第8話

 駅名を知らせるアナウンスがイヤホンをこじ開け、僕は我に返った。

 持っていた傘を強く握り、無我夢中でホームに飛び出る。水滴で濡れた階段を滑るのも恐れずに駆け上がり、傘が人に当たるのも気にせずに改札を抜けると、変わらない土砂降りの空が僕を出迎えた。それでも僕は重圧から逃げ切れた安堵からか、どこかほっとした解放感に包まれた。でも本当にそれは一瞬で、歩き始めるやいつの間に雨水が染みこんだのか、ぬちゃりとした感触が足の裏に広がった。今日1日、ずっと靴下は湿ったままだろう。僕はすべてを諦めると傘を深く差し、水たまりを避けることもせずにバイト先へ向かった。


 店の入り口は大雨だというのに大きく解放されていた。換気目的もあるが、それ以上に開店していることをアピールするためだ。脇のブラックボードにはお持ち帰りできますとの文言と、茶色だらけで代わり映えのしない弁当の写真が何枚も張られている。全国展開しているチェーン店の、それも居酒屋特有の味が濃いだけの商品がおいしいとかコストパフォーマンスに優れているとかで話題になるのだから、世の中はよくわからない。店内もそんなSNSの情報を便りにたくさんの人でごった返していた。


 この雨の中ご苦労なことだなと半ば呆れつつ、人目を避けるように店の奥に入る。ほとんどがテイクアウトなのでホールに出る必要性は低い。僕は制服に着替えると、すぐに厨房でひっきりなしに食材を揚げているバイトリーダーのサポートに回った。


 電車が遅延したことにより、当初の出勤時間さえ過ぎたことに気まずさがあったが、リーダーはそんな余裕など持ち合わせていないくらい切羽詰まっていた。緊迫感がひしひしと伝わってくる。指示を出す口調も荒々しい。僕は絶対にミスできないという気持ちで並べてある容器にサラダを盛ると、均等にドレッシングを振りかけた。


 ふと店長の姿が見当たらないことに気づいた。そこはかとなく訪ねてみると、食材が足りないとの理由で他店に取りに行っているらしい。


 この店の正社員は店長だけだ。そして店長がいない間はリーダーが責任者となる。すこし前までもう1人社員がいて2人体制だったが、激務からか退職してしまった。本社も人材が不足しているのか、新しい人が派遣される様子もない。バイトの人数もギリギリだ。1人でも欠けてしまうと、とたんに店が回らなくなる。

 それでもなんとか運営ができているのは、ひとえにリーダーのおかげだろう。この道15年の彼は、50近い店長よりもあらゆる面で能力は上だ。僕のような無能ですら、彼の言うことに従っていればそれなりに仕事ができる人間になれる。


 大雨なこともあってか、ディナータイムが終わるころにはほとんどの混雑は解消された。業務もひと段落しほっとしていると、店長から休憩していいよとソフトドリンクを手渡された。それを持ってバックヤードに入ると、すでにリーダーが休憩しており、にらみつけるようにスマホを凝視していた。休憩室は狭く、どうしても向き合うような形になる。僕は邪魔をしないよう、静かにグラスを机に置いた。


「オススメした動画見てる?」


 いままさに腰掛けようとした瞬間、リーダーがそう問いかけてきた。てっきりスマホに集中していると思っていたから、僕は話しかけられたことに驚きを隠せなかった。苦笑いをしながら適当に相槌を打ち椅子に座る。


 動画というのは3Dモデリングされたアバターを使って活動している実況チャンネルのことだ。語呂合わせのような名前の、猫耳の女の子のキャラクターが画面の右端に常に表示され、その子がしゃべりながらゲームをするというのが主な内容だ。アバターなので中の人の年齢や容姿はわからないが、地声は舌足らずな甘い声で、まるで恋人のように話しかけてくれる。技術は高く、表情はもちろんのこと、まばたきや笑顔など動きも多種多様で、楽しさや驚きがダイレクトに伝わってくる。それはもう人間と変わらない、いやオーバーリアクションな点も相まって、リアルの女の子よりも情動に満ちている。話題になるのも人気なのもうなずける。


 ただ僕はイマイチ好きになることができなかった。

 勧められたその日にいくつかの動画を見はしたが、低年齢層向けのアクションゲームで難易度もそこまで高くないのに、序盤の同じところで何度もゲームオーバーになるのがもどかしくて早々に視聴を打ち切ってしまった。

 おススメされた手前、マイリストからは外してはいないけど、あれからまったく再生していないので一覧に表示もされない。通知もオンにしてないからいまどんな動画を配信しているすらわからない。ただ時折リーダーの言葉に生返事をして、帳尻を合わすだけだ。


 そんな僕の内情などお構いなしに、リーダーはそのキャラクターについてまくしたてるようにしゃべりかけてきた。どうやら今日がその子の誕生日らしい。キャラクターに生年月日が設定されているのはよくある話だが、演じている人がいるのに、それとは別の誕生日があることにどうしても違和感が隠せない。


 さらに話は進み、祝福を込めて投げ銭みたいなことをするらしい。額を聞いてみたらけっこうな金額だ。それだけあればちょっとした旅行もできるし、高級なレストランにも行ける。内心そっちに使ったほうが有意義なのではと思う。でも、本人が満足しているなら口をはさむ権利はない。


 前に辞めたバイトの人はリーダーのことを気持ちが悪いと毛嫌いしていた。ただ僕は構わないと思う。人のお金にケチをつけるのは甚だしいし、そもそも他人の趣味に文句を言うこと自体好きじゃない。それにどういう形であれ救いを感じたり糧になっていたりするのなら、頭ごなしに否定すべきではない。なによりも夢中になれるものを持っている、それが僕にとってはうらやましかった。


 思い返せば20年間、熱心に物事を語るということをした記憶がない。どんなときでもグループの中心になる人がいて、その人が発することに対して頷くことばかりしてきた。自分の考えをはっきりと口にするなど、一度もなかったのではないだろうか。


 あらゆることに興味がないのだ。生きるということすら意欲が持てない。

 だからいつも死を連想している。銃口を向けられても無表情でスマホをいじるだけ。恐怖も涙もなく現実味もない。虚ろな目をした僕を、幽体離脱した僕自身が見下ろしている。


 この世界のすべてはコンピューターが見せている夢だという小説を読んだことがある。もしかしたら僕もとっくの昔に死んでいて、機械がマリオネットのように操り映像を流しているだけなのかもしれない。だとしたらいますぐ電源を切ってほしい。すべてを終わらしてほしい。


 目の前には楽しそうに話すリーダー。向かいには無表情の僕。

 どうしてこの世界は、こんなにも生き辛く苦しいものなのだろう?


 いくら検査をしても不良品がなくならないように、人間もけして社会に適用できないガラクタが存在する。そういう人間はしかるべく抹殺すべきなのに、法律がそれを許さない。廃棄できないからますます故障し、どんどん壊れていく。

 自ら身を投げる者は勇気ある者だ。ほとんどはただ惨めに自分の腕や足が動かなくなるのを眺め続けることしかできない。


 役立たずで価値のないガラクタは、狭い押し入れの奥でゴミ捨て場に憧れ、燃やされることを切望する。ずっと願っているのに、いつまで経っても僕を殺しに来てくれない。


「リーダーもう休憩終わりでしょ? 明日の仕込みの準備してよ!」


 急に先輩の声が現実に響いた。いつの間に現れたのか、仁王立ちした先輩がすぐそばでリーダーを睨んでいる。リーダーは反論することもなく、マシンガンのごとく展開していた口を閉じると、しぶしぶ立ち上がり厨房へと戻っていった。


「だいじょうぶだった?」

「はい、ありがとうございます」


 どうやら絡まれていると勘違いして助け舟を出してくれたらしい。咄嗟に感謝の気持ちを述べた僕に対して先輩はニコッと笑い、誇らしげに頷いた。その笑顔に胸が熱くなるのを僕は隠せなかった。

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