テルにほぼ無防備に殴られ続けたせいで意識がぼんやりとしていて、それからのあきらの記憶は曖昧だった。テルに引きずられるようにして車の後部座席へ押し込まれ、そこからアパートへ着くまでに経過した時間も判然としない。


 途中、今日は娘であるれんの誕生日であり、丁度家族皆で出かけるところだったというすずなおみちへと、直接会いに行った。テルに殴られ続けたその有様で、例の同級生の男のことは、絶対に誰にも口外しないで欲しい、と釘を刺しに。

 輝の怪我の状態を見、直道は酷く驚いていた。


 輝がアパート前で車を降りると即、テルの乗った車は無情に走り去って行った。今さらだが飲酒運転ではないかと気になったが、殺しという重罪を犯している割にポイ捨てなどの軽犯罪は気にする一面のあるテルのことだから、そう無茶な運転はしないだろう。


 手すりに時折寄りかかりながら、アパートの二階、鍵とドアを開けて、ようやく一息つく。

 玄関からリビングへ入り、氷柱つららと目が合う。



!?」

 十年以上にわたり、を育ててきた父親としての本能が、数年ぶりの彼の存在を察知していた。

 気づけば、氷柱を強く、抱きしめていた。


「逃げない……で……氷柱」

 痛む傷にも荒れる息にも構うことなく、ただ必死に、彼が再び自分のなかへ閉じこもるのを、引き止めている。

 少しだけ体を離し、今度は彼の顔の寸前にまで近づいて、まっすぐに彼の目を見つめた。どこか弱々しく瞳を揺らし、こちらの機嫌や顔色をうかがうようにして、見つめ返してくる。だと、輝は確信した。


 気づけば子どもの頃のように、頬を撫でていた。繰り返し触れてくる輝の手に対し、氷柱は振り払おうとはしない。輝のことを、決して良くは思っていないはずなのに。だからこそ、彼は自らのなかへ、ずっと引きこもり続けていたのに。



「父さん……怪我」

 消え入りそうな声色だったが、ずっと聞きたかった氷柱の生の声が、確かに聞こえた。


「心配してくれているから、入れかわろうとしないのか……?」

 氷柱の瞳が、どこか複雑そうに、揺れる。潤んだようにも見えてしまうのは、輝のただの願望なのか。



「僕は父さんに、死んでほしいわけじゃないから」

 輝の仕事のことを含んで、言っているのだろう。


 さすがに、視線は反らされてしまったが。

 今の輝には、本当の氷柱の、その一言だけで、充分だった。


 だから輝も、氷柱へ、一言伝える。

 奇しくも今日は、輝がかつて幼かった氷柱から教わった、一年に一度の、特別な日。


「誕生日、おめでとう」



 数年後しの、精一杯の思いを込めて言い、互いの額を、これもまた氷柱の幼い頃のように、突き合わせようとした。


 遠くで、消防車と思しきサイレンの音が響く。その音に気をとられ、

 途端。


「気持ちわりぃんだよっ!」


 これにはさすがの輝も対処しきれなかった。無様に額に強烈な頭突きを受け、転がる。だが長年の癖で、起き上がり、即、どんな動きにも対応できるよう、身構えていた。

 眉間を逆ハの字に吊り上げた鋭い目つきは、もうひとつの氷柱の人格であるのものへと、すっかりいれかわっていた。


「調子に乗んじゃねえぞ。人殺しが」

 そう言い捨て、彼は部屋の奥へと消えた。



 中身は違うとはいえ、氷柱の顔で直接自らの身の程を突きつけられると、やはり心の奥底へ、鋭く、突き刺さってくる。刺さった言葉はそのまま輝の心を裂き、裂かれた場所から血が流れ、生まれて初めてと言ってもいいくらいの、心の痛みを、この瞬間、確かに感じた。


 だが、これでいい。

 裂かれた心も流れる血も、そのままでいいと思った。手当も応急処置も、求めてはならない。傷ついた自らの心から逃げても、いけない。

 いつかテルが言っていた。どんなに追い詰められても、自殺だなんて馬鹿なことをする動物は、人間だけだと。

 だから輝は、突き刺され、裂かれ、血が流れたままの心で、改めて、強く思う。


 彼だけはどんなことがあっても、この命尽きるまで、守っていく、と。



 その数時間後だった。


 アパートのチャイム。そろそろ午後十一時まわる闇夜も深い時間。氷柱に対する感傷が途端に消えた。わざわざ大きな音を立ててから襲撃してくる人間などいるわけないと思いつつも、立ち上がる。

 先ほどまで氷柱への思いで熱くなっていた体も心も急激に冷え、頭の中はまっしろに。

 ただ、こんな時間の突然の訪問者に、警戒心を全身に張り巡らせつつ、玄関へと向かう。


「……はい」

 嫌でも低くなる声色。相手の体格、人数、武器の有無や種類、数。多種多様な敵を想定する。テルに負わされた怪我の多く残るこの体で、どこまで立ち回れるか。最優先は、奥にいる氷柱の、身の安全。


 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと、開く。



「鈴木さん」

 訪問者は、鈴木直道だった。

 怒っているような当惑しているような、複雑な表情。急いで来たのか、息が荒い。挨拶もなく、彼は、口を開いた。




「うちの家が、火事になりました……放火かも、しれないって」

 意味が、わからなかった。

 混乱する輝をよそに、直道は続ける。



「あなたじゃ、ないですよね、輝さん。あのテルって人に、嫌……ハザマトウゴに、頼まれて」

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