第10話

 ウサギを飼い始める前に、僕は先輩とプライベートで会ったことがあった。


 いつものようにソファーで横になり、ダラダラとスマホを触っていたところ通知が来た。先輩からだった。バイトのシフトでも代わってほしいのかなと何気なくアプリを開くと、いまから会えないかという文言だった。


 嬉しいよりも先に不審感が募る。バイトを始めて間もないころに連絡先は教えてもらったが、だいたいが業務的な内容でプライベートの会話など皆無に等しい。それが急に会いたいとはいったいどういう心境の変化だろう。怪しいマルチ商法の販促か、それとも宗教の勧誘か、どうしても勘ぐってしまう。


 それでも僕はいいですよと快諾をした。そしてすぐにソファーから身を起こし、風呂上がりの乾ききっていない髪にワックスをつける。ぎこちないながらもできるだけ見栄えよく清潔感があるようセットする。棚からたたまれてある服を取り出し、クリーニングから戻ってきたばかりのコートに袖を通す。

 愛の告白なんて1%もありえないのに、どうしても期待を捨てきれない自分がいる。


 いまが12月頭というのも関係していたと思う。

 世間的にクリスマスの時期。不要な外出は控えるよう警告されているとしても、2人で過ごすことを禁止されているわけではない。部屋で寄り添いながらケーキを食べる、そんな恋人同士の当たり前に憧れていたのだろう。どうしても僕は浮足立つ想いを抑えることができなかった。


 正解かどうかもわからない髪形を鏡で最終チェックし、玄関の扉を開ける。外には本格的な冬が到来していた。コートを重ねても染み渡る冷たさが容赦なく肌に刺さり、坂道から吹き上げる突風が頬をこわばらせた。両手をポケットの奥に押し込んでも寒さは指先にまで浸透し、マスクから漏れる吐息を瞬時に白へと染めあげる。


 先輩が待ち合わせに指定した場所はバイト先の最寄り駅の広場だ。だから電車に乗って向かわなければならない。現在の時刻は午後10時すぎ。夜の暗さはとっくにピークに達し、ほとんどの人が帰途についている。さっきまでの僕がそうであったように、みんな暖房の効いた部屋でビールを片手にくつろいでいることだろう。


 なぜこんな日に先輩と会うことを了承したのか、早くも後悔が沸き始めていた。先ほどまでの愉悦した感情は吹き荒れる強風にあおられもうどこにもない。それでも僕は肩をすぼめ、すこしでも風を防ごうと襟を立て、凍える身をより一層縮ませながら駅へと向かった。


 駅員しかいない改札を抜け、30分ほど電車に揺られたのち約束の場所に辿り着く。時間的に鈍行しかなくすこし遅くなってしまった。慌ててあたりを見渡したが先輩の姿はない。呼び出しておいて遅刻するなんて先輩らしいなと思っていると、コーヒーカップを両手に小走りで向かってくる女性の姿が見えた。


「ごめん、待った?」

「いえ、いま来たところです」

 先輩はちいさな声でよかったとつぶやくと、目元を緩ませた。


 普段と違いメイクはそんなにしていなかった。それでも前髪とマスクの間から垣間見える大きな瞳は十分に美人であることを物語っている。僕は途端に気恥ずかしくなり思わず目をそらした。さっきまでの鬱積うっせきした億劫さはどこへいったのか、先輩の無邪気な笑顔に心臓が高鳴っていく。


「ごめんね、こんな遅くに。これコーヒー、飲めるよね?」

 そう言って先輩はトラベラーリッド付きのカップを渡してきた。受け取ろうとしたときに指先が触れる。僕は無言でカップを手にすると、こぼさないようぎゅっと両手で包んだ。


 コーヒーは十分な熱を持っており、冷え切った手のひらを急速に溶かしてくれた。これをコンビニまで買いに行っていていたためにすこし遅れたのだろう。突然呼び出してきたのだからこの程度のお礼はマナーだとしても、やはりその心遣いが嬉しかった。


「立ち話もなんだし、座ろっか」

「はい」と促されるまま、近くのベンチに座る。時間帯や気温もあってか、ほかに休んでいる人はいなかった。わずかな外灯と駅名を表す看板だけがぼんやりと浮かんでいる。空には黒い雲が漂っていて、1等星すら視認できない。まるで僕と先輩だけが取り残されたように存在していた。


 先輩は黙っていた。自分のコーヒーカップを持ったまま、ずっと虚空を見つめていた。どう言葉を切り出していいのか考えあぐねいているようだった。


 そんな先輩が気になって何度も盗み見してしまう。呼び出されたとはいえ、こういうときは僕から声をかけたほうがいいだろうか? でも、想いとは真逆に言葉は実を結ばない。本当に自分のふがいなさにやきもきする。あんなにも勉強したのに、気の利いた単語の1つすら出てこない。


