第4話

 急におなかが鳴った。

 いま何時だろうと時計を見て、そこで電池が切れていることを思い出す。部屋にあるたった1つの置き時計はもうずっと秒針が動いていない。電池を新しいものに交換すれば問題なく時を刻み始めるだろうが、なぜかそれがすごく煩わしくて、結局放置したまま現在に至る。


 仕方なくスマホに視線を移すと、もう午前2時を回っていた。いまから食事というにはあまりにかけ離れた時間だ。


 このまま何も食べずにベッドに横になろうかと考えたが、きっと空腹でなかなか寝付けない。かといってコンビニへ行くのは煩わしい。たった徒歩1、2分の距離が途方もない道のりのように感じる。余分なお金を払ってでも食事を宅配してくれるサービスが流行るわけだ。こんな時間でなければ僕も迷わずそれを利用したことだろう。


 もっとも最近は食べるという行為そのものすら億劫でしかない。その証拠に、今日1日何も口にしていない。食欲は3大欲求とのことだが、本当にそうなのかはなはだ疑問だ。餓死しなければ一生食べなくてもいいような気がする。味だってどうでもいい。うまいまずいはもちろんわかるけれど、そのどちらでもあっても別に構わない。ただ生きるために仕方がなく物を咀嚼そしゃくする、それだけだ。


 ふいに自分のなかで“生きる”という単語がでてきたことに対して違和感を覚えるとともに、自嘲的な笑みがこぼれる。


 前にすごく不快なことがあって、怒りに任せてスマホを叩きつけたことがあった。でも、投げつけた先は柔らかいベッドの上で、スマホにはかすり傷すらつかなかった。画面が割れたり動かなくなったりしたら困るから、あえてふかふかのベッドを選んだのだ。


 人生も同じだ。いつもどこかで傷つくことを恐れ、すこしでもその可能性があるのなら道を渡ることすら諦める。それなのに崖から転落しないかと底ばかり見つめている。


 中途半端で臆病で意気地なしの卑怯者。本当にどうしようもない。いっそ誰かが自分を殺してくたらと願う。SNSを通じて接触を持ち、要求どおり本当に殺害をした犯人がいたじゃないか。飛び降りるのが怖いならDMダイレクトメッセージを送り、お金を振り込めばいい。死神はいつでもそばにいて、どんなときも親身に絞首台の横で待ってくれている。でも、僕はそれすらやらない。食べなければやがて衰弱死できるのに、コンビニへの歩みを止めない。


 僕は音を立てないよう立ち上がると、机の上に置きっぱなしだったマスクを掴んだ。ジャケットを羽織い、玄関の扉をそっと開ける。


 カギはかけなかった。


 マンションは住宅街の中にあり、深夜なこともあってか外を歩いている人はいなかった。道路を走る車すら見当たらない。街灯が飛行機の滑走路灯のように点在している。無機質なコンクリートの床が冬の情景を伝えていた。


 あまりの閑寂さに、ここが東京であることを忘れそうになる。

 でもそれはほんの一瞬で、夜空を見上げればここが僕の育った場所ではないことは明白だった。


 僕の生まれた町は星が輝いていた。

 家のベランダからでもわかったし、それこそよく父が車で連れてってくれた近くの山では、名も知らない無数の星々が暗いキャンパスを色とりどりに飾り、それこそ夜であることを忘れさせるほど眩しく綺麗だった。興奮する僕を横目に、父はあれがなんとかいう名前だとか、あれとこれを結ぶとなんとか座になるとか、1つ1つ丁寧に説明してくれた。でも、僕はそんな父の言葉が耳に入らないほど、ただ夢中で星空を眺め続けていた。それほどまでに目の前に広がる光景は壮大で無窮むきゅうだった。


 東京は違う。

 高層ビルから排出されるガスによって生み出された塵は厚い壁を作り、あらゆる星の光を遮断している。かろうじて乗り越えた恒星のみが、おぼろげな姿を維持しているに過ぎない。


 なのに、東京は僕の町よりはるかに明るい。ギラギラとした蛍光灯やLEDライトがあちらこちらに設置され、24時間体制で休みなく稼働しているからだ。

 その最たるがコンビニの看板だ。徒歩数分の間隔で建築されたそれは、宗教めいたシンボルのように実在し、眠り沈んだ住宅街の中ですら異質な光を放っている。


 その都会の象徴に、僕は足を踏み入れた。

 参拝者を知らせる軽快な音が鳴る。蛍光灯が降り注ぐ店内とは対照的に、客は元より店員すらいなかった。裏にひっこんで商品の整理でもしているのか、それともただ単にサボっているのか、僕は気にすることなく、ほぼスカスカとなった棚からこの時間まで売れ残っていた賞味期限ギリギリの弁当をカゴのなかへ放り込んだ。すこしでもおいしそうなもの、食べたいものをという気持ちはまったくない。たまたま目についたから手に取っただけ。


