なほど明るい車内が広がっていた。思わず目を細める。発車のベルが轟く。そのけたたましい音におののき、僕は慌てて電車に乗った。体が車内に吸い込まれると同時に扉が勢いよく閉まる。電車はわずかに揺れたのち、緩やかに動き始めた。


 車内はごく少数が座っているだけで、ほぼガラガラだった。だが僕は彼らにならい座席に腰かけることなく、よろよろと反対側に向かい、うなだれ額をドアに押し当てた。

 白くぼんやりとした人影が薄汚れた窓に投射される。そのおぼろげな枠の中に映るのは、どこまでも暗い東京だった。


 ネオンという衣を剥がされ光を失った東京は、いまも老朽化した鉄骨だらけの痴態を晒し続けている。ガラス張りの高層ビルをいくら建てようとも、隠し切れない醜悪しゅうあくさがあちらこちらにほころびている。


 思い描いていた華やかな東京、僕の視界にそれはもう微塵もありえない。


 だが、スマホのなかは違う。


 アプリを開けばすぐさま軽快な音楽が耳に広がり、皿に盛られた霜降り肉が現れる。映像の彼はキメ細やかな脂肪が崩れないようトングで慎重に肉をつかみ、ゆっくりと七輪の上に乗せる。ジュワっという繊維がはじける音とともに、炭の香ばしい煙が肉全体を包む。肉汁が溢れるのを防ぐため表面だけを軽く炙ったレア状態の最高牛、それを彼は惜しげもなく頬張り噛みしめる。銀座にある高級焼肉屋の期間限定のメニューだそうだ。そんなグラム万単位のA5ランクを、僕と同世代の彼が舌の上で転がしている。

 続いては一目で映える赤色の左ハンドルを乗り回す青年。アクセルを踏む際に唸るマフラー音に歓喜し、振動が起こるたびに声を震わす。車に似つかわしくない日本の狭い道路でさえ、颯爽と疾走してくその模様はさながらCMの一場面のようだ。

 その他にもスタイルのいい女性が飛び跳ねるたびに、着ているブランド品が変わる映像。学校中の男子から好意を抱かれていそうな可愛い女子高生たちが、流行りのアイドルソングに合わせて和気あいあいとダンスを踊る姿。顔も体格もいい男子生徒とモデルのような女子生徒が、キャラクターのカチューシャをつけてテーマパークを満喫しているフラッシュバック。


 手のひらのなかの6.1インチの世界は、いつも輝いていてまぶしい。


 制限され自粛し、閉じこもる日常がウソのように、わずか数円上がっただけで購入するのをためらう不景気が存在しないように、陰鬱で未来の見えない現実がありえないように、彼彼女らは笑顔に満ちて幸福を強調してくる。


 僕も金があればあんな風に振舞えるのか、地位があれば称えられるのか、優れた容姿と飛びぬけたスタイルがあれば愛されるのか。


 窓の外の東京、暗いままだ。


 スマホの電源を切る。笑い声が消え、静かな車内だけが残る。他の乗客は僕が電車に乗ったときと同じ姿勢のまま微動すらしない。いた息が深く沈んだ。窓の曖昧な僕は、変わらずその全体図をはっきりせず、輪郭さえ捉えられない。


 画面の中にいる作られた存在に金銭を投げるリーダー、報われもしないのに尽くし続ける先輩、手すら繋げないのにいいなりになる僕。


 僕の東京に幸せな人間はいない。


 全員が一方通行だ。

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