第八話:父さん、母さん。やるだけ、やってみる
鈴川トウジが仕事を休み始めたことは確かに大事件ではあるのだが、それでも止まってはくれないのが時間の流れというものだ。
鈴川夫妻にどれだけ衝撃的な出来事が起こったことで、すっかり忘却の彼方へ追いやられてしまっても、だ。
時間の流れから、もっと言い換えれば自分自身の問題から逃げることはできない。
いや、別に逃げてるわけじゃないんだけどさ。
でも、そろそろちゃんと考えるべきなのだろう。
机の上の進路希望調査のプリントを眺めてため息を吐く。提出はいよいよ明日だ。
さて、どうするか。
――東京大学入ってよ。
数日前にヒマワリから言われた言葉を思い出す。
東京大学か……。これからの頑張り次第では、無理難題というわけじゃない、とは思う。
しかし、百パーセント合格するかと問われたら、否だろう。
半々ですらない。
三割。いや、ニ割? 一割? 考えれば考えるほど無謀にも思えてくる。
日本で一番有名で、一番合格するのが難しいと言われている大学。
全国の進学校から、選りすぐりの秀才や天才が受験する、この国のトップ。
そんな中に俺が飛び込むのか?
下手すりゃ、不合格で浪人。数年間を棒に振る可能性だってある。
合格する可能性に賭けて数年間頑張った結果、途中で諦めたりなんてしたらダメージは大きいすぎる。取り返しがつかない。
それに、東京大学なんて行ってどうする?
頑張って、頑張って、頑張って。仮に、万に一つでも受かったとして。
俺は何をしたいんだ?
別に何をしたいわけでもない。将来の展望なんてものもない。
夢もない。なりたいものもない。
受験は競争だ。
仮にあっさり合格したとして。まぁ、そうなる可能性は少ないけど、そうなったとして。
そんなふわふわした俺が他の「受かるはずだった」人間を押しのけて、入学するだけの資格があるのだろうか。
そんなことをさっきから悶々と考えている。
でも。でも、だ。
心の何処かで、「挑戦してみたい」自分がいることも事実だ。
いや、正しくない。
そもそも、俺は「ユリカさんに似合う男になるため」に努力してきた。
ユリカさんに似合う男。
それは、良い大学だった。
それは、優れた身体だった。
それは、自立した人間性だった。
だから、もしもユリカさんが鈴川と結婚していなかったら、このタイミングで現れたはずなのだ。東京大学、という選択肢は。
なにしろ、ユリカさんの隣に並び立つ男として、東京大学なんて素晴らしい肩書じゃないか。
勉強は嫌いじゃない。
やればやったぶん結果が出るからだ。
トレーニングも嫌いじゃない。
やればやったぶん身体は鍛えられ、体力がつくからだ。
逆に、団体競技だったり、スポーツは苦手だ。
どうしても、努力以外の要素が絡んでくる。才能、運、環境、チームメイト。
そして人より優れた才能なんてもの、俺にはない。
少なくとも、俺が生きてきたこの十七年程度の経験の中では見つからなかった。
そのことを俺は中学の時分にはっきりと理解していた。
公立の中学だった。
だから、いろんなヤツがいた。深く交流はしちゃいなかったが。
絵を描いて表彰されるヤツがいた。
ピアノコンクールで受賞して表彰されるヤツがいた。
いつだって、ひょうきんな喋りでクラスを、ともすれば学校中をわかせるヤツがいた。
部活でヒーローみたいな活躍をするヤツがいた。
ちょっとした悪事に手を染めて、不良として目立ってるヤツがいた。
学校の内外で女子をとっかえひっかえして、遊びまくってるヤツがいた。
上級生やら他学生と喧嘩して、負けなしだったヤツがいた。
社会的な評価がポジティブであれ、ネガティブであれ、どれもこれも立派な才能だ。
一方で俺はどうだろう。
ただ、ひたすらに勉強をしていただけ。
ただ、ひたすらに身体を鍛えていただけ。
中学の時所属していたサッカー部でも、俺の役目はベンチを温めることだった。
何度言われただろうか。「走ったり、跳ねたりするのはそこそこできるのに、サッカーはできないよな」なんて。
勉強にしたって、他の誰よりも頑張ってきたつもりだった。
けれど、一位を取ったことはない。
いつだって、へらへらとしながら、遊びながら、俺よりもはるかに頭が良いヤツがトップにいた。
「ヨウ、晩ごはんできたわよ~」
母さんの下から呼ぶ声に、俺は返事をして、立ち上がった。
「どうしたの? ヨウ」
ダイニングテーブルに座ってはいるものの、夕飯に中々手をつけようとしない俺を見かねて、母さんが心配そうな声を出した。
「食欲ないのか? 風邪か?」
テレビを見ながら、ビールで晩酌していた父さんが、グラスをテーブルに置いて俺を見た。
「いや……。ちょっとさ」
「なあに? ヨウが悩み事してるなんて、珍しいわね」
「そんなことは――」
ない、と思う。
俺だって悩み事くらいある。どちらかと言えば多いはずだ。
「言い方が悪かったわね。ヨウがお母さんたちの前で『悩んでます』って顔してるの、珍しいわね」
そう言われると確かに、と思う。
「アンタ、お父さんにもお母さんにも、なーんにも相談しないうちになんでも自己解決しちゃうからね。中学のときだって――」
母さんが思い出話にシフトしようとしたのを父さんが止める。
「お母さん。今はそうじゃなくて、ヨウの悩み事だろ?」
「ああ、そうね。で? お母さんたちに話せること?」
少しだけ考えてから、俺は正直に話すことに決めた。
「進路のことで悩んでて」
「進路? こないだも話してたわね」
なんだ、そんなことか、とでも思ったのか、母さんが苦笑いした。
「ヨウが選んだことなら、お母さんたちは応援するわよ」
「いや、それはそうなんだけど……」
「煮えきらないわね。志望校っぽいものはもう浮かんでるんでしょ? 言っちゃいなさい」
なんでわかるのだろう。
顔に出ていたのか、母さんがにやにやする。
「何年アンタの母親やってると思ってるのよ」
まぁ。それもそうか。
愚問だった。
「えっと」
「はいはい」
「ヒマワリに『東京大学入ってよ』って言われて」
「東京大学」
「うん」
「そりゃまた、大きいこと言い出したわね。ヒマワリちゃんも」
ねえ、お父さん、と母さんが父さんに視線を遣る。
「ヨウなら頑張れば行けると思うな、お父さんは」
「いや、それは、俺も頑張り次第では、なんとかなるかも、とは思ってるんだけど」
「だけど、なんだ?」
「別に、東京大学にものすごく行きたいわけじゃない俺が、目指していいのかなって」
父さんと母さんが、少しだけ目を見開いて。そして顔を見合わせて。
それから、示し合わせたようにゲラゲラと笑い出した。
「目指していいも何も、どれだけ入りたいって願っても入れない子もいるんだから。別に動機なんてなんだって良いでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「入れるなら、入っちゃいなさいよ」
「でも――」
俺には、人より優れた才能なんてない。
「ヨウ?」
「うん」
「アンタは人一倍努力できる才能があるのよ」
「え?」
人一倍努力できる才能?
「そう。お父さんお母さんを舐めないでね? ずっとアンタの親やってるんだから」
母さんが唇を歪めて、手に持った箸で俺を指す。
「ずーっと、ヨウは毎日勉強して、身体も鍛えて」
「うん」
「どうせ、ユリカちゃんに似合う男になりたい、とかそういうのだったんでしょ?」
「……は?」
驚愕に開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだろう。
父さんにも母さんにも、バレていないと思っていた。
「ね、お父さん」
「そうだなあ。ヨウはユリカちゃん大好きだからなぁ」
「な、な、な、な」
「なんでわかるのかって? そりゃ、私たちが、ヨウの親だからよ」
って言っても、そんな素振り全く見せてなかっただろ。
「えええええ?」
ものすごく、残念な気分だ。
「お父さんもお母さんも、わかったうえで、アンタに気を遣ってあげてたの。感謝なさいな」
「気を遣って、って……」
「息子が叶わぬ恋に苦難しながら努力している姿も、オツなものよね」
母さんがまた、ね、お父さん、と父さんを見る。
父さんもニヤニヤしながら頷いた。
「ヨウはお父さんにもお母さんにも、そのへんあれこれ突っ込まれたくないだろうな、ってひかえてたのよ」
「で、でも、ずっとそんな素振り――」
「そりゃ、流石にセンシティブな話題だから、それとなく探りいれる程度で、直接聞いたりなんてするわけないでしょ」
母さんがなぜか自慢げに言う。
「ユリカちゃんが妊娠して、ヨウも吹っ切れたな、ってお父さんもお母さんもちょっと安心してたんだから」
やめてくれ。恥ずかしすぎる。
「ね、ヨウ?」
「……いきなり、真面目な顔するなよ」
「うるさいわねぇ。あのね、普通なら、いくら好きな人のためだからって、人生の半分以上を賭して努力なんてできないものよ」
「そうは思わないけど」
「アンタはそれをやっちゃってたからね。できちゃってたから、当たり前に思えてるだけ」
「そうなのかな?」
「そうよ。努力できることって、凄く大事な才能なの。お父さんもお母さんも、こと地道な努力に関しては苦手よ?」
母さんが、「トンビが鷹を産む、ってこういうことなのかしらね」と、夕飯の唐揚げを口に放り込んだ。
「うじうじ悩むくらいなら、チャレンジしてみなさい。目標に向かって努力するのは、ヨウの十八番でしょうが」
「あー、うん」
少しだけ可笑しくなった。
うじうじ悩んでいたのがばかみたいに思えてくる。
「しっかし、お父さんもお母さんも三流大学出身なのに、ヨウが『東京大学入る』とか言い出すとはねえ。お父さん、人生ってわからないものね」
「そうだなあ」
父さんがビールをあおりながら、感慨深げに頷く。
「ヨウ」
「なにさ」
「やりたいことなんて、後からついてくる。それに、人生なんていくらでもやり直しがきく。特にヨウくらいの歳ならな」
やりなおしがきく?
そんなことはないと思うけど。
「納得いってない顔をするな。昔の歌にもあるだろうが、『じーんせーい、らーくうあーりゃ、くーもあーるさー』って」
「俺、その時代劇みたことないけど」
「そこは別に関係ない。やりたいことや、目指すものなんて、毎年のように変わっていく。楽しい気分でゴールに向かって全力で気張れるときもあれば、苦しくて目標なんて見えないときもある。ぼんやりでも目標が見えてるんだったら、気負わずにやれるだけやってみたらいい」
そこまで言ってから、父さんは、話はこれでおしまい、とばかりに立ち上がった。
二本目のビールを取りに行ったらしい。
冷蔵庫から缶を一本取り出して、また座り、グラスに注ぐ。
真っ白な泡が、グラスから零れ落ちそうになって、「おっとっとっと」とすすった。
しかし、うん。
色々悶々と考えていたのが馬鹿らしくなってきた。
そうか。やれるだけやってみて。
だめだったらだめだったで。
とりあえず、頑張ってみりゃいいのか。
そんでもって、「努力できる才能」か。
その発想はなかった。
「父さん、母さん」
ずっとテーブルに置きっぱなしだった箸を手にとって、俺は言う。
「やるだけ、やってみる」
「うん。やるだけやってみなさい」
母さんがどこか誇らしげに笑う。
俺は小さく頷いて、まだ手を付けてなかった夕飯を口の中にかきこんだ。
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