 その後、リーチイン冷蔵庫から度数の高さを売りにしている缶チューハイをカゴに入れる。リキュールベースの甘いカクテルならともかく、人工香味料にまみれた酔わせるためだけのこの酒をうまいと思ったことは1度もない。けれど、飲めば感覚が麻痺して意識を失うように眠れる、だから重宝していつも愛用していた。


 選んだ商品をレジに置くと、奥から店員が頭を掻きながら姿を現した。いつもの見慣れた顔だ。店員はそのままいらっしゃいませの挨拶も僕への一瞥もなく、レジ横に無造作に置かれていたバーコードリーダーを掴むと、黙々と商品をスキャンし始めた。


 この仏頂面のコンビニ店員はフリーターなのか、夕方から深夜帯にかけて必ず店にいる。いつなんときでも気だるい様子でやる気は見られず愛想も悪い。はじめてこのコンビニを利用し始めたそのときからそれは変わらない。ここまで態度が悪いとクレームもすごそうだが、人手不足のこの時代に彼が退職に追い込まれることはないのか、ずっと居続けている。


 すべての商品を読み終えたのち、目線は下のまま店員がわずかに口を開いた。


「ポイントカードはございますか? レジ袋は必要ですか?」


 僕はこのコンビニをほぼ毎日利用している。そしてそのときレジを担当するのは必ずといってこの店員だ。2年経ち、いい加減顔くらい覚えているはずなのに、カードはあるか袋はいるか、まるで壊れた機械のように同じ文句を繰り返す。


「ポイントカードはよろしかったですよね?」

「袋は必要ないですよね?」

「いつもありがとうございます」

「この商品、人気なんですよ」


 そんな親しみを込めた会話は一切存在しない。


 コンビニ店員にとっては、常連も一見もすべてが客というカテゴリーに分類された他人でしかないのだろう。だから、マニュアルに従い決まった質問を繰り返す。それ以外の一切は彼にプログラミングされていない。


 僕も同じだ。


「カードはありません」

「袋もいりません」


 いくら繰り返したのかわからない答えを、同じくらい細い声でつぶやく。


 教室で1度も話したことがない人がいるように、他人はどこまでいっても他人で、決して交わることはない。

 言葉でコミュニケーションをとれるという人間特有の能力を生かせず、ただ見たことのあるその他としてなんとなく認識しているだけ。

 仲良くなる、友達になる、一緒に飲みに行く、そんなことが起こりえるのは作られたフィクションの世界だ。僕らは永遠に名前の知らない誰かのまま、わかりあうことなく途絶える。


 すぐ食べるので暖めてください、そんな短く簡単な注文すら言えなかった僕は、冷たいままの弁当を片手にコンビニの外へと出た。


 街はあいかわらず深閑としていて、止まる人間も走る車もいない。なのに、信号だけがその職務を忠実に全うし続けている。


 なんとなく「死にたい」ってつぶやく。


 冬の白い息よりも短いその言葉は、寂々じゃくじゃくたる沈黙すら破れないほど微かで、薄いマスクに遮られて誰の耳にも届くことなく消える。


 悲しいわけでも、苦しいわけでも、辛いわけでもなかった。

 それでも“死”というものは僕の心の底にへばりついたまま、けして離れようとはしない。


 大学生になり1人暮らしを始めて、その傾向は一層強くなったような気がする。これからの僕の人生がどうなるかは検討もつかないが、最期は首を吊るか、電車に飛び込むか、はたまたビルから飛び降りるか、いずれにしろ自殺に違いない。それだけは確信となって、僕の中で反芻はんすうし続けている。


 空を見上げた。あいかわらず星は片手で数えるほどしか輝いていない。


 今日の昼、ある芸能人が死んだというニュースを見た。

 ウェルテル効果を危惧してかアナウンサーは表現を濁していたけれど、それが自死というのは誰の目にも明らかだった。


 イケメンで、おいしい料理や高そうな車の写真をSNSに投稿して、たくさんの著名人と肩を組んで、演技もうまい。それこそすこし色目を使えばファンや若手女優といくらでもセックスできる、それほどまでに魅力的な俳優だった。


 でも、自ら命を絶った。


 叶うなら、なぜその決断に至ったか聞いてみたい。そこまで恵まれていてなぜそうしたか尋ねてみたい。


 生まれたときから人生が決まると言われ、自らの境遇に嘆く人が多いこの東京で“最高”を引き当てたはずなのに、なぜ死を選択したのか、僕は知りたい。


 問いかけはくうを切り、疑問は無言のまま夜の闇に漂い続ける。

 吹きつけた風が、冷たい弁当とアルコールをより一層凍えさせた。


 僕は、僕が死ぬ理由をずっと探している。

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