ウサギと僕と、とぎとぎ自殺

藤野ハレタカ

第1話

 ウサギはさみしいと死んでしまう、そんな噂を聞いたことがある。


 なにかのメディアに書いてあったのか、それとも誰かが言っていたのを偶然耳にしたのか。思い返そうにもすべてが不明瞭で見当がつかない。食事中に流れるCMと同様、たまたま頭の中を通り過ぎた言葉が記憶の端にひっかかっただけなのかもしれない。


 なんにせよ、どうでもいいことだ。僕はウサギを飼育しているわけでも販売してるわけでもない。生態を知ろうが知るまいが関係ない。何ら影響を及ぼさない。


 そもそもそんなことが現実に起こりえるのか? 科学的根拠すらない、都市伝説に近いものとしか思えない。知らない、聞いたこともないっていう人がいてもおかしくない。そんな極めて不確で曖昧なことを、いつどこで知り得たなんて覚えているほうがナンセンスだ。


 実際、僕は忘れていた。

 ウサギはさみしいと死ぬ。僕にとって微塵の役にも立たたない妄言は、シナプスの隅に放置され忘却ということもなく消え去る、そのはずだった。


 なんとなく通りかかったペットショップで、その“ウサギ”とやらを見つけるまでは。



 その日、客がすくないからという理由でバイトが早上がりになった。


 本来は20時までのシフトだったが、18時半をすぎたあたりで店長が神妙な面持ちで近づいてきて、申し訳なさそうにもう上がってくれないかと嘆願してきた。


 昨今蔓延したウイルス性の流行病のせいで政府から都全体に緊急事態宣言が発令され、僕がアルバイトしている飲食店も営業時間の短縮、および酒類の提供が禁止となった。居酒屋という形態でお酒を販売できないのは致命的であったのか、それとも全員がしっかりと自粛をして外出を控えているのか、猫の手も借りたいほど忙しかった日々がウソのように遠のき、今日も僕が働き始めた17時から現在までの客数はゼロだった。


 客がいなければ接客をすることもできない。仕方がないので机を拭いたり食器を磨いたりと、雑務をしていたがさすがに限度がある。僕は完全に手持ち無沙汰になって暇を持て余していた。そこからのお願いだ、断ることなどできない。僕は二つ返事でうなずくとすぐさま更衣室で着替えを済ませ、客のいない店内でラストオーダーの時間になるのをただ待っている店長とバイトリーダーに軽く会釈をして店を後にした。


 外は暗かった。


 平時ならネオンの明かりでごった返している街並みも、いまは8割近くがシャッターを下ろしているためか、発せられる光はわずかで乏しい。か細い明かりでは排気ガスに覆われた東京を照らすことなど到底できないのか、暗闇はここぞとばかりに闊歩し、人々の不安と呼応するように大通りすら我が物顔で占拠している。


 誰もが未知のウイルスによって自身の生命が脅かされることに おののき、宣言による経済の縮小を憂い、それによってもたらされる暗鬱 あんうつな未来を悲観している。


 ただ1人、僕を除いて。


 正直、この環境は嫌いではなかった。いや、むしろ親しみを覚えていると言っていい。

 生まれ育ったところは街灯もまばらな田舎で闇が身近だった。夜は物静かでひっそりとしており、それが僕にとっての当たり前だった。昨今の雰囲気はあの頃と遜色 そんしょくない。だからこそ居心地の良さを抱いているというのもあったが、それ以上にあのギラギラとした人工的な光が僕は苦手だった。


 24時を過ぎても人が途絶えず、千鳥足のまま大声で叫ぶサラリーマン。派手なメイクと露出した服装で性をアピールする夜職の女性。意味もなくたむろし騒ぎ立てる群衆。そういった東京のすべてが僕は嫌いだった。

 だから不謹慎極まりないのはわかっているけれど、例のウイルス性流行病によってそれらが根こそぎ排除されたことに、僕はすくなからずの喜びを感じていた。


 今日もバイト時間の短縮によって収入が減ったことは残念だが、予定よりもはるか前に解放されたのは単純に嬉しい。タイムカードを切ったと同時に押し寄せていた疲労感も、応対すらしていないのだからほぼないといっていい。いままでは寄り道をするという考えすら浮かばず、1秒でも早く家に帰りたいという気持ちしかなかった。だが、いまは十分な活力がある。時刻もまだ19時前だ。このまま家に帰るのはなんだかもったいないような気がした。

 その意思に従うように、僕は駅に向かうことなく見知らぬ道へと足を運んだ。


 この街でバイトをして2年近く経つけど、こうやって目的もなく彷徨 ほうこうするのは初めてかもしれない。どこにでもありそうなチェーン店も、同じ商品しか置いてないコンビニも、すべてが新鮮で珍しく見える。人の行き来もあまりなく、すこぶる快適だ。


 東京が珍しかったころ、知っている地名というだけで原宿へ行ったことがある。大型連休であったということをかんがみても、人の渋滞で前に進めないことがあるという事実に絶句した。人口が日本一なのは当然わかっていたし、それこそ満員電車なんかはニュースの映像などから辛いものだと理解はしていたけど、まさか歩道で動けなくなるとは思っていなかった。


 地元は駅前の商店街すら閑散としているのに、東京は聞いたことがない場所でも人の波がうねっている。あげく突然立ち止まる人、いきなり曲がる人。常に他人を意識して、そのなかをうように進まなければならない。たかだか数分の移動なのに、なるべく接触しないよう注意し続けた結果、心底困憊 こんぱいした記憶がある。


 それがいまは誰とも肩をぶつける心配がない。遅いと舌打ちされることもない。


 もちろんある程度の人はいる。緊急事態宣言中とはいえ会社や学校は休みではないし、食料や日用品の補充のためにも外出は必要だ。ウイルスが蔓延したからといって、1日中部屋に閉じこもらなければならないとかそういうわけでもない。


 それでも、本当にすべてが一変してしまった。


 街を見渡す。

 あいかわらず大半のシャッターは閉まっていて光は貧しい。


 ずっとこのままがいいと、僕は願う。


 この考えが異常なのはわかっている。大多数の人が一刻も早く外出や旅行をして何の制限もなく食事やレジャーを楽しみたい、そう望んでいるのは重々承知している。

 実際、欧米では慎重になりすぎず日常的な生活に返ろうという動きがあるらしい。 日本もやがては元の、誰もマスクをしてない毎日へと戻っていくのだろう。


 でも、たとえ異端者として火あぶりに処されるとしても、他人と限りなく接触を拒む“いま”が僕は好きだった。マスクで素顔を覆い、人と人とが距離をとることを正義とするこの世界が理想だった。


 ウイルスに感染することも躊躇ちゅうちょせず、大きく息を吸う。


 吐き出された呼吸から見える街は闇に覆われたまま、あらゆる光を遠ざけていた。夜はさらに深みを増し、変わらずすべての他者を拒絶し続けている。


 僕はわけもなく満足げに微笑むと、スマホに目を移した。いい頃合いだ、そろそろ帰宅しよう。そう踵を返し最初の角を曲がったとき、巨大なショッピングモールが突如目の前に現れた。ビルが死角になっていたことと気を抜いていたというのもあったが、それでも湧いたように出現した建物に僕は狼狽うろたえ足を止めた。


 生活必需品を扱っているショッピングモールは、明かりが激減した街中でもその輝きを衰えさせてはいない。僕はその壮大な存在感に圧倒されつつ、光に誘われる羽虫と同様に、ふらふらと自動ドアの中へと吸い込まれていった。


 3階建てのフロアは吹き抜けになっていて、高い天井と最上階まで連なるエスカレーターが店内をより広く演出させていた。ファッションに疎い僕でも知っている格安有名ブランドのロゴに出迎えられ、一生着ることがない高級そうな服に見つめられながら、最新のスマホが光る電気屋を抜ける。1階にはフードコートがあり、おなじみのファストフードから地方グルメの屋台まで所狭しに並んでいた。僕はすこしも減っていないお腹を抱えながら、たまたま目についたラーメン屋の看板を眺めた。こだわりの味噌ラーメンにチャーシューメン、ギョーザーなどのサイドメニューに至るまでどれも食欲をかきたてるものばかりだ。


 美味しそうだなと思う反面、結局は新しいものに挑戦することなく食べ慣れているものを選んでしまう、そんなわかりきった自分に苦笑いがこぼれた。失敗したらどうしようという気持ちが、いつも僕の選択を当たり障りのないものに決定づける。


 食事だけじゃない。服も髪型もバッグも、すべてがまわりと同じ無難で普遍的なものを望む。

 唯一の特別は怖くて、無数の量産は安心する。ずっと目立たず生きてきた。これからもそうやってひそやかに過ごしていくだろう。


 フードコートから離れた後も、これといったテナント店に入ることすらなく、意味もなくエスカレーターを上ったり下ったりしつつ店内を散策した。途中、コーヒーショップの横に映画館があるのを発見した。スマホの窮屈な画面ではなくスクリーンで映画を観たのはいつだっただろう、そんなことを考えていると店内のBGMが帰宅を促すものに変わった。


 どうやら僕の冒険もそろそろお開きらしい。すぐそばにあった案内板で出入口の位置をざっと確認する。広い店内を無尽蔵に歩き回ったため、元来た方角すら判別がつかない。それでも懸念はなかった。どこに出ようがかまわない。ただ指示のまま進めばいい。僕はずっとそうしてきたように、矢印のほうへ足を動かした。


 しばらくして自動ドアが視界に入る。出口までのルートが正しかったことにすくなからず安堵した瞬間、脇にあったペットショップが目についた。


 それはモールの隅にあり、帰ろうとする顧客の足をすこしでも留めるためか、通路側にショーケースを設置して多種多様の動物たちを閲覧できるようになっていた。

 ほとんどの客がそうするであるように、僕もまたディスプレイされている犬や猫に目をやる。トイ・プードル、チワワ、スコティッシュ・フォールドやマンチカンなど、人気種の子供たちが狭い檻の中で静かにたたずんでいる。閉店の音楽も相まってかどの子も眠そうだ。そんなうつらうつらとした様子につい愛しさを覚えるとともに、すぐに脇に提示されている高額な値段に冷静になる。まあたとえ十分なお金を持っていたとしても、僕のような人間が動物を飼うなどありえない。そんな資格はない。


 ふいに感情が沸き上がる。

 いつもの、あの諦めに似た心情。


 どんなに楽しいことや嬉しいことがあっても、それが終わればすぐに顔を出す、虚しさとも寂しさともすこし違う、絶対叶わないという予感。

 幸せになれないという確信。


 僕はため息をつくと、こちらにすこしも興味のなさそうな動物たちに向かってちいさく微笑んだ。


 いつかお前たちを大切してくれる優しい飼い主に会えるといいね。


 そう願ってその場を去ろうとしたとき、1匹のウサギと目が合った。最初から僕を注視していたのか、それとも偶然視線が交差したのかはわからない。だが、そのことがどうでもよくなるくらい、そのウサギには身体的な特徴があった。


 その子は耳が立っていなかった。


 ウサギといえば耳がピンとはねている、そのイメージしかなかった僕は、逆にペタンと垂れているその子に興味を引かれ完全に足を止めた。


 ウサギはまだ僕を見つめていた。ゲージの中で凍えるようにじっと縮こまり、ときおり鼻をクンクンとさせる以外、動きらしい動作をすることもなく、ただ僕を凝視していた。


 ——さみしいから死ぬ。


 雷に打たれたように、その言葉が頭に浮かんだ。


 なんの確証もない、ウソに違いない。

 実験用マウスですら命の大切さが叫ばれているこの時代、ウサギをあえて孤独にするなどという、あきらかに動物愛護団体が黙っていなさそうなことを検証するはずがない。たまたま飼い主がいないときに寿命や病気で亡くなったという事例が勝手に独り歩きをして、それこそ無数にあふれている根も葉もないウワサの1つへと変化しただけだろう。調べればすぐわかる、呆れるほど馬鹿げた妄想だ。


 そう理屈では十分に理解していた。根拠のない戯言ざれごとだと決めつけていた。なのに、僕はこびりついた不安を振り払うことができなかった。


 もし万が一にもそれが真実だとしたら?

 何千、何万といるウサギの中で本当にさみしくて死んでしまう個体がいるとしたら?


 そう考えた矢先には店員に声をかけていた。

 いま思い返すとなんでそんなことをしたのかわからない。ほとんど衝動といっていい。

 ただ気づいたときには貯金がほとんど空になっていて、代わりにウサギ1匹と、それを育てるためのゲージやらエサやらを両手いっぱいに抱えこんでいた。

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