第9話
先輩は僕より3つ年上だ。短大を卒業したのはいいものの、例の病気のおかげで就職する機会を完全に失い、いまものこの店で働いている。
入りたての頃、初めてのバイトで右も左もわからない僕に対して、優しい口調で丁寧にいろいろ教えてくれた。些細なことでもけして怒らず小言も言わない、それどこかわかるまで何度も説明してくれる。あきらかに僕がミスをしたときも、私にも責任があるからとかばってくれた。
温かい性格とは裏腹に、顔立ちはきりっとしている。体型も色白で細いけど痩せすぎているわけではない。いまは仕事中なので束ねてしまってはいるが、ロングの黒髪がよく似合っている正統派な美人だ。
きっと清純な人に違いない。それが最初に持った先輩のイメージだった。そしてそんな魅力的な人だからこそ、女性に免疫のない僕はすぐに先輩のことが好きになった。ほのかに香るシャンプーの匂いも、エプロン越しでもわかる胸の大きさも、僕の恋心を後押しするには十分すぎるほどだった。
仲良くなっていずれは恋人同士、あわよくば初体験も。そう妄想し期待に胸を膨らませるのは20代の男子なら至極当然だろう。
たからこそ彼氏がいるという事実を知ったときは谷底に突き落とされたかのようなショックを受けた。さらに追い打ちをかけるように電子タバコを吸いだしたときはあわや女性不信になりかけた。
バックヤードに来たのも休憩というよりは一服しに来たといったほうが正しい。それを証明するように先輩は挨拶もそこそこに喫煙室へと向かっていった。だが、予想に反して先輩はすぐに戻ってきた。尋ねると、リーダーと入れ替わる形で店長が休憩に入り喫煙室を利用しに来たらしい。感染防止を理由に窓のない喫煙室の利用は1名までと本社から定められている。ずっと働きっぱなしの店長に配慮して、自身の至福のひとときを譲ったのだろう。
「しっかし、いきなり忙しくなったね」
消臭スプレーを体に吹きかけながら先輩が話しかけてきた。
「ですね……」
「ヒマ疲れするよりはいいんだけど、ここまで混みあうとさすがに辛いね」
そう言いながら先輩はさっきまでリーダーが座っていた目の前の椅子に腰かけると、アクリル板越しにぐいっと顔を突き出した。
「これでこの店もつぶれなくてすむね」
子供のようにいたずらっぽく微笑む先輩に、
先輩はそんな僕の様子に気付いているのかいないのか、足を組みスマホを片手にしゃべり始めた。
「来週だっけ、元に戻るの?」
「30日からみたいです」
「なんかキリ悪いね……1日からにすればいいのに」
「月曜日ってことで合わせたんだと思います」
その答えに先輩は「ふーん」と口を尖らせた。
長かった緊急事態宣言がいよいよ終わろうとしていた。
緩和されてもなおシャッターを閉めていた店もさすがに営業を再開する。息苦しかったマスクを脱ぎ素顔を露わにする人も出てくる。区切られたアクリル板は撤去され、隔たりなく触れ合って気兼ねなく大声でしゃべれる。数ヶ月もすればすべてが過去のものとなって、そういえばそんな窮屈な時期もあったねと笑い話になる。
誰もがはしゃぎ喜び合うなか、僕はその日常に溶けこめるだろうか?
「ついにお酒も解禁かー。店長がね、落ち着いたらみんなで飲み会やろうって言ってたよ」
嬉しそうに話す先輩の言葉とは逆に、僕は「はぁ……」と気乗りのない返事をした。
正直、飲み会なんて参加したくない。無駄にお金もかかるし、バイト先の人は年長者ばかりで気を遣う。楽しめるとは思えない。家で寝転がりながら安い缶チューハイを飲むほうがコストパフォーマンスに優れているし気楽だ。
でも、先輩がいるなら行ってもいいかなと考えてしまう。消臭スプレーをしてもごまかしきれない、染みついたタバコ臭さに嫌悪感を抱いているのに、それでも好意を捨てきれない自分がもどかしい。
「飲み会もいいけど、バーベキューとかも良さそう。あっ、みんなでアミューズメントパークとかも行きたい!」
「……そうですね」
そんな場所に足を運ぶ日など永遠にないであろう僕は、ただ事務的な返事をした。
「ずっと彼氏の家を往復する以外、全然出かけられてないからなぁ……」
先輩が独り言のようにぽつりとつぶやく。その “彼氏”というワードに、僕の胸がチクリとうずいた。仲睦まじく街中を歩く2人を想像し、つい顔がこわばる。
「もうそろそろ休憩終わりですから」
僕は素っ気なくそう伝えると、逃げるように厨房へと戻った。本当はまだ5分以上残っている。でも僕はこれ以上、先輩と話す気にはなれなかった。無言で布巾を掴み、水垢のついたシンクまわりを拭いていく。
1度だけ先輩の彼氏とやらを見たことがあった。
お酒の提供が禁止という条件で店の営業が再開されて間もないころ、おそらく知人であろう仲間数名を引き連れて奴は店に現れた。
髪をワイルドアップバンクのツーブロックに刈り上げて、髪色もところどころ金髪に染めているガタイのいい男だった。黒髪で清純そうな先輩とは似ても似つかない、いかにも女慣れしていそうな服装で、両耳にシルバーのピアスをぶら下げていた。肌も色黒く、鍛えているのか筋肉もあるようで、細い僕なんて一撃で倒されるほど威圧的なオーラを醸し出していた。
連れてきた人たちもガラが悪く、どいつもこいつもまともに職にすら就いていない風貌で高圧的だった。奴らはふてぶてしく案内された座席に腰かけると、一斉にお酒の注文をし出した。酒類の提供は禁止されていると店長が訴えても、すこしくらいいいだろ、どうせ余っていて捨てるだけだろと、一歩も引かなかった。
なんとか先輩が説得して事なきを得たが、まったく知らない店ならまだしも、自分の彼女が働いている場所に押し掛けるとかどんな神経をしているのか理解に苦しむ。いや先輩がいるから何とかなると思ったのか、どちらにしても非常識だし迷惑甚だしい。
先輩も店長からこっぴどく怒られたが、彼氏が来店することを事前に知っているわけではなかったようだし、何度も頭を下げて謝ったことから不問となった。バイトが立て続けにいなくなる傍ら、さすがに先輩までクビにすると店が窮するのもあったと思う。
その後、迷惑をかけたことに責任を感じたのか、先輩はより一生懸命働くようになった。ピアスマンも先輩から注意されたのか、あれから店に来たという話は聞いていない。
「なんであんなのと付き合ってるんですか?」
そう叫びたいのを、僕はぐっと飲みこむ。
さっさと破局すればいいのに。あいつと一緒にいても先輩には何のメリットもない。どんなに尽くしたって、ピアスマンは好意を無下にする最低のクソ野郎だ。それなのに、先輩はいまだ別れない。
行き場のない苛立ちに動作が雑になる。それが災いしたのか置いてあった食器を落とし割ってしまった。焦って拾おうとしたとき、破片が指に刺さりわずかに血が流れる。
「だいじょうぶ?」
物音を聞き、先輩がすぐ駆けつけてきた。先輩は鮮血を見るなり救急箱を取り出し、慣れた手つきで消毒し自前の絆創膏を巻いてくれた。
「これでよし!」
満足げな先輩を横目に、僕はボソッと「ありがとうございます」とつぶやいた。
「洗い物はやっておくから、血が止まるまで休んでていいよ」
そう言いながら先輩は割れた食器を素早くほうきで片付け、厚紙で包みゴミ捨て場へと捨てに行った。
先輩の後姿をあとに、じんじんと痛む指先を見つめる。ピンク色の絆創膏にかかれたキャラクターがにこやかにほほえんでいた。たいしたことのない切り傷。1週間もすれば跡形もなく消える。でも、先輩の白く透き通る手の甲の傷跡は、まだ残ったままだ。
どうして傷つけられるのに、そばにいようとするのか。
どうして不幸になるとわかっているのに、一緒にいたいと願うのか。
わずかに腕についた血を洗い流すために蛇口をひねる。流れ出た水道水は刺さるように痛く、あの日の夜のように冷たい。
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