 いたたまれなくなりカップに口をつける。コーヒーは思った以上に熱く、ほんのすこし触れただけの舌を火傷させた。


 おもわず「熱っ」と声がこぼれる。そんな間抜けな僕に対して、先輩はいつもと変わらない、やさしく労わるような視線を投げてくれた。

 咄嗟に目をそらす。舌がただれ赤くなるように、青白い頬も赤面していくのがわかった。恥ずかしさと動揺から汗がわき出る。しばらくして恐る恐る先輩の様子をうかがおうとしたとき、コーヒーを手渡された反対側の、袖口で半分以上隠された手の甲に包帯がまかれていることに気づいた。


「手、どうしたんですか?」

「ああ、これね。ちょっとケガしちゃって……」

 先輩はあきらかに言葉を濁した。


「だいじょぶですか? どこかにぶつけたとか……」

 そこまで言いかけて急に嫌な予感がよぎった。瞬間、疑問が確信となって飛び出す。


「彼氏にやられたんですか!?」

「暴力を振られたわけじゃない!」

 先輩は険しい剣幕でこちらに振り向くと、強く否定した。


「私がカレの機嫌を損ねちゃって……。カレが物にあたって、それがたまたま私に当たっただけだから」

「……そうですか」

 僕はそれ以上追求しなかった。


 気まずい雰囲気が漂う。

 勢いあまったとはいえ、ありえない失言に自責の念に駆られる。どうしてあんなことを叫んでしまったのだろう。確証があったわけでもないのに、あのピアスマンが先輩を殴ったと決めつけてしまった。僕は罪悪感からうつむくと、一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちでいっぱいになった。


「イルミネーション、光ってないんだね」


 わずかな時間ののち、脈絡もなく先輩がつぶやく。


 顔を上げ目を凝らすと、目の前の木々に電球が巻かれているが見てとれた。明かりは灯っていない。感染防止対策の効果をさらに高めるため、本来なら色鮮やかに映えるライトアップを中止しているのだろう。電球は暗いまま、外気に晒され黙止している。


「いつまでこんな生活が続くんだろうね」

 先輩は寂しげに嘆いた。


「わかりません」

「もしかしたら、ずっとこのままかもしれない」

 諦めと哀愁が言葉の端々に感じられた。


「はやく前みたいに遊びに行きたい」

「……」

「ねぇ、元の生活に戻ったら、真っ先に何したい?」


 僕は返事に窮した。やりたいことも行きたい場所も、何も思いつかなかった。


「私はねー、旅行したい。これからますます寒くなるから温泉がいいなー。露天風呂で、お湯に浸かりながら夜景を眺めるの」

「いいと思います」

 無感情に僕はそう答えた。


「ケガはたいしたことないから」

 先輩がぽつりとささやく。僕はどう反応していいかわからず、曖昧にうなずいた。


「私って都合のいい女でしかないのかな……」

「そんなことないですよ、彼氏さんは先輩のこと好きだと思います」


 何も知らないくせによくこんないい加減なことを言えるものだと辟易する。それでも僕は先輩の悲しい顔をもう見たくはなかった。ウソでもでたらめでも彼女を安心させ、すこしでも元気になってもらいたかった。


「1回も好きだとか、愛してるとか、言われたことないんだよね……」


 じゃあ、そんな奴と別れて僕と付き合いませんか。


 何度も頭で描いたその一言を、僕はどうしても声にすることができなかった。


 最も口にしたとして、僕が彼氏に選ばれることはない。きっとはぐらかされる。先輩はあくまで話を聞いてほしいだけであって、結局のところ彼氏と離れる気は毛頭ない。それはわかっている。それなのに、僕はどうしてここにいるのだろう。


 寒くて空気が澄んでいるのに、ピントがずれていくように視界がぼやけていった。言葉は鉛のように重く、唇を開くことさえ奪う。感情は凍りつき、思考を巡らすこともままならない。僕は冷たい銅像だ。へばりついた足は地面と同化し、くたびれた首を上げることすらままならない。


「でも……私なんかと付き合ってくれてる」


 すくってはこぼれてしまう、もろい希望だった。僕はふたたび目を伏せ、まぶたを閉じた。底なしの絶望のなか、泡沫うたかたの夢ともとれる先輩の想いに胸が強く締め付けられる。


 きっと先輩も、自分というものに自信がないのだろう。


 こんな私を好きでいてくれるはずがない。

 こんな私を愛してくれるはずがない。


 振りほどけない不安が、心を、体を、雁字搦がんじがらめに縛りつけて離さない。


 僕も彼女ができたら、その人間性が最低でも黙認するのだろうか。自分みたいな人間に好意を抱いてくれた、それだけでその人のすべてを許し、受け入れるのだろうか。


 そしてどんなにつらく張り裂けそうになっても、ただひたすらに見えない何かにすがり、永遠に訪れない未来を待ち続けるのだろうか?


 ため息なのか吐息なのかわからない白い煙がふっと空に現れ、消えた。一切の音が止んだ夜の下で、空っぽになった肉体だけが転がっていた。それは誰にも気づかれることなく、打ちひしがれ、いつのまにか朽ち果てていった。

 たった1粒の、せつなさを残して。

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