第2話
僕が買ったウサギはホーランドロップという品種だそうだ。性別は雌。小さい体に垂れた耳、全体的に丸っこいのが特徴で、ウサギとしてはコンパクトな部類に入るらしく、成獣しても30cm前後で体重も2kgもいかないらしい。穏やかで非攻撃的な性格をしており、カラーバリエーションも豊富でかなり人気の血統種とのことだ。
僕はネットに書かれている情報を軽く一読したのち、ウサギに目をやった。
最初こそは新天地に不安があったのか、部屋の中をせわしなく走り回ったり視線をキョロキョロと動かしたりしていたが、早々に慣れたのかいまは我が物顔で部屋の中央に鎮座している。こちらをじっと見上げ、食事はまだかと訴えているようだ。
生後1か月半とのことだが、エサの食べ方やオシッコの仕方はしつけてあると店員は言っていた。要求通り袋から牧草を取り出すと、待っていましたと言わんばかりに食いついてくる。併せて給水ボトルを使って水をあげると、こちらもゴクゴクと勢いよく飲み始めた。
そんなウサギの仕草をじっと観察する。
体毛はオレンジらしいが、どちらかといえば薄茶色っぽい。さらによく見ると顔の部分は濃く、後ろ脚の部分は白い。
いい配色だなと、背中をそっと撫でる。もふもふの毛並みが指に絡まって気持ちがいい。ウサギも嬉しいのか、鼻をツンツンとこすりつけ、もっと構ってとアピールしてくる。こちらに対して恐怖を感じている様子は微塵も感じられない。
最初の1週間は刺激を与えず環境に慣らすよう努めてくださいと苦言を呈されたが、どうやら杞憂に終わりそうだ。むしろペットショップの手狭な檻の中よりも広い室内のほうが居心地いいのか、血気盛んにはしゃいでいる。
飼いやすく懐きやすいというのは本当みたいだな。
手のひらから伝わる柔らかな厚みに思わず笑みがこぼれる。と同時に、なぜこの子を飼うことにしたのかという後悔が募る。
僕はこの子を幸せにできない。
無機質なワンルームの下、明確な啓示が頭の中に垂れる。
そうわかっているのに、そう知っていたはずなのに、どうしてこの子を飼うことにしたのか?
いくら自問しても答えはでない。
ただ
いまならまだ遅くない。ウサギをペットショップに返し、すべてをなかったことにしよう。
こんなにも愛くるしいのだ。大切にしてくれる人はいくらでもいる。
温かくて希望に満ち溢れているやさしい人が、すぐにこの子を新しく抱きしめてくれる。笑顔とぬくもりのなか、すこしも不自由することなく穏やかに暮らしていける。
この子にとっても絶対そのほうがいい。
僕には生き物を飼う資格すらない。生きている意味すらない。
僕は——
ふと視線を感じた。気づくとウサギが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。黒くクリクリとしたまなざしが一直線に伸び、僕の曖昧な姿を捉えている。
その目が何を訴えているのか僕にはわからなかった。ただペットショップで見せた、あの切なげな瞳でないことは間違いなかった。
そっとウサギを抱き上げる。
重くはなかったが、硬い筋肉と骨と、波打つ血脈が生命であることを実感させた。胸元に近づけるとウサギもこちらにすり寄ろうと手足をバタバタとさせた。そのたびに長いヒゲが顔に触れてくすぐったい。でも、心地良かった。
購入したのは閉店間際だ。返却するにしても明日以降になる。ただ今週はずっと授業とバイトがあるから、店に行くとしても次の休日まで待たないといけない。
店員にはしっかり世話をしてくださいと再三忠告された。わすが数日で根を上げたとなったら呆れられるに違いない。罵倒されるかもしれない。大きくて重たいゲージを持って店まで行くのも面倒だし、そもそもそんなものをまた担いで電車に乗るのも気恥ずかしい。
なら、しばらく飼い続けるという選択も仕方がない。
なに、たいしたことはない。ただルーチンが増えるだけだ。普段の生活にウサギが1匹加わって、その世話が追加されただけ。大きな変化があったわけじゃない。明日も明後日もいままでどおりで、つまらない毎日が続く。迷ったり
もしどうしようもなくなったら、捨ててしまえ。
無責任だって? 残酷だって?
じゃあ聞くけど、逆に責任感のある人間はどこにいる?
国のトップである政治家には
咎められても責任転換。俺だけじゃない、あいつもやっている。誰も言葉と行動に責任を持たないし認めようともしない。法が厳格化されても意味はない。奴らは正義を理由に棍棒を振り下ろし、正義を言い訳にその場から逃げ出す。
自分さえ良ければいい、それがいまの時代だ。
だから僕がこの子を適当に
ウサギだって本当のところ、僕のことをただエサをくれる
噴き出した怒りが喉を突き、こぶしを硬くする。無視され傷つけられるくらいなら、先に首の骨をへし折ってしまえ。どす黒い熱量が血をたぎらせ、暴力を正当化させようとする。
でも、どんなに
感情と行動はいつも相反し、まるで2人の自分がいるように
結局、僕はどこまでいってもダメな人間だ。なにもできないし、なにもしない。ただ誰かに言われるがまま、流されるまま。穴に吸い込まれ、どこまでも落ちていく。
ぐちゃぐちゃな内面の僕とは対照的に、ウサギは腕の中で微動すらしない。温和な表情を浮かべ、体重のすべてを僕に傾けている。
眠ってしまったのだろうか?
僕は起こさないよう慎重にウサギを柔らかい絨毯の上に下ろすと、その頬にそっと触れた。わだかまりのようにあった、はじめて動物を飼うことへの不安や緊張、そして先ほどまでの激情がすうっと消えていった。飼い始めてまだ数時間も経ってないのに、こんなにも無防備な姿をさらすことがありえるのだろうか? とてつもなく脳天気な子なのかもしれない。いずれにせよすこしの警戒もなくそばにいてくれる、その事実が無性に嬉しかった。
僕は子守唄を歌うように背中をさすった。ウサギは目を閉じたまま、不慣れでいびつな僕の手の動きにその体をゆだねてくれた。
穏やかに暖かく、いつまでも優しかった。
もし、この子が生きていくだけの一生分の餌と、汚物などを自動で清潔にしてくれる装置があったとして、それでもこの子は僕がいなくなったらさみしいと思ってくれるのだろうか? 死んでくれるのだろうか?
答えは出るはずもない。
天井を見上げる。蛍光灯の白い明かりが無言のまま部屋を照らし続けていた。夜はどこまでも静かで、文明のすべてが消滅したかのように無音だった。まるでこの世界に僕とウサギだけが取り残されている、そんな錯覚を覚えた。
悠久の沈黙が続く中、どこかから救急車のサイレン音が聞こえた。それははるか遠くで断続的に鳴ったかと思うと、いつのまにか途切れて消えた。
静寂がふたたび僕らを支配する。言い知れぬ感情が胸の中に湧き上がった。
東京のワンルームに、今日も僕は独りだ。
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