Ⅴ
今の時代、煙草も吸えずとにかくやかましい場所へと無理矢理押し込められることほど、彼にとって憂鬱なものはなかった。
「
彼はおのれ以外の他人に指図されることを、とにかく嫌う傾向にあった。かつて自分そっくりな男に自らの思考から言動から全てを支配されていた、忌まわしき記憶のせいか。
実際、若い頃は負の感情を爆発させ、逆らってきた相手、偉そうに命令してきた相手、周りの連中を何度殴り倒したかわからない。その代償として、暴れた分だけ報復にもあい、そこでもまた、自分の体格の良さを存分に利用し、ひとり残らず返り討ちにしていった。
だが今の彼のなかで、そこまでの感情の高ぶりはなく、少し眉間に力が入りはしたものの、大人しく誘導された席、居酒屋店内奥の座敷、いわゆる誕生日席へと腰を下ろす。
本当の名を手放し、様々な戸籍を転々としているせいか、もう自分が今年でいくつ歳を重ねたのかも把握できてはいなかったが、なんとなくもう歳なんだろうかとぼんやり考える。
今の彼の戸籍、名は上川
肩書きは高校教師。その高校に赴任して数ヶ月。今夜は教職員全員参加の飲み会。酒は基本ひとりきりで、静かに飲んでいたいタイプの彼としては、その場に座っているだけで憂鬱だった。
とりあえずビール、の合図で、各々にジョッキが運ばれていく。
乾杯の合図を待たず、彼はジョッキ片手にビールを一気にあおりにかかった。その様子を、その場にいる教職員全員が啞然とした様子で眺めてくる。
ものの数秒で、彼のジョッキが空になる。途端に、彼は立ち上がった。
「もうお帰りですか?」
先ほど彼を席へと先導した男性教師が尋ねてくる。
「一杯だけの約束でしょう」
皆が一様に、彼に対して呆れた視線を向ける。
面倒くせえな。
彼がそう腹のなかでこぼしていた時、彼の携帯電話が鳴った。表示を見ると、『
いつもであれば舌打ちとともに無視を決め込むのだが、今の面倒くさい状況から逃れることを優先して、教職員達から背を向け、電話にでる。
『テルさんが電話にでるなんて珍しいですね』
『とっとと要件を言え』
『
『またガキの愚痴か。だったらマスターにでも聞いてもらえ。どうせいつものバーにいるんだろ』
『誰の子どもの愚痴だとおもってるんですかっ。あなたには僕の子育ての愚痴を聞く義務があるでしょう』
『誰の子どもだって?』
おもわず声を大きくしてしまう。
輝への電話を一方的に切り、一度呼吸を落ち着かせる。
「今夜はこれで失礼します」
座敷を下り、靴を履いている彼の背に、
「彼女、ですか? いらっしゃるんですね」
彼の大嫌いな、こちらのプライベートへと踏み込むような質問に舌打ちをもらしそうになる。
だから意地悪く、いかにも女に見向きもされないような冴えない男の間抜けヅラに、嫌味ったらしく返してやる。
「いますよ。両手両足じゃ数え切れないくらいに」
その場がシラケるのも構わず、店を出た。
たった一回行為に及んだだけであの女が妊娠し、彼の知らぬところでその子どもを産み、そのまま亡くなるとは想像もしていなかった。更にはその子どもを、輝があそこまで育てあげるとは。人の壊し方や殺し方は教えても、育て方なんか、教えた覚えはないのに。
……『父親』だなんて、彼には最も縁遠く、どんなに努力してもなれそうにない人種だ。ガキのことなんて、別にどうでもいい。
不意に輝の言葉を思い出す。
『テルさんが上川託野の戸籍で高校教師でいることを選んでくれたのは、やっぱり心のどこかで、あの子のことが心配だからじゃないんですか』
こらえきれず、大きく舌打ちした。
苛立ちながら、上川託野としてかけていた銀縁眼鏡を外し、普段何処へいるにもつけているサングラスをかけ直し、嫌悪と愛着が半々の目元を覆い隠す。それから携帯電話を再度取り出し、先日ホテルに連れ込んだ女に再び電話をかける。基本金で女は買わず、同じ女は二度抱かない主義だが、今はとにかくこの苛立ちを、どうにか紛らわせたかった。
脳裏に浮かんでいたのは、自分と似た、自らの手で亡き者にした、憎き男の顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます