第十話:私とトウジさんのことを、ひとまず見守っていてくれないかな?
「お姉ちゃん!」
ドアを乱暴に開けて、ヒマワリが病室へ駆け込む。
「お、おい、ヒマワリ! ここ病院――」
たしなめようとした俺の言葉は、母さんの肩を叩く手に止められた。
母さんの顔を見ると、ゆるやかに微笑みながら、首を横に振っている。言わんとしていることを理解する。
まぁ、そうだな。野暮だよな。
俺と母さんは二人揃って、病室に入る。
他の入院患者は見当たらない。どうやら個室らしい。
「お、おねえちゃん……」
いつの間にというべきか、早くもと言うべきか。ヒマワリが泣きながらユリカさんに抱きついている。
抱きつかれているユリカさんはというと優しげな顔で、ヒマワリの頭を撫でていた。
「ごめんね。心配かけて」
「よ、よ、よかった……。よかったよお」
秋野のおばさんがそんな感動的なシーンを演じている二人を、というか主にヒマワリを呆れた顔で眺めて肩を竦めてからこちらへ歩いてくる。
母さんが近づいてくるおばさんを見て声をかけた。
「秋野さん」
「
おばさんが深々とお辞儀をした。
「いえいえ、とんでもない」
「ヒマワリにはメッセージ送ったんですけど、この子ったら全然見てなくて」
「こういうときって気が動転するものですから」
「それにしたって……。ヨウ君も、ありがとうね」
母さんと話していたおばさんが、俺を見て困ったように微笑む。
気持ちはわかる。なにしろ、おばさんからヒマワリにちゃんと情報連携がされていのであれば、だ。見てなかったヒマワリがひたすらにから騒ぎしていた、ということになる。
とは言え、事態が事態だ。おばさんの気持ちもヒマワリの気持ちも理解できる。
ここは、ヒマワリのフォローにまわってやるか。
「いや。俺も、心配でしたし」
俺はそう言って、ユリカさんを見る。視線に気づいたユリカさんが、ヒマワリを撫でながら俺に向かって、おばさんと同じように困ったような顔で微笑んだ。
「ヨウ君、心配かけてごめんね」
「ううん。ユリカ姉。無事で良かった」
言いながら、俺はきょろきょろと病室を見回す。
ここにいるべき人間がいないことに違和感を抱いたのだ。
「鈴川さんは?」
「ヨウ君。私も
「あー、ごめん」
「ふふ。からかっただけ。トウジさんなら、家に一旦戻ってもらって、色々準備してもらってる」
「そっか」
そこまで言ってから、ずっと抱えていた疑問を投げかけようとして、躊躇った。訊いて良いものなのか少し迷う。
顔に出ていたのだろう。ユリカさんがいたずらっ子みたいに笑いながら、俺に言った。
「ヨウ君、なにか私に聞きたいことあるんでしょ?」
「う……」
ユリカさんには本当に敵わない。俺は一つだけ深く息を吐く。観念しよう。
「鈴川さんは、大丈夫?」
病室の空気が少しだけ重くなる。
大人の会話を続けていた母さんとおばさんも黙り込む。
「どこまで聞いてる?」
「え……っと」
「ううん。いいの。きっと、岡平さんから色々聞いてるんでしょう?」
本当に。
ユリカさんには敵わない。
ヒマワリが泣くのを辞めてユリカさんから離れ、岡平さんの弁護を始める。
「うん。でも岡平さんが悪いわけじゃなくて、アタシ達が鈴川さんのこと聞き出したの」
このままでは、岡平さんだけが悪者になってしまう、とでも思ったのだろう。ユリカさんに限ってそうはならないだろうに。
「ヒマワリ、別に隠していたわけじゃないし、岡平さんのお気遣いに私とても感謝しているのよ」
「うん」
ほーらな。
ユリカさんが、うーん、と唸り「どこから話そうかしら」と呟いた。
それからゆっくりと口を開いて、俺とヒマワリに向かって言葉を漏らした。
「えっとね……。トウジさん、頑張り過ぎちゃうところあるじゃない? って言ってもわからないわよね。頑張り過ぎちゃう人なの」
俺とヒマワリは一瞬だけ顔を見合わせてから、小さく頷いた。
「それで、今も頑張ってるの。きっと」
今も頑張っている、というのはどういうことなのだろう。
「だから、私もひとまず見守ってあげることにしたの」
ひとまず見守る、というのはどういうことなのだろう。
