第7話

 大学に入ってまもなく僕はバイトを始めた。高校では禁止されていたし、どの業種がいいかなんてもちろんわからないから、とりあえず求人アプリに記載されていた聞いたことのあるチェーン店の居酒屋にした。場所は住居の数駅先。近くのほうが利便性に優れているのは重々承知しているが、偶然でも客や店の人と顔を合わせることは避けたかった。意図しないところで会う気まずさもあったし、それ以上に心構えをしないで他人と会話をするということが苦手だった。


 だからあえて遠くの駅を選んだ。といってもまったく見当違いの場所というわけではなく、大学の通学途中、ちょうど乗り換えをする駅の近くにした。これなら定期券内で交通費もかからないし、どうせ一度改札を抜けるのだから面倒でもない。

 我ながらいい案だったのだが、例の病気のせいでオンライン授業が主になり、計画はすべて水の泡だ。


 それでも都の要請に従い休業していた時期は問題なかった。もとよりやっていないのだから家でおとなしくしていればいい。

 だが、東京の家賃はもらえる給付金をはるかに上回るのか、感染がすこし落ち着くや本部の指示で営業が再開され、いまやわざわざバイトのためだけに身支度をして電車賃を払うという始末だ。あとで給与と一緒に戻ってくるとしても面倒極まりない。


 その上シフトを告げても希望通り入れなかったり、急遽休みにされたりする。売上が減ったのだから当たり前だし、働けるだけマシだと思うけれど、やっぱりどこかモヤモヤするのは否めない。他の人も同じ考えだったのか、僕以外のバイトは大半が辞めてしまった。僕もそうしようかと何度も悩んだ。始めた理由もお金というよりは社会的な意味合いのほうが強い。ろくに外出もできないし、収入が減ったところで生活に支障がでることはない。


 だが、結局言い出せないまま2年が過ぎてしまった。


 最近は幸か不幸か、新発売した揚げ物だらけの弁当が食べ盛りの学生や独り身のサラリーマンの胃袋を掴み、売上は好調だ。店長から帰宅を促されることもなくなった。むしろ人が減った分、作業量が増えて困っている。バイトを辞めたい、そんなことを口にできる雰囲気はもう皆無に等しい。


 今日も弁当の注文がかなりの数らしく、店長からすこし早く来られないかと連絡があった。予定のない僕はこれ以上ないほど頼りない返事をすると、身支度を整え、部屋の隅でのんきに寝転がっているウサギをゲージのなかへと戻した。


 本当は部屋の中で放し飼いにして伸び伸びと過ごしてほしい。けれども誤ってコードをかじって感電したり、フローリングの床で足を痛めたりしては大変だ。だから外出するときは必ずゲージに入れるようにしている。


 飲み水は入れ替えた。エアコンの温度も問題ない。すべてをチェックしたのち、僕は檻ごしからウサギの鼻を撫で「いってくるね」とつぶやいた。ウサギはすこしでも離れるのが嫌なのか、いつも寂しそうな表情をする。もっと遊んであげたい。名残惜しい気持ちを胸に、僕は部屋の明かりを一段落暗くして外へ出た。


 重い雲の、激しい雨だった。


 駅までの距離はたいしたことないのに、着いたころにはもうズボンのすそが黒く変色していた。屋根から流れ落ちる水はまるで滝で、剥きだしの線路に激しい音を叩きつけている。ホームには乱雑に閉じたビニール傘によって作られたちいさな池があちこちに点在しており、湿気とカビをまき散らしていた。それはすでに駅全体に及び、固く閉まったシャッター街と結託して、全容をより辛気臭いものへと変貌させていた。


 到着予定だった電車が、人身事故のため運転を見合わせるというアナウンスが鳴る。


 落胆が表情に落ちる。と同時に、電車を止めさせた何者かに憤りを覚える。苛立つ気持ちを抑えようとSNSや動画を流して気を紛らわせようとしたが、遅れると知っていれば早出を断っていた、もっと家でのんびりできていたという事実がちらついて素直に楽しめない。


 僕はスマホをしまい、点字ブロックの前で規則正しく整列している人たちにならいその到着をじっと待った。スーツ姿の社会人もセーラー服の学生たちも、みな等しく首を15度に傾けスマホを凝視していた。誰も電車が遅延していることへの不満や愚痴を言わない。あとから来る人も同じだ。消えている電光掲示板を虚ろな目で見上げたのち、無言のままスマホをポケットから取り出す。駅員が必死に叫ぶなか、ひたすら他人事のように現実を黙殺し、無視を決め込んでいる。


 これが東京だ。


 もはや当たり前となったその光景を見て、僕は大きくため息をついた。


 人との関わりを憂い、知人に会うかもしれないとバイト先を遠くの場所にしたこと、これは本当に失敗だった。


 東京は人が多すぎる。

 新宿駅の1日の平均乗降客数は350万を越えるらしい。僕の住んでいる場所の最寄り駅はそこまでではないとしても、それでも複数の路線が入り組んでいて多数の人が行き交っている。ここまで人の流れが活発だと、たとえ同じ駅を利用しているとしても顔を合わせるということすら奇跡に近い。


 さらに世の風潮的にマスクが必須となって、ますます個人を特定することが難しくなった。引っ張りだこの有名人でさえ、よほど体形や服装に特徴がない限り、たとえ真横に座ったとしても気づくことは困難だろう。


 そして現状からわかるとおり、東京は無関心だ。

 誰かがうずくまり倒れていても99%の人が素通りをする。見知らぬナンバーの車が通っただけで世間話になるような田舎とは違う、他人を意識するという感覚自体が希薄だ。誰もスマホから目線をそらさないし声も発しない。何か起きたとしても、Bluetoothイヤホンから流れるに音に遮られて気づくことすらない。

 僕はそこを見誤っていた。わかっていればこんな面倒な移動もなかった。


 肌に吸いついた気だるさが体全体に侵食しようとしたとき、時刻表より1時間以上遅れた電車がホームへと滑り込んできた。乗り込むや否や後の人たちにせかされ、奥側のドア付近へと追いやられる。

 その後も人は途絶えず、一気に電車内は劣悪な家畜小屋のようにぎゅうぎゅうになった。押し潰されそうな抑圧のなかで息苦しさが充満する。バカでかい発車メロディが鳴り、ゆっくりと外の風景が再生される。飽きるほど見慣れたはずの景色。でも、眼球に転写されるまでどのシーンも思い出すことができない。


 マスクをずらした、すぐそばの他人から吐き出された生温かい二酸化炭素が鼻孔をかすめた。高めに設定された空調が汗を蒸発させ、カビ臭さと混ざりあい不快さが助長する。雨粒はモザイクとなって視界を覆い、意識が朦朧もうろうとなる。イヤホンから流れる音楽はまるで幻聴で、1つの歌詞も言葉に変換できまま霧散していく。


 この電車はどこへ向かっているのだろう? 不意に疑問に感じた。バイト先に間違いないのに、僕はそれが間違っている感覚を拭い去ることができなかった。


 雨が一層強く窓を叩きつける。電車内に目一杯つめこまれてもなお物音を拒絶し、黙りこくって下を向いている乗客たちは死地に向かう兵隊のようだ。不安が募り、僕は一刻も早くここから逃れようともがいた。だが、密着した他人がそれを許さない。


 せめて気の晴れる楽しいものを。そうスマホを取り出したとき、電車が揺れ、よろめいたはずみに画面に指が触れた。意図しない動画が再生され、笑っている人の映像が流れ始める。不気味で気色の悪い声だった。慌てて画面を消そうにも、濡れた指に拒まれうまくいかない。甲高い音が耳をつんざく。めまいがした。頭の中がぐるぐると回り、瞳孔が激しく収縮する。僕はその場でしゃがみ込み倒れそうになるのを必死にこらえた。

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