第5話

 いつ布団にもぐりこんだのか、目を覚ますと僕はベッドの中にいた。


 あたりはまだ薄暗い。いまが何時かわからないが、まだ起きるには早すぎる時間帯だろう。それなのにアラームはけたたましい音を鳴らして部屋中を駆け回っている。

 仕方なくベッドボードに手を伸ばすが、虚空をつかむだけで感触がない。いまの目覚ましは便利だ。音が止んでもスヌーズ機能で完全に覚醒するまで何度でも呼びかけてくれる。僕はため息をつくと、重いまぶたを開き嫌々体を起こした。


 スマホはカーペットの上に空き缶となったチューハイとともに転がっていた。

 けだるい動作でそれを拾い、アラームを止める。時刻は7時を示していた。今日は休日だ。こんな時間に起きる必要はない。どうやら設定を解除し忘れたまま眠ってしまったらしい。


 無駄に早起きをしてしまったことに苛立ちつつ、大きくあくびをする。それを合図にむかむかした吐き気が胃から逆流し、頭に鈍い痛みが走った。缶チューハイ1本でどうやら二日酔いらしい。自身のアルコールの弱さに辟易へきえきするとともに、治まるまでこの不快感と闘い続けなければならない現実にうんざりする。


 僕はベッドへ戻る気力すら起きず、目の前のソファーに倒れるように横になった。

 机の上には半分ほど食べ終えた弁当が放置されている。いつ食事をやめて何時に寝たのか、思い出そうとしても一定のリズムで襲いかかる痛みに阻害されてわからない。頭痛薬は台所の吊り戸棚の中にある。でも、取りに行くのは面倒だ。薬を飲めば1時間程度で体調は良くなると知っているけど、僕はそれを行動へ移さない。

 今日は何の予定もない。このまま寝そべっていればいずれ頭痛は治まる。なら、わざわざ体を起こして薬を飲む必要はない。僕はだらりとうなだれ、頬をソファーにこすりつけた。脳から生まれたやる気はいつもため息で 終わり、指先まで伝達されない。僕は目をつぶり、ふたたび眠りにつこうとした。遠のく意識の間際、録画していたアニメとスマホゲームのログインが浮かんだが、起きてから考えればいいと、僕はそれを無視した。


 急速眼球運動と骨格筋活動が低下し、レム睡眠へと移行しようとしたそのとき、ソファーから垂れた腕に何かが触れた。瞼を半開きにすると、ウサギが顔を突き出し僕の指をなめていた。


 跳ねるように飛び起き、ウサギを檻から出して持ち上げる。ウサギは心配そうな瞳で首を傾げると、手の甲に自身の顔をこすりつけた。それに応えて僕も指先で背中を撫でる。


「起こしてごめんね」

 そう謝ると、ウサギは気にしてないよとでも答えるかのように鼻を2度鳴らした。


 薬を飲み、ウサギの朝食を用意する。育ち盛りなのか、エサを差し出すと昨日と同様に勢いよく頬張り始めた。懸命に口をもぐもぐする姿に、鈍い唸りをあげる頭もいくぶん軽くなった気がした。


 ご飯を食べ終わると遊んでほしいのか、こっちに歩み寄ってきた。

 薬の効力はまだ発揮されず気分はすぐれない。倦怠感もひどいままだ。でも休みだし、とことん付き合ってあげよう。そう思って腰を上げる。けれど、何をしてあげれば喜ぶのかわからない。人付き合いすら苦手な僕だ。ウサギとの接し方なんて考えもつかない。

 仕方なく事前にネットで調べたことを見様見真似で行う。ボールを与えたり、一緒になって部屋をくるくる動き回ったり。どれも他愛もないことばかりだったけれど、それでもウサギは嬉しそうだった。


 やがて疲れたのか、ウサギは目を細めるとラグマットの上で体を伸ばし寝転がった。無防備なおなかが顔を出す。僕はその可愛らしい姿を優しくさすった。ウサギはすこしも嫌がらない。あいかわらず僕の指の動きに身を任せ、心地よさそうに微笑んでいる。


 締め切ったカーテンから漏れる光が、いつの間にかその役目を終えようとしていた。あんなにも胃の中で渦巻いていた気持ち悪さも、気づいたら消えていた。スマホはソファーの上に置いたまま、1度も触っていない。こんな日は初めてだ。なにがなくてもスマホをいじる。依存症かと思えるくらい青白い画面ばかりを見つめていたのがウソみたいだった。


 心地よい温度に満たされ、ゆるやかに時間が沈みゆくなか、どこかから鳥の声が聞こえた。それはすぐ間近で、ささやくように耳元で鳴った。不協和音のようなサイレンしか響かない東京で、初めての出来事だった。


 急に子供のころが思い返された。無邪気に野山を駆けて、澄んだ川の冷たさに喜び、名も知らない魚が泳いでいるのを眺めては笑う、そんな光景が目に浮かんだ。燦然さんぜんたる太陽が乱反射しキラキラと輝くなか、魚を掴もうと水のなかに手を入れる。すくい上げようとして鱗のぬめりに手が滑り、水しぶきが顔にかかって取り逃す。楽しかった。どこまでも果てしなく僕は笑っていた。好奇心に溢れ、無我夢中で騒ぎ、奇声を上げ叫んだ。でこぼことした河原を、転ぶことも恐れずに走り駆け抜けた。


 僕は泣いていた。いつ涙が流れたのか、どうしてなのか、理由はわからなかった。それなのに、どんなに拭っても涙は止まることがなかった。


 太ももにくすぐったい感触を覚える。いつの間にか起きたウサギが目と鼻の先にいた。僕はその柔らかな体を抱きかかえ、また天井を仰いだ。蛍光灯は変わらず無機質だ。でも、腕の中の体温は暖かい。ウサギの心音と僕の鼓動が一致して鳴るのを感じた。心地よい重さが胸に沈み、やわらかな魂となってどこまでも溶けていった。


 いつまでもいつまでも、僕らは一緒で1つだった。

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