「だから、ヒマワリもヨウ君も、私とトウジさんのことを、ひとまず見守っていてくれないかな?」
「それは……」
つまるところ「そっとしておいてくれ」と言われているのだと気付いた。
当事者にそう言われてしまっては、もはや俺もヒマワリも蚊帳の外になってしまうのは当然なのだが。
「ユリカ姉」
「なあに? ヨウ君」
「大丈夫?」
「私は大丈夫」
でも。
でも、ユリカさんは。
大丈夫そうな顔をしていない。感じてしまった。
こういう時、自分がまだ子供であることが、ひどくもどかしく思う。
ユリカさんは大人で。
鈴川も大人で。
岡平さんも大人で。
おじさんもおばさんも。父さんも母さんも。
みんな大人で。
俺は、無力な子供だ。
だから。
「うん。俺で力になれることがあったら、遠慮なく言ってよ」
こう言うしかなくなる。
「ありがとう。そのときは遠慮なく頼るわね」
ユリカさんがあたかも
俺はユリカさんに気づかれないように、両手を後ろに隠して、ぎゅうっと握りしめた。
その後しばらく病室にいるめいめいが思い思いの雑談をしていたところ、扉ががらりと開いた。
「……あ、皆さん……」
扉を開けて入ってきたのは鈴川だった。
「すみません。ご心配をおかけしまして……」
鈴川が申し訳無さそうに、ボソボソと喋って、小さく頭を下げた。
一秒ほどして、鈴川が顔を上げる。
眉間に深いしわが刻まれている。まるで苦虫を噛み潰したような表情だった。
数日前に見た、快活な男の様子とはまるで別人だ。
今の状態を聞いて知っている先入観によるものか? と、目を擦ったが、それを差し引いても鈴川の佇まいからは覇気が感じられなかった。
「いいのよ。トウジ君」
おばさんが精一杯気を遣った声色で鈴川に返事をした。
ヒマワリと少しだけ目を合わせる。当然ながら俺達二人も何も言えない。
鈴川の声の小ささに引きずられるように、口元だけで挨拶して、それくらいだ。
「……ユリカ」
「ありがとう、トウジさん」
「いいんだ。なにかやることはある?」
「ありがとう。今すぐに思いつくことはないから、大丈夫」
ユリカさんがゆるりと微笑んで、おばさんに顔を向けた。
視線を受けたおばさんが、小さく頷いて、母さんに向き直った。
「春原さん。今日はありがとうございました」
「いえいえ。いいんです」
「ユリカは多分もう大丈夫ですので、私達は帰りましょうか」
そう言ってから、おばさんが鈴川をちらりと見た。
「トウジさん。申し訳ないのだけれども、明日朝早くまたここに来なきゃでね。男手がほしいから、今日はウチに泊まっていってくださる?」
「え? あ、あの。構いませんが……」
鈴川がおばさんに不安そうな顔を向けた。
「じゃ、決まりね。春原さんも、一緒にタクシーに乗って帰りましょう」
帰りの車内はほとんど誰も何も喋らなかった。
おばさんが運転手に帰り道を指示する声だけで、それ以外は何も無く、車内に響き渡るロードノイズがひどくザラザラと鼓膜を震わせた。
俺とヒマワリは途中少しだけ顔を見合わせたが、重苦しい雰囲気に押し負けて声を出すことはできなかった。
しかし、俺は車内の雰囲気とは裏腹に叫び出したい気持ちでいっぱいだった。
鈴川が精神的に参っている、というのはわかっていた。
理解していたつもりだった。
しかし、やつの変わりようの凄さが、想像していたよりも事態が深刻なのだと雄弁に物語っていた。
お前は、そんな男じゃなかったはずだろ? 鈴川トウジ。
もっと、お前は、スマートで、大人で、男らしくて、知的で。
俺が思わず憧れてしまうような、そんな人間だったはずだ。
それが今はどうだ?
頬はげっそりとこけ、人好きのする笑顔は影を潜め、声に張りはない。
何がヤツをそうさせた? どんなひどい仕打ちを受けたら、あの男がこうなる?
想像もつかない。
その想像もつかないことがまた、自分が子供であるということを痛感させるようで、イライラを助長する。
そして、このイライラをぶつける先は存在しない。
振り上げた拳を振り下ろす先がない。
そもそも、拳を振り上げることすら許されていないのだ。
どうすれば良い?
俺に何ができる?
いや、わかっている。きっと何もできないのだ。
ぐるぐると、終着点のない考えを巡らせていると、いつの間にかタクシーが家の前に到着していた。
タクシー代を半分払おうとする母さんと、それを拒否するおばさんの間で短い攻防が繰り広げられ、おばさんが勝利した。
「春原さん。改めて、今日は本当にありがとうございました」
タクシーから降りて、おばさんが母さんと俺に深々と頭を下げる。
「いえ、いいんです。秋野さん。力になれることがあったら何でも言ってね」
「ありがとう。春原さん。あとで、連絡するわ」
「うん、連絡して」
短いやり取りをした後で、おばさんが「ヨウ君もありがとね」と言い、再び頭を下げて、秋野宅へ帰っていく。
鈴川とヒマワリも一緒だ。
とぼとぼとおばさんの背中を追いかける鈴川。
その後ろを追いかけるヒマワリ。
ヒマワリが歩きだして数歩、こちらを振り返って俺の顔を見る。
そして、声は出さず、口をぱくぱくと動かした。
『後で行くね』
多分そう言っている。俺は頷いた。
三人が家に入るのを見届けてから、俺と母さんも動き出す。
「しかし、ユリカちゃん、何事もなくてよかったわね」
「何事もないのか?」
「ま、検査入院っていっても、本当に念の為で、お医者様も大きく問題はない、って秋野さん言ってたから」
「そうなんだ……」
玄関ドアを開けて、家の中に入る。
「しかし、トウジさん……。聞いてはいたけど、大丈夫かしら」
靴を脱ぎながら、母さんがぼそりと言った。
「そうだな」
「すっかり人相が変わってしまって……。あんまり思い詰めてないといいんだけど」
言ってから、母さんが「晩御飯の支度しなくちゃ」と台所に向かう。
そんな母さんの背中に向かって、さも今メッセージが届いたかのように装いながら声をぶつける。
「あ、母さん。今ヒマワリからメッセージ来て。これから、ウチ来るって」
「あら、そう? 晩ごはんは食べてくるかしらね?」
「たぶん」
「そうよねえ」
母さんがてきぱきと夕飯の支度を始める様を見届けて、俺は自室に戻る。
部屋のドアを開けて、ベッドに横になってスマートフォンを取り出す。
ヒマワリからメッセージが来ていた。
『何時頃行って良い?』
何時になっても構わないが……。
ただ、ヒマワリの分の夕飯はウチにはない。
『夕飯は食ってこい』
『りょ』
ヒマワリからの返事は早かった。
§
父さんが帰ってきて、夕飯も済ませ、しばらくしてから、ヒマワリがウチに来た。
「お邪魔します」
「ヒマワリちゃん、いらっしゃい」
父さんが心配そうな声でヒマワリを迎える。
ちょうど皆リビングにいたタイミングだったので、家族総出でヒマワリを迎える形となった。
「大変だったみたいだね」
「あ、はい。これ、お母さんが持ってけって」
ヒマワリが靴を脱いでから、紙袋に入った菓子折りを父さんに手渡した。
「あー、秋野さん、気、遣わなくていいのに……」
菓子折りを見て、母さんが苦笑いする。
「ま、ゆっくりしてってね。ヒマワリちゃん」
父さんと母さんがヒマワリに向かってにこりと笑いかけて、リビングに戻ろうとした。
俺もヒマワリを伴って、自室に向かおうと脚を動かそうとした。
その時だった。
「あ、あの。春原のおじさん、おばさん」
ヒマワリが声を上げた。
父さんと母さんが振り返る。
「あの……。突然でご迷惑なのはわかってるんですけど……」
ヒマワリが僅かに逡巡したように目を泳がせ、口を開け閉めする。
その後で、覚悟を決めたように、父さんと母さんに向かって頭を下げた。
「今日、泊まっていっても……良いでしょうか」
父さんと母さんが、少しだけ目を見開いてから、顔を見合わせる。
返事?
家族ぐるみの付き合いがある秋野家のヒマワリだ。
二人が出す結論なんて一つしかない。
「大丈夫だけど、ちゃんと伝えてから来たんだよね?」
父さんが言う。
誰にとは言わない。明白だからだ。
ちゃんとおじさんおばさんの了承を得ているのか、だ。
ヒマワリが何も言わずに頷く。
「わかった。お母さん、秋野さんとこに、念の為電話しといて」
「はい、お父さん